一章 勇者の証  2

 燦々と降り注ぐ日差しを防ぐ屋根など無く、足場が砂地でできている競技場の中央で周囲の歓声を受けながらクロエは華美な両手剣を片手に、サンは鋭く研磨された双剣を手に、これから始まるであろう戦いに高揚していた。いつ剣戟が鳴り響いてもおかしくない状況だ。

 クロエの演説の始終を聞いた女王は、クロエとサンが戦える環境を一日で兵達に用意させたのだ。そこで貸し切らせたのがこの競技場だ。この競技場は、数日後に行われる催しのために使用するというのにも関わらず急遽こんな大きな行事を組み込めたのは流石女王という他ない。その仕切る手際の良さは目を見張るものがあった。

 クロエとサンにはある通り名がある。

 クロエには『冷酷な天使』——名前に因んで付けられた通り名だが、当然ながら伊達ではない。冷酷とある通り、彼女はこの国と女王に仇成す存在を悉く殺し、殲滅してきたのだ。女王に対する献身的な姿と敵に見せる容赦ない姿の相違からこのような通り名で呼ばれるようになった。

 サンには『獰猛な狂犬』——敵に一切情けをかけないその非情さ、女王にさえ靡かないその気強い性格から付けられた通り名だ。評判こそ悪い彼女だが、実力が相当なものだからこそ付けられた通り名だ。

 二人は自分の通り名を人格を貶されているようで甚だ気に入らないでいるが、民衆がそんな事を気にかける筈も無く空気感染よろしく一気に広まった。 

 つまり彼女等の実力はそこいらにいる有象無象の比ではないのだ。騎士団、それも副団長同士の決闘だというのだから女王も是非観戦したかったのだろう。

 昼前という時間帯に、快晴という天候も相俟って観客席は満席だ。女王の計らいで昨日の演説で集まった人々に無償で寝床を与え、一日ヴィトゥに泊まらせたのだ。観戦したい皆にとってそれは天恵に等しかったに違いない。

 数分間、視線と視線が火花を散らせた末に先んじて動いたのはサンだ。砂を蹴り上げ身構えるクロエとの距離を獣が疾走するかの如く瞬時の内に詰め、双剣で斬り伏せようとするも身を捩らせ難無く避けてみせるクロエ。剣を振り切った事によりできたその虚を衝き、クロエは両手で剣を薙ぎ払うもこれをサンは持ち前の敏捷さ後退し紙一重で躱す。

「相変わらず堅いね……クロエはッ!」

「ッ!」

 その皮切りを切っ掛けに戦いは一気に苛烈さを増した。

 跳ね返るようにサンが再び間合いを縮め、巻き上がる砂を物ともせず双剣を縦横無尽に振りかざし斬り掛かるもそれにクロエは翻弄される事もなく全ての刃を捌ききる。時折見せるサンの甘い一撃をクロエが渾身の力で弾きにかかるも、その衝撃にサンは剣を落とすどころか体勢も崩さず攻め続けた。

〝サンの動きが遅くなった? 何にせよ畳み掛ける絶好の好機だ〟 

 前触れもなくサンの猛撃が緩やかになり、その隙を衝かんと咆哮と共にクロエは思い切り剣を振り下ろすも切り裂いたの空虚な空間と砂のみだ。当人のサンは体をほんの僅かに仰け反らせ回避してみせたのだ。

「くっ」

「貰った!」

 紙一重で躱したサンが滑るかのような奇怪な動作で歯噛みするクロエの横に回り込む。流れるような動作でサンが剣を振るうがこれもクロエには通らない。間一髪で剣を逆手に持ったクロエは胴体への切り込みを防いだのだ。それに頓着することなくサンは猛撃を再開し、クロエを攻め立てた。

 二人の凄まじい掛け声、けたたましい剣戟の響きに観客の興奮は最高潮に達した。

 サンの動きは一向に衰えることなく、それどころか尚のこと速さを増していく。その機敏で獰猛な動きはさながら狂犬といったところだろうか。

 端から見れば劣勢に見えるかもしれないが、クロエもサンに張り合っていた。サンの動きが速くなればクロエの動きもそれに合わせきっちり全て弾き返している。更には、反撃に牽制もしている辺り、派手さは劣るもののしっかり戦えているといえよう。

 試合の模様は激しくなるばかりで、一向に進展せず拮抗していた。数一〇合、数一〇〇合と打ち合っている最中、途端にサンは手を緩めて飛び退き大きく間合いを開ける。

「アレだけの猛攻を受けて掠り傷一つも負わないなんて、国随一の騎士と謳われるだけのことはあるね」

「それはお互い様だ。それだけ動いて尚疲弊を見せないその体力、やはりいつ見ても驚かされる」

 ふと、サンはこの場に相応しくない満面の笑みを浮かべる。おそらくクロエ以外に褒められてもここまで彼女は嬉々としないだろう。

「何が可笑しい?」

「いや、ただ最後にクロエと戦えて良かったなぁ……って思って」

 お互いに褒め合いながらもお互いは攻め入る隙を慎重に探っていた。何せ、〝お互いに血を一滴たりとも流すわけにはいかない〟からだ。

 人柄の善し悪しの評判を除くなら、クロエと同様にサンもまた国随一の騎士と謳われている。戦い方の違いはあれど、実力に関していうならクロエとサンは同程度の強さを誇っているのだ。

 お互いの実力に差異がないだけではない。二人は幼なじみで昔からずっと競い合い、訓練に励んできた仲なのだ。そして同時期に騎士団に入団し、共に任を幾度となくこなしてきた。故にお互いの戦い方を把握しあっているのだ。決着が着かないのも当然である。

 クロエは取り分け、攻める方ではなく受け流し隙を衝いての反撃を主とした戦いを得意とする。先程の打ち合いで先に動かなかったのもそのためだ。剣と鎧の重量が相当なものなので動けば動くほど体力が消耗し、長期の戦いになればなるほど不利になる。クロエの戦法はそれを見越してのことだ。

 サンは、先のように攻め入るのを得意とし俊敏な動きで相手を翻弄する。わざわざ胸部に鎧を着けていないのは余計な重りを無くし、体を少しでも軽くするためだ。クロエと違いサンはそもそも長期の戦いなどする気は毛頭無い。できる限り最短の時間で相手を倒す。そのため常にサンは押し続けるのだ。

 そしてお互いに〝奥の手〟を持っている。それが何か互いに把握しているものの、それの使い所がこの勝負の命運を分けるだろう、というのもお互いに理解していた。

「手加減はしないよ……後で治して貰えば済む事なんだから」

「無論だ、私も手を抜く気は一切無い」

 再度サンが勇猛果敢に斬り込み、その斬撃をクロエは真正面から受け止め閃光を散らす。その剣戟の響きに刺激され観客席から声援が競技場に響き渡った。


 観戦している民衆の更に上の位置に女王は鎮座し、試合模様を眺めている。周りの観客とは違い、変に熱くなり騒いだりせずひたすら冷静に見物しているのだ。

「こんな戦い滅多に見られませんよ。ねぇテレーズ?」 

 その女王の横にきりりと直立している人物は女王の側近、テレーズ・アミだ。

 彼女は容姿端麗の筈なのだが、その徹底された無表情さ、感情を見せない態度に誰も色気をみせない。それどころか加えて彼女の克己的な印象をそのまま形にしたかのような堅い洋服を纏っているせいで男性に見間違えられる事も少なくないのだ。

「はい。仰るとおりです。流石、副団長といったところでしょうか」

 普段、感情を表に出さない筈の彼女もこの戦いに何か感じる所があるのか食い入るように見つめていた。そんなテレーズを横目で見遣りながらまるで何でも無い事のように抑揚のない声で女王が話しかける。

「ところでテレーズ、この前クロエ達に渡す筈だった物、アレは見つかりましたか?」

「いいえ、ただいま城内を捜索させておりますが一向に見つかりません」

 音も立てず女王の方を向き、すっと面を伏せる。

 女王の問いにたとえ色好い返事を返せないにしても決して言葉を詰まらせず、必要以上に卑屈な態度を取らないその様式は長年の経験の賜物である。

 先日、クロエとサンに渡す筈だった物の事である。あれから女王は捜索をテレーズに一切を任せたのだ。そうして数日間テレーズの指揮の元、兵や召使いが城内を駆け回るが一向に発見されないでいたのだ。

「では引き続き捜索をお願いします」

 女王が前のような乱れは一切感じさせる事もなく、淡々と命令しているのはテレーズを余程信頼してのことだろうか。

 それに応じるように形式通り綺麗な会釈をテレーズは返す。

「畏まりました。ではそのように」

「話が変わりますが」

 依然として変わらず、激しい剣戟を繰り広げている二人を女王は指で指し示す。続いて軽く嘆息した。席を立たない以上試合は楽しんでいるのだろうが、何か懸念される事柄があるらしい。

「おそらくこのままいけば競技場は荒れるでしょう。修繕間に合いますか? 剣闘祭までに」

 二人が剣に頼った戦いをしている以上、競技場が荒れる理由などあるはずもない。剣に頼っている以上は、だが。女王は試合がこれ以上長引けば二人が〝決め技〟に頼ると踏んでいるのだろう。そしてそれが何なのか当然女王は理解している。

「はい。程度にも依りますが恐らくは二、三日もあれば充分かと。剣闘祭には何とか間に合います」

「そうですか。委細は任せましたよ」

「——は。お任せを」

 再び会釈をするテレーズを尻目に女王は再び意識を決闘に集中させた。探し物は引き続きテレーズに任せるとして、後日の催しも無事に行われるであろうという事にもう何も気にする事柄が無いのだろう。

「では、わたくし達も楽しむとしましょう。本当の魅せ場はここからですよ」

 テレーズは返事こそしなかったものの、女王と同じように——否、それ以上に楽しみ興奮しているに違いない。何故なら、決して感情を表に出さない筈の彼女は熱に当てられたかの如く顔が紅潮しているのだから。


 二人は距離を置き対峙していた。サンは不敵に微笑みながら片手で牙を弄んでおり、クロエはただひたすら剣を構え必殺の間合いをはかっていた。

「実力がこうも拮抗するなんて……これは長引くね、クロエ」

「正攻法じゃそうだろうな。この戦いはより相手の裏をかいた方が勝つ」

 クロエにとってもここまで長引くとは思わなかった。昔からサンが攻める戦い方を得意とするのは知っていたため、長く打ち合えば体力に差が出ると踏んでいたのだがあの様子じゃサンはおそらくまだ余力があるのだろう。これだけ打ち合ってまったく勝負が進まないというなら、本当に裏をかくしかないわけなのだが——

 そういう奇策に関してはサンが確実にクロエを上回っているというのも業腹だが認めなくてはいけない。

「だろうね!」

〝来る!〟

「ッ!」

 サンが何か仕掛けてくると踏んで、身構えたが特に変わりはなかった。

 まるで先の再演である。同じようにサンが自慢の脚で一気に間合いを詰め、右手の牙で斬りかかる。それをクロエは剣で難無く弾く——そう、再演はここまでだ。

 クロエの手には何の抵抗も感じられないまま、サンの剣は勢いよく弾け飛び、砂の上に虚しく突き刺さる。

「取った!」 

 サンの嬉々とした声がクロエの耳を伝い脳に響き渡る。

 何の抵抗も無く剣が弾き飛んだ時、クロエは罠だと悟った。サンはわざと剣を手放したのだ。しかし気づくのが遅かった。何せもうサンの右手の爪がクロエの眼前に迫っているのだから。

「ッあ!」

 顔を逸らすも間に合わず、クロエの頬に鋭い痛みが走る。流血具合も気にする余裕もなく怯んでしまう。

 当然その隙を見逃すサンではなかった。追撃としてクロエの胸部に蹴りを加えられる。鎧の上からとはいえ、充分な威力があり体を砂上に叩き付け咽せ込んでしまう。

 勝利を確信したのかサンは仰臥しているクロエに無防備に歩み寄る。

「今回は私の勝ちだよ……クロエ」

「ッ——我が敵を阻むのは……水の壁なり」

「えっ」

 クロエは咽せるのを堪え、呟くように詠唱を済ませる。途端クロエの周囲から上空目掛けて有る筈もない夥しい量の水が横たわる彼女を守るように噴出される。

 それを奥の手、つまり〝魔法〟と察したのか直ぐにサンはすぐさまその場から離脱し、先に失った剣を拾いに行く。

 クロエとサンは魔法が使えるのだ。体内に流れる魔力を燃料とし、あらゆる奇蹟を巻き起こす。それが魔法だ。意識を集中させ詠唱を紡ぐ事でその人物に魔力が流れているのならば、その人物の持つ型式の魔法が発動される。魔法にも種類があり、クロエとサンが使えるのは攻撃型だ。奇しくも属性も同じで火と水の属性を操る。攻撃型の属性は火、水、土、風、雷なのだが、ごく希に貴重種であるが光、闇の属性を操る者も存在する。

 基本、攻撃型に関してのみ使える属性の数は一つだ。が、クロエとサンは二重属性で二つの属性が操れる。しかし、余程の練度に差が無い限りは同じ属性に関して一重属性には勝てない。喩えクロエやサンが熟練の魔法使いになったとしても、そこそこ練習を積んだ炎のみを扱える魔法使いに炎の魔法に関しては勝てないということだ。単純に割合の問題で、彼女等はどんなに魔法の練習をしても火と水の魔法を五〇%ずつの力でしか使えない。新たに使える属性が増えようものなら更に威力の割合は減少する。そして一重属性の魔法使いは一つの属性しか使えないが、一〇〇%の力でそれを発揮できるのだ。

 魔力は体液の中でも血中に大量に含まれているため、魔法使いにとって流血する事は戦う手段を減らすに等しい。二人が流血を避けていたのもこれが理由だ。

「これからが本当の戦いだ」

 立ち上がったクロエは堪らずサンに薄ら笑いを浮かべる。ここまで白熱した戦いを久しぶりにできて、これまでになく興奮しているのだ。

 幸いにも頬の傷は浅く、流血の量は少ない。魔法の行使には何の支障も来さないだろう。

 サンは勢いよく左手の剣を地面に突き刺す。その意味はクロエには分かりかねるし考慮する気にもならなかった。

「業火をもってして我が眼前の敵を焼き払わんことを」

 精神を集中させ、的確に呪文の詠唱を済ませるクロエに食い下がるようにサンもまた詠唱を紡ぐ。

「熾烈なる火炎の球を我が手に」

 二人の詠唱を紡ぎ終える瞬間の時間差はほとんど無かった。

 クロエの足下を蛇のような炎がうねるように這いずり、サンの左手には燃え盛る火球が浮かび上がる。

 サンが左手を空にしたのはこれが理由だろう。はたとクロエは理解した。

 クロエはサンに手を翳し、サンもまたクロエに左手を翳す。

 するとクロエの足下の炎がサンに向かって伸び、サンの手から射出された火球とぶつかり激しく火花を散らした。敵を焼き尽くさんと散々鎬を削り合った結果相殺し、弾けて四散した二つの炎の塊は辺り一面に周囲の悲鳴などお構いなしに飛び火する。周囲の装飾品に引火させ競技場を一気に火の海に変貌させるも、幸いにも観客席にまで火の手は伸びなかった。

 周囲の気温は一気に上昇し身を焼くような熱気と焦げ付く匂いが疲労しているクロエを襲い、思わず目眩がしてしまう。先までの戦いの疲労にこの環境。いい加減決着を着けないと体が持ちそうにない。

 剣を抜き取りサンはクロエのいる所に向かい疾走した。クロエもそれに応えて、サンに向かい走る。同時に剣を振るったために、純粋な力の応酬、鍔迫り合いとなった。不意に強引にサンが剣を弾き、再び剣の舞、砂埃を巻き上げながらの剣戟の応酬へと縺れ込んだ。

 サンは笑っているも、それが作り物であるとクロエはすぐに理解する。何せ先までのキレがない。敏捷さ、剣の振る速度、全てにおいて始めとは比べものにならない程劣化していたからだ。

 この好機に付け込むべく、ここぞとばかりに剣を振るいサンを追い詰める。やはり避ける姿に先のような華麗さなどなくぎこちなくふらついていた。次第に足に限界が来たのか避けきれず真正面から受け止め再度鍔迫り合いに発展した。

「クロエ……ッ、らしくもない——疲れたの?」

「ッ——それはお前もだろう! 力が入っていないぞ」

 揶揄には揶揄で返すも、クロエには正直そんな余裕はなかった。先までの小手調べに火の海での鍔迫り合い。体力の消耗が凄まじく今にも倒れてしまいそうだった。

「はぁッ!!」

 痙攣する筋肉に鞭を打ち、半ば強引にクロエはサンを弾き飛ばし距離を置く。

 瞬く間に体勢を整え、サンは再びクロエに接近しようとするもそれはクロエにとって詠唱するには充分すぎる余裕があった。

「湧きでる水は凍てつくものなり」

 勘付いたのかサンは、間一髪で飛び跳ねるように地面から吹き出る水の奔流から逃れ得た。

 クロエとサンを分かつように地面から冷水が凄まじい勢いで吹き上がり、規模の大きい水柱ができあがっていた。吹き上げられている水は暴雨の如く降り注ぎ、競技場を散水し続け周囲の火を忽ち消化させる。当然水は蒸発し、砂の足場は泥濘になり、散水され続けているせいで周りの温度は下がり水蒸気が凝固する。

「クロエ……まさか」

 白く濁り始めた周囲を見渡し、ただ変わりゆく景色を前に呆然と立ち尽くしていた。

 そう、クロエの狙いは火を消すことだけではなく霧を発生させること——つまり、目眩ましが欲しかったのだ。

 辺りは濃い霧と雨に包まれ、サンの姿は疎か何も視認できなくなった。当然この好機を逃すはずも無くクロエは場所を移し、息を潜める。サンを倒しうる絶好の機会を窺いながら。


 サンは驚愕せざるを得なかった。

 何せ、火を消すためだけの雨だと思っていただけにまさか霧が発生しようなどと誰が想像できようか。霧というよりもはや濃霧であり、周りの状況が一切視覚では分からなかった。

 驚愕と共に苛立ちもある。

 雨が周りは元より当然サンの総身をも濡らしているのだ。先まで全身が熱されていた分体が冷えるのは良いが、髪が顔に貼り付き鬱陶しい。もっと言うなら顔を伝い落ちる水さえ煩く癪に障る。歩く度に泥が鎧に跳ねて汚らわしい。雨で出来た泥濘に足を絡め取られるのが煩わしい。疲労で音を上げそうな肢体が腹立たしい。雨音が耳障りで忌々しい。

 何よりも視界が遮られているのが苛立ちの一番の要員だ。

 苛立ちと共に吐いた溜息すらも白く、周囲に溶けた。

「これじゃ何も見えない」

 苦々しく呟き周囲を見渡すも、一向に霧が晴れる気配は無い。何せあの水柱を消さねば話にならないのだが、サンに消す術はない。なら術者であるクロエを倒せば良いのだが見えないのでは手の打ちようがない。

 しかし、見えないという点でいうならクロエも同じ筈だ。一向に襲ってこない所を見ればクロエもまたサンを探し回っているに違いない。二重属性であるクロエに、まさか水蒸気を操れはしないだろう。何せサンも不可能なのだ。

 となればこの霧の目的は恐らく襲撃では無く仕切り直しが目的なのだろう。だとすると次に相見え斬り結ぶ時こそ決戦の時に違いない。クロエにもう何度も戦う体力など無い筈だし、サンにも無いのだ。

 何はともあれまずクロエを見つけなければ話にならない。運良くサンが先に見つける事ができたのなら不意を衝くことも可能なのだ。この霧に利点があるのはクロエだけではない。サンもまた利用できるのだ。

 この戦いにはどうしても勝ちたい。昔から大きな優劣が着く事も無かったのではっきりさせたというのもある。が、しかし、それ以上に自分の庇護のもとでクロエと一緒にこの任を完遂させたいというのが大きい。いかな悪魔であろうとクロエが後れを取るなどとは思ってはいないが、やはり心配なのだ。

 焦る気持ちを抑え、滾る両牙を腰の鞘に収める。

「我が手に火を」

 右手にふわりと浮かび上がった炎に水が掛からぬように左手で覆い隠す。即席の灯だ。こんなものでもこの霧の中じゃ無いよりはマシだろう。

〝どう探そうかな〟

 この雨音が無ければ、或いは自分の背後に迫る気配に気づけていたのかもしれない。捜すことと妄執ばかりに気を取られて、背後に気を配らなかったのはサンの完全なる不覚である。

「あっ」

 声を出す間もなく仰向けに転がされ、ようやく襲撃に気づき立ち上がろうとするにも既に時遅く顔の横に剣が突き立てられていた。

「私の勝ちだな」

 サンの眼前には女性が立ちはだかっていた。雨に濡れても尚美一章 勇者の証しい金髪、焼けすぎていない小綺麗な小麦色の肌、女性にしては高すぎる身長、その醸し出す凛々しい空気、見間違えようも無くクロエ=アンジュのそれだ。途端、全身の力が弛緩し泥で汚れることも気にせず、その場に横たわり続けた。

 自分が何かを読み違い、どうしようもない過ちを犯しこの結果を招いたのだろう。それだけはなんとなく理解できた。それが何かというのは分からないし、今のサンには考える気力さえ無い。

 ただ言えることがあるとするなら、クロエを守ろうなどというのは烏滸がましく思い上がりも甚だしかったということだ。クロエはサンなんかよりずっといろんな意味で強いのだから。

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