一章 勇者の証 3
霧はすっかり晴れ、元通りの晴天と戻っていた。クロエとサンは競技場の中心に立ち並び、観客の視線と歓声を一身に浴びている。そこに競技場の頂上に位置する所から、女王は二人を見下ろしながら会場中に響き渡る声で皆に呼びかけた。
「素晴らしい戦いを見せてくれたお二人に盛大な拍手をお願いします!」
閉会式も終わりを迎えようとしているのだ。今でこそこうやって皆は二人に拍手し称賛を送っているも、試合が終わった直後はこれとは正反対の状態だった。霧で最後の局面が見られず批難の声が飛び交っていたのだが、女王が収めたのである。
「それではこれで閉会とします。皆さんお疲れ様でした!」
女王の呼号が終えると共に、民衆はぞろぞろと競技場を後にした。
皆が退場し静寂に包まれた会場をクロエは見渡し勝利したというにも関わらず、面を伏せ肩を落とす。
何せ競技場は酷い有様なのだ。装飾品の全ては焼け落ち、壁は焼け焦げている。更には地面も水を吸収しすぎて泥濘なっていた。これでは競技場としての機能を果たさない。
「——はぁ」
軽い嘆息と共に重い足取りで控え室に向かっていくクロエ。それに続くようにサンも控え室に向かう。
扉を開けると、テレーズと二人の召使いが佇んでいる。何故かクロエには分からなかったがおそらく待っていてくれたのだろう。
「お二人ともお疲れ様です。素晴らしい試合でした。それにクロエ、おめでとうございます。見事な勝利でした」
微笑みながら会釈をしながら迎入れてくれたテレーズにクロエは一瞬言葉を詰まらせるもどうにか返答する。
「テレーズ殿」
控え室に誰もいないと思っていただけにテレーズの存在に驚き、ただ名前を返す事しかできない。しかもそのクロエの声は小さく暗いものだった。夢中になっていたとはいえ、あれだけ競技場を荒らした後なのだ。これからテレーズが負う苦労を考えると申し訳ない気持ちでいっぱいになったのだ。
「テレーズさん。私達に何か用が?」
そんなクロエを見かねて、すっとサンが会話に割って入る。それにテレーズは先程とは打って変わり、愛想も何も無く、ただ淡々とサンに用件を伝える。
「はい。お二人にそのまま調査を行って貰うわけにはいきませんからね。お二人には治癒を受けて頂きます」
テレーズが二人の召使いに指示を出すとクロエとサンの体にそっと召使いの手が伸びる。途端、二人の体から疲労や痛みが緩和していった。この分だとおそらく傷が完治するのに一時間もかからないだろう。
そこでクロエがその重い口を開く。
「申し訳ありません、テレーズ殿。私達のせいで競技場が荒れてしまいました。もうすぐ剣闘祭が——」
「いいえ、クロエ。この程度なら何の問題もありません。だからあなたが思い悩む必要はありませんよ」
クロエの言葉を遮り、テレーズはまるで子供をあやすかのような優しい口調でクロエを宥める。微笑んでいる顔もあって、クロエの心は幾分か軽くなった。
「それよりも今回の任、無理は決してしないで下さい。手に余るようでしたら迷わず撤退して下さい」
クロエにはとてもこれがテレーズの言葉とは思えなかった。女王の命令に順守している筈のテレーズがこんな弱気な事を言うなど今まで有り得なかったからだ。それ程までに危険な任なのだろうか?
意図が分かりかねてまたしてもクロエは言葉を詰まらせてしまう。
「クロエ。あなたはこの国にとって希望となる存在です。あなたが死んでしまうような事があればこの国は阿鼻叫喚の嵐に包まれ、見るに堪えない悲惨な状況となってしまう。それはあなたにとっても不本意でしょう?」
「ですが、これは成し遂げなければ民衆は不安に包まれたままの生活を強いられる事になる。多少の無茶は致し方ないかと」
軽い溜息を吐いた後にテレーズは苦笑する。
「そうでしたね……あなたの性格からして任を放棄するなど有り得ませんね。
しかしクロエ、これだけは頭に入れておいて下さい。あなた達の障害になるのは決して悪魔だけではないということを」
「それってどういう事ですか?」
クロエが答えるより前にサンが割って入った。その双眸は鋭く、明らかに怒れる者の表情だ。そんなサンにテレーズは怯むこと無く、まるで気づいていないかのようにさらりと答える。
「簡単な話です。国家を良く思っていない人物、もっと言うならあなた達を忌み嫌っている人物は当然ながらいます。そんな愚人がこの機会を逃すとは到底思えません」
「成る程。そういうことですか」
その会話の内容に少なからずクロエは苛立った。
「私はそうは思いません。そういう者にとっても悪魔などという正体が定かで無い存在は畏怖の対象となりえる筈だ。まさかそんな状況で悪事を働くとは——」
「いいえ、クロエ」
頭を左右に振るテレーズの顔は酷く悲しそうに見えた。その表情に毒気を抜かれクロエは先の言葉を言えず固まってしまう。
「あなたが演説したとはいえ、まだ悪魔がいると決まった訳じゃ無い。多かれ少なかれそう考える者は必ずいます。特に欲に目が眩んだ人間などは実物を見ないことには信じません。信じたとしてもそれを好機と逆に利用するでしょう」
それっきりクロエは黙り込んでしまうが、内には新たな決意があった。
仮にそういう者が現れたにしても、国全体を回るのだから全てを守りきれば何の問題も無い。幸いなことに、自分一人では無いのだ。あと二人も騎士団の人間がいるのだから把握しきれない事はないだろう。
そんなクロエの心中を察しているのか、サンは痛痛しいものでも見るようにクロエのやる気に満ちた面持ちを見つめていた。
二人が競技場を出た頃にはもう日が暮れており、幸いにも道中には人がいなかった。おかげで野次馬に遭遇せず、何の憚りも無く帰路に就く事ができたのだ。
周囲の石造りの建物や用水路の水、風景そのものが赤みがかった黄色に染まっており何とも言えぬ景色へと変化していた。一瞬とはいえ、まるで見知らぬ場所にいるかのような錯覚さえ二人が抱いてしまう程に絶景といえる。
「会場の荒れ具合、酷かったね」
「アレは仕方ないだろ。それに半分はお前の仕業だ」
触れられたくない話題に触れられクロエは少し気持ちが沈んでしまう。テレーズには気きするなと言われ幾らか心が軽くなるも、やはり気になって仕方なかったのだ。
「えへへ……いやさ、でも最後に暴れられて憂さが晴らせたよ」
「お前に憂さなんてあるのか?」
「あるよ!」
軽快な口調で話すサンを少しからかってしまったが、クロエもまた楽しめた。
憂さという訳では無いが、これから行うであろう悪魔との対決の前に良い肩慣らしになったし、何よりサンと競い合いができて純粋に楽しかったのだ。
「ねぇ、何であの時私の場所分かったの?」
たわいもない話をしている最中、唐突にサンに問いかけられてクロエは呆気にとられてしまう。何せもう分かっているものだと思っていたのだ。
「何故ってお前、分からないのか?」
「分からないからこうやって聞いてるの。あの霧でクロエも前が見えなかった。そうだよね? なのに何で私の居場所が分かったかなぁ……」
呆れてクロエは溜息を禁じ得なかった。まさかサンがここまで愚鈍などと誰が信じられようか。戦いの中ではあれだけ機転を利かせるというのに、信じられないという他ない。
「あの時火を点けただろ? 私はアレでサンの居場所を掴んだんだ。正直、考え無しに霧を出してしまったからアレが無かったら私もお前みたいに虱潰しに捜す羽目になっていた」
「えぇー、じゃあ自分で墓穴を掘ったってこと?」
大きく溜息を吐き項垂れるサン。と思ったら急に顔を上げ微笑む。感情の起伏の激しいのは昔からだが今日は特に酷い。
「やっぱり——強いね、私じゃ敵わないや」
「いや——私も危なかった。もう一度戦ったら私が負けるかもしれない」
そのサンの潔さにクロエの心に清涼な風が吹き込んだ。クロエもサンに釣られるように自然と顔が緩んでしまう。これが最後ではなかろうが、こんな会話もしばらくできないだろう。それがクロエには名残惜しくて仕方なかった。
しばらく歩いている内にサンの家に辿り着いてしまう。
「荷造りするから手伝ってよ」
「サン、お前という奴は……仕方ないな」
サンがもう出るという事実に少し心に空虚な空間ができたような何ともいえない気持ちにクロエは陥った。その隙間を埋めるために少しでも一緒にいたい。もうしばらくはサンと会えないのだから二人で楽しい時間を過ごしたい。
そんな事口が裂けても言えないが、クロエはそんな感情に駆られている。寂寥感などおくびにも出さず、クロエはサンに続き屋内入った。
「こんな時間に出るのか? 明日に出ても遅くは無いと思うのだが」
「いや、長居しすぎると出るとき億劫になるしやる気のある内に出るよ」
「そうか」
都市には東西南北に一つずつ出口があり、荷造りを終えたサンが今まさに出ようとしているのは西の出口、西門である。
夜も更けて先程の鮮やかな景色など見る影も無く周囲は闇に溶けており、辺りには人の気配が微塵も無いため危険と言えば危険だ。しかしこれが早朝であろうとクロエはサンを引き留めたに違いない。何故なら引き留めている理由は時間帯などではなく、今回の任に関わって欲しくないという根底からきているからだ。しかしこれは女王の命令である。お互いに行かねばならないのだ。
しかし危機に相対するのが自分一人で済むのならば——その事でクロエは試合が終わってからずっと葛藤していた。
「もしかして引き留めたいの?」
「馬鹿を言うな。お前と私は〝勇者〟なんだぞ。止める理由がどこにある?」
薄ら笑いを浮かべているサンを見てクロエはそれを揶揄と受け取り、跳ね返してしまう。——が、サンは本気だった。
クロエがここで胸の内を吐き出し、行くなと縋っていたのならサンは本当に行かなかっただろう。女王の事など眼中にない彼女にとってこの任を辞める事に何の負い目も感じない。しかしクロエが止めない以上、サンも辞める理由がないのだ。
しかし有り得ない事だ。クロエが女王の期待を裏切りサンを引き留めるなど——そんな固定観念がサンを強がらせ、その結果が薄ら笑いという事だ。サンの予想した通り、クロエの口から否定の言葉を聞き、それを真に受けとってしまう。
両者は勘違いし、すれ違ってしまったのだ。
「そうだよね……クロエが引き留める訳が無いよね」
「当たり前だ……陛下はこの国を守るために必死になっておられるのだ。それに私達が応えるのは……当然の事だ」
思うように物事が上手く行かず二人の心に暗雲が立ち込める。次第に二人の会話の語気が周囲の風景と同じく暗くなっていった。
「クロエはクリスティア様に対する忠誠心が凄いね……本当に……」
「私は小さい頃から陛下の忠実な騎士になるべくして育てられた……サン、お前もその筈だ」
クロエの言う通り、出生が貴族の二人は騎士団に入れられる事を前提に育てられてきたのだ。
しかし、同じ立場のサンから見てもクロエは異常だった。敬愛していないサンは除外するにしても忠実な騎士は吐いて捨てる程いる。その中でもクロエはもはや依存しているとしか思えない程の忠臣ぶりと言えるのだ。
「でも、クロエは行き過ぎてるよ」
その言葉を聞いた途端、クロエは顔を顰めより一層声音が低くなる。
「行き過ぎなものか……陛下は偉大な方だ。現に考えてもみろ。お側に仕えているテレーズ殿は言うに及ばず、騎士団の者達といい、皆有能な者達ばかりだ。これは陛下の人望が成せる業ではないか?
それにサン。お前だって不平不満を漏らしながらもやはり陛下に忠実ではないか」
「……ッ」
言い返したいことは山ほど有ったが、サンは言葉を詰まらせた。ここで口を開こうものなら間違いなく女王の悪態ついてしまうし、それをしたら間違いなくクロエに嫌われてしまうからだ。
「唯一、陛下に欠点があるとするならそれは錬金術に耽っておられることだろう。陛下はこの国ためになると仰り税を増やし、その殆どを錬金術の費用に回しておられた……しかしそれを控えると明言された以上、もう落ち度などある筈がない」
「その錬金術って何だろうね? クロエは知ってる?」
この話を続けている内にサンは悋気を抑えているのに限界を感じ突発的に話題を変えた。
しかし、サンが錬金術に対して知識が無いのもまた事実である。
「陛下から聞いた話だが、貴金属、卑金属を生成する術らしい。腕の良い術者なら金属に限らず、無機物に有機物と何でも作り出せるとの事だ。実際の所私もよく知らない」
「ふーん。確かにそれを使える様になったら飢饉も貧困も有り得ない。でも——」
でも、とサンが言葉を付け足した途端、クロエの面が沈んだ。
「そうだ、かなりの費用が掛かる。だからこそ自重して頂いた」
「それだけ必死になって、少しはできるようになったのかな?」
「いやお前も、まあいい……専門の術者を召し抱えられたのだ。初日に私達に渡そうとしておられたのも、その術者に作らせたものと仰ってた」
数日前、再び女王の元を訪れた際に贈呈品の内容を聞かされたのだ。その時サンもいたから知っている筈なのだが、ろくに話を聞いていなかったのだろう。
その術者についてはクロエもサンも知らない。女王からそういう人物がいると聞いただけで名前も顔も聞き及んでいないのだ。存在も忘れているところを見るとサンにとって余程興味がない事柄なのだろうか。
「そういえば、貴金属って言ってたよね」
忽ちサンの顔が輝いた。
前から既知の事だが、サンは装飾品や芸術品に目が無い。しかしここまで露骨に反応されるとは思いもよらずクロエは鼻白んだ。
「しかしお前も知っての通り紛失なされた。あまり期待しないことだな」
「いや、城内を隈無く探してるって言ってたから見つかるのも時間の問題だと思うけどね。
そういや、クロエはこれからどうするの?」
落ち着きの無いサンにクロエの口から嘆息が漏れるも反面、活発な彼女を見ていると自分の心配が杞憂に終わるだろうと安心しつつもあった。よりにもよって、サンが悪魔なんかに負けるはずが無い——と。
「私はもう少し残る。長い旅になりそうだから少し準備をしてから出ようと思ってな」
「え? 準備? クロエの貯えなら働かなくても四、五年は持つと思うけど」
サンが訝しむのも当然だろう。クロエとサンは騎士団に務めているだけあって、貯えは腐るほどある。しかし、例の法に頼りたくないクロエにとってはそれでも少なく思えて仕方ないのだ。
「確かにそうだが、念には念を押しておく。幸いな事に数日後、剣闘祭がある。参加する者には悪いがそこで優勝した後に調査を始めるつもりだ」
「剣闘祭かぁ……確かに基本一般人しか参加しないしクロエなら楽に優勝できるね」
クロエはサンの様に気楽に笑えなかった。
参加する者はまさに一攫千金を夢見ている者が殆どだ。そこに騎士団の者が参加するという事はその夢を叩き潰すに等しい。だからこそ気が引けてか、給金が多いという事もあり今まで騎士団が参加する事はなかった。その事で出場しようかするまいか悩んではいたが、略奪をするよりは良い筈と半ば強引に自分を言い聞かせ参加を決意したのだ。
「お前はどうするんだ? 西門から出るという事はサクレに向かうのか?」
「そうだよ。私は西から順番に北東に向かって調査していくからクロエは東から南西に向かって調査してほしいんだけど、良い?」
「ああ、分かった」
クロエは特に異存は無かった。二手に分かれて行くのは効率が良いし、何より回るのが半周で済むのはありがたい。
このヴィトゥ王国は九カ所の領地で区分されている。分け方は単純で、都市ヴィトゥを中心に八方で区切られているのだ。つまりサンは西、北西、北、北東をクロエは東、東南、南西を調査するのである。
南は女王が必要ないと言う以上、クロエは理由も無く赴く必要は無い。
「そろそろ出るけど、勝負しない?」
「勝負?」
サンの言っている意味が分からないクロエは堪らず首を傾げる。
圧勝とは言えないものの、先の勝負で今回はクロエの勝利で決着が着いているというのに一体何の勝負するというのだろうか。
「そう、勝負。どっちが早く悪魔を斃せるか……どう?」
「成る程いいだろう」
合点がいくのと同時にクロエの胸中に闘志の炎が揺らめく。先まで心に立ち込めていた暗雲もいつのまにか消えていた。サンとの勝負はいつでもクロエを興奮させる。
「またね、クロエ。私が先ず先行するよ」
不敵に笑い嘯きながら、門に手をかけてもう一度クロエの方を向き再び大言を吐く。
「今回は私が勝つから」
「どうだかな」
その言葉にクロエは闘志を更に燃え上がらせつつ、門を抜けていくサンの背中を消えゆくまでずっと眺めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます