一章 勇者の証 9
クロエ等の苦労など知る筈も無いサンは夜の暑くない内にサクレ領を出て、北西に向かい歩いていた。
道中、どれだけ思い返してもこの領で得られるものは無かった。
唯一得られたものといえば、クロエが顔も知らぬローラとやらに嵌められ負けたという情報のみだ。腹立たしい。腹立たしいがこれは今回の任にまったく関係無い。悪魔を殺した後でクロエに事の顛末を訊けば済む話だ。
これから向かう北西の領に悪魔がいれば一番良いのだが、そこまで期待していいものなのかどうか。少なくとも得られる情報はあるだろう。
デザータ領。サンが向かっている北西の領の名だ。以前に仕事で行った事のあるサンだが昔の事のため、あまり覚えていない。確か一面荒野でここよりはまだ過ごしやすい環境ではあった筈だ。
後、有名な傭兵部隊の本拠地があった筈だったが名前までは思い出せない。
「ん?」
何の前触れもなく小汚い男がサンの前に立ちはだかる。恐らく格好から察するに盗賊だろう。途端、砂を踏む音が背後からも聞こえ、ふと周囲を見渡せばばいつの間にか盗賊に囲まれていた。五人でサンを囲う様に包囲し逃げ場を塞いでいる。
しかし動揺など微塵もしない。それどころか夜の砂漠で良かったとサンは内心ほっとした。何しろ昼間だと暑くて動く気になれないからだ。急な襲撃に辟易するが、まだこの時間帯で良かったと妥協すべきだろう。
盗賊などたとえ数十人いようとも蹴散らせる自信はあったが一つ分からない事がある。何故、サンを狙うのか? 騎士団の副団長だけあって顔は知れ渡っている筈、殺すつもりにしても何故こんな少人数で狙うのかサンには見当もつかなかった。
「私がサン=ブランと知っての襲撃か?」
連中も退く気は無いらしく、じりじりとサンとの距離を詰めてくる。
自然とサンの口角が釣り上がった。この状況はサンにとって悪い事ばかりだとは言い切れないのだ。あの領では嫌という程苛立ちを募らせたのだから憂さを晴らすには丁度良いだろう。この盗賊等もサンのために死ねるのだから本望といえるに違いない。
「私達が歩き回ってるこの時期に盗みを働くなんて、馬鹿としか言いようがないよ?」
呆れて溜息を吐いた時である。一斉にサンに飛びかかって来たのは。
サンにとってこれは一時の舞踊に等しかった。戦いとは程遠い只の暇潰しだ。
振り下ろされた第一の斬撃を躱した後に右手で剣を抜き、薙ぎ払われた第二の剣を右手の剣でいなして盗賊を蹴り飛ばし左手で剣を抜き仰せる。続く第三第四の攻撃も華麗に避けた後、二人を斬り伏せた。最後に来た二人同時での不意打ちも体を逸らすだけで回避してみせ続けざまに二つの首を刎ねる。
わざと生かしておいた仰臥している一人もつい刺し殺してしまった。色々訊こうかとも思ったがどうせ何も話すまい。遅かれ早かれ殺すのだからどっちにしろ同じ事と自分に言い聞かせ軽く嘆息する。
「手応えが無い……ああ、クロエとの試合が懐かしい」
紅く血に塗れた手と砂を見てあの時の事を思い返してしまう。たった一滴、たった一条の血である。それをクロエから流した時の興奮は計り知れなかった。真っ赤だったのだ。もっと言えば綺麗でそれこそ全身にぶちまけられても構わないとすら思える。
が、それは叶わない話だ。それはクロエの死を意味する。即ち有ってはならない事なのだ。第一、クロエは強い。それ程の血液を奪おうものなら、サンもまた同じ量の血液を失う羽目になるだろう。
そして現状はどうだ? 何故こんなにも血に塗れているというのに萎えてしまっているのか。答えは簡単——それはこいつ等下種の汚らわしい血だからだ。
こいつ等の血は赤くない。赤黒いというのが適切だろうか。こんなものを全身に浴びてしまった以上、早く洗い流さなければサンの体もまた同じように汚れてしまう。どうしてこんなにも汚いのか。
新聞によればクロエは散々殴られ敗北をしたとある。一体どれだけの血を流したのだろう? ローラは一体どれだけクロエの血を浴びたのだろう? サンがこんなにも汚らわしい汚物に塗れているというのにも拘わらずだ。
これほどまでに憎い奴の血を一身に浴びれば一体どれほど——
はっと思考を中断する。これは考えてはならない事だ。こいつ等のような盗賊なら幾ら殺そうともクロエは批難などしないだろうが、一般人なら話は別だ。嫌われ、袂を分かつ事になるだろう。一刻も早くローラの事は忘れないといけない。でないと激情を抑えられそうにないのだから。
戦いの決着は付いたといえる。エステルはあの手この手でクロエを倒そうとするも遂にそれは叶わなかった。
戦斧の扱いもお粗末で近接戦などまるでクロエの相手にならず、クロエと鬩ぎ合う度に弾かれ地面に伏すという情けない姿をエステルは何度も晒すこととなったのだ。そして魔法を駆使しクロエを追い詰めるがそれもほんの数秒の話だった。見切ったが最後、一切の抵抗も許されぬままエステルは再び窮地に立つ事となったのだ。
何とか立ててはいるも、もはやクロエに勝てるなどとエステルも思ってはいないだろう。この状況は元より得物の戦斧はクロエの手中にあるのだから。
「噂通りだな……私じゃ、どうにもなりそうにない」
「そういう貴様は最悪だな。その腕だけでも貴様は無能の誹り免れないぞ。ローラを選んで正解だった」
状況を理解出来ない訳じゃないだろうに、エステルの顔は嫌らしく歪んだ。それともまだ勝算でもあるのだろうか。
「ローラにご執心のようだがな、断言しても良い。アレは使えないぞ」
「そういう貴様はどうなんだ?」
言葉を続けようとした所にエステルが尚も食らいつく。息も絶え絶えに話すその姿は醜く直ぐにでも斬り伏せたかったが、その衝動を抑える。一応ローラの話を聞いておきたいと思ったからだ。
「武器もろくに扱えず——戦い方はただ相手を殴るだけときた——そんなやつにどうして傭兵が務まる? 唯一の取り柄の魔法も——使えない。ただ身体能力を上げるだけなら——他の魔法でも代替はきく。
これだけでも救えないというのに、性格も甘い——金さえ貰えれば——何でもしろと教えた筈なのに——善人は殺さない——でも、悪人は殺すんだ——どっちも同じなのにな——人を殺してるのに変わりはないのに——おかしな奴だ。
何が母親のためだ——何が何でもするだ——その母親の寿命を縮めてたのが自分だって——あいつは絶対気付いてない——フフ——仕事を選ばなきゃもっと早く助けられてただろうに——」
「見苦しい……言いたい事はそれだけか?」
聞いて得られるものなど何も無かった。いや、期待したクロエが悪かったのかもしれない。まさかこうも妄言ばかりが吐き出されるとはクロエも思いもよらなかったのだ。
「今頃、あいつは死んでるだろうさ」
「懲りもせずまた根拠もない——」
「いいや、人質があるんだ。あいつにどうこう出来るわけが無い。言った筈だ。アレは甘いんだ。人質を盾にされたらきっと何もできない」
疲労に目を曇らせながらも、延々とローラの悪態を吐き続けるエステルにとどめを刺すべくクロエは距離を詰めていく。
こいつの言う通り、人質がいる以上ローラが苦戦していてもおかしくないのだ。なればこそ、早急に障害物を排除し援護に向かわなければ取り返しの付かない事になりかねない。
「楽にしてやる。外道」
クロエの手は淀みなく動きエステルの喉笛を掻き斬らんと剣先を定め、感情の赴くままに体を任せた。
エステルの言葉に耳を傾けていたクロエは、先まで影から二人の様子を窺っていた人物の存在に気づけなかった。その人物はエステルとローラの会話から、エステルが長々と喋り出すその時まで観察し、少し前にその場を去ったのだ。
エステルの悪足掻きとも時間稼ぎとも取れぬその行動が命運を分かつ事になろうなどクロエは勿論その本人でさえ知る事はなかった。
人質を盾にされてから数分も経っていないのだが、ローラには何時間も経過しているように思えて仕方なかった。何しろそれだけ状況は絶望的で何をしようと覆しようがないからだ。
人質と盗賊に意識を集中させ過ぎていたのだろう。ローラは自分の背後に迫る気配を全く感じ取れなかった。いかに足音を殺しているとはいえ普段のローラなら先ず有り得ない事だろう。
「ッ」
その迫り来る存在にローラが気付いたのはそいつが脇を擦り抜けた後だった。
その姿、格好から彼女も盗賊である事は間違いないのだろうが、だとしたら何故あの盗賊はローラの背後を襲わなかったのだろうか? その暇すら惜しかったのだろうか?
急用だったのか、この張り詰めた空気などおかまいなしに盗賊は顔を青くしながら女盗賊に耳打ちをしたのだ。途端、首領の顔も徐々に苦々しくなり端から見ても良くない知らせだったのだろうと察しがついた。
「エステルが歯が立たない……か。さすがに腕の立つ傭兵とはいえクロエが相手じゃ立つ瀬が無いか」
「エステルさんが、負けた? ってことはクロエさんが勝ったのか……」
女盗賊がぽつりと漏らした言葉をローラは聞き逃しはしなかった。いかにクロエとはいえエステルに敵うのか心配だったがどうやら杞憂に終わったらしい。前々からその強さを見せつけられていただけに負けたという事実に驚きも大きいが、安堵の念の方が勝り無意識に大きく息を吐いてしまう。
「そういう事だ。念のためこいつを攫わせておいて良かった。道を空けろ」
得物を人質に突きつけられている以上、ローラは道を空けるしかない。
悠々と歩を進める二人の盗賊に為す術も無く、ただ見失わないために距離を空けすぎないよう後ろを付いていくしかった。丁度洞窟の分かれ道に辿り着いた時、不意に人質の少女を女盗賊は惜しげもなくローラの方へ突き飛ばす。
「大丈夫か?」
「はい。ありがとうございます」
少女は衰弱しているのかローラに体を預けきっていた。
その人質だった少女は一目見た時から引っかかっていたのだがローラが考えていたよりも幼くなかったのだ。ローラの目測だがおよそ一五歳くらいの少女だろう。
本当は全然違うのかもしれないが、そのふんわりとした幼さを感じさせる淡黄色の髪にあどけない童顔。それに加えて鍔の広い漆黒の三角帽子、同色の婦人服、腰に掛けた透き通った水晶玉がローラの予想を惑わせていた。
「今回は見逃してやる。次はクロエ諸共殺す」
人質がローラの手元にあるこの状況で盗賊共を逃がす手はないと、少女をその場に仰臥させて迫ろうかとも考えたがそれは叶わない相談だった。
女盗賊が手を壁に叩き付けた途端、ローラと盗賊共の間にまるで道を阻むかのように紅蓮の炎の壁が立ち塞がったのだ。いくら体を強化したとはいえ、これを潜り抜けるのは無謀という他ない。
ローラの考えていた通り、やはりあの盗賊はまだ奥の手を隠していたのだ。クロエと同じ攻撃型の火属性の魔法を。
「ごめん もっと早く助けられりゃ良かったんだけど」
「いえ、あなたのおかげで助かりました。折れた腕、見せて頂けませんか? わたし治癒の魔法なら使えますので」
「あ、ああ」
少女がローラの腕に触れると、徐々に痛みが消えていった。先まで骨が砕けていたなどまるで嘘だったかのようにだ。女性が手を離す時にはもはや痛みの残滓しか残っていなかった。
「すまない。助かるよ」
程なく謝罪を済ませたローラは、まるで猫でも抱き上げるかのような手軽さでふっと少女を抱き上げる。
「な、——何を?」
「ごめん。急ぐから我慢して」
少女の顔が真っ赤になる。驚くのも仕方のないことだが、我慢して貰うしかなかった。
エステルの生死が気になって仕方ないのとクロエに盗賊の子細と人質を助けたという事柄を早く報告したいローラにとって、とてもじゃないが衰弱した少女の足に合わせて歩くなどという事は考えられなかったのだ。
「楽にしてやる。外道」
「クロエさん!」
クロエの剣がエステルの喉笛を掻き斬ろうとしたその刹那、地面を蹴り上げる音と見知った声に思わず手を止めてしまう。その隙をエステルが見逃す筈もなく、クロエの片手から戦斧を引ったくり急いで距離を広げる。
「くっ」
あそこまで追い詰めておきながら取り逃がしてしまったクロエはその自分の迂闊さに嫌気が差し剣を握る手に力が籠もる。
気が緩んでしまったのだ。ローラが攫われたと思しき少女を連れてこの場に現れたという事実に。戦いの最中で気を抜くなどあってはならない事だというのにも関わらずクロエはローラが無事と知れて安心してしまったのだ。
「こいつがここに来たって事はあいつは逃げたって事だろう? つまりもう私の役目も終わったて事だ」
底意地の悪い笑みを浮かべて逃走するエステルを追いかけようかとも思ったが人質を救出した以上その必要はないとクロエは判断し、追いかける事はしなかった。
「ローラ、無事で良かった」
「オレは大丈夫なんだけど、その……クロエさんはどうなんだ? あの人、エステルさん相当強いんだけど」
助けた少女をその場に下ろし、申し訳なさそうに話すローラにふとクロエは思い出したのだ。あのエステルなる人物はローラの知人なのだと。
「正直私の相手じゃなかった。それよりもあいつとはどういう関係なのか、良かったら聞かせてくれないか? 同じ傭兵部隊に所属しているというのは何となく察せたのだが」
「あの人は……エステル・セリーヌは、オレの所属している傭兵部隊の隊長なんだ。経歴の違いもあってオレなんか全く歯が立たない。使う魔法の相性とかもあるんだろうけど、クロエさんが無事で良かった」
エステルの心配を何もしていない辺り、ローラはあまり好意を抱いていないらしい。そのローラの様子にクロエは一抹の喜びを抱いた。何しろエステルの金さえ貰えば何でもするという考えはクロエにとって許容できないものが有ったからだ。
「『マーサナリー オブ ウィルダネス』っていう傭兵部隊。通称『M・O・W』そこそここの国でも有名だからクロエさんも知ってると思うんだけど」
「名前は聞いた覚えがある。確か、デザータに本部がある——」
「そう。オレもデザータ領の出身なんだ。だからそこに入団したんだ。でもそろそろ退団した方が良いのかもしれないな」
話していると徐々にローラの顔に陰りができていった。辞めたいが働き口が無いといった所だろう。しかし、クロエもローラを退団させようと考えていただけに自らの意思で辞めたがっているのは有り難かった。
「この任が終わったら、私がヴィー騎士団に推薦しよう。あなたなら充分にやっていけるだけの実力がある」
「いいのか?」
「ああ、きっと陛下も歓迎してくれる」
喜びの感情が表情に在り在りと顔に浮かべるローラにクロエもまたそれに釣られるように胸の内が暖かくなった。
「そういえば、盗賊の事なんだけど……その首領っぽい奴が、クロエさんと同じ、その……紋章を付けてたんだ……でも勇者って三人なんだろ?」
「えっ?」
ローラの言っている意味が一瞬理解出来ず、クロエは何も答えられなかった。頭の中が真っ白になり口が思うように動かなかったのだ。
「筋肉質で手首に装飾品を付けてて、オレと同じ強化の魔法に治癒の魔法。更には火の魔法まで使う。クロエさんの知り合いにいる?」
「……分からない。だがその紋章が本物だとするなら私以外の誰かから盗んだ事になるがそれは考えにくい——いや、有り得ないと言っても良い。だからそれは偽造した物と考えるべきだろう」
騎士団の人間、それも幹部ともあろう者が盗賊に隙を見せるなど有り得ない。クロエは頭に浮かんだ盗まれたという可能性を強引に打ち消した。とすると残るのは偽造の可能性だ。かなり細微な細工、鮮やかな色彩と偽造するのは困難だろうが、出来ない事では無い。
己の勇者の紋章を穴が空く程見つめるが、いくら眺めようとも答えは出ずクロエの不安が消える事はなかった。
「オレもそうだと思う。あんなのに勇者が紋章を盗まれるなんて考えたくないしな」
「ありがとう。ローラ」
今度はローラにクロエが励まされる番だった。事実、ローラの言葉で幾分かクロエの気持ちは楽になり、淡い微笑みとも言い難い微笑みをローラに返した。
「あのっ!」
いきなり聞こえたローラ以外の声に些か驚かされ、すっとクロエとローラは顔を向ける。黒い婦人服を羽織った少女が発した声だった。何やらその少女は顔を紅潮させ興奮しているように見える。
「勇者様とそのお連れの方ですよね? 宜しければ家に泊まっていきませんか? わたし、お母さんにお願いしてみますので」
「オレは構わないけど、クロエさん?」
「泊まる所を貸してくれるのは有り難いが、本当に良いのか?」
「はい!」
何故こんなにこの少女が必死なのかクロエには皆目見当つかないが、寝床を提供してくれるのは本当に有り難かった。
勢いに飲まれた感は否めないが、二人は助けた少女に家に泊まる約束をさせられた後、たわいも無い雑談をしながら村への帰路に就いた。
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