三章 天使の慟哭 3

 もう何百合打ち合ったのか、クロエはもといサンにも分かりはしないだろう。それだけ二人の試合は拮抗し進展ぜずにいた。

 その間余程その剣戟が楽しいのかサンは始終笑みが絶えることが無かった。

 対してクロエは笑みなど一切浮かべない。

 あの魔女の傀儡であろうサンを斬るべきではないと考えながらも、これ以上女王を侮辱し任の邪魔をするなら斬るしかないだろう。そんな考えも頭にちらつき、楽しむ余裕など微塵も無いのだ。

「こんなに——血の滾る試合は久しぶり!」

「——ッ!」

 その言葉にクロエは何も答えられない。

 この斬り合いで楽しんでいるのはサンだけだと言うのは誰の目からでも明らかだろう。

 剣を振るいながらサンの頬が目に入る度にクロエは呼吸が乱れ、思わず手に力が必要以上に籠もる。

 動揺しているのはクロエ自信理解していた。それでもクロエは勝機を見いだしつつある。

 サンの双剣の舞——その荒々しくも滑らかな剣きは初見こそ為す術が無いかもしれない。しかしクロエは何度も体験しているだけに弱い打ち込みを容易いとまではいかずとも読めなくは無いのだ。故に長時間こうして打ち合い続ける事はクロエにとってサンは動きを読み切る猶予を与えているのも同然なのだ。

 サンの連撃を数回と難無く防いだ後、クロエは続くサンの攻撃に合わせ剣を振るいサンの右手の剣を叩き落とす。しかしそれで攻撃が止むサンではなく籠手の鋭い爪でクロエを切り裂きにかかる。が、一度披露しているだけにクロエには通用しない。少し体を反らし鼻先を掠めるだけに留める。ここで止めと剣を振り上げるクロエだが、ぴたりとその腕を止めてしまう。それと同時に飛び跳ねる様に後退し、サンとの距離を空ける。クロエは視線をサンの右手にある〝得物〟に注ぐ。

 それは地面に転がっている剣ではない。それは形がしっかり定まらずゆらゆらと揺れる黒い剣。言うなれば剣のような形をした影だった。

「これ、なかなか面白いでしょう?」

 その影をこれ見よがしにサンは見せつけるがクロエに返答する余裕など有りはしない。

 その影の剣の正体を見極めるのに必死なのだ。

 懊悩しているクロエをサンが待ってくれる筈も無く、一気に距離を詰め右手の影をクロエに振り下ろす。そんな得体の知れない剣を自信の剣で受け流す筈も無く、クロエは身を翻すと共に牽制で剣を薙ぎ払いそれに釣られたサンは素早く後退する。これによって再び二人の間に距離が開く。

「それが魔女になって得た力か」

 愚直に突っ込む様な真似をせずクロエは一先ず声を掛ける。

 何しろそのサンの持つ影はクロエにとって初見の魔法であり、迂闊に動けないのだ。その異様な武器はどう穿った見方をしようともサンの持つ火、水に該当せず、魔女になって得た新たな能力というのは先ず間違いない。

 その言葉に我が意を得たりとばかりに、サンは破顔する。

「そうよ——流石クロエ。あの鈍重な盗賊と違って察しが良い。どうやら私は当たりを引いたらしくてね……これは中々お目に掛かれない〝闇〟属性の魔法よ。クロエもこの魔法は目にした事が無いんでしょう? 私も見たことが無くて扱いに困ってたけど慣れれば便利な魔法よ」

 闇属性の魔法——聞く者が聞けば戦慄し、またある者はその言葉の真偽を疑うだろう。果たしてクロエは前者だった。魔法の効果は皆がそこらで使い古してるが故に、よほど奇抜な使い方でもしない限り見切れるものなのだが闇に至ってはそうはいかない。使える者がそうそういないため、効果が世間に知れ渡っていないのだ。

 当然初見であるクロエにその効果が分かる筈も無く対処のしようが無い。強いて言うなら決して受けず、サンとの距離をどうみても安全圏という範囲で保ち続けるぐらいしかないだろう。そこで厄介なのがサンの脚力だ。そのクロエを優に超える機動力を前にすればクロエの空けた距離など無いに等しい。

 それでもクロエはじりじりと、剣を構えながら後ろに下がる。もはやクロエは傷負わずして追い詰められたと言っても過言では無い。

 その優位は当然サンとて理解していない筈がないのだ。

 だからこそこの獣は愚直に真っ直ぐ駆けてくる。クロエに魔法を使わせる暇すら与えぬように。余計な奇策を考える暇すら与えぬように。反撃の糸口さえ掴めぬように白銀と漆黒の閃光を華麗に振るう。

 その不利を承知の上で迎撃するしかクロエに手は無い。

 サンの繰り出す左の剣は何の問題も無く剣で受け流すが右の魔剣はそうはいかず、無理な姿勢を取ってでも躱す。そんな無茶がいつまでも続く筈も無く、思わずクロエは剣でサンの魔剣を受け止めようとするもそこで異変は起きた。

「——ぁ——ッ」

 傷一つ無い鎧を片手で押さえながらクロエはよろよろと後ろに下がる。そこでサンが追い打ちをかけずその様を楽しげに眺めているのはクロエを侮っているか、自信の力に絶対の自信があるかのどちらかでしかないだろう。

 苦悶の表情こそ浮かべ、悲鳴を上げなかったのはクロエの意地だった。剣を落とさず倒れなかったのはもはや根性と言っても良い。

 クロエが防いだと思われた魔剣はそんな障害物など有りはしないと嘲笑う様に擦り抜けたのだ。クロエの剣だけでは無い。鎧もその先にある身体さえも袈裟からするりと音も無く貫通していったのだ。だからこそ傷も何もない——痛みを除いて。この激痛はクロエも何度か味わった事がある斬られる痛みだ。

 尚もその焼ける様な痛みはクロエを苛み続けている。

 あの黒い剣は物を擦り抜け破壊こそもたらさないが、生物に触れれば対象にそれ相応の痛みを与えるという代物らしい。この事はクロエも身を以て理解した。

 だがこんな痛みは今感じているクロエの心の痛みに比べれば何でも無い。この戦いでクロエの心は何度も何度も切り刻まれている。だからこそこんな一太刀を浴びたところでクロエは何ともない。

 サンは魔女の力を駆使しそれに溺れているのだ。テレーズこそ間に合わなかったがサンだけでもその誤った道から救いだそうと思おうにも、歯が立たない己の弱さに臍を噛むしかなかった。これほど口惜しい思いをしたのはいつ以来だろうか。

 クロエは目から溢れ出す涙を止める事が出来なかった。

「……サ、ン」


 ようやくサンはクローズの言っていた事を自覚出来たのかもしれない。今の今まで終ぞ見ることが敵わなかったクロエの涙を前にして、心が痛む出なく悦んでいるのだから自覚せざるを得なかった。クロエを自らの手で苦痛に晒させる事にサンは至上の幸福を感じるのだ。

 人知れずサンの呼吸が荒くなってしまう。

「泣かないでクロエ。まだ戦いは終わった訳じゃないのよ」

 涙を拭うことすらせず、サンに詰られ再び剣を構えるクロエだが戦慄いているのがサンにも見て取れる。

 それがこの魔剣による痛みの残滓のせいなのかどうなのかは分からないが、楽しくて仕方なかった。それでこそクロエなのだ。それでこそ苦しみを与える価値があるというものだ。

 この距離が安全であると思い込んでいるクロエの意表を衝くべくサンはクロエに一切近寄ること無く魔剣を振るう。この剣に定型など有りはしないのだ。この闇の次なる形は鞭だった。細くしなやかに伸びた闇は音も無くクロエの頬を打ち付る。

「ッ——」

 サンの目論見通り意表を衝けたらしくクロエは目を見開いた。たかが鞭で頬を叩かれた痛みで体勢を崩すクロエでは無く頬を抑える事も無くじっとサンを見据えてくる。が、やはりその目には力など皆無だった。

「ハハッ——こういう使い方もあるんだよ」

 こんな攻撃普段のクロエなら避けて然るべきなのだが、何の反応も取れなかった所を見るともはや戦意が喪失している可能性もある。しかしそれはそれで楽しめると朗らかにサンは笑う。無抵抗のクロエを嬲った事が無いだけにどれ程の快感が得られるのかと期待せざるを得なかった。

「ぐッ……あ」

 何度クロエを黒い鞭で叩こうとも傷こそ出来ないが、その揺れる肢体を見れば痛覚に刺激を与えているのは明らかだ。これほどに無抵抗ならば決着を着けることなど容易いがそんな無粋な真似をサンがする筈も無い。

 闇属性の魔法——これほど便利な魔法は無いだろう。相手に傷を負わせること無く苦痛を与えられるのだ。それこそ紐の形状で首を絞めれば窒息して死ぬし、刃物の形状で斬り続ければふと血流が止まり絶命する。

 実体は無いが有る様に錯覚させる、謂わば脳がそうされたと勘違いさせる術、呪いなのだ。闇の魔法によって付けられた呪いは、実物によって付けられた傷が癒える期間が立つか解呪するしかない。

「あ!」

 サンが声を上げた時には既に遅かった。興奮に力みすぎて、鞭の一撃がクロエの胴体を捕らえると糸の切れた人形の様に仰臥する。いくらクロエといえどこれだけ撲たれ続ければ体力など残っていようはずも無いだろうし当然と言えば当然の事だ。

 クロエに苦痛を与え続けた鞭をサンの舌が慎む様子を見せることも無くべろりと舐め上げる。

 やはり感じるのは護謨の独特な臭いと不快な味ばかりではあるが萎える事はなかった。もう間も無くクロエはサンの物となるのだからも萎えよう筈がない。

「——ぅ——ぁ」

 その掠れたか細い声をサンの耳が聞き逃す事はなかった。クロエはあれだけ痛めつけられておきながらまだ立ち上がろうとしているのだ。仮に立ち上がろうとも先と同じ目に遭わされると分かっているだろうに健気としか言いようが無い。悋気にサンの微笑みが初めて消え去る。

 そのクロエの必死な姿に興奮を通り過ぎてそこまで慕われている女王に嫉妬してしまっているのだ。前々から思い知らされてはいたがこうも見せつけられれば女王を憎まずにはいられなかった。

「立ってクロエ。早く立たないとクリスティア殺すから」

「……くぅ……ぅ」

 この場にクリスティアがいない以上、このサンの悋気はクロエにぶつけるしかない。

 サンの言葉に煽られたのかクロエの肢体にやや力が込められた様に見えなくも無いがやはり中々立ち上がれない。その不様な姿に思わずサンは失笑する。

 とはいえ立てなくて当然なのだ。いかにクロエといえど袈裟をばっさりと斬られた傷がそうそう消える筈も無い。寧ろ今まで立ち続けていたこそおかしいのだ。目に見える傷が無いだけで、損傷はある筈なのである。今クロエは血を流していないにも拘わらず、脳は出血多量を訴え意識が朦朧している事だろう。

「まだ? 早くしてよ」

 揶揄こそすれ内心その精神力にサンは感服していた。立ち上がれないと分かってはいても立ち上がろうとするその強靭な精神力は誰にでも有るわけじゃ無い。しかし業腹な事にそのクロエの精神力は女王によって維持されているのは明白だ。この想いがサンに向けられていたのならばどれだけ良かった事か。

 その純粋なクロエの想いをクリスティアは踏みにじる気でいるのだ。いや、もう踏みにじっている。そんなこと断じて許せる筈がない。ならばそのクロエの想いを断ち切ってやることこそがサンの優しさなのだ。

 嫌われても構わない——そんな事を考えていた時期もあったが、今のサンにしてみれば有り得ない事だ。嫌われたくない。クロエがサンを嫌うならば無理にでも靡かせる。そうするだけの力が今のサンにはあるのだ。

「が——ッ……ぅ」

 何としても立ち上がろうという努力も虚しく、地面に吸い込まれる様にクロエは地面に後頭部を叩き付ける。否、引き戻されたというべきだろうか。クロエの首元の両脇、地面の一部が黒く染まったのである。そこから黒い一条の鎖が出現し首を捕らえた後、強引に引き戻したのだ。

 これは言うまでも無くサンの仕業だ。闇属性の魔法は何もサンの手の中でしか扱えぬ訳では無い。術者から一定の範囲においては地面だろうが宙だろうが関係ないのだ。言ってしまえばサンは何処にでも闇を発生させられる。

 力なく寝そべっているクロエにサンは近付いていく。

 あれだけ痛めつけた上に今ではその首に鎖まで付いているのだから立ち上がれまい。問題は袈裟の傷でクロエが死に至る可能性もある事だが、それはそうなる前にサンが解呪すれば済む話なのだ。

 理想通りの展開にサンの口を衝いて笑いが漏れてしまう。

 もはやクロエは女王の所有物ではない。これからはサンのものなのだ。もはや今のサンは先まで感じていた悋気とは無縁だった。もう息苦しくなる様な嫉妬に苛まれる事も無いのだ。

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