#4 彼が冷血王子である由縁
8限目まで普段と変わりない授業を受けて、学校が5時頃に終わると、照りつけるおひさまが西の空に少しずつ傾いていくのを見送りながら帰路に着く。
佐伯家の門を潜って、前以て渡してもらっていた鍵で玄関を開く。家の中は薄暗く静まり返っていた。
彼もまだ帰ってきていないようで、内心ではどこか安堵すると共に、変わらないなぁ、なんて呟く。
私はそうして一言も発することなく靴を脱いで、几帳面に用意された桃色のスリッパを履いて、リビングに入る。そこは玄関と変わらず、殺風景でただ広い空間だった。
……佐伯家に来てから、ここでテーブルを囲んでご飯を食べていた。明美さんと、優君の3人、家事の苦手な明美さんに代わって優君が作ってくれた料理を並べて、3人で他愛もない会話を挟んでご飯を食べる。3人で、とは言ったけど、基本的には黙々と箸を進めるだけの優君に終始神経を使いながら、明美さんが私にも話しかけてくれて、彼女が上手く橋渡しとなっていた。
そのぎこちない会話の中で、ひょんなことから私と彼が同じ高校に通って、同級生だということに明美さんが殊更驚いていた。
「あら、そうなの〜!? おばさんてっきり2人が初めましてと思って、すごく気遣っていたわぁ。なあんだぁ、それなら言ってくれればいいじゃないの、優」
「特に聞かれなかったから」
「あんたはねぇ……」
文句を言っても相手には通じないと早くに断念したのか、ひとつ諦めに似た溜息を零し、パッと表情を変えて明美さんはハンバーグを突いていた私に話を向ける。
「ねぇ、ヒナちゃん。学校での優ってどんな感じなの? この子普段何にも話してくれなくて、困ったもんでしょ。学校でもクラスの子たちに迷惑かけてないかしら?」
その声音に少し同情を誘いながら、明美さんは一人の親として彼を気にかけているんだと、まだ学生である私にもわかる。
教室で見かける彼の姿は、孤独で、孤高で、残念ながら明美さんが期待する息子像には届かない。それを正直に話すのも気が引けて、それとなくオブラートに包むのに徹底した。
「いえ、優等生で、頭も良くて、先生からも信頼されています」
「えぇ〜! この優がぁ? まあ意外、どこから借りてきた猫かしら」
少しオブラートすぎたのか、じと目で彼が睨まれるはめになる。理想の息子に満足してくれるようではないらしい。親子関係はどことなく複雑だ。
お皿の上も空っぽになってくると、ふとこのタイミングだろうと踏んで、明美さんは眉を顰めた面持ちで話した。
「ごめんね、ヒナちゃん。おばさん、仕事がまた急に入って、一週間は家をあけるかも。でも、優がいるから困ったら遠慮せず任せてあげてね」
「……嫌だ」
「コラッ、優!」
これが、この時に彼が自分から口を開いて言った最初で最後の言葉だった。揃えた箸をテーブルに置いて、流し台に足を運んでいってしまう。
「心配しないで、ああいう子だから。ヒナちゃんを嫌いなわけじゃないからね。もう少し時間をかけてあの子と一緒にいてくれないかしら」
母親らしい微笑で、明美さんはそう言った。
箸を彷徨わせていた私を励ますように言い聞かせたその言葉は、もうここにはいない彼をちゃんと思い遣っていて、明美さんは本当に素敵な母親なんだろう。
電気の明かりも灯されないリビングの冷め切った空間に、するとパズルがぴったりはまるような音と、視界が一気に暖色の灯りに明るく開く。
「何してるの」
驚きと共に、後ろを振り返ると、学校の制服でそこに立つ優君がいた。
うちの学校が基調とする灰色と乳白色のブレザー制服を着た容姿は、やっぱり王子様と呼ばれるだけあって、間近でその面持ちを拝見すると無性に動悸が騒ぐ。男の子の中でも身長は高めではないけれど、こうして並ぶと彼を見上げる形になる。首が痛い。急な身体の回転に追いつけないのか、私の身長が前提として問題なのか、彼の眼差しの前では上手く思考が回らない。
彼は、つまり、こんなところでリビングの入口を塞いで何を佇んでいるんだと、私に尋ねている。特に理由があるわけではない。返事に戸惑い、口より先に身体が動く。
「あ、ごごごめんね……!」
さっと身を引いてリビングの入口の前を開けると、しかし視線が未だに感じられる。なんだろう、無闇に目を合わせられず、かといってこの場を離れるタイミングを逃して、私は固まる。
「……ロールキャベツって、何?」
えっ……と口から渇いた声が零れ落ちる。疑いようもなく今朝の学校でのことを言ってるんだろう。
あの時の会話が彼に漏れていなくてよかったけれど、全然安心している場合じゃない。
言葉を濁して逃げ惑うと、彼は案外追い詰めずにあっさりと身を引き、私の隣を通り過ぎて階段を上っていく。
今朝、私より先に玄関を出ていく姿を思い出して、胸に残った虚しさを感じる。
いつか、幼い頃に、仕事に出掛けてしまう父の姿と重なる。
不安で、寂しくて、小さな心には窮屈で、ひとりきりの畳の上で染みが広がっていった。
途端に胸が窮屈に感じて、どうにか抑え込むために両腕を抱き込んでじっと耐える。
腕を掴む手が締め付けて、シャツの皺が深く線を際立てて、あの頃の傷痕ごと潰してくれたらと願うと、ありえないことなんだってまた虚しさが込み上げる。
もうそこにはいなくなった彼の面影を探すように、リビングの暖色系の明かりに意識を逸らす。
――――彼は、その名を冷血王子。
冷たく残酷な血を流す、美しい王子様。
童話の中の優しくお姫様に微笑みかける白馬の貴公子ではなく、冷たい表情で一度たりともその微笑みを見た者はいない。
いつからか、そう呼ばれていた。その由縁は、何だっただろう。彼が、王子と呼ばれるきっかけ……。
一年の春頃、入学当初は慣れない学校生活に四苦八苦していたのも次第に落ち着いていた頃、とある報せが舞い込んだ。
隣のクラスから慌ただしく男子が乗り込んできて、このクラスにいる彼の友人どころか、この教室中に響き渡る声で彼がこう叫んだ。
――おい! 聞いたかよ! 1組の花沢が、佐伯にフラれたってよ!
呼吸が噎せ返りそうなのも気にならないといった興奮状態で彼がみんなに報せると、教室には一気に話題の波紋が広がっていく。
1組の花沢さんといえば、今年の新入生でも特段目を惹く美少女として一目置かれる。彼女と直接の接点はないけれど、廊下でたまたますれ違った時、世界が違うなと思った。
入学当初から目立っていた彼女は、上級生からのお誘いを受けたこともあるらしく、競争率はかなりのもだと明白だった。
そんな彼女が、一大決心をして誰かに告白するなんてまさしく校内の一大ニュースだけれど、その相手もかなりの大物で話題のインパクトを与える。
その相手も、同じく女子からの支持率が桁違いに高いけれど、美男美女としてお似合いなのは違いない。風の頼りで、2人が一緒にいるところを見たなんて証言もちらほらあって、彼女たちの関係が公認となれば校内のビックカップル誕生だと誰もが疑わない。
――しかし、結果は、残念だったらしい。とても残念な結果だけれど、同時に彼女たちのそれぞれの支持層には再び希望の光が宿ったことだろう。
最初こそ各々に驚き、疑い、そして頭に立てた仮説を説いて様々に議論し合う。
その荒れ交う波を片隅で眺めていた私は、当事者でもないことに首を突っ込むこともせず、時間の流れが落ち着かせるのを静かに見守っていた。
やがて騒動が落ち着いてきた頃、一週間が経った頃のことだろうか――。
彼が上級生に呼び出されたというニュースがこれまた校内を賑わせた。
その詳細は、彼女に好意を寄せていた上級生が、彼女をフッた彼のことを気に入らなかったというわかりやすいこじつけだった。
確か、相手側が4〜5人に対して、彼1人が校舎裏に呼び出されたと聞いた。中には柔道部員もいて、絶望的な状況だ。なんて酷い話なんだろう。聞いていられなかった。
彼の支持層はまるで悲劇のヒロインのように彼の不幸を嘆き、その他は固唾を飲んでこの事態の結末を予想した。彼が一方的にやられて帰ってくると。
翌日になれば、先生を巻き込む事態に発展していた。彼は頰に痛々しい絆創膏を貼って、鬼の面をつけているかのように怒り狂う先生から事の詳細を詰問された。
どうしてだろう、彼はどちらかというと被害者なのに……。
すると、話は一変していた。
周囲を窺えば、あらゆる情報が飛び交っていた。
――――佐伯優が、呼び出した上級生らを返り討ちにして、あろうことか彼らの中の数人を病院送りにしたらしい。
それは紛れもない事実として、職員会議に持ち上がり、教育委員会から事情を求められるまで事態が広がり、対処に追われる職員たちが朝から忙しなくしていた。
ここ数年の教育事情、相手に暴力を振るえばどんな
なんて……なんて単純なことだろう。それを本人が一番よく知っていたのかもしれない。
一連の事は彼の謝罪で全てを白紙にした。
あの出来事から、誰もが平面上何事もなく過ごした。そして、彼との関わりを避けるように、暗黙の領域を誰も越えようとはしなかった。彼を妬む上級生も、彼を慕う女子たちも、空間を共にするクラスメイトたちも……。
そして彼も、誰も寄せつけることをしなかった。
それでも、学校という世間から閉鎖的な環境のもとで誰とも一切関わることをしない彼の存在は、学校生活のふとしたきっかけからも波紋を呼んだ。
――――彼は何者なのか、何か裏と繋がってるんじゃないか、背後に暴力団組織が絡んでないか、実は年上の美人の女がいるんじゃ、先月で8人もフッた、いつも何考えてんのか全然わかんねぇ、不気味だな、関わらないでおこう……。
いつしか、彼は冷血王子と呼ばれるようになった――――……。
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