File-2 芸は身を助ける

「ランティスさん!?」

「こんなとこで会うなんて、奇遇だな」

 振り向いたフィラに、大柄な黒人男性はにこやかな表情で片手を上げた。ふと気がつけば、さっきまで奇妙な静寂が支配していたこの片隅にも、夏祭りの喧噪が戻ってきている。

「ランティスさんも、お祭り見学ですか?」

 フィラは奇妙な占い師のことからはとりあえず気持ちを切り替え、なんだか友好的な態度のランティスに笑顔を向けた。

「ん? ああ、見回りだよ。祭りだと羽目外して酔っぱらったり暴れたりするやつがいるかもってリサの提案で……まあ、要するに休暇なんだけどな」

 ランティスは気楽な調子で肩をすくめて笑う。慣れない土地に来てすぐに竜の侵入という大事件があったり、拠点となる城が荒れ放題だったりで、聖騎士たちは今まで休む暇もなかったのだろう。

「剣術大会には出ないんですか?」

 午前中のメインイベントである剣術大会は、毎年盛大に行われているし、領主お抱えの騎士や兵士も参加することが多い。聖騎士団の面々が参加すれば、ギャラリーはさぞかし盛り上がるだろう。ランティスもなんとなくそういう派手な催しは好きそうな気がする。

 しかし、予想に反してランティスの反応は鈍かった。

「いや、その予定はないなあ。市民の皆さんに俺の華麗な剣技をお見せできないのは残念だが、俺らが出ると上位独占しちまうから」

 ずいぶんと自信たっぷりだ。根拠は――たぶんあるのだろうけれど、なんとなくユリンの町の皆が一段下に見られたようで悔しい気もする。

「やってみないとわからないですよ。もしかしたらユリンにもすごい人がいるかも」

 右肩のティナが呆れたようにため息を漏らすのも気にとめず挑発してみると、ランティスは困ったような苦笑いを浮かべた。

「いや、ほら、正式な訓練現役で受けてるのと受けてないのとじゃやっぱり全然違うからさ。基本的に禁止されてるんだよ、こういうアマチュアの大会とかに出るのは。身体能力を魔術で強化してる部分もあるわけだし」

「あ、そうか……魔法が使えるんですもんね」

 それでは確かにアマチュアの大会に出るのは不公平かもしれない。

「そうそう……お?」

 勢いよく頷いたランティスは頷いた拍子に何かに気づいたらしく、ふいにフィラの背後へ視線を飛ばした。つられて振り向いたフィラの視界に、人混みで一際目立つ白と青の聖騎士団団服に身を包んだ金髪の青年が飛び込んでくる。右肩のティナが小さく「げ」と呟き、フィラも一瞬似たような感想を抱いた。

「おーい、ジュリアン!」

 できればジュリアンとの接触は避けて通りたいというフィラの思惑に気づくはずもなく、ランティスは大声で呼ばわって右手を振る。ジュリアンがこちらを見て、フィラは自分の表情筋が強張るのを感じた。

 ティナには信じてみたいと言ったものの、相変わらず警戒心は働いてしまうし、バルトロのノートを見るたびに引っかかりは覚えるし、側にいると妙に緊張してしまう。どんな態度を取ればいいのかもよくわからないから、できれば関わり合いになりたくない。それなのに、ジュリアンは逃げる間もなくこちらへ近づいてきてしまう。

「待ち合わせ場所にいないと思ったら、こんなところで油を売っていたのか」

 片手に広場で買い集めたらしい荷物の箱を抱えたジュリアンは、いつにも増して不機嫌そうな目でランティスを睨んだ。

「そうつんけんするなって。嬢ちゃんに頼みたいことがあったんだよ。せっかくだから一回くらいはピアノ聴いてみたくってさ」

「わざわざ聴くほどのものなのか?」

 大げさに肩をすくめるランティスに、ジュリアンはあくまで冷ややかな口調を返す。

「そりゃまあ、お前みたいに興味ない奴は知らないだろうけど、一応その方面じゃプロとして活動してたんだ。そこそこ有名なんだぜ、この嬢ちゃん」

「そうか」

 ジュリアンはちらりとフィラを見て頷いたが、興味はまったく感じていなさそうだった。

「なあ嬢ちゃん、お願いできないか? 二、三曲でいいんだ。俺のために弾いてくれよ」

「それは……かまいませんけど」

 でも、いつどこで? と尋ねる前に、ランティスはジュリアンに向き直る。

「つーことでさ、一緒に聴かせてもらおうぜ。お前だっていいとこのぼんぼんなんだから、ちょっとくらいそっちの教養高めておいても損はないだろ?」

 ランティスは親しげに、かつ乱暴にジュリアンの肩を叩いた。結構いい音がフィラの耳にまで届き、ジュリアンが痛そうに顔をしかめる。

「私のピアノが教養になるんですか?」

 手加減した方が良いのではと思いつつ、それを言うとジュリアンの機嫌がますます下降しそうで怖いので、フィラはとりあえず二番目に疑問に思ったことを口に出した。

「俺にとっては趣味だけどな」

「はあ」

 答えになっていない気がする。

「よし、そうと決まれば」

 ランティスはフィラの困惑にもジュリアンの不機嫌にも頓着することなく、嬉しそうにターンを決めた。

「おい、何がいつ決まったんだ」

 ジュリアンが叩かれた拍子に取り落としそうになった荷物を抱えなおしながら尋ねる。

「踊る小豚亭にはピアノあるんだろ? 行こうぜ」

 ランティスは今さら何を言っているんだという顔で振り向いてそう言った。

「……強引ですね」

 先頭に立って歩き始めたランティスに、フィラは思わずため息をつく。

「趣味が絡むといつもこうだ」

 呆れた調子のジュリアンも隣で嘆息し、致し方ないと言いたげな重い足取りでランティスの後に続く。

「まあ、昼食を食べる場所を探していたところだから、酒場に移動するのは構わないんだが」

 隣に並んだフィラに、ジュリアンは感情の読み取れない声で呟いた。

「今日はお店閉まってますから、お料理お出しできないんですけど……」

「じゃあ何か買っていくか」

 ジュリアンはやはり何の感慨もこもっていない瞳で広場を見渡す。領主を務めるような上流階級の人が食べそうなものはないが、それは気にしないのだろうか。

「何か食べたいものはあるのか? 俺は何でも構わないんだが」

 やはり全く気にしていないらしいジュリアンに、尋ねられて、フィラは広場を見回した。

「あ、じゃあ、ピロシキ! ピロシキ食べてみたいです」

 すぐ近くで揚げたての良い匂いを漂わせていたロシア式揚げパンの屋台を指差すと、ジュリアンは「何だあれは」と言いたげに目を細めてそちらを見る。

「て言うかなんでこの状況を受け入れてるんだよ? 僕こいつと昼食なんて嫌なんだけど」

 右肩のティナが、他の通行人には聞こえない程度の小声で文句を言った。

「まあそう言うなって子猫ちゃん。仲良くやろうぜ」

 先を行くランティスが耳聡く振り返ってティナをなだめ、ジュリアンは「夏に揚げ物か」と呟きながらもピロシキを買いに歩いて行く。その様子を見ながら、確かに変だとフィラも考えていた。ティナの言うことにも一理あるのだ。フィラだって、ジュリアンのことは相変わらず苦手なはずなのだから。

 ――きっとピアノを聴きたいと言われて嬉しかったからだ。

 ジュリアンが三人分のピロシキを買ってフィラたちの所へ戻ってきた頃、フィラはそう結論を下した。それに、ランティスが自分の過去について何か知っていそうなのも気になる。

「これで食料は確保できたか。休みでも嬢ちゃんがいれば飲み物は頼めるよな?」

 ジュリアンが黙って差し出した紙袋を抱えながら、ランティスがフィラに尋ねた。

「あ、はい、お出ししますよ」

 フィラはとっさに接客用の笑顔を浮かべて頷く。

「オーケーオーケー。いい感じだ。そんじゃ行くか!」

 ランティスはいまいちノリの悪い一同を鼓舞するように宣言し、先頭に立って歩き始めた。


 閉店中の踊る小豚亭に入り込み、聖騎士二人はカウンター席に陣取った。窓が入り口と同じ側にしかない店内は、昼間でも灯りを付けないと少し薄暗い。ジュリアンは足下に荷物を置き、ちらりと天井を見上げて魔法の光を灯す。フィラはピロシキの袋を取り上げ、カウンターの中に入った。ピロシキはまだ温かかったのでそのまま皿に並べ、一応お酒は出さない方が良いかと判断して紅茶を淹れることにする。

「結構大きいですね」

 お湯が沸くまでの間、三つの皿に並んだピロシキを見下ろしながらフィラはしみじみと呟いた。

「そうか? 足りるかどうか微妙な線だなあ、俺としては」

 カウンターをのぞき込んだランティスが首を傾げる。

「じゃあ、私の半分差し上げましょうか?」

「ん? そうだな、食べきれないなら貰おうかな。もったいねえし」

 ランティスが頷くのを、カウンターの頬杖をついたジュリアンがちらりと見上げた。

「じゃあ、俺のも半分食べてくれ」

「ってお前もかよ。まあいいけど」

 ランティスは改めてスツールに腰掛けながら半眼になって呟く。

「それじゃ、ランティスさんが二つで私と団長が半分ずつですね」

 フィラは二人が頷くのを確認して、手近にあった一つを取り上げ、半分に切った。

「ティナはミルクでいい?」

 切り分けたピロシキを皿に並べながら尋ねると、カウンターの上で丸まっていたティナが不満げに顔を上げる。

「……僕、飲食必要ないんだけど」

「え? そうなの?」

「光の神は光があれば生きていける。栄養摂取の必要はない」

 手を止めて首を傾げるフィラに、ジュリアンが淡々と解説した。

「初めて知りました」

「忘れていただけだろう」

 冷たい口調に一瞬沈黙してから、フィラは渋々頷く。

「……それもそうですね」


 紅茶が入り、三人はカウンターに座ってピロシキを食べ始めた。フィラはなんとなくそのままカウンターの中に座り、ジュリアンとランティスに向かい合って食事をする。

「良い雰囲気の店だなあ」

 ピロシキを片手に持ったまま、ランティスは椅子を回して店内を見回す。

 踊る小豚亭は木造建築の三階建ての一階にあった。店の外側は、漆喰の白壁から露出した黒い木材が幾何学模様を作っているが、店内の壁は落ち着いたウォルナットの木材で覆われている。店の一番奥には大きな暖炉が鎮座していて、その上のマントルピースには、踊る小豚亭の主人であるエルマーの趣味で集められたボトルシップが並んでいた。暖炉から少し離れた壁際には古いアップライトピアノが置かれている。内装に合わせた木目調のピアノで、所々にぶつけた傷跡は残っていたが、きちんと綺麗に磨き上げられていた。よく混み合う店内なので、他に置かれているのは椅子やテーブルだけだ。

「掃除頑張ってるんだなあ」

「うらやましい」

 ピロシキにかぶりつきながらしみじみと呟くランティスに、何故かこちらはナイフとフォークで優雅にピロシキを切り分けているジュリアンが同意する。

「お城すごいですもんね、今……」

「いつになったら掃除に取りかかれるのかも不明だしな」

 ジュリアンはため息をついて紅茶に口を付けた。

「まだお忙しいんですか?」

 竜の侵入からしばらく経って、お城の動きも落ち着いてきた頃だと思っていたのだけれど。

「竜の侵入についてはほぼ解決した。今は前任者の後始末に追われているところだ」

 不機嫌に眉根を寄せながらジュリアンが答える。

「そうそう。ラドクリフがいらん条例立てまくったせいで、いちいち内容を確認して訂正が必要なところは訂正して……大変なんだぜ。人手は相変わらず足りねえし」

 ランティスはそう言いながら、二つめのピロシキに手を伸ばした。


 食後のコーヒーを出すと、ランティスは受け取りながら「ピアノピアノ」とピアノを指差した。

「なんだその頼み方……お前は子どもか」

 ジュリアンの醒めたコメントを聞きながらピアノに向かう。弾き慣れたアップライトのふたを開き、背後を振り返った。

「何かリクエストありますか?」

「お、リクエストしていいの? それじゃそうだな、えーとえーと」

 ランティスは心底嬉しそうに身を乗り出し、次いで隣で呆れているジュリアンをちらりと振り返り、にやりと笑いながら再びフィラに視線を向ける。

「まあこいつでも聞いたことありそうな有名どころってことで、ベートーヴェンの『月光』第三楽章を頼もうかな」

「わかりました」

 速度が要求される、激しい調子の曲。これはまた随分と酒場のピアノ弾きっぽくない曲を、と思いながら、フィラは鍵盤へ向き直った。


 ランティスのリクエストで何曲か(激しい調子の曲ばかりを)弾き終え、次で最後にしようということになった。

「最後なんだし、お前も何か一曲くらいリクエストしたら?」

 フィラは高低椅子の背もたれに肘を乗せて、ランティスのすすめに眉根を寄せるジュリアンを見つめる。

「曲名には詳しくない」

「ないなら無理しなくても……」

 苦笑しながら口を挟むと、ジュリアンは難しい表情のまま顔を上げた。

「ショパン」

「いや、それいっぱいあるから」

 ランティスが呆れた口調でつっこみを入れる。

「恐らくノクターン……だったと思うんだが。よく耳にするメロディで……二番だったか?」

 ジュリアンはランティスを無視して考え込みながら曲名を口にした。自信なさそうな様子に、フィラは最初のフレーズを片手で何小節か弾いてみる。

「ああ、それだ」

 夢見るような、少し哀しげなメロディに、ジュリアンは小さく頷いた。

「意外とロマンチックな曲が好きなんだなあ」

 しみじみと呟くランティスに、ポーカーフェイスを貼り付けたジュリアンが首を横に振る。

「というか、聞いていて眠くなる曲が好きなんだ」

「……何それ」

 食事が始まってからずっと黙っていたティナが、ぼそりと呟きを漏らした。


 最後の一音をたっぷりと伸ばしてペダルから足を離す。背後から熱烈な拍手とゆっくりとした拍手が聞こえてくる。振り返ってみると、思った通り熱烈に手を叩いているのはランティスで、やる気なさそうに手を叩いているのはジュリアンだった。

「私、そろそろ行かなくちゃ。午後から友達と約束してるんです」

 フィラは立ち上がり、ピアノの上に置いておいた鍵盤保護用の赤いフェルトを取り上げる。

「お、そうか? 悪かったなあ、いろいろ頼んじまって」

 満面の笑みで手を叩いていたランティスは慌てて立ち上がり、ジュリアンと協力して食器を片付け始める。

「いえ、私も楽しかったですから」

 ピアノのふたを閉め、重ねられた食器を受け取りながらフィラは微笑した。

「じゃあ、これ片付けてきますね」

 ふと、コーヒーカップを手渡そうとしたランティスの動きが止まる。

「……あー、嬢ちゃん」

 小首を傾げるフィラに、ランティスは言いにくそうに視線をそらしながら呼びかけた。

「どうかしました?」

「いや、その……言いにくいんだけど……」

 ランティスは一つ深呼吸をしてから、改めてフィラの目をのぞき込む。

「ちゃんと練習、できてんのか? ピアノ」

「いえ……あんまり」

 今度はフィラが視線をそらす番だった。

「いや、その、今は……今は酒場のお手伝いをしないと。お世話になっている身ですし」

 フィラは考え込みながら言葉を続ける。ちゃんと考えて出した結論だったはずなのに、言葉に出してみるとなんだか言い訳のようだった。

「もったいねえと思うんだよなあ。前に聞いたときよりちょっと指が回ってない感じするっつーかさ……まあ、ピアノの違いもあるとは思うけど、やっぱり、その、なんだ。ちゃんと練習続けた方が良いと思うんだよ。ちゃんとしたピアニストまだまだ育ってないわけだし……やっぱこういう殺伐とした世の中だからこそ、芸術方面の連中にがんばってほしいと思うわけだ。戦場に生きる一兵士としてはあたっ」

 訥々と話していたランティスは、ジュリアンに足を蹴られて沈黙する。ジュリアンの方は平然としたもので、何事もなかったかのようにフィラに向かって残りの皿を重ねて差し出した。

「あの……」

 皿を受け取りながら困惑するフィラに、ランティスは苦笑しながら手を振ってみせる。

「いや、いいんだ。今のは俺が悪い。で、どうなんだ?」

「どうって……そうですね。練習したくないわけじゃないんですけど、やっぱり酒場が開いている時間には、演奏はしても練習をするわけにはいかないから」

 カウンターの向こうへ皿を持ち去りながら、フィラは背中越しに説明した。

「保護者の同意と練習場所があれば練習する意志はあるのか?」

 ジュリアンは自分の荷物を取り上げながら、興味の薄そうな口調で尋ねる。

「はい。でも、働かざる者食うべからずの原則も守りたい……です」

 フィラはカウンターの中へ運んだ食器をすべて皿洗い用の桶につっこみ、手早く洗い始めた。

「なあジュリアン、メセナは大事だよな? 聖騎士団団長として一つ、どうよ?」

 カウンターの向こうでは、ランティスがなにやらジュリアン相手に誘いをかけている。

「ああ、そうだな。乗っても良い」

 ジュリアンはあっさりと無表情で頷き、ちらりとフィラを見た。

「口止め料をどうしようか迷っていたところでもあるしな」

「ええと、つまり?」

 軽くすすぐだけで洗い終わった皿を乾燥かごに並べながら、フィラは首を傾げる。

「ピアノの練習をきちんと行えるよう援助をしようという話だ」

「え? な、何で急にそんな」

 手を拭こうとタオルを取り上げた動作を止めて、フィラは思わずジュリアンに詰め寄っていた。

「芸は身を助けるとでも思っておけ。ところで良いのか? 行かなくて」

 ジュリアンの口調はあくまでも冷静なままだ。

「ああっ! 行きます、行かなくちゃ、すみません、行きましょう!」

 慌てて動作を再開しながら、フィラはまた動揺ばかりしている自分に嫌悪を感じていた。ジュリアンと会うたびに、何かしら余計なことを言ったりやったりしてしまっている気がする。もっとうまく立ち回って自分に関する情報を引き出して、これからのことをちゃんと自分で決められれば良いのに。

 そう思ってちらりとジュリアンを伺うけれど、その横顔からはどんな情報も、感情すらも読み取ることは出来なかった。

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