三章 天使の慟哭 5

 その矮躯の総身には不釣り合いな剣を振るい続けた。その重みに体が傾げ転ぼうとも、腕が引き攣り痛みに苛まれようとも、父の言い付け通りひたすら剣を振り続けた。

 毎日こんな事をしなければいけない理由を再三父に聞かされてきたが、まだ少女には理解出来ないし納得できない。しかしそれでも父が厳格であるが故に少しでも弱みを吐こうものなら怒られるということもあり、止められなかった。そして何よりそんな厳格な父から褒められる事が嬉しくて止めることなどできなかったのだ。

「——ごほっ、ごほ——立ちなさい。クロエ」

 もう何度膝を着いた事だろうか。そのせいで洋服に庭の芝生の汁がこびりついてしまうがそんなことは気にしていられない。それよりも父を怒らせる事こそクロエにとって避けたい事柄なのだ。

「……はい」

 軋む体を起こし、再び重たい剣をクロエは振るう。

「クロエ。お前は将来成人を迎える以前に、女王直属の騎士団に入団する事がもう決まっているんだ。まだ幼いとはいえそんな事でどうする? ブール家には昔から良くして頂いている。女王様がお前を成人前に入団させて下さるのもそれが理由だ。だというのに脆弱な娘を送り出したとなれば、私は一体女王様にどうお詫びをすれば良いのやら」

 もうクロエは何度もその話を耳にし辟易している。が、それをおくびにも出さず剣を振り続けた。それに気づかれようものならどれだけ怒られるか、以前に身を以て体感しているからだ。

「それになクロエ、女王様に推薦されているのはお前だけじゃ無いんだ。お前と仲の良いサン=ブランちゃんも同じように推薦されている。後れを取りたくないだろう? 私もお前が憎くてこんな事をさせているんじゃないんだよ」

 剣を振る手に力が籠もる。それも以前に聞いた事のある話だが、父の言う通りサンにだけは後れを取りたくなかった。同じ年代で同じ性別、そして同じように入団するとあれば友人とはいえクロエの負けん気が刺激されて止まないのだ。

「一先ず休憩にしようか」

「——はい……お父様!?」

 父から出た優しい声色に人知れず安心し、剣を下ろす。だがふとクロエが父を見上げた途端そんな安心は消し飛んでしまう。

 父の顔色が優れないのだ。剣を振るうのに夢中になっていたクロエは父の様子など気にかけられなかったのだ。

「大丈夫、少し疲れただけだよ。お前が心配する事じゃない」

「——はい、分かりました」

「そう、良い子だ。お前は私の事など気にかけなくて良い。自分の将来の事だけを考えなさい」

 苦しそうな表情を直向きに隠し、無理矢理笑顔を作っているのは幼いとは言えクロエにも分かっている。細い枯れ木のような父の手がクロエの頭を押さえつけ慣れない手つきで撫で回すも、クロエの内から不安が拭い去られる事は無かった。




 そうして数年の歳月が過ぎクロエが立派に剣を扱えるようになった頃、急な病で母が亡くなった。その出来事にクロエが悲しみに暮れる暇も無く、母の後を追う様に父もその数日後に倒れ、寝たきりの体となってしまったのだ。

 父の姿に前の威厳なぞどこにも無く、あるのはただ色を失った肌と朽ち木のように痩せ細った肢体のみだった。

「クロエ——私はもう駄目だろう」

 毎日女王の使者が父に治癒の魔法をかけに訪れるのだが、それにも限度があるらしく今夜が峠らしい。その事をクロエは父に黙っていたのだが、どうやら自分の体のことは自分が良く分かっているらしく父は己の死期を察しているのだ。

 自室の寝床で横たわっている父の儚い微笑みにクロエの胸がずきりと痛む。

「私は最後までお前に女の子らしい事をさせてやれなかった。許してくれ」

 父の一言一言がクロエの胸に突き刺さる。父にそんな言葉をかけられたことが無いからこそ普段とは違う何かを感じさせられてならない。もっと言うなら父の死をより意識させられてならないのだ。

「私は……気にしていません」

 クロエの目頭が熱くなると、ふと父の手がクロエの目を拭う。

「お前は優しい子だ。でもね、泣いてはいけない。もう来年にはお前も晴れて騎士となる身だ。妄りに泣く騎士はみっともないだろう?」

「……私は——」

 そんな強い人間なんかじゃない——そう言おうにも喉が詰まって言葉が出なかった。出るのは言葉などではなく、止め処なく溢れる悲しみの涙だけだ。

「私の最後の言葉を聞いてくれ。クロエ、私が今日まで生きてこられたのは誰でも無い女王様のおかげだ。その恩を返そうにも私にはもう無理だ。だから……クロエ、お前がその恩を返して欲しい。あの人はまだ若いがきっと将来良い政治をしてくれる筈。

 決して逃げ出さないでほしい。決して裏切らないでほしい。何があっても絶対あの人の下を離れないでくれ……」

「分かり、ました」

 涙に喉を詰まらせながらも何とかクロエは返答をした。それに父も安心したのか破顔する。元よりクロエに裏切る気など毛頭無い。無いが父に頼まれた以上決して女王を裏切るまい。何があっても女王に付き添おう。そう心に固く誓うのだった。

「ありがとう。お前は……私の誇りだ」

「……父さん? ねぇ、父さん?」

 その言葉を最後に父は言葉を発する事はなかった。騎士がどうのだなんて関係ない。その日クロエは一日泣き叫んだ。父の亡骸の上でその日だけは全てを放り投げ、ただ泣き続けたのだった。




 目を覚ませばクロエは縛られていた。鎖のような形をした影に両手を壁に貼り付けられているのだ。腰こそ下ろせているものの自由に腕が動かせないのは辛いものがある。クロエをこんな目に遭わせた犯人、サンはそんなクロエを愛しむような眼差しで見下ろしていた。

「……ッ、サン」

「ものの二、三時間で目を覚ますなんてそんなに寝心地が悪かった? 確かにあの盗賊が住んでた所にクロエを匿うなんて私も気が利かなかったわ」

「サン、お前は何がしたいんだ?」

 寝心地が悪いというのは机が半壊し、周囲の調度品が見るも無惨な状態になっている事を言っているのだろうがそんな事は関係ない。問題はサンがクロエをこれからどうするつもりなのかという事だ。

 楽しそうに話すサンを睨み付けると観念したのか溜息を吐く。

「クロエ、もう一度言うけどクリスティアは私達を殺す気なのよ。それでもまだこの任を降りるつもりはないの?」

「無い。サン、お前は騙されてるんだ」

「そう。なら仕方ないよね」

 そうサンが口にするや否やクロエの内が何かに浸食されていく。これは——恐怖なのだろうか? 有り得ない。有り得ない事だが今クロエは紛れもなくサンに恐怖し、それを表に出さぬよう必死になっている。

 何故サンがこんなにも恐ろしいのか。今のサンは怪物にしか見えない。今のサンは魔女なのだからこの恐怖も仕方ないのかもしれない。何でこんなにもサンが——

「震えてるの? クロエ」

 その言葉にクロエは冷水をかけられたように正気が戻るが、サンが恐ろしい事に変わりは無い。それに情けない事にサンの姿が霞んで見える事から涙を滲ませているのだろう。クロエは紛れもなく錯乱していた。

「もう一度聞くけど本当にこの任から降りる気は無いの?」

「ッ……無い」

「じゃあ、意地になっているクロエが素直になるまで何回でも聞いてあげる」


 家の中から聞こえてくる物音を聞けば、中で何が行われているかというのは想像に難くなかった。

 サンが魔女になり得た魔法は二つ——一つは先の戦いで披露した闇属性の魔法。もう一つは相手の精神をある程度操作できる補助魔法だ。

 今頃クロエはサンに精神を弄くられ苦しんでいる事だろう。

 サンはクロエを捕らえた事で油断している。その事を進言できない自分に嫌気が差しシェリーは自己嫌悪に陥ってしまう。

 クローズが進言してくれても良いのだが、どうやら彼女にその気は無いらしくただ空を見上げるばかりだ。

 シェリーとクローズは二人揃って家の前で見張りをしている。が、それは名ばかりで実際はサンに追い出され家の前で情事を終わるのを待っているだけだ。

 ようやく日が差し込み始めた頃合いで、眠くて堪らなかったが仕方ないだろう。

「そんなにクロエが気に入らない?」

 クローズの呼びかけにシェリーは頷く。あれのせいでサンが振り回されているのだから当然だ。憎くて憎くて仕方が無い。

「私もあんな聖人君子のどこが良いのか分からないよ。でも今回だけは見逃してあげて。サン、この瞬間のために粉骨砕身してきたんだから」

「分かってる。何も言わない」

「それは、牢から出してくれたから?」

 肯定の意味を込めてシェリーは頷く。あんな煩わしい場所から救い出してくれたのだから、服従するのは当然だろう。そんなシェリーを小馬鹿にするようにクローズは含み笑いをする。

「別にサンはそういうのをシェリーに求めてる訳じゃないんだけどね。あの人が求めてるのはその召喚士としての能力だけよ。そして私もこの魔女としての力しか求められていないでしょうね」

「分かってる」

 にべもなくシェリーは呟く。分かってはいてもその言葉を聞くと内心穏やかじゃいられないからだ。シェリーはこんなにもサン、そしてクローズを案じているにも拘わらずその本人からはシェリー自信ではなく、召喚士としての能力しか求められていないというのだから無理も無い事だろう。

「だから私もサンに力しか求めない。勿論シェリーにも。あの人が何をしようと関係ない。ただ私の目的のために力を貸して貰うだけよ。シェリーには恩があるけどそれも関係ない。だからシェリーも私達を利用すれば良い。シェリーも何かしたい事があるんでしょう?」

 シェリーに恩があるとは、彼女をサバトに連れて行った事を言っているのだろう。

 どこでどう彼女がシェリーがサバトに参加しているという事実を嗅ぎ付けたのかは知らない。ただ拒む理由も無かったのでクローズを連れて行き魔女になれる手配をしたのだ。

 シェリーは魔女では無い。悪魔を召喚する技術があるわけでも無く、ただ召喚士というだけでサバトに参加していたのだ。ただシェリーは金が欲しかっただけである。そして悪魔の召喚を手伝うだけで金が貰えるという話を聞きそれにシェリーは食いついたのだ。しかしそんな行いがいつまでも続く筈がなく、むざむざ捕まってしまったのである。しかし魔女ではないため、殺されずにずっと牢に幽閉され続けたのだ。

 そんな環境から救い出してくれたのだから、恩も何もないだろう。寧ろシェリーがクローズに恩を感じるべきなのだ。

「分かった。私もしたいようにする」

 シェリーに悲願などありはしない。シェリーが求めるのはただこうして三人で一緒に旅をし続ける事だ。そう考えればシェリーの蟠りも少しとけた気がする。クロエなど知ったことでは無い。シェリーはこの関係を維持する事だけを考えれば良いのだ。

 シェリーの表情が無意識に少し柔らかくなると、それに釣られる様にクローズの顔も微かに綻ぶ。が、ふと遠くを見つめるようにクローズが目を細めた途端その微笑みは消し飛んだ。

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