三章 天使の慟哭
三章 天使の慟哭 1
もはやワルフッドは何人たりとも入ろうものなら生きては出られぬ死の村へと変貌していた。
ルシーの目論見通り、部下全員はクロエよりも早く村に集結できたのだ。そしてその全てをルシーの隠れ潜んでいる村の見張りに使っているのである。
どこからクロエ等が来ても対応できるよう領全体に見張りを振り分ける手もあったのだが、ここは〝領主が住んでいる〟村なのでまずここに訪れる公算が高い。だからこそここ一点に絞り込み厳重に見張りをさせているのだ。
外にいる部下が帰還するのにそれほど日数が掛からなかったのは偏にクロエが近くの領にいるからだろう。クロエがここに来る事を速やかにに把握し、粘ったりせず直ぐさま撤退させたルシーの判断が功を奏したのだ。
ルシーは紅く血に濡れた満月を眺めている。普段ならば部下に
この真っ赤な月のようにルシーの手がクロエの血で紅くなることを望んでいるのだ。
ここは一面枯れ果てた野原で、ちらほらと家がある程度の落莫とした場所だ。いざクロエが来ようものなら逃げも隠れも出来はしないだろう。
『頭! 鳥です! 馬鹿でかい鳥がこっちに近付いてきます!』
人知れず戦慄するもそんなルシーを待ってくれる筈も無く鳥は明らかにこの村を目指し近付いてくる。
「何だ……アレは」
驚愕に顔を引き攣らせているルシーを羽風が撫で上げる。その鳥は紅い光に照らされながらルシーの眼前に着地するがルシーには何も出来なかった。体が凍り付いて何もできないのだ。
あんなものがこの村で暴れようものならこの村は疎か、ルシー及びここに居る盗賊全て死なざるを得ないだろう。
「まさかここに盗賊が巣くってるなんて思いもしなかったわ」
「何?」
頭上から声を浴びせられ初めてルシーはこの鳥の頭に人が乗っている事に気付く。
それが誰なのか見極めようとするも、そんなことをするまでなくその三人はその鳥から何の躊躇も無く降りる。
しかもその恐怖の象徴だった鳥が初めから何も無かったかのように跡形も無く消え去ったのだから思わず喉から笑い声が漏れ出してしまう。
どうやらルシーにも運が回ってきたらしい。
そこにいる三人の内、厚着の女と布切れを羽織った女の二人はどうでもいい。ルシー眼中にあるのは黒髪の矮躯な女、獰猛な狂犬。サン=ブラン・ノワール只一人だけだった。
「サン、お前がここに来るとはな」
運の悪いサンにルシーは嘲笑を送る。
ここで笑わねばどこで笑うというのか。仮にここでクロエを始末したとしても、サンの居場所が掴めぬ限りルシーは手放しに喜ぶ事などできはしないのだ。即ちサンが自らここに訪れた時点でもう騎士狩りは終わったも同然と言える。
——何故ならここでサンは死に、クロエも時期にここへ死にに来るからだ。
ふとルシーはサンの視線に違和感を覚える。サンの見つめる先はルシーの顔ではなく胸部の一点のみなのだ。その双眸はまるで悪鬼のそれで、ルシーにもサンは今並々ならぬ怒りを感じてるのだろうという事は察せた。
「その紋章……お前は女王の——」
「ああ、そうか。お前は知ってるんだったな」
怨嗟の声をルシーは失笑で一蹴する。
先日女王がサンに錬金室を爆破されたと喚いていた事を思い出した。そして女王の企みも恐らくサンには気付かれているであろうという事も、だ。サンの鎧に紋章が付いていない事を鑑みるにそれはもう確定的だろう。恐らくは怒りのままに紋章を破壊したに違いない。
「そう、お前等がクロエを貶めたの」
いやにサンから圧力を感じるが関係ない。
もうちらほらと首領の危機を察知し部下が集まってきているのだ。
もう間も無くもしない内にルシーの手先がサン等を囲うこととなるだろう。そうなれば騎士も何も無い——潰されて終わりだ。
「そうだ。そういう事になるな。あたしは只切っ掛けを作っただけなんだが、まあ物の見事に国民全てがクロエを盗賊と貶すようになった」
予想外にもサンは何も反応しない。それとも変にルシーを刺激しまいと激情を押さえ込んでいるのだろうか。
「だがこれはクロエも悪いんだぞ。普通そんな状況に陥ればクリスティアが臭いと疑って然るべきだろうに、奴はクリスティアを崇拝して疑う事を知らない。ここまで愚鈍なら嵌められても仕方ないんじゃないか?
その点お前は優秀だ。些かやり過ぎた嫌いはあるが、逸早くクリスティアの罠に気付き謀反を起こした事は評価できる。
あいつは恩だ何だとそんな綺麗事に目を曇らせてるからそんな目に遭うんだ」
「忠義を尽くして何が悪い?」
ここまでクロエを馬鹿にされては流石に許せなかったのか、ようやくサンは重い口を開くがその声は蚊の鳴くようなとても弱々しい声で思わずルシーは拍子抜けしてしまう。
「忠義を尽くすねぇ……その末路がアレならあたしはごめんだね」
女王に仕えていたつもりでいたが実は弄ばれているだけだ。その事実に気付かず必死に忠義を尽くす。そして飽きられ必要がなくなったと判断されるや否や不実の罪を着せられ秘密裏に殺される。それはまるで——
「道化……クロエは道化だ。冷酷な天使だなんて持て囃されてこそいたが奴は道化だ。でなければこんなに面白おかしく振る舞える筈がない」
「……どこが面白い?」
地を眺めながらぼそりと呟くサンを眺め、己が楽しんでいる事にルシーは気付く。
クロエを侮辱する事で見られるサンの感情を殺した反応が心地良いのだ。故にサンを怒らせる事になると分かっていても止めることなどできない。
「全てさ。お前も影であいつを笑ってたんじゃないのか?」
嘲りつつも冷静にルシーは周囲に目配せする。
この村に全ての手先を配置しておいた事が幸いし、数分と掛からずサン等を総出で包囲することに成功したのだ。その人数は三〇〇を超えており、いくら騎士団の副団長といえどこの数はどうすることもできないだろう。
だというのに一向に怯える様子も見せず、剰え一瞥すらしないのは諦めたということなのだろうか? 不気味に思っているルシーの瞳はサンの頬に釘付けになる。先まで意識しなかったのだが異様な〝痣〟があるのだ。以前までは確かそんなもの無かった筈なのだが……
「もういい」
低く沈んだサンの声と共に異変は起きる。
紅い光に装飾されていたサンの周囲がみるみる夜空と同じく漆黒に染め上げられていくのだ。ルシーが思わず息を呑んだ時にはもう既に遅く盗賊等の命運は尽き果てた。
思い通りに事が運ばない苛立ちに舌打ちをし、遣り所の無い怒りに紅茶杯を床に叩き付ける。耳に付く陶器が割れる音と共に、紅茶と杯の破片が自室の豪奢な絨毯に飛び散るがそんなことは今意識に無い。度重なる悲運にとうとう我慢の限界を超えたのだ。側にパメラも座っているのだが関係ない。この事態に冷静でいろというのは無理がある。
行方不明だったサンがルシーの元にのこのこ現れたまでは良かった。この状況でサンを殺せたのならばほとんどクリスティアの目的は達成できたのも同然だったのだ。
ルシーにはパメラから作らせた装備に三〇〇を超える人員、サンを一人殺すには充分にして余りある戦力である。
だというのに
「たかが盗賊や執行者に期待した
頭を抱えるクリスティアにパメラは一切焦りの色が見られず、ゆったりとくつろぎ続ける。この悲惨な状況を何とも思わないのだろうか。
「クリス。何もそこまで悲観的になる必要は無いと思うがの」
「ですがこれは、どう考えてももう……」
その戦いを直接見ていないクリスティアであったが、どちらが生き残ったかなど問うまでも無く瞭然。サン以外有り得ないだろう。
となればこれからが難しいのだ。一体誰がクロエとサンの後ろを付いて回るかという問題が発生する。クロエもそうだが特にサンに至っては空を移動するのだから居場所の特定がほとんど不可能になるのだ。手駒の執行者も獲物の居場所が分からなければぶつけようが無い。
「サンが何故ワルフッドに赴いたかクリスには分かるか?」
「何故って……そんなこと」
問の意図が分からず言葉を失うクリスティアにパメラは妖しく微笑みながら自分の紅茶杯に口を付ける。
「サンは以前からクロエに好意を抱いていた。クリスの目的を知ったサンが一番会いたがる人物は誰なのか……それが分からぬお前ではあるまい」
「——クロエ」
「その通り。恐らくサンめは飛び回って探すよりもワルフッドに留まり待ち伏せをした方が会える公算が高いと踏んだのじゃろうて。クリス、今すぐに執行者をサンの元に向かわせた方が良い。クロエと接触してからではそこに居続ける保証は何処にも無い」
パメラの推察を聞き、一も二も無くクリスティアは手首の
「ゲイル、アイリーン。サンは今ワルフッドにいます。速やかに急行してください。今度手を抜くような事があれば徒では済みませんよ」
伝える事だけ伝えたクリスティアは溜息を吐く。
実力だけは随一の執行者なのだが変に癖があり扱いにくいのだ。アイリーンは執拗に魔女を追い狙い、ゲイルは殺す事より苦しめる事に重きを置いている。故に今回もサンを取り逃がす可能性は決して低くないのだ。
「そう溜息を吐くでない。流石のサンも執行者二人を相手取っては生き存えるなど不可能じゃろうて」
「そうだと良いのですが」
不安なのは何も執行者の事だけでは無い。サンの連れている二人の狼藉者もクリスティアにとっては怖い存在であった。片や魔女、片や召喚士。まさかここまでサンが他人と連むなど誰が考え得ようか。
「クリス、考えてるところ悪いんじゃがな——明日あたしは空けるぞ」
「空けるって……ああ、またですか」
一瞬パメラが何を言っているのか分からなかったが即座に理解する。彼女の習慣にはほとほと困ったものだとクリスティアは脱力する。パメラは週に二、三墓参りに行く奇癖があるのだ。
「爺ちゃんの墓参りだけはちゃんとしておきたいのでな。何分と爺ちゃんには世話になりっぱなしじゃったしの。今のあたしが在るのも爺ちゃんのおかげじゃ」
「えぇ、分かりました。お好きにどうぞ」
この切迫した状況で好きに動かれては困る。困るが無理に拘束しパメラに機嫌を損ねられ賢者の石を作って貰えなくなるのはもっと困るのだ。渋々ではあるがクリスティアは了承するしか他に無かった。
パメラがここまで頻繁に墓参りに行くのはもう仕方の無い事とクリスティアも割り切っているのだ。
聞いた話によればパメラの家は代々錬金術を得意とする家系だったのだが、パメラはそれらを教わる以前に両親を早くに亡くしたらしい。これでパメラにはもう錬金術は受け継がれないと思われたが、ここで祖父がパメラに教授する事でそれは免れたのだ。
それのみならず、生活の世話まで祖父が行いそれこそパメラにとっては親も同然だったのだろう。あのパメラのおかしな喋り方も幼い頃から外部との接触を一切行って来なかったため、祖父の話し方が遷ったというのが本人の弁だ。それ程に繋がりの深い人物なのだから、故人になろうとも依存し続けるのもおかしい話ではない。
賢者の石を作り上げるまではクリスティアもパメラを好きにさせてやる気でいるのだ。
ここに転がっている雑魚共のあまりの呆気なさに溜息を禁じ得なかった。
新たに手に入れた力の練習にもなりはしない。唯一の救いはクロエを陥れた下種の悲鳴を聞けた事ぐらいか。
「上出来よ、サン。魔女になって早々力を使いこなすなんて中々できないわ」
「止めて。こんなの使いこなした内に入らない」
クローズの呼びかけを一蹴し、ぴくりとも動かないルシーをサンは睥睨する。殺せども内に燻る憎しみの炎が消えないのだ。その憎しみが赴くままに剣を抜き心臓ごと煌びやかな紋章を突き刺す。当然ながらルシーは何の反応も無い。
「やっぱりお前の内にある憎しみはクロエにしか消せないのよ」
剣を抜き取り、血を払い鞘に仕舞いながらサンは頷く。考えてみればクローズの言う通りだろう。こんな盗賊風情をいくら殺しても詮無い事。クロエに出会いその無事を確認しなければサンの心は晴れない。
「サン。これからどうするの?」
そのシェリーの言葉には棘がある様に思えてならなかった。
付き合いも浅く口数が少ないシェリーの心境などサンには微塵も分からないのだがそんな気がしてならなかった。この盗賊共が弱すぎて拍子抜けしているのはサンだけではないということなのだろうか。
「予定は変えないわ。こんなに盗賊共が闊歩していたのだからここにクロエはいない。だからここで来るのを待つ。下手に動いて擦れ違いになったら目も当てられないしね」
「戦うの? クロエと」
躊躇いなくサンは頷く。それは避けられまい。何故なら——
「戦うわ。魔女になった以上クロエはもう私を敵として認識する。クロエは女王を崇拝してるから仕方の無い事よ」
「そんな薄情な女、見捨てれば良い」
「違う。クロエは薄情なんかじゃない」
思わず声に力が入るがサンに抑える事などできない。
いくらシェリーに世話になったとはいえこの妄言を許す事などできないからだ。
「意地にならないで。クロエはサンより女王を取る。そんな奴助けること無い」
意地になっているのはどっちなのか。シェリーも抑えが効かないのか普段に比べ饒舌になっている。何か思うところでもあるのだろうが、この話に限ってはサンも譲るわけにはいかない。
「だから助けるのよ。放っておくとクロエは女王に弄ばれて殺されるのが目に見えてる」
「もし自分が死ぬ事になったらどうするの?」
「構わない。魔女になった時点で命なんてとうに捨ててるわ」
普段見せている無表情とは程遠く、シェリーの目は情けなく垂れ下がり潤んでいる。何か必死になっているのは分かるが、そのシェリーの言葉を酌んでやる事はできない。
「ならいい。私がクロエを殺す」
召喚士を失うのは痛いがこの先サンの邪魔になるならば殺すしか無いだろう。ふと剣に手を伸ばすが引き抜くことができない。その手をクローズに押さえつけられたのだ。クローズを睨み付けるがその手が離されることはなかった。
「そこまでよ。まさか苦労して助けたシェリーをここで殺すなんて言わないわよね?」
「くッ……」
逆にクローズに睨み返されさしものサンも黙らざるを得なかった。
確かに今後の事を考えるならここでシェリーを殺害するなど有り得ない事だ。一度サンは頭を冷やすべきなのかもしれない。
手の力を抜くのと同時にクローズも手を離す。
「シェリーもこれ以上サンを煽らないで。殺されるわよ」
「……もう何も言わない」
シェリーも押し黙るがそれは当然本意ではあるまい。何故ならその表情はとても苦々しく何か内に秘めているのは見るからに明らかなのだ。
「もう数日もすればクロエが来るんでしょう? 逸る気持ちも分かるけど少し落ち着くべきよ」
「分かってる」
何も焦ることは無い。クローズの言う通りもう数日もすればクロエは必ずここに訪れる筈なのだ。サンがクロエを追いかけるように、クロエもまた悪魔を追いかけて。彼女はそういう人間なのだ。
邂逅の時はもうすぐそこまで来ている。
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