二章 堕落する騎士 2
そこは薄暗い空間だった。
水滴の音が残響し、独特の異臭を放つ岩で囲まれたその空間は洞窟に他ならない。
何十人という盗賊がこの場所に鎮座しているにも拘わらず、空気があまりにも重苦しく誰も口を開けないでいた。その原因を担っているのはクロエ一派とウールのブーケ姉妹といったところだろうか。
「これじゃあんまりだ……盗れた物が少なすぎる」
「そうだ。盗れた物に対して死んだ奴の数が多すぎる」
一人の盗賊が呟いた言葉に返答したのはローラの手からまんまと逃げ果せた人物、盗賊の女首領——ルシー・アランだ。彼女は有事の時のために、即席の隠れ家に幾つかの洞窟に目を付けておいたのだ。
忌々しそうに眉間に皺を寄せながら舌打ちをするルシーの姿には風格が漂っており流石に盗賊の首領と言ったところだろうか。しばらく長考に耽った後、何か思いついたのかぐるりと己が部下を見渡した。
「こいつの言う通り、失った人数に対して盗れた物の数が割に合わない。だからあたしはどこかの領を襲撃したいが……正直難しい。
西方面と北は何も無いため行く価値が無い。南の領地と都市は論外。残りは東と東南の領地なんだが、二つとも一度襲ってるため警戒されて攻めにくい。が、敢えてあたしは東南のウールを襲撃したいと思う」
周囲の盗賊は唖然とし、瞬時に言葉を返せなかった。それもそのはず、無理を通して再びブーケ姉妹と相見えようものならそれこそ逃げられる保証なぞどこにも無いし、そうまでしてウールを攻める意味が分からないからだ。
「どうしてまたウールに?」
意を決して尋ねた盗賊の一人をルシーは一瞥し、鼻で笑い嘲笑する。
「同じ難しいでもウールにはクロエがいる……仕返しをするのに丁度良いだろうが。それに真正面から攻めようって訳じゃ無い。また馬鹿正直に突っ込んでブーケの餓鬼に兵を削られたら堪ったもんじゃない」
「問題はブーケ姉妹よりクロエじゃないのか?」
ルシーの意見に反駁したのは、エステルだ。彼女もまたルシーに雇われているためこうして謀議に参加している。しかしその顔は険しく目付きが鋭い。とても雇い主に向けるような顔ではなかった。
「経験者は語る、か?」
「お前……」
エステルの怒気なぞどこふく風で揶揄するルシーに、抑えきれなくなったのかエステルの声は一層に低くなる。それでも薄ら笑いが消えぬ雇い主にエステルが体を乗りだそうとした所で再びルシーが口を開いた。
「そう怒るな……確かにお前の言う通り、クロエは脅威だ。あたしのこの装備でも勝てはしないだろうさ」
「ならどうする?」
手首の装飾品を見つめながら呟くように話すルシーに毒気を抜かれたのか、落ち着いた口調で訝しむように顔を顰めながらエステルは尋ねた。途端にそれを待ってたとばかりにルシーの顔は艶然と微笑んだ。
「何もまともにぶつかる必要はない。クロエ等と民衆の意識を余所に逸らしている内に襲撃しようって腹さ。難しく考える必要は無い」
「ルシー、それができれば苦労はしないだろう」
「エステル。お前にその役を買ってもらう——そんな顔をしなくても戦えって言ってる訳じゃ無い。気を引けと言ってるんだ」
苦虫を噛みつぶしたように渋い顔をしているエステルに、彼女は尚も楽しげに説明を続けるが一向にエステルが納得する様子は見せない。
「説明しろ」
「民衆とクロエの意識を引き付ける方法は後に説明するとして先ず手順から説明する。二度も説明するのも面倒だからお前等もしっかりと聴いておけよ!
エステル、お前は村にいる人間全員をどこか一ヶ所に集めて欲しい。そしてお前等はその隙に建物という建物に忍び込み金品を盗め。但し慎重にやれよ……勘付かれたら一巻の終わりだぞ。最後に火を点けて撤退してくれ。エステルも火の手が上がったら終わりだ。後は好きにしてくれ」
ルシーの説明をしている最中、エステルはこの雇い主に僅かながら畏怖してしまっていた。何しろ説明が進むにつれその顔は淫らに変貌し、それを包み隠そうともしないのだから不気味という他ない。
「いよいよ見られるぞ……天使サマが羽をもがれ地に堕ち藻掻き苦しむ姿を」
「そうだな」
これほどの狂気を見せられ、エステルは相槌を打つ事しか出来ない。以前からルシーはクロエを憎んでいるのは知っていたがもはや行き過ぎとしか言えず、エステルは当惑していた。
「さてその方法だが、ちょっとこっちへ来てくれるか?」
「へ? 俺ですか?」
ルシーに手招きされそそくさと駆けつけた盗賊の一人にルシーは華美だが皺の入った羊皮紙と美麗な万年筆を半ば強引に手渡した。
「これからお前に頼みたい事がある。良いな?」
「は、はい」
その有無を言わさぬ恫喝めいた空気に身内である筈の首領に反論も問もできず、ただ情けなく甘んじて受け入れるしかなかった。
デザータ領で数日間に渡って調査を進めた上でサンはようやく領主の言葉を理解した。
サンの体は余すところなく濡れしきり、跳ね返る泥で鎧が見れた物じゃ無くなっているのだから理解するしかない。
前日まで何の予兆も無かったにも拘わらず、今やサンは暴風雨に見舞われているのだ。打ち付ける雨と泥で体を汚し、吹き荒れる風に髪を棚引かせながらサンは調査を続けるしかなかった。
〝この異常気象を起こしている張本人が必ずこの領のどこかにいる筈〟
通常のサンならば昼間とはいえこんな日に外を出歩くなど有り得ない話なのだが、事悪魔の調査に関してはこの悪天候での調査も仕方ないと割り切るしかなかった。この悪天候の原因が悪魔である可能性が濃厚である以上、今この瞬間こそ見つけられる公算が高いのだ。
この怒りは悪魔にぶつけてやれば良いと、無理矢理自分で自分を納得させながらサンはひたすら歩き続ける。追い風なのが唯一の救いだった。
〝あれは……人……か?〟
この暴風雨の中を歩くこと数時間、サンは奇妙な物に目を奪われた。
この人っ子一人いよう筈も無い悪天候の中、人らしきものがぽつりと立ち尽くしているのだ。否——この暴風雨の中で雨に濡れず、風に髪も衣服を棚引かせぬ様な者を人として許容して良いものなのだろうか。
その女性は華奢で貧弱そうな体付きをしていた。加えて白髪で目元を隠しているためより一層に貧弱な印象を強め、病人を連想させる。そして何よりサンの目を惹いたのは異常なまでの厚着だ。引き摺らんばかりの裾の長い上着を二枚に渡って重ね着しているのだから気にならない方がおかしい。
「サン=ブラン。獰猛な狂犬」
事情を訊くため近付こうとした時だった。あれの声を聞いたのは。
彼女もまたサンに気付き声を掛けたのだろうが、その声は淡泊なものでそこから感情を読み取ることはできなかった。
「っ……この天気はお前の仕業?」
そんな事は問うまでもなく明らかだった。
先まで追い風だった風が急にサンを彼女から遠ざけようと向かい風に変貌したのだ。常識では考えられない事だがサンは確信できた。それは——
〝こいつ……魔法使い〟
「そう。この力に慣れないから少し練習したかった。サン=ブラン、お前は私に何の用?」
「最近——巷で噂になってる悪魔の調査——後、傍迷惑な練習は止めろ」
強風で話しにくいことこの上ないがサンは努めて強気な態度を保った。
そもそもサンは〝悪魔〟というのを見たことが無く、姿形も知らない。つまり今ここにいる魔法使いが悪魔の可能性がある以上弱みを見せるわけにはいかないのだ。
「そういえばそんな事をクロエ=アンジュが言ってたっけ……ということはつまり私を殺しにきたと?」
「それはお前が悪魔という自白?」
腰に掛けてある剣に手を持って行こうとした時に初めてサンは彼女の口からくつくつと感情らしき物を聞き取れ苛立ちに顔を歪める。それは明らかに嘲笑であるからだ。
「悪魔? 私が? 見当違いも甚だしいわ」
「じゃあ……お前は魔女か」
悪魔でなく、殺される心配があるとすればそれは魔女しかない。
悪魔の知識は無くとも何回も相対し、殲滅してきた魔女の知識はサンにもそこそこにもあった。魔女とは男女ひっくるめて悪魔と契約した者の事を指す。そして魔女は悪魔同様に存在を教会から禁忌とされ命を狙われる羽目になる。
少し前までは魔女は救う対象とされており、魔女は教会に保護され悪魔の契約下から解放されていたのだが今現在ではそんな面倒な事をする者はおらず魔女は悉く殺されているのが常だ。
「そういう事」
上着ごと服を捲り上げ魔女は左腕を露出させ薄ら笑いを浮かべた。
その前腕辺りに刻まれている〝魔女の刻印〟を見せつけられた以上、もはや彼女が魔女であることは疑う余地すら無い。悪魔と契約した者は体の何処かに痣が浮かび上がるのだ。それを通称、魔女の刻印と呼ぶ。
その刻印を消すには契約を切るか、死ぬしかない。
「ならお前に用は無い。私が探しているのは悪魔って言ってるでしょ?」
「そう簡単な話じゃないでしょ? どっちに転んでも私の命が危ないわ。だからお前はここで死ね」
最悪の展開にサンは舌打ちをした。
確かに戦わずこの場を去るのは甘い見込みだったかもしれない。魔女は契約した悪魔に生殺与奪の権を握られているのだ。しかも契約した悪魔が死ねばその魔女も死なねばならない。数いる悪魔の中で己と契約した悪魔がまさか狙われてはいないだろうと分かってはいても、みすみす自分の命を危険に晒すような真似は誰もしまい。
先手必勝とサンが魔女に詰め寄ろうとした瞬間だった。見えない壁に遮られたかの如く動きが封殺され後ろに吹き飛ばされたのは。泥濘に横たわる羽目になり当然サンの鎧は酷く汚れてしまう。
「っ……くそ」
「騎士ともあろうお方が、情けない」
魔女に揶揄されるもサンは睨み返す事しかできなかった。
流石魔女といったところだろうか。もはや鎧の汚れさえ今のサンには眼中に無く敵の分析に意識を集中させていた。先の攻撃、風の塊をぶつけてきた事を鑑みるにあの魔女は風属性の魔法使いなのだろうか。いずれにせよサンよりも魔法の腕が立つのは明らかだ。先の会話、天候からしてまだ何かを隠し持っていると考えた方がいいだろう。
前方の魔女を警戒しながらサンは軋む体に鞭を打ち、なんとか立ち上がる。
「——ッ!」
続けざまに波のように迫り来る泥濘と吹き飛ばされそうな風圧にサンは一旦魔女に接近する事は諦め、真横に駆ける。
「噂通り足が速い」
間髪入れず何度も迫り来る風圧にサンは唯々、致命的なダメージとなり得る風圧の圏外へと逃げ続けるしか道はなかった。
対象との距離がとりあえず二八間もあればこの風圧はどうにか凌げるというのがサンの判断だ。しかし、いくら体が吹き飛ばされないとはいえその余波で身動きは取りづらく、その上泥濘の上を駆け回っているのだから体力の消耗は激しい。このままだとなぶり殺しにされるのは必定だ。
「魔女に堕ちてその程度?」
「その程度? どういう意味?」
必死に回避しながらの挑発には何の意味も無かったのかもしれない。
そもそも、感情の起伏が読み取りにくいこの魔女を挑発し、反応を窺おうという事事態が間違いなのかも知れないがサンには続ける他に手が無かった。
「いや——その程度で良く教会に捕まらなかったね」
何としても魔女と接近しようと思うのならば隙を作らねばならない。魔法で遠距離から攻撃しようにも、魔法の腕のみで言うならサンはこの魔女に遠く及ばないのは明白だ。もはやサンには魔女の攻撃を避けながら、魔女の精神を揺さぶる他に勝機はないのだ。
「お前に何が分かる」
「ッ!」
顔こそ無表情だがこの魔女の感情に何らかの変化があったのかもしれない。
間一髪サンは避けこそしたものの以前に増して風圧が増したのだ。まだ隙こそ見られないがこの調子なら上手くいくかもしれない。どうやらこの魔女は何やら〝教会〟に——
不意に鳴り響いた轟音と目が眩みそうになる閃光がサンの考察を強引に中断させた。
「雷……よりにもよってこんな状況で」
まさに最悪の展開といえた。こんな状況で落雷などしようものなら魔女もそうだろうがサンとて一溜まりもあるまい。
暴風雨までもが魔女の心を代弁するかの様、先に増して周辺に当たり散らす。サンに限ってはもはや鎧の泥など直ぐさま洗い流されてしまう程だ。冷え切った水を一身に浴びせられているその様は端から見れば、滝を真横から浴びているように見えなくも無いだろう。
「みっともない……自分でそうは思わないの?」
サンの状況を嘲笑うかのように依然魔女の衣服は一切水に濡れていない。これも風の魔法の効果なのだろう。しかしそんなことはサンの眼中にない。今気に掛けるべき事柄はそんなことでは無いのだ。
「みっともない……そんな言葉を私に吐くなんて」
みっともない——サンの内に燻った炎に油を注ぐには充分すぎる言葉だった。ましてやサンにとってこの状況の悪さ、魔女に近寄れない事に対しての苛立ちが胸に鬱積していたのだから尚更だ。
「水に濡れるだけならまだしも、逃げ回るしか能が無い奴をみっともないと言わず何という?」
魔女の言う通り、迫り来る致命的な負傷となりうる突風からは避け回るしかサンに道は無い。しかしあの挑発によりある閃きがあった。しかしこれは願望に近く根拠など微塵も無いのだが、これしかもうサンに縋れる策はなく賭けにでるしかなかった。
「その〝みっともない〟は当然教会からこそこそ逃げ回ってるお前自身も含まれてるんでしょうね?」
「——ッ!」
サンの挑発を皮切りに魔女の攻めは激化し只でさえ悪い天候も更に悪化した。
日の光どころか視界すら遮られる程に暴風雨は荒れ狂い、周囲の気温もそれに便乗するようにみるみる下がりサンの感覚を奪いつつあった。
この魔女は教会に並々ならぬ憎しみがあるというサンの考察は案の定当たっていたらしい。魔女はみな例外なく教会の影におびえているというのは当然なのだが、この魔女はそういった事情ではなく何か別の理由で教会を恨んでいるのではなかろうか。
果たして、この魔女はサンの挑発に乗ってしまい頭に血が上ったのか攻撃が直線的で単調なものえと変化してしまう。——が、そんな見え透いた攻撃がサンに直撃する筈も無く事態は依然として変化する気配を見せないままだ。
そんないつ終わるとも知れぬ死の踊りと挑発を数時間と続けた末、ようやく変化が訪れた。徐々にだが日が差し始めたのだ。
「くっ……天候を維持できない」
「魔女だからといって魔力は無限じゃ無い——そんな、こと——分かり、きってる事よね? 馬鹿——みたいに、天候なんて——操作、する、から——そうなる」
魔女の猛撃も止み一気に畳み掛ける好機なのだが、冷えに冷え切ったサンの体には感覚が無いのだ。悪天候での無理が祟り体力も限界に来ている。魔女に飛びかかりたいのは山々なのだがそんな思いとは裏腹にその場に膝を着いてしまう。
「ッ——くそ」
「もう動けない?——今、楽にして、あげるわ」
自分を濡らさぬようにするなどという些事に魔力を回す余裕も無いのか、魔女の衣服は止みつつあるとはいえ豪雨に晒され酷い有様となっていた。そんな余力も無いというのにこの魔女は再びサンに突風をぶつけた——つもりでいたのかもしれない。
サンが微風が晒されるのと同時に魔女は咳き込み、その場に蹲った。途端に何事も無かったかのように雨は上がりついに太陽が顔を出したのだ。
サンが予見した通りこの魔女は風使いなどではなくもっと大規模な、天候そのものを操れる魔女であるというのはもはや疑いの余地も無い。そして操れるのは自分のいる位置から一里程度なのだろうがそれでも充分に広範囲といえるだろう。いやでも消費する魔力は多大なものとなり、何の考えも無しに多用するとこの魔女のようになる。
魔力を使い切らせ無力化する。サンの目論見通り魔女は動けなくなったのだが、唯一の誤算は思いの外魔女の貯蔵していた魔力が多かったという事だ。おかげでサンはすぐに体を動かすことができない状況に陥ってしまった。
「お互い限界みたいだし引き分けってことにしない? 私はお前に用はないんだし、お前も私に用はないんでしょう?」
「ある。悪魔を殺されれば私は——」
「それはお前が契約した悪魔が殺されれば、でしょう? それがどれだけ考えにくい話か分かってるの?」
その言い分に魔女は言いくるめられたのか、返事をする体力も無いのかとうとう黙り込んでしまった。それに比べサンはとりあえず息切れはしない程度には体力が回復したらしく流暢に話し続けた。
「教会にお前のことは伏せておく。私も教会のことは良く思ってないしね」
「どういう——意味?」
「言葉通りよ。私はしばらくこの領に滞在するし、お前も居たければ居ればいい。勿論怖いなら出て行ってもいい。只、私はお前をどうこうするつもりはない……分かった?」
理解できないとばかりに魔女の顔が苦虫を噛みつぶしたように歪みはするも、返事が来ることはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます