#3 ロールキャベツなんてありえない!
夏の日差しがまだ残る、暦は秋を迎えた。
今日から、学校が始まる。初日の登校の朝は、夏休みの余韻に浸りたい生徒たちの会話があちこちで繰り広げられる。
かく言う私も、初秋の朝から早起きを努めて定時に登校するのは一ヶ月弱ぶりに億劫で。あの家に住んでから初めての登校は、少しだけ変わった景色に特段胸躍ることもなく、周りの景色を視界が映すままにぼんやり眺め校門を潜る。校門から玄関の靴箱まで、そうして一人で向かった。
校内に入って朝日の眩さに生徒たちの活気が犇めく廊下を渡って、春の始業式から半年間学び舎としている教室がある2階へ早朝に煩わしい階段を上がる。学校の階段というのはどうしてこんなに煩わしさを押し付けてくれるのか。
そんな心労を労りながら、廊下を渡ってすぐにある教室の門を潜る。
「おはよ〜! ヒナ〜!」
「ヒナ、おはよう。夏休みぶり」
廊下と変わりない教室の景色の中に、まだ溶け込めていない私へと元気な挨拶をかけてくれるクラスメイトであり友人の2人。
私も、彼女たちに負けない元気さをアピールして、会話の輪に溶け込む。夏休み明けの顔合わせに少し躊躇う私をすんなりと受け入れてくれた彼女たちの空気に和ませてもらい、微笑を口元に浮かべる。
すると会話の開口一番に、友人の1人のミカちゃんが、彼女の席の前で佇む私を妖しげな表情を湛えて見上げる。とても突拍子のない発言だった。
「それでさぁ、ヒナ。どうなの? 再婚相手の家族とは、上手くいってんの? あんたって見かけ通り人見知りなところあるからね〜」
夏休み前に少し話した話題を、この時まで彼女は覚えていたようで、引き出しの奥から強引に引っ張ってくるようにその話をねじ込ませる。私の鼓動は鈍った。
「ああ…… うん、そうだね、それなりかなぁ?」
「それなりって、何よ〜。そういえば、向こうの家には息子もいんでしょ、たしか。ねぇねぇ、どうなの、ひとつ屋根の下で男子と一緒に暮らして」
そう濁してしまうのは、彼女の期待に肯定するほどの少女漫画的な展開もなく、かといってはっきり否定するのも、この教室の隅の窓際の席で1人ぼんやりと透明ガラスの向こうの景色を眺める彼の存在があって私には無理だ。きっと向こうは私の存在に見向きもしていないけど、心のどこかで突き刺さる視線を感じて、冷や汗が伝う。ただ気になって仕方ない。彼の呼吸する指の動きのひとつひとつも、この胸が震える。緊張か、怯えか、不安か、きっと全ての感情が器に混ざって、彼の姿を連想させる。だから、今の私は彼を意識せずにはいられない。
この時期にまだ少し早めの長袖にじんわりと滲む汗を気にして、少し袖を捲し上げるけど、内側から出た衝動に目の前の彼女たちもまるで気にした素振りもない。内心でただ落ち着けと呼びかけて、不意に壁の時計の針に意識を投げる。時間はまだ教室にいる生徒たちに警告を告げない。
「ミカってほんとデリカシーないところあるんだから。夏休み明けに会って最初の会話がそれなの?」
「酷いなー。うーん、じゃあ、その人どんな奴なの? 学校は? 年上? 年下?」
「結局それかい」
質問攻めに遭う私に助け舟を出してくれるチホちゃんも、暴走する女子高生特有の好奇心に気圧されて、結局止めることは無謀だと思われた。視線で彼女から頭を下げられて、私もつい苦笑いでしか返せない。
私もミカちゃんから溢れる恋バナ全開モードに最初から敗北感を抱いて、窓際に配慮しながらもそれなりに訊かれることに口を割る。
「年は、同じかな……」
「ふ〜ん。それで」
「お料理が上手かな……」
「他には?」
「あとは……猫が好きみたい」
エプロン姿が似合う彼と、その肩でご飯を待ちわびるフミコさんという猫との光景がなんとなくこの時思い浮かんで、そのままを言った。
聞いていた2人は猫……というようにどこか脱力感あって、まあ気持ちはわからなくもない。
「そうかそうか、同棲生活なんて胸躍る漫画チックなお話じゃない。そんでもしかしてこの学校の奴かもねぇ」
「そんなわけないじゃない。漫画じゃあるまいし」
「ちょっと冗談言っただけじゃん」
オドオドとそう答えて、返ってきた彼女たちのコメントに内心はたじたじだった。女の勘は当たるとかなんとか言うけれど、こういうことなんだと身に感じて震えた。
言えるわけない。たとえ2人が友達でも、あの家に同居しているのがクラスメイトはおろか、あの冷血王子だなんて。
ただのクラスメイトでも言い難いことなのに、相手は学校に名を知れ渡るみんなの憧れの王子様。迂闊に口が滑れば、彼を密かに慕う女子生徒から非難轟々の視線を向けられ、想像するだけでそれはもう居た堪れなくなる。
絶対に口が裂けられない。私は平穏な学校生活を送るだけでいい。王子様のお迎えなんていらないの。童話の中のお姫様に憧れる夢なんてずっと前に捨ててるの。
ほら、廊下側に集まっているクラスの女の子たちが、可愛い笑顔で談笑しながら時折彼の動きを盗み見るように視線を彷徨わせてる。教室で見ない顔の女の子たちが、わざわざこの教室の前まで立ち止まって何か興奮気味の話をしている。彼の隣の席でひたすら読書に向かう女の子が、何やら落ち着かないように本のページをめくる。クラスの男子さえ、その空気に飲み込まれて彼を見る。様々な感情の渦を巻いた観衆の視線を受けても尚、彼は王子の気品と動じない無表情で、朝の日差しが溢れる外界に想いを馳せる。
私には、あんな人がいる世界へ、立ち入る資格もない。きっと、ここの誰にもない。
「うわ〜、新学期も相変わらずかぁ。窓際の冷血王子様。全く懲りないねぇ、あんな無愛想男子の何がいいのやら」
「女子はつまるとこああいうミステリアスな影のある男子に憧れるんだよ。巷で人気の少女漫画を読んでも、大方ああいうキャラの使い回しよ」
「所詮は男のいない負け犬の遠吠えよ」
「世の中ほんとわかんないわよ。よりにもあんたみたいなクズの中のクズ女に、インテリ大学生の彼氏がいるなんて」
「へへーん、現実の見えない負け犬の遠吠えなんて聞こえないものねー」
「チワワに噛まれて死ね、リア充」
教室の底からザワつき始めるクラスの空気に触れた2人の視線もそして彼に向けられる。
周囲とは正反対の彼女たちの反応に、たとえばこの場で私が下手な冗談を言えば、彼女たちはなんて返すんだろう。
今を壊してしまうなんて、臆病な私には想像もつかないことで。
だから、私は彼女たちの会話に曖昧に頷いただけだった。
「生憎草食系には、鼻から興味がおありでなくて。男は頼れてなんぼのもんよ」
「草食系って、あんたねー。ほんとわかってないわ。王子は草食の皮を被る肉食……つまりロールキャベツ系なのよ」
2人の討論の中で動物っぽい話になったと思ったら、今度は献立の話にめまぐるしく変わる。
「はぁ? 何その邪道、白なのか黒なのかはっきりしなさいよ」
「わかってないわ。むしろこれはジャンルが明確に分けられるのよ。世の男なんて十人十色、一見同じようなタイプでもどこか僅かに生まれる印象の差異。それを明確に表現可能にしたもの、それこそがロールキャベツ系男子!」
チホちゃんから熱い意見が述べられる。妙に説得力のある言い回しにミカちゃんも多少たじたじになりながら、彼女に憐れむような目を向けている。まるで独り身を嘆く彼女の姿に同情しているようなのか……。あまり期待出来る効果はなさそうだと思った。
他にもチホちゃんの口からは、アスパラベーコンやらピーマンの肉詰めやら青々しい野菜と肉の組み合わせが飛び出す。朝からもうお腹いっぱいだ。そろそろ何の話をしていたのかわからなくなってきた頃に、
「あー、はいはい。もうわかったから。あんたが年齢イコール彼氏いない歴のワケがよ〜くわかったから。落ち着け」
適当にミカちゃんが相槌を打って、話を打ち切る。不満があるようで噛みつくチホちゃんを躱して、すると彼女の視線が私を捉えた。
「じゃあ、ヒナんとこのそいつはどうなんだい?」
「えっ?」
ニヤリ、とミカちゃんが戯けるピエロのように笑ったので、ドキリとこちらの胸が騒ぎ立つ。話が藪から棒だよ。
「だから、その一緒に住む男、どんな奴なんだい。これから嫁入りまでずっと一緒に住むかもしれないんだから、ちゃんと相手の本性知っときなよ。これでも心配だよ。知らないどっかの奴と友達が一緒に住むなんて」
……思わず何度も瞬きをして彼女の顔を見つめた。「何かあったらすぐに言うんだよ」なんてらしくないことを言われるから、つい照れて強がりになる。心配してくれて、嬉しかった。だから、余計に友達には心配なんてかけたくない。
彼女の言葉に素直に何度も頷いたら、いつものミカちゃんにさっそく戻って、いきなり爆弾が飛び込む。
「話を聞いてるようじゃ草食だけどね、男なんて一皮剥くんだから、そいつも実はキャベツの皮を被る獣かもね」
「いやいやいや……」
急に何を言っているんだろうとわけもわからなく、否定する。何を焦ってるんだろう。ミカちゃんの冗談なんてよくあることだよ。
でも、こんなに胸が反応するのは、どこかで思っているのかな。自分の中で、彼への印象はどうなんだろう。冷血と謳われた王子への、いち観衆である私の個人的な感想……。
頭を捻って、考えてみた。
始業式の日から、彼の姿をどことなく目で追って……あの時、私は確か――……。
そこまで思い浮かんで、思考はフッとなんの拍子もなく途切れる。プツリと糸が切れるようではなく、意識の底に沈み込んでいく。
ふと我に返ってしまうと、自分がついさっきまで何を考えていたのかさえわからなくなる。
「そうだね、ヒナは何気にロールキャベツが好きそうだよ」
「え、えぇ……? 何それぇ……」
チホちゃんからも爆弾を投下され、彼女の発言にオロオロと狼狽える私を見て、ミカちゃんが椅子の上で大胆に大笑う。
その笑い声を教室に残して、担任が名簿を手に入ると同時にホームルームのチャイムが鳴る。
チャイムが遠くの彼方へ過ぎ去るのを待って、クラスの学級委員の男子が号令をかける。彼の合図にみんなが一斉に椅子を揺らし、黒板の前で教室の雰囲気を窺う先生に一礼をして、何事もなく席に着く。それを確認して、先生はいつも通り朝の恒例行事としてクラスの名簿を開く。
軽い朝の挨拶の後、男子の出席番号順から呼ばれる名前、自分の番が来るまでこの教室に集まる彼らはそれぞれの胸中に何を思い浮かべるのか。
8番目に、彼の名前が呼ばれる。
何もなく「はい」と応える声には、落ち着いた雰囲気を纏い、安らぎがある。彼の印象とガラリと変わる、優しく響く声音。
ふと、思う。彼は、窓際でどんなお姫様を待つ王子様なのかと――……。
出席番号は女子までたどり着き、突然この鼓膜に先生の声が無意識を突き破ってくる。
「――有栖、有栖ヒナ!」
感覚が麻痺した意識に、その声に触発されると電磁波が駆け巡るようにびくりと身体が震えた。
この瞬間の脳内では、膨らんでいた妄想に思考回路さえパンク寸前だった。ガタリと椅子が悲鳴に似た物音を上げる。
「ロールキャベツなんてありえないよ!」
しーんと、静まり返る教室。
わけもわからずぽかんとする周囲の反応の中、しかし一部では噴き出す吐息が地の底を這うように聞こえた。
「……何言ってんだ、有栖」
教室の様子を教壇から見渡して、先生がこちらをじとりと睨む。
すみません、先生。頭おかしいので穴を掘らせてください。
教室の窓際から、ほんの少し彼がこちらを見つめていたことなんて知ることもなく、秋を感じる紅葉の葉が少し寂しそうにカラカラと騒いだ。
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