三章 天使の慟哭 4

 その酸鼻な光景を目にしてからのローラの決断は早かった。クロエがあそこまで追い込まれてしまっている以上、助勢に回らねばならない。先まで躊躇してできなかったが事ここまで至ったからにはそうも言っていられないのだ。

 それにもうこの鳥はローラの敵では無い。

 何度もこの鳥はローラ目掛けて嘴を振り下ろし続け、結果としてその自慢の嘴は終ぞローラを捕らえる事はできないでいた。今回もその例に漏れず鳥はローラ目掛けて杭を打ち込むかのように嘴を振り下ろすも、ローラが身を翻し回避したため嘴は地面に埋まる。

 その学習能力のなさにローラは鼻で笑う。エミリが言うには異世界から呼び出された魔物、言い換えれば魔鳥らしいが結局の所普通の鳥となんら変わらない。さもなければこんな不様な姿を晒したりはしまい。

 体勢を整えローラは魔鳥の眼前まで接近する。

「はぁッ!」 

 そして間髪入れる事なく魔鳥が嘴を抜く寸前、ローラは益荒男の如く吼えながらその眉間に渾身の力を込めた右の拳を叩き込む。が、その魔鳥は異形の声を上げながら仰け反るのみで倒れることはなかった。手応えはあったというのに絶命しないこの魔鳥のしぶとさに舌打ちを禁じ得ない。

 訂正せねばならないだろう。これは普通の鳥とは違い頑丈ではあるようだ。強化した拳で殴ってなおこれだけ喚く元気があるのだから普通の鳥である筈がない。

 しかし生きていようが関係ない。魔鳥は悶えるばかりで何も仕掛けてくる気配が無いのだ。だからこそローラにもう一度攻め込む機会があった。有りっ丈の魔力で身体を極限まで強化し、ローラは魔鳥の足を引っ掴む。有ろう事かそのまま回転しながら振り回し投げ飛ばしたのだ。

 これで事足りるとばかりに投げ飛ばした魔鳥の生死も確かめる事も無く背を向け、ローラはクロエの元へ駆けて行く。そんな事をしている内にクロエはサンに殺されかねないのだ。ここで急がずしてどこで急ぐというのか。

 先まで風など微塵も無かったというのに、駆けるローラの背中を突風が押し当たる。しかしながら向かい風でなかったのは幸いとしか言いようが無い。

 ローラどころかクローズとシェリーしか知り得ない事だが、ローラに魔鳥が球のように投げ飛ばされた際の速度は凄まじかった。それは光線もかくやという勢いで更にはその行き先に家が建ってたのだから間が悪いにも程がある。そのまま何の緩衝材も無くぶつかろうものなら、先ず魔鳥も二人の魔法使いも生きてはいなかっただろう。

 果たしてその緩衝材はクローズの起こした突風だった。家にぶつかる寸前、クローズは突風を起こし怪鳥の飛ばされる速度を減速させたのだ。当然その追い風を怪鳥が無駄にする事はなかった。羽を広げて体勢を立て直し、瞬く間に上空へ飛翔したのだ。

 ローラの渾身の投げも無駄に終わったといえる。

「クロエ!」

 駆けながら思わずローラは声を張り上げる。クロエの所までもうそんなに距離は無い。僥倖にもサンは倒れているクロエを見下すばかりで何もしていなかった。

「ロー、ラ……く、るな」

 来るなと言われ行かないローラでは無い。何せクロエの顔色は悪くもう死ぬ寸前に見えて仕方ないのだ。ここで死なれてはローラも悔恨の念に駈られ苦しむ事となるだろう。だからこそクロエの呼びかけを無視し走り続ける。が、そう上手くクロエに辿り着ける訳が無く、疾風の如くサンがローラに立ちはだかり剣を振り下ろす。やむなくローラは後退しそれを躱す。

 サンの手には先まであった黒い剣は無く、有るのは左右とも銀に輝く双剣だった。ローラ如きにはこれで充分ということなのだろうか。

「お前は、クロエと同じ勇者じゃないのか?」

 低く唸る様に話しかけるも、サンは何も反応しない。否、その表情からは先まで見せていた愉悦の色など欠片もなく無表情だが、その双眸だけはローラへの殺気に満ちている。

その異常な殺気に気後れこそするも、ローラは決して退かなかった。

 言わずもがな二人は対峙してしまい、見つめ合う事となる。こうなってしまえばもはや戦うしか道は無いだろう。例え勝目の無い勝負だとしても。

「……剣闘祭に優勝した事はあるか?」

 ようやくサンの口は開いたが、言っている意味がローラには分からなかった。ここでそんな事を聞いてどうするというのか。

「ある。それがどうしたって言うんだ?」

「そう……優勝するだけでは飽き足らず寄生までしているのか!」

 そう呟きサンはローラに飛びつくと共に斬り掛かる。

 結局サンが何を聞きたかったのかローラには分からず終いだったが、そんな事はどうでも良い。それより今はこの狂犬をどうにかせねばならないのだ。

 首に迫る一刀。これはどうにかローラにも捕捉でき体を反らす事で避ける。間も無く腹部に迫る刃を防げたのは殆ど反射だった。無意識に動いた右腕で刃を防いだのだ。

 当然ながら刃が鎧を貫通することはなかった。

 幸いなことにサンは脚力こそローラを上回るが、腕力はそうでもないらしい。しかしそれで終わるサンではなかった。

 ふと気が緩んでいたローラの胸部をサンの蹴りが捕らえる。その激痛に堪らずローラは咳き込みのたうち回った。

「それでどうやってクロエに勝った?」

 酷く冷め切った瞳で睥睨してくるサンを見て、苦痛に苛まれながらもようやくローラは先の問の意図が分かる。要はクロエが負けたという事実を素直に受け止められないのだろう。確かにあの勝負は譲って貰ったようなものだが、サンにとやかく言われるものではないのは確かだ。

「お前には、関係ない……事だ」

 たかが蹴り一発でローラは参る訳にはいかないのだ。

 ゆっくりとだが体を起こす。その言葉に何を思ったかサンは溜息を吐いた。

「そう言われればそうね。確かに関係ないわ——お前は今ここで死ぬんだからそんな事は些事でしかない。そういう事よね?」

 クロエとの思い出を汚されて黙っていられる程ローラは優しい性格をしていない。

 相手の冷め切った視線に、ローラも有らん限りの怒りを瞳に込め見つめ返す。もはや気後れなどローラには有りはしない。

 この勝負は決して負けられないのだ。ローラの矜持に賭けて。


 半ば失いかけていた意識は徐々に覚醒していき、それに伴い黒い剣に斬られた胸の痛みも無くなっていった。霞んでいた筈の視界も普段通り透き通っており、何の問題も無く周囲を見渡せる。

「……エミリ」

 そこでクロエは自分の傍らに座っているエミリに気付く。となればクロエの精神を蹂躙し続けてきたこの痛みを解消してくれているのはエミリだろう。

 いつのまにかクロエの首を押さえつけていた黒い鎖が消失しているのを良い事にクロエは体を起こす。

「あ、無理をしないで下さい。今までクロエさんは呪いに蝕まれていたのですから、安静にしていた方が良いですよ」

 心配そうに見上げてくるエミリにクロエは首を振る。今はとても安静に寝ていられる状況じゃ無いのだ。

「いや、それがそうも言っていられない。ローラ一人でサン達を抑えるのは不可能だ。私が寝てるわけにはいかない。

 それにエミリが解呪してくれたおかげで体に不調は無い。ありがとうエミリ」

「そんな、当然の事をしたまでです」

 クロエが言えたことじゃないが、ローラがサンに勝つのは厳しいだろう。サンが手を抜いているのは端から見ていても分かるし、ローラがその奇怪な動きに翻弄され何とか致命傷を避けるのが精一杯だというのも分かるからだ。

 手助けしてやりたいのは山々なのだがふと上空を見上げ、それはもう少し後の話になるだろうとクロエは眉を顰める。

「エミリ、少し離れて」

「……はい」

 真剣な面持ちのクロエにエミリも察してくれたのか、特に反駁する事もなくクロエとの距離を空けてくれる。

 程なくして先まで吹いていなかったにも拘わらず、人を吹き飛ばさんばかりの強風がクロエの髪を棚引かせた。それに合わせるように遠方で旋回していた鳥がクロエ目掛けて突っ込んでくる。その速さたるや普通の鳥では有り得ないというのにまだ尚加速していく。

 その鳥が普通の鳥でない事はクロエにも理解出来た。

 ローラがサンに殺されてしまう公算が高い以上、後手になど回ってはいられない。決めるのなら一撃だ。クロエは剣を振り上げる。もう数秒と経たない内に鳥はクロエの元に辿り着くだろう。ここぞとばかりに剣を振り下ろす。

 途端に均衡を失ったのか鳥は苦悶の鳴き声を上げ、土埃を立てながら腹部で地面を滑走していく。肉と骨を断つ感覚が手に走ると共にクロエの総身は血に塗れた。が、クロエが切断したのは右翼のみで首を刈るに至らなかった。

 鳥も危険を察知し回避したのだろうがその速さ故に避けきれなかったに違いない。しかしながら結果は同じだ。羽をもがれてはもう飛べぬだろうし何よりこの出血量では助かりはしまい。

「くッ——」

 できれば鳥に乗っていた魔女共を仕留めておきたかったのだが、そんな猶予がありそうにもなくクロエは舌打ちをしてしまう。何しろローラはもう見るに堪えないぐらいにふらふらで、いつサンに殺されてもおかしくない状態なのだ。

 考える暇こそあればクロエはローラの元へ駆ける。

 疲弊しきっているローラに止めのつもりで放ったので有ろうサンの双剣の一撃。しかしその振り下ろされた二つの銀の閃光はローラに届く事なく、堰き止められる。クロエが横から剣で庇ったのだ。黒い剣を使わなかったサンの驕りがなければこうはいかなかっただろう。

 クロエの復帰が意外だったのかサンは明らかに面食らっていた。

「クロエ……どうやって……いや、私の詰めが甘かっただけか」

「な——ッ」

 ローラを庇いサンと鍔迫り合いまで持って行くクロエだったが、そこまでだ。そこからクロエは戦うことは疎か体を動かす事もできず、ただ驚愕に息を呑むだけだった。音もなく地面や何も無い空間から幾条もの漆黒の鎖が出現しクロエを縛り付けているのだ。

 これらにも実体がないのか、鎧を貫通しクロエの肌に直接干渉し巻き付いているのだがそれでも動けぬものは動けない。そういう錯覚である事は分かってはいても体が言うことを聞いてくれないのだ。

「ローラ、エミリを連れて逃げろ!」

「えっ?」

 必死のクロエの訴えにもローラはただ戸惑うばかりだった。急な事に対応しきれずにいるのだろう。

「私のことは気にするな。早く!」

 例えここでクロエが殺されるような事があろうとも、ローラとエミリさえ生きていていれば女王にこの事を報告してくれるだろうし、どうにでもなる。一番あってはならないのはここで全滅する事なのだ。

「クロエには悪いけど、この女だけは絶対に逃がさない」

 それをサンが許してくれそうにも無く、冷え切った眼差しをローラに向けながら近付こうとする。が、それを易々とクロエが許す訳が無い。魔力を湯水のように浪費しクロエとサンを業火で囲んだのだ。さしものサンも足を止めざるを得なかった。

 例え黒い剣で斬られようとも実際に血を流した訳で無いため魔法は行使できるらしい。

「クロエ、何であいつに肩入れするの?」

「——仲間だから」

 何の前触れも無く暗雲が立ち込めた。途端この辺り一帯に冷たい雨が降り注ぎ、火の魔法など使わせないとばかりに暴風が吹き荒れる。当然ながらクロエの作った足止めも蒸気となって消えるが、時既に遅くローラとエミリは彼方遠くだ。ローラの使う強化の魔法は伊達では無い。この距離ではいかにサンでも追いかけられないだろう。

 安堵にクロエの肩の力が抜ける。これから自分に降りかかるであろう地獄を予見しながらも、この一瞬に勝る安堵は無かった。

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