#2 陽だまりのなかで沈黙


 しばらくの沈黙の後、私たちの間に流れる独特の空気の殻を突き破ったのは、家の中から響く女性の声だった。


「優〜? どうかしたの? ずっと玄関にあんた突っ立って、いたずらでもされたの?」


 中から現れたのは、その声の持ち主である女性。背筋のピンと伸びた、声の印象から受けた通りの強気で気品のある面持ちの人だった。

 彼女がこの場に現れて、さっきまでの重たい沈黙は破られたけど、どこか彼の面影を感じるその人が、ドアを開けた先にいた私を見てはて?と首を傾げるのに、少々居た堪れない。


「まあ、どちら様? 優の知り合い?」

「…………」


 尋ねられた優君が答えないので、沈黙が続く。そこは適当に答えてくれてもいいと思う。知り合いと言えば知り合いだし、ただのクラスメイトだし。

 ずっと奇妙な目で見つめられるのも逃げ場がないので、おずおずと、私は低い腰で身元を名乗る。


「有栖です。父の誠がお世話になっています」


 そう自己紹介を手短かにして、一度頭を下げる。

 お父さんの名前を挙げてみたのがよかったのか、ピンときた相手は訝しげだった顔にパッと笑みを浮かべて、女性の方が前に出る。


「まあまあ! 誠さんの娘さんね! 約束の時間より随分早かったから、ごめんなさいねぇ。誠さんからお話は聞いているから、安心してちょうだい」


 こちらに駆け寄って、初対面にも関わらず私の身体を抱擁する彼女の突飛な行動に、最初は慣れないことでトギマギとする。とりあえず、歓迎されているようで、ホッとした。優しそうな人だと思った。


「私は、誠さんの再婚相手の佐伯明美。そこにいる我が息子が、優よ。ヒナちゃん、これからよろしくね」


 かたい抱擁の後、明美さんが朗らかな笑顔で自己紹介をしてくれた。お父さんの女運は信用してなかったけど、いい人を見つけたんだと安心した。

 ここで話もなんだからと、明美さんの勧めでようやく佐伯家にお邪魔することになる。玄関から爽やかな芳香剤の香りがして、ふと気が緩みそう。かつての錆びれた家とは大違いの、行き届いた衛生の真心に脱帽。

 中に入って見渡してみた家の中の広さといい、やはり今は気を抜けないと自分に喝を入れる。

 まず案内されたのは、お邪魔して最寄りにあった部屋だった。ソファーやデジタルの大画面のテレビが、オシャレに飾られている。どうやらリビングというらしく、家族でくつろぐ空間……なんだか神秘の領域である。


 佐伯家の憩いの空間に一歩踏み入れた感動に浸っていると、明美さんがふと別のところへ視線を向けたので、この感動は残念ながら分かち合えなさそうだ。


「ちょっと、優。あんたさっき、玄関のとこでヒナちゃんを睨んでたでしょ。怖がらせないでよ。これから一緒に住むんだから、ちゃんと助けてあげて」


 明美さんが、部屋のドア辺りで憮然としていた優君にそう注意をかけている。私には配慮して声を潜めているけれど、残念ながらそれも筒抜けである。

 彼だけが責められるのは少し可哀想だなと、チラッと視線を後ろへ向けてみる。


「……母さんだって、いたずらと間違えてたよ」

「うっ。それはだから……ごめなさいねぇ。ヒナちゃん。うちの息子ったら、こんな愛想のない奴で。怖かったでしょう。可愛い娘が家に来てくれて照れちゃってるだけだから、許してやってね」


 的を射た反撃に言葉を濁した明美さんは、結局逃げるように私のもとにやって来て半ば無理やり私を味方につけた。


 あの時違えられたのは、時間より早くここへ来てしまったから、佐伯さんの家の都合も考えずに軽率だったと思うし、私の容姿は客観的にして、小学校から上がりたての中学生のようなチビの背格好だから、その点でいろいろ誤解させてしまったこともなんとなく察している。

 間違われたことは、特には気にしていない。もう慣れたから。


「ヒナちゃんは、おいくつなのかしら?」

「えっと、今は17歳です」

「あら、それなら優と同い年だわ。高校生同士、気があうんじゃない? 仲良くしてやってね」


 仲良く、を強調して、優君の肩を後ろからガッと掴む。痛そうに優君の表情が歪んだ。

 それでも、こんな感じが親子なのかなと、私にはよくわからない感情だった。

 一瞬、自分がどこか遠いところにいるようだった。


 返事を返す前に、軽快なリズムの何かの機械音が鳴った。一番に反応した明美さんは、すぐさまスマートフォンを懐から取り出して、画面を確認すると電話に出た。何やら豪快な溜息を吐きながら、電話の相手と話し込む。

 呆然とその姿を目で追う私は、ふと彼女の隣にいる優君を見ると、学校で見る憮然な態度の王子がそこにいた。

 一度画面から耳を離し、明美さんがこちらを振り返る。


「ごめんなさい。ちょっと仕事の話が入って、少し離れるわね。わからないことは優に聞いて。あと優、ヒナちゃんを2階の部屋に案内して」


 早急な内容だったらしく、ほとんどのことを優君に丸投げして、明美さんはその後慌ただしく部屋から去って行った。

 嵐が去った後のような静けさの中に2人きりで取り残されてしまった。

 辺りには微妙な空気が流れているということは、言うまでもないと思う。


 距離を置いた視線の先には、教室の隅で見かけることしかなかった、学園の王子こと佐伯優君がいる。

 正直まだ現状を受け入れられない。それは相手も同様かもしれないけれど。

 親の再婚相手の子供が、まさかまさかのクラスメイト。しかも『冷血王子』こと佐伯優君だなんて、どこぞの少女漫画の展開かとつっこんでみる。現実逃避なんてそれこそ負けた気分だ。

 この居た堪れない場から空気になって消えたい衝動が募るばかりで、時間は刻々と過ぎていった。明美さんが行ってしまってから、もうどれくらい経ったんだろう。


「……こっち来て」


 取り零しそうな声に、驚いた。

 そう言って、ほんの一瞬だけどこちらに彼が視線を向けたので、私に言ったのは明白だった。状況に頭が追いつかないまま、階段を上がっていく優君の後ろ姿を見つめて、ふと我に返ると慌てて階段を駆け上がり彼に続いて2階へと向かった。

 2階へは、螺旋状の階段を登り、上がったところの壁に飾られた複数の絵画がこの目を奪って、次に気がつくのは2階の廊下の所々置きっ放しにされた物やダンボールの箱が、今日の慌ただしさを物語っている。

 ふと感じるこの階の日差しの強さに暑さが身体の奥まで染み込んで、薄手の七部丈の上着をセレクトした今日に少し後悔しつつ、4つある部屋の扉の、一番奥の部屋まで彼の後ろをついていく。

 ドアの前で足が止まると、こちらを振り返って数少ない彼の口が開く。


「ここが、有栖さんの部屋だから」


 必要最低限の言葉で、説明する。それだけでもちろん伝わるけれど、コミュニケーションと言えるのか微妙なボーダーラインを渡る間の距離に、内心は苦笑い。

 すると、彼がいた場所を譲られたので、これは自分で開けろと言われていることはなんとなくわかった。ドアノブに手を伸ばし、ゆっくりと中に回す。

 中に入ると、陽だまりが窓の外から溢れる空間の温もりを感じて、開いた口がそのままに、ただただ最初は見入ってしまっていた。


「ここが、私の部屋なの……?」

「……そうだけど」

「あの、いいのかな……? こんな立派な部屋をもらって……」


 部屋には、必要以上の家具が置いてあった。大きなベッドに、勉強机、本棚に、エアコン、クローゼット……。

 17年、家賃月3万5000円の生活を何の苦労もなく送ってきた貧乏娘には、あまりにも恐れ多く、玉の輿に乗ってしまったような衝撃だったから、相手が冷血王子であることも忘れていた。


「……知らない。不満なら、母さんに言って」

「えっ、あの……そういうことじゃなくて……」


 不満とかじゃなくて、ただこの嬉しさを素直に受け取れない気持ちがあって、自分の面倒さは自覚しているけど改めて確認しておきたかったから……。そこまでめんどくさそうに切り捨てられたら、ちょっとショックだ……。


 あたふたと言葉に詰まる私を、横目に彼は通り過ぎて、スタスタとさっきの階段の方向へ一人向かっていく。


「下にいるから、何かあれば降りてきて」


 それを淡白に告げて、会話はそれきりとなり彼も2階から降りて行ってしまった。

 ドアの開いた部屋の前で、ぽつんと取り残された私は、空虚へ向かって「ハイ」としか言えなかった。


 気を取り直して、持ってきた荷物を整理しよう。

 このだだっ広い部屋に少な過ぎる荷物をちまちまと片付けていく。新聞紙とか多めに持ってきたのに、このふかふかなベッドなら必要なさそう。

 あと、少し行儀悪いかもしれないけど、一度やってみたかったんだ。


「きゃーーっ!」


 ふかふかの真っさらなベッドへダイブッ!!!

 その感触は想像以上に優しく身体を包んで、雲の上にいるような夢心地を味わえた。最期の時はベッドの中で死にたい。


 つい我を忘れて興奮してしまった。そうじゃない。これからここで暮らすんだから、自分の荷物を片付けて、これからは佐伯家と親睦を深めないと。

 渋々と、ふかふかなベッドから身体を起こして、荷解きを始める。家から持ってきた洋服を備え付けのクローゼットに仕舞うと、クローゼットの1/4にも満たない洋服のスペースに虚しさが込み上げた。今度、し○むらに行こう……。


 クローゼットと勉強机の周りを整理し終えて、すると本棚に仕舞う物がない。慌てて周囲を見回して何かないかと探してみると、ベッドの下にふと何かが落ちているのを見つける。

 拾うと、それは2階の壁に飾られた絵画の、少し小さめサイズのものだった。

 A5サイズの額の中には、アンティーク調の赤いリボンが首に結ばれた、茶色のテディベアのイラスト。

 可愛い絵だな。

 ついこの本棚に飾りたいと思ったけれど、大切な落とし物だったら申し訳ないから、一度確認してみよう。


 絵の中の風景に微笑んでいると、その時、後ろからふと何かの視線を感じる。

 その刹那、ゾクッと背筋を伝う寒気を感じた。

 何かが、そこにいる。


「えっ……?」


 恐る恐る、私は後ろを振り返った。





「有栖さん?」


 私の声は1階まで響いたようで、様子を見に来た優君が、廊下側から部屋のドアをノックして窺う。

 しばらくしても反応がないことから、静かにドアノブを回して中の様子を確かめようとしたけれど、先に中からドアが開いて何かが飛び出してきた。

 それを優君が受け止める。なんてことないように、そのこの名前を呼んだ。


「来てたんだ。フミコさん」


 その優しい声音に、彼の腕の中に顔を埋めた相手は、安心したように「ウニャア」と小さく鳴いた。


 優君が部屋の中を覗くと、そこには背中を向けて蹲る私のろくでもない姿があった。


「っ〜〜、あいったぁ……」


 猫に襲われて引っ掻かれたおでこを抑えながら、一体何が起こったか自分でもよくわからない。


「……フミコさん。今日からこの家に住む、有栖さん。母さんの再婚相手の娘さんだから、いじわるしたらダメだよ」

「あ、あの……優君……。そちらの猫は……」

「……。居候の猫。もう悪さはしないから、気にしないでくれたらいい」

「えと……あの……」


 なんの説明もないまま、2人(?)に退場される。

 な、なんだったの……。


 カーテンを揺らす風が、残る夏の暑さを匂わせる午後のことだった。

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