二章 堕落する騎士 12

 蒸し焼きになるのではと思いたくなる程の熱気をクロエは味わっていた。否、エミリもローラも同じ心境に違いない。何せ皆等しく多量の汗を流しているのだ。

 涼しさの欠片も無い真っ昼間の砂漠に、骨組みに布を被せただけという素極まりない建物の中にいるのだから無理も無い。今クロエ等のいる場所は一度サンが訪れた西の領地サクレにある小さな集落である。

 エミリの治療の甲斐あってクロエの傷は完治こそしたが、これからどうするべきなのか判断が付かずクロエは途方に暮れていた。クロエの記憶はどうやら正しかったらしくこの集落に新聞は出回っていない。事情を知らぬここの人間はクロエを微塵も嫌がる気配を見せずに受け入れてくれたのだ。

「本当に申し訳ない。私が不甲斐ないばかりにこんな目に遭わせてしまって」

 クロエは頭を下げずにはいられなかった。

 彼女たちが付いてきたのは偏にクロエが騎士だったからだろう。少なくとも盗賊扱いされているクロエではない筈だ。だというのに今も健気に付いてきてくれている彼女等には謝罪をしてもしたりない。

「いや、水臭いって。オレは何があってもクロエの味方だよ」

「ローラさんの仰る通りです。クロエさんには村を救って頂きました。頭を下げるのは寧ろ私の方です」

「……ありがとう」

 何度も何度も似たような言葉を民衆から掛けられたクロエだが、これほど感じ入ってしまったのは初めてかも知れない。何故なら民衆の言葉でクロエが目頭が熱くなるなど今まで一度もなかったからだ。

 だが、涙を流すのはクロエの矜持が許さず、踏み止まる。

「それよりさ、これからどうする? ここで聞き込みしても何も手がかり無かったし正直手詰まりだよな」

 照れくさかったのかローラは話をずらすもそれはクロエにとっても有り難かった。照れくさかったのはクロエも同じだし、何よりこれは早々に話し合って決めなければならない事柄なのだ。

「そうですね。このままでは当てもなく勘で悪魔を探すしかないですね」

「それなのだが、ここの者からワルフッドが盗賊の根城になっているという話を聞いた。あなた達が良いなら一先ず悪魔は置いておいて盗賊を根絶やしにしたのだがどうだろう?」

 ワルフッドの様子が変だという情報はウールの領主からも聞いた事だからおそらく間違いは無いのだろうが、おそらく悪魔の情報は得られまい。しかしこれ以上妨害されるぐらいなら潰しておくべきだろうというのがクロエの考えだ。

 南の領地も気になるがクロエが行けば先ず調査どころではなくなるだろうし、そもそも女王がしなくて良いという以上無理に調べる必要もないだろう。

「オレは別に構わないが、三人でいけるのかな」

「それは大丈夫。ああいう手合いは頭さえ潰せば後は何とでもなる」

 エミリも頷き了承してくれたので方針は決まった。途端意味ありげにローラはクロエを見つめてくる。何かクロエが見落としている点でもあるのだろうか?

「こうも暑いとやってられねぇな。とりあえず水浴びでもしようぜ」

「この非常時に何言ってるんですか」

 そのローラとエミリの遣り取りで一気に場の空気は弛緩する。ずっと緊張しっぱなしでは疲れるだろうし偶にはこういう息抜きも必要なのだろうとクロエは微笑む。

「何って暑くないのか? エミリも汗だくじゃないか」

「その水をどう用意するつもりなんです? まさかクロエさんに出して貰おうなどと烏滸がましい事は言いませんよね?」

 エミリの呆れ返ったと言わんばかりの目線に耐えられなくなったのかローラはむっと頬を膨らましぼそりと反論する。

「いいじゃん別に。減るもんじゃないし」

「減ります。魔力が減ります」

 ふとローラの顔が戦う時の厳めしいものに変貌する。クロエもまたそれに続くように気を引き締める。それは別にエミリが水浴びを拒否したからではなく、扉代わりの布を何の確認もなしに引っ剥がされたからだ。屋内に眩い日の光が燦々と差し込む。

「クロエ=アンジュ。ちょっと外に出てくれるか?」

 高圧的な態度が鼻につくその人物は修道服を着込んでおり、一目で教会の人間と分かる。

 一際クロエが目を惹いたのはさらりと流れるような艶のある長髪でも、豹を彷彿させるしなやかな体でもなく、修道服に似つかわしくない腰に差してある一振りである。その異様に細く軽そうな片手剣はおそらく刺突用の剣に違いない。そんな物を持ち歩いているこいつは間違いなく執行者だろう。

「ああ。分かった」

「クロエさん!」

 立ち上がろうとしたクロエの手をエミリが掴む。その今にも泣き出しそうな表情から行って欲しくないという意図が誰の目から見ても明らかだった。しかしそれにクロエは応えずあやす様にエミリの頭を撫で、やんわりと手をほどく。

「大丈夫、直ぐに戻るから。ローラもここで待ってて欲しい」

 心配そうに頷くローラにクロエは目で大丈夫とだけ伝え、執行者に促されるまま外に出る。

 普通ならたかが執行者に呼ばれただけであそこまで皆が過剰に反応するのは有り得ないのだろうが、今回に限ってそれは無理も無い事なのだ。クロエが病み上がりという事もあるのだが何よりあの執行者の醸し出す空気が剣呑で、戦意を剥き出しにしているのが誰の目からでも明らかなのである。

 それを当然クロエも感じ取れたためローラとエミリを置いてきたのだ。

「こんなちんけな場所に隠れ潜むなんて落れたもんだな」

「一体何の用だ?」

 血の気が多かろうが教会の人間。少しは魔女審判に付き合っても良いと思ったがこいつは一体どういうつもりなのだろうか? こんな事をクロエに言うためだけにわざわざここに来たのだろうか? 無意識の内にクロエの目が据わる。明らかにその目は敵を見つめるそれだった。

「あー、そうだったな。クロエ=アンジュ、お前は魔女だ。よって処刑する」

 クロエが魔女——こいつの言うことがあまりにも唐突すぎてクロエは言葉に詰まってしまう。クロエを辱めたかと思えば次は魔女扱い、これはどう考えても異常だ。なぜ魔女審判しないのか?

「何故、魔女審判もせず決めつける?」

「盗賊と連むぐらいだ。魔女であってもおかしくないだろう? 違うか?」

「貴様!」

 何を考えているのかクロエが怒声を上げてもこいつは薄気味悪い笑みを浮かべるばかりだ。盗賊と連んでいるから魔女などというこいつのふざけた発言は断じて許せるものではなく、とうとうクロエを怒らせるに至った。

「ハハッ——冗談だって、そう本気にするなよ。私だってお前が魔女で無いことぐらい分かってるさ。でもな、私等がお前等を殺す理由を作ろうと思ったらこういう言い掛かりでもするしかないだろう?」

「何だと?」

「だから、教会は騎士共を殺すために動いてるんだって事」

 もはや理由を推し量るのも虚しい。何はどうあれ教会はクロエやサンの邪魔をするために動いているという事だ。つまりそれは女王に仇するのと同義。ここでこいつは斬り捨てるしかないだろう。手が十全に動くのを確認し、腰に携えている剣に手を掛ける。

「騎士から盗賊、果ては魔女。堕ちる所まで堕ちるねぇ」

 その言い掛かりを聞くに堪えられなくなり、クロエは飛びかかり剣を力任せに振り下ろすも執行者も腰から剣を抜き難無く受け止める。

 しかしクロエにとって問題はそこではなく、執行者の瞳だ。それは酷く愉悦に濡れ光っている様思え、クロエに戦慄が走る。何故そんな目でクロエを見つめるのか?

「悲しくないのか? 濡れ衣とはいえそれを知ってる人物はごく僅か。民衆は皆お前を盗賊と思い込んでいる」

「黙れ!」

 怒りの一喝と共にクロエは執行者を強引に押し飛ばすと流石に耐えきれなかったのか、ふらふらと後退する。

 悲しくないと言えない自分が恨めしい。だが悲しむ必要なぞないのだ。悪魔を討伐した上で盗賊も殲滅すれば民衆の疑惑も晴れるに違いない。だというのにこの言い知れぬ不安は何なのか。もし全てを成し遂げても何も解決しないのだとしたら——

「追い詰められてるみたいだな——今のその泣きそうな顔、鏡で見せてやろうか?」

「くッ……」

 剣の柄を握り潰さんばかりに手に力が籠もる。この執行者はどこまでクロエを愚弄すれば気が済むのだろうか。

「瓦解するまであと一歩ってところか……その最後の一足、私が手伝ってやる」

 気色の悪い笑みを浮かべながら執行者はクロエとの距離を詰め、その針を思わせる剣をクロエに突き出すも、そんな単純な攻撃がクロエに通用する筈も無く両手剣を薙ぎ払い、軽々弾いてみせる。見た目通り執行者の剣は軽く、弾くのに何の苦も無い。

 続けざまに放たれる針の刺突をクロエは全て視認、捕捉し悉く剣でいなしていく。それに伴いじりじりと執行者は後退していった。


 もはやクロエの優勢は誰の目から見ても明らかであり、それは勿論ローラも例外ではなく思わずその手練れに見惚れてしまっていた。エミリもそうなのかローラの隣で同じように布の建物の影に隠れながらクロエの戦いを眺めている。

〝クロエを心配するなんてどうかしてた〟

 少しでもクロエを心配してしまった自分をローラは内心叱りつける。執行者の剣はクロエに一撃も届かない。当然と言えば当然だ。剣術においてクロエの右に出る者などそうそういる筈も無い。それは魔女狩りを生業とする執行者も例外ではないだろう。現にあの執行者もクロエの剣をききれずにいる。

「どうやら余計な心配だったみたいだな」

「まだ安心はできません」

 安心しきっているローラとは逆にエミリの表情は依然硬いままだ。

「剣が扱えるというだけで執行者に選ばれたとは到底考えられません。おそらく何らかの魔法を使えると考えて先ず間違いないでしょうね」

「あ」

 失念していた。ローラはすっかり魔法の存在を失念していたのだ。そこまで冷静に状況を見据えているエミリに思わず感心し声が漏れてしまう。

「でもクロエが優勢に変わりは無いだろ? あのまま押し切れば魔法も何も無い。斬られて終わりだ」

「はい。確かにそれはローラさんの言う通りですね」

 エミリの肯定を得られたとはいえ、一抹の不安を抱いてしまった以上ローラも楽観できなくなってしまった。


 エミリやローラの抱く不安とはまったく無縁の所にクロエはいた。クロエに不安など有りはしない。この女王に仇成す執行者を斬り捨てる。ただその一念のみがある。

 数十合打ち合った末に再び放たれる凡庸で何の捻りもない一撃。こんな馬鹿の一つ覚えをクロエがいつまでも看過する筈がなく渾身の力で針を弾き飛ばす。得物を失った執行者を屠るべくクロエは剣を振り下ろすも、予期せぬ方向から飛来してきた針が剣に激突し思わず姿勢を崩してしまう。

「くッ……」

 仕留め損ねたクロエの隙を衝き、針は吸い込まれる様に執行者の手に収まる。

 これは魔法だ。そんな事は考えるまでも無くクロエも理解している。しかし深く考える必要などもうない。いくら剣が敵の手に戻ろうとも剣による戦いならばクロエに分があるのは先の打ち合いで充分に理解している。

 直ぐさま体勢を整え、眼前の敵を切り裂こうと剣を薙ぎ払うと執行者もそれに合わせて針を薙ぎ払う。これで確かにこの一撃では防がれるだろう。しかしこれで決着はついたも同然だ。

 お互いの剣は衝突し、けたたましい音共に片方の剣が宙を舞う。

 驚愕にクロエの目は見開きながら痺れる片手を押さえ、それを舐めるように執行者はクロエを見つめる。

 クロエの驚愕は相当なものだった。何せ先までの打ち合いからは想像もできないような馬鹿力をこの敵は発揮してきたのだ。剣術はクロエが上でも、力においては生涯敵う事はないだろうと痺れる手を前にして考えざるを得なかった。ともかくこれでクロエの勝目はほとんど無くなったも同然だ。

 何故なら弾き飛ばされ砂に突き刺さっているのはクロエの剣なのだから。

「お前の負けだ」

 魔法を使用すべく片手を突き出すも、それを執行者が許してくれる筈がなく剣で退けられクロエは首を掴まれ持ち上げられる。

苦しさのあまり掠れ出るか細い声にこの執行者は何を感じているのか淫らに微笑むばかりだ。

「魔法を使われると面倒だな」

「——ぅッ」

 右腕に激痛が走り、絶叫を上げそうになるも喉笛を掴まれているため唯々クロエの顔が苦悶に歪むばかりだった。

 執行者の剣がクロエの鎧諸共腕を深々と貫いたのだ。おかげで腕にぽっかりと穴が空いてしまいそこから夥しい量の血液がこぼれ落ちる。流石にこれだけの血を流せばクロエといえど魔法の使用は不可能だろう。

「魔法を使われると厳しい。私はあの堅物と違って器用に幾つも魔法を使える訳じゃ無いからな」

 酸欠なのか出血のせいなのか頭が朦朧としてきてこの執行者が言っている意味をクロエは理解する事ができなかった。そんなクロエに構うこと無く執行者は話を続ける。

「私は何人もの魔女をこうやって殺してきた。人が藻掻き苦しむ姿は見ていて楽しいからな。でも今感じている興奮は格別だ……クロエ=アンジュ、私はお前をずっと欲していた。遠目からお前を見かける度に何度その澄ました面が歪む所を想像した事か、お前には分からないだろうな」

 ふと首を離されるが、力の入らないクロエは横たわり咳き込む。

 出血量も尋常では無くクロエの血色も悪い。止血しなければクロエは絶命しかねないのだが、当然執行者が止血などする筈もなくクロエにのしかかる。

「魔女の殺し方も色々工夫している。でなければどうしても飽きがくるからな。最近は死ぬ直前まで追い込み抱く事にしてるんだ。ハハッ——これが中々面白くて病み付きになるんだ。ああ、初めてした夜は興奮しすぎて眠れなかったな……」

「外、道が……」

 いくら朦朧とする頭でもこれから何をされるか誰でも分かる。抱かれた後に殺される。自明の理だ。悔しさの余りクロエは涙を滲ませる。その涙を愛おしそうに執行者は舌で舐め取る。

「このままやっても良いんだがな。私はもっと見てみたいんだ……お前がどこまで堕落していくか。騎士から盗賊、魔女、次は何におちぶれるのか……それを目にした時改めてお前を抱くことにしよう。ここじゃ邪魔も入るしな」

 ふと執行者は視線をずらしクロエに剣を突き付ける。その視線の先にはローラとエミリが立ち尽くしているのだが意識を失いかけているクロエは気付けずにいた。

「またな。次に会うときはもっと惨めな姿を見せてくれよ」

 立ち上がり執行者が走り出すがローラは追いかけることをしなかった。クロエがどうこうという話では無く先ず追いつけないからだ。その尋常じゃ無い速さは人間業ではなく豹や狼のそれだった。

「ローラさん。クロエさんを運んでください!」

「あ、ああ」

 訳が分からない事ばかりで混乱しそうだたが、今は何よりクロエだ。こんな状態で砂漠に放置すれば間違いなく死んでしまうだろう。クロエを運ぶためローラとエミリは急いでクロエに駆け寄った。

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