二章 堕落する騎士 5
早く決着を着けねばローラやエミリがやられていしまいか 早く決着を着けねばローラやエミリがやられていしまいかねないという心配と勝負が一向に進展しないという状態、ねないという心配と勝負が一向に進展しないという状態、そして何よりこのまま持久戦を続けられれば敗北しかねないという事実にクロエは焦燥している。
クロエとブーケ姉妹の距離は一向に縮まる事は無かった。クロエのしていた事は先の繰り返しも同然、ただの徒労でしかない。近付こうものなら突然氷面から生える氷柱に動きを阻まれ、動きを止めようものなら氷漬けにされかける。そしてその度に剣で削ぎ落とし脱出していた。
その反復で唯一変化したものといえばクロエの体力だ。走り回っているせいでもあるが、氷を腕力で削るなどという荒技を何度もしているのが原因でに体力がもう限界に近いのだ。おまけに腕の筋肉は痙攣しもう長くは戦えそうも無い。
足を止めて呼吸を整えながら、彼女等の出方を窺っていると姉のジゼルの優しい声音がクロエの耳をくすぐる。
「クロエさん、大人しく投降してもらえませんか?」
「——ッ断る」
ジゼルの気持ちはどうあれ、降伏は即ち死と同義。己からむざむざ死ぬなど有ってはならない事だ。自分の命がどうこうという訳ではなく、死んでしまっては女王の命を果たせないのだから。
「そうですか……とても残念です」
「——ッ」
仕掛けてくると踏み動こうとしたときには既に遅かった。
クロエの周囲に棘状の氷柱が無数に生え、林立しているのだ。しかも空を穿たんばかりの高さでもはや彼女等に近付くどころかではなく、この牢獄から脱出にする事に全力を注がねばならない。何の前触れもなくそんな状況に追い込まれてしまったのだ。しかし太さは無いどころか華奢で少しの衝撃で折れてもおかしくない程に極細である。
当然の対処として氷柱を叩き折るべく、剣を振りかぶり叩き付ける。通常なら氷柱が剣に耐えられる筈も無く無残に真っ二つになる筈なのだが、生憎これは魔力で生成された氷柱、簡単に折れる筈も無い。
「なん、だ……これは」
罅こそ入ったもののこの氷柱の硬さは異常だ。力任せにもう二発斬り込みようやく鈍い音共に一本折れはしたがこれが無数にあるのだから絶望的である。
彼女等が生成する氷が硬いのは先からの戦闘で重々承知してはいたがそれに増して硬いのだ。もはや氷としての強度を逸脱している。細いにも拘わらず渾身の力で二、三切り込んでようやく折れるのだから石もかくやという硬さではなかろうか。
息切れが止まらず体は休息を求めてはいるが軋む体に鞭を打ち一本、また一本と氷柱を砕いていく。
もはやクロエの体は限界に近い。一般人ならばこんな環境に閉じ込められればとっくに凍傷で死んでいることだろう。クロエも魔法で体温を上げてはいるがそれでも魔力には限度がある。そう長くは無い。
「あっ——」
切り倒した氷柱が他の氷柱に干渉し、別に折れた氷柱が倒れクロエの頬を深々と切り裂いたのだ。流れる魔力を手で押さえようとするも止まる筈が無く、頬を伝い鎧や氷面をクロエの紅い魔力で染めていった。
魔法使いは血を流してはいけない——そんな鉄則クロエには関係ない。
クロエは魔法使いである前に騎士である。魔法はその剣と同じく武器の一つでしかないのだ。流血を恐れていて騎士など務まる筈も無い。故にクロエはそんな些事に気を止めることなく前へ進む。
「ぐッ」
そんなクロエの決意をねじ曲げるように何かが足を引っ張る。弱っている体で反応しきれる訳も無く当然転んでしまう。
予想していなかった訳では無かった。しかしこうなってしまっては絶望的かもしれない。氷面から伸びる様に氷が足に絡みついているのだ。剣山の中に閉じ込めて尚氷漬けにしようという策なのだろうか。
「こ、こ……まで、か」
剣で削ろうとするがもはや今のクロエの腕力ではどうにもならず、そんな抵抗を嘲笑うかのように氷は足から体に向かい徐々にクロエの体を包んでいく。
「やっと止まったね。あいつ」
「そうね。あのまま放置した所で脱出できたとは思えないけど、何にしてもこれでクノーさんも動けないはず」
グレース同様にジゼルも一安心し溜息を吐く。
一時はジゼルも肝を冷やしていたのだ。何しろあの剣山はグレースとジゼルの全力投球で作り上げる、言うなれば切り札なのだ。流石のクロエといえど脱出できまいと高を括っていた矢先に次々と切り倒されていくのだから無理からぬ話だ。精々数本が限界と分かってはいても万が一ということがある。そこで次善の策としてクロエを氷漬けにしたのだがどうやら上手くいったらしい。
あのふらふらの体ではどうにもならぬだろうし、これで捕獲は成功したといえる。後は事情聴取をするだけだ。
「にしても呆気なかったね、お姉ちゃん。もっと苦戦するかと思ったけど」
「何言ってるのよ。私達二人がかりなんだから仕方ないでしょ。それに私達も下手したら魔力が枯渇して危なかったんだからね」
「うん……やっと終わったんだ」
もう手遅れであろう民家の方を見つめながら呟く妹の声はとても弱々しく、ジゼルの胸はこの上なく痛んだ。
家こそもう取り返しがつかないがそれは女王に話せばなんとかなるだろうし、人の命こそもっとも尊重すべきなのだから誰も死なずクロエを捕らえられたこの状況こそ一番理想的なのだ。
「大丈夫。家は元に戻るから」
グレースを安心させるべく頭を撫でると、緊張の糸が切れたのかグレースはジゼルに抱きついた。余程自分の行く末が不安なのだろう。
「……うん」
いくら自分を鼓舞しようが何もかもが元に戻る保証はどこにもなく、宿無しになる可能性も充分に有り得る。税金を毟り取るように奪っていくあの女王だけにジゼルは金銭の面に関してのみ女王を信用しきれずにいるのだ。
そんな心情を年端も行かぬ少女に隠しきれる筈も無く、自然と力の無い声となって表に出てしまう。それに感染されたようにジゼルもまた声が出ているのかどうか疑わしいぐらい小さな返事となってしまっていた。
途端、地響きと共に唸るような音が耳に付く。それに続くように生温い突風が二人を撫で上げ煙と氷の破片が周辺に撒き散らされる。二人が聞いたのは間違いなく爆発音だ。
どうやら一抹の安心すらクロエはさせてはくれないらしい。その光景にジゼルは自分の耳と目を疑ってしまう。グレースもまた同じ気持ちだったに違いない。
二人が二人とも抱きしめる手に力が籠もり、打ち震えてしまう。無理は無い、何しろ切り札たる剣山が四方八方に飛び散っているのみならず、地面の氷面はおろかぞの下の地面すらごっそり抉られているのだから。
「あ……お姉、ちゃん」
不安そうな妹に声を掛けてやることもできずただ抱きしめることしかできなかった。何せジゼルも不安だったのだ。
何故爆発したのかなど分かるはずも無い。しかしあんな爆発に巻き込まれてはクロエも無事な筈が無いのだが、有り得ない事に今に倒れそうながらも立っているのだ。一見した所目新しい損傷は頬の切り傷のみで他は見当たらない。火属性なだけに火傷は負いにくいという事なのだろうか。
ジゼルもグレースも知る由も無いがこれはクロエが意図して起こした爆発では無いのだ。それだけに通常ならクロエも何の準備もできておらず、焼け死なずとも吹き飛ばされて死かそれに近い重傷を負っていたに違いない。
クロエはただ体の体温を更に上昇させただけなのだ。原因はサンとの戦いとは比べものにならない程に流血し、その場に燃料をぶちまけて放置した事にある。そのままずるずると導線を引いていき、体が氷漬けになりかけたところでクロエは体温を上昇させたのだ。微量な魔力しか使っていないつもりでも〝火〟の魔法は頬から垂れた燃料を辿っていき、そして爆破したのだ。皮肉にもクロエをその衝撃波から救ったのは、周囲に纏わり付いていた極限まで硬度が上げられた氷だということはもはや言うまでも無い。
火属性以外の血液ではこうはならない。故に火属性持ちは他の属性よりも慎重に自分の流血には注意を払わねばならなければ自滅することになる。しかし結果として今回はクロエを窮地から救うこととなったのだが。
「ああ……ぁ……っ!」
「グレース!」
もはやジゼルの声はグレースに届かず、姉の腕を振り解いて怒りからなのか絶望からかなのか吼えながらクロエ目掛けて疾走した。そこで彼女がクロエの剣に対抗すべく拾った得物は折れた氷柱だ。普段のクロエなら目を瞑ったままでも避けられるであろう事は自明だというのに、グレースはそのまま愚直にも氷柱の先端を眼前の敵に向けたまま真っ直ぐ勢いに任せて突進する。
「うぐッ」
クロエは忽ち避けてみせ反撃をするものとジゼルは思っていただけに何が何だか分からなくなってしまう。
まさかあのクロエがあんな突進を防ぐ事も無くまともに受けてしまうなど誰が予想できようか。直撃した所は鎧のおかげで貫通こそしなかったが、突き飛ばされ受け身すら碌に取らないのだからジゼルが考えている以上に疲労や傷が蓄積されているということなのだろう。
追い打ちを掛けようとするグレースだが、クロエもどうにか立ち上がり応戦する。その打ち合いはグレースに分があるといえる。周囲に鳴る剣戟の響きはとても騎士が扱っている剣によるものとは思えない程に情けない音だった。音が小さいのは言うに及ばず、音響の間隔が広いのだ。
それもそうだろう。グレースに剣や槍の心得などない。だから常に大振りで隙のある攻撃、所謂ぶんまわしでクロエを攻め立てている。それに対しクロエは反撃をするでなくただ防御に徹しているのだ。かろうじて剣で防ぎ、時に力負けしては突き飛ばされ地に伏す。そして剣を支えに起き上がり再び防戦する。
そしてグレースは武器が折れれば足下の氷柱を拾い応戦する。彼女の武器は底なしと言ってもいい。
グレースに分がある状況だからこそ剣戟の響きも情けないものへと変貌してしまっているのだ。謂わば、クロエとグレースの斬り合いはそれこそ子供の剣劇ごっこも同然といえる。
「止めてグレース!」
その戦いを観戦する事しかできないジゼルは歯痒く、拳に力が入る。そんなクロエが動けない状況であるからこそグレースの暴走が悔やまれるのだ。そのまま冷静に魔法で追い立てれば万全だったに違いないからである。あの流血と爆発でクロエには魔力など残ってはいないだろうし体力については言わずもがなだ。あのまま続けても勝てるのかもしれないが、魔法を使った方が勝つ確率は断然に高い。そんな事がわからぬグレースではないだろうに。
補助をしようにもジゼルだけでは水しか出せず、氷は生成できない。ただ水を出し風を吹かせれば良いというわけでは無いのだ。
今も吹き続けている風は謂わば氷を維持する為のもので氷を生成するための風では無い。氷を作るには二人の意思疎通は必要不可欠といえる。ジゼルが任意の場所に水を出し、そこにグレースが魔力を集中させ気温を下げる。少しのずれも許されないのだ。だからこそ二人の呼吸を合わせる事こそが肝要といえる。
今回のように片方の意識が他に行ってようものなら氷の魔法は使えない。国に轟くブーケ姉妹も形無しなのだ。
「——あ」
無意識に声が出ると共にジゼルの中の何かが切れた。
仮にも魔法使いがいるこの村を攻めるのに僅か三人というのに違和感があったのだ。本当に盗賊と結託しているなら応援ぐらい来ても良いのではないかと。しかしもうそんなことはもう関係ない。クロエは間違いなくジゼルの敵だ。
「……グレース」
クロエとグレースの戦いはジゼルの期待を裏切りクロエが勝利した。当のグレースは氷面の上で俯せに倒れている。悲鳴を上げることも身動ぎすることもせずまるで——□体か何かのように倒れているのだ。剣を持つ相手に負けたという事はつまり——
その先は考えてはいけない。分かってはいても、いくら意識しないようにしてもジゼルの目から流れる熱い涙が止まることは無かった。
今でこそブーケ姉妹としてこの村から頼りにされてはいるが、生まれた当初の彼女等の扱いは悲惨なものだった。初めてウールで生まれた魔法使いだけに一部の人間しか魔女と魔法使いの違いを知らずにいたのだ。そのおかげでブーケ一家は魔女として迫害され続け、挙げ句抹殺されかけもした。その時ジゼルの支えになったのは妹のグレースだった。魔法云々ではなくそこにいるだけで心が荒み、ちょっとしたことで壊れそうだったジゼルはかなり救われたのだ。
年月が過ぎていく内、徐々に魔法使いと魔女の違いが国全体に浸透していき迫害はなくなった。それどころか謝罪された後、頼りにされる様にまでなったのだ。それを良いように使われていると捻くれた考えをしないで済んだのもグレースのおかげである。
そんな昔の思い出が走馬燈のように頭を巡った。しかしそれに耽るでも泣き喚くでもなくただ眼前の敵に向かい走った。先のグレースの様に落ちている氷柱を拾いクロエを突き刺すことを一念にひたすら足を動かし続けた。
無謀なのは理解している。普段活発に体を動かすグレースと違い、ジゼルは一切体を動かさない。そんなジゼルに勝ち目が無いことは誰よりも自分自身が一番理解している。しかしここは行かねばならない。行かねば誰が行くというのか。今ここでこの悪党を殺さねば一体誰が妹の仇を取るというのか。
「——いッ」
そんなジゼルの決意も虚しく激痛と共にそこで意識が途絶えた。
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