第8話 奪取

「本当にやるの?」

「当たり前だ。そのために重い荷物を持ってきたんだからな」

 希榛と健吾は大学に来ていた。今日は文化人類学の講義、高森琴音に会う。今日はワインレッドのフリルワンピースに、紫色のミニハットだ。ルシリアのライブ衣装に近いファッションである。

 講義が終わった後、希榛と健吾は琴音の席へ行った。

「ねえ、お昼ご飯、一緒に食べない?」

 また集まっていた友達がざわついた。

「ええ。場所は、カフェテリアがいいわ」

 しかし三人はしばらくその場を動かず、琴音が友達に挨拶をして手を振ると、解散していった。教室から人が出ていき、三人だけになる。放送部による昼休みの放送がやけに大きく響くような気がする。

「本当の用事は何?」

「さすが高森さん、鋭いねえ。――ちょっと渡したい物があって。人前だと恥ずかしいんだよね。ほら、希榛」

 希榛は後ろ手に隠していたものを琴音に渡す。

「プレゼントだ」

 それは、ラッピングされた一本の赤い薔薇だった。

 琴音は露骨に嫌な顔をする。

「花は嫌い。私、あの世界であなたに言わなかった? 言ったわよね」

「――やっぱりな」

 希榛は薔薇を、健吾に押し付けるようにして渡した。

「本当の高森琴音なら、その程度の反応ですむはずがない」

「何を言ってるのよ」

「ルシリアなら俺に殴り掛かってきただろうが、それよりも、お前の花に対する苦手意識はもっと強いはずだ」

 困惑する琴音に、健吾が優しく微笑みかける。

「僕のサークル仲間に、高森さんと接したことがある女の子がいてね。その子、ある教室移動のとき、高森さんが困っているところに遭遇したんだ。覚えてないかな。ほら、先月、四号館が塗り替え作業で渡り廊下が使えなかったことがあったじゃん? そのとき、移動には中庭を通らなきゃいけなくてさ。それで、その子が中庭の前で泣いてる高森さんを見たんだ」

 琴音は怪訝な顔をする。

「どうしたの? って訊いたら、花が怖くて中庭が通れないって言ったんだってねえ。震えて、泣きながら、苦しそうにしてたって」

 琴音の顔からさっと血の気が引くのが分かった。

「――恐花症きょうかしょう。お前は花が嫌いなんじゃなく、怖いんだ。だからこの一本の薔薇だって、お前にとっては嫌な物どころか恐怖の対象だったはずだ。なのにお前は嫌な顔をするだけで平気そうにしている」

 その瞬間、琴音は立ち上がり教室から出ようとする。教壇の横にある出口の前で、希榛と揉みあいになった。

 あまり力の強くない希榛と必死の琴音で、揉み合いはなかなか決着しない。

「――健吾」

 それを見ていた健吾が、希榛の呼びかけで琴音の後ろに回り、ひょいと抱き上げた。

「ちょっと! 何するのよ!」

「ごめんねー」

 健吾は琴音を右肩に担ぐと、そのまま教室を出て、事前に押さえておいた廊下の突き当たりの教室に向かった。

 健吾が琴音を椅子に降ろすと、希榛が素早く結束バンドで琴音を後ろ手に椅子に縛り付けた。

「どういうつもり? これは暴行事件になるわよ」

「だよねえ。僕もそう思うんだけど……」

 希榛は気まずそうな健吾の視線を無視した。

「お前は誰だ」

「はあ? 私は――」

「お前は高森琴音じゃない。俺が会ったルシリアでもない」

「私は高森琴音に決まってるじゃない! あなた、頭がおかしくなったの?」

 希榛は琴音の額を手で押さえて、立ち上がれないようにしながら琴音の紫色のカラーコンタクトが嵌った目を見つめる。

「お前は花を怖がらなかった。その点で、以前の高森ではないことが分かる。理想の自分の性格になれても、恐怖症は克服できない。そして、お前がルシリアなら、俺を簡単に怯ませる方法を知っていたはずだ。敢えてその方法が採れるようにしてあったから、気づけたはずだが」

 教壇近くの出口近くで揉み合ったとき、そこには放送のボリュームのツマミがあった。揉み合っている中で琴音がそれに手を伸ばし、ボリュームを最大にすれば、希榛は耳を塞がざるを得なかった。ルシリアには、大きな音が苦手であることを知られているので、琴音とルシリアが同一人物であればそれを利用するはずだった。

「お前は高森琴音ではないし、ルシリアとも連続していない。なら、お前は誰だ?」

「希榛、できたよー」

 健吾が後ろで机を組み合わせてセッティングし、パソコンとギアを起動させていた。ギアは二つ繋がっている。

「知ってた? Spiegelって二人プレイできるんだよ」

「まさか……」

 希榛は無言で琴音にギアを被せ、自分も被った。

「二人でログインするよ。ホストは希榛ね」

 二人で、希榛の部屋へやってきた。Spiegelでは、琴音はルシリアの姿だ。黒いフリルブラウスに紫色のネクタイ、黒と紫の三段フリルスカート。ライブ衣装だ。

「お帰りなさいませ……キハルさま? その方は、主ルシリア、ですか?」

「そう見えるがそうじゃない。まあ説明は省く。三人でハイデントゥームへ行くぞ」

「嫌よ!」

 希榛の真横で琴音が怒鳴りつけたが、調整されているので怖くなかった。

「嫌がっておられますが……」

「いいんだ。準備しろ」

「はい」

 フィーユがパネルを出現させ、ハイデントゥームへ転送する準備が整った。

「諦めろ。俺たちはお前のことを知ってるんだ」

 そして一瞬で、ルシリアの城のエントランスに移動した。

「キハル。また来たのね、あなた――」

 大階段から降りてきた黒いドレスのルシリアは、希榛の隣にいる琴音を見て絶句し、固まってしまった。

「……どういうこと?」

「こいつは現実のお前にログインさせたんだ。大学でな」

「待って、私はずっとここにいて、それこそ現実では家から出ていないはずよ」

 シュタルクは二人の主を交互に見比べ、大きくため息をついた。

「お嬢、これはバグじゃねえ。こっちのお嬢は、現実のお嬢の体でログインしてきてるんだ」

 まだ状況が飲み込めないルシリア。琴音は俯いたまま、何も言おうとしない。

「おそらく、ある時点でもう一人のお前、つまりこいつが目の前に現れ、お前はこいつに殺されて、入れ替わったんだ。お前は死んだときに現実世界から遮断され、ここに留まることになった。その間、お前を殺したこいつが現実のお前として活動を始めた、というところじゃないのか?」

 昨日のテトラのように。そしてそのことを、ルシリアもまた覚えていないのだ。

「何それ……。私は、私の体は、もう一人の私に乗っ取られたってこと? ねえ、そのときあなたはそこにいたのよね?」

 ルシリアは泣きながら、シュタルクのほうを見やった。

 そのとき、爆発音のような音がして、城が大きく揺れた。ルシリアはその場でふらつき、シュタルクがその体を抱きとめた。

「お嬢!」

「嫌、離して!」

 揺れが強くなってきた。希榛もその場にしゃがみ込む。

「どうなってる」

 フィーユが強い地鳴りの中叫ぶように答える。

「一度決着がついた主同士が相対することはあり得ません。あり得ないことがおきたことで、世界はその現象を受け入れられなくなったのです」

 城の天井が崩壊し、破片が降ってくる。希榛にはバリアのようなものが働いて、破片に当たることはない。他の体験者に世界が直接危害を加えることはないということなのだろう。

「私を騙していたのね、下僕!」

 シュタルクはルシリアを離した。

「騙してたんじゃねえよ。お嬢がここを好きになってくれたから、ずっといてほしかっただけだ」

 シュタルクは寂しげな表情になって言う。

「お嬢と過ごせて、嬉しかったよ。ずっとこのままがいいって思ってた。だけど、ここは偽物の世界なんだ。お嬢は死人を操る魔女なんかじゃねえ」

「私はハイデントゥームを統べる魔女、ルシリアよ……」

 ルシリアは涙声で紫水晶の杖を取り出した。魔法で崩壊を止めるつもりなのだろう。しかし杖は輝かず、紫水晶は砕けて落ちた。

「お嬢。あっちのお嬢に触れば、お嬢は現実の体を取り戻せる。この世界の崩壊はどっちにしろ止まらねえ」

「あなたはどうなるのよ」

 するとシュタルクは、ふっと力の抜けた笑みを浮かべた。

「何言ってんだよ。俺は単なるプログラムだぜ? オオカミ男なんて、最初からいねえのさ」

 シュタルクは急に何かに気づき、ルシリアを突き飛ばした。

 そしてその真上に、黒い大きなシャンデリアが落ちた。

「シュタルク!!」

 ルシリアは絶叫した。シャンデリアの下に、押しつぶされた男の姿はない。消えてしまったのだ。

 ルシリアは頽れて、その場で泣きじゃくった。その間にも、城の崩壊は進む。

 だがいくら泣いても、もうルシリアに魔法は使えない。

 ルシリアは叫ぶのをやめ、希榛たちを睨みつけた。

「あなたのせいで……。あなたさえ来なければ!」

 ルシリアがもう一人のルシリア――琴音に突進してくる。そしてその首に掴みかかった瞬間、世界はガラスが割れるように砕けた。

 眩しい光で視界が明転し、直後に暗転した。

「強制ログアウトされちゃった! 大丈夫? 希榛」

 健吾の声がギア越しに聞こえた。どうやら現実に戻ったようだ。

 希榛がギアを脱ぐと、隣の琴音はまだ動けない状態のようだった。意識があるかどうかも分からない。そっと手首の結束バンドを解いても、すぐには動かない。

「大丈夫かな……」

 恐る恐るギアを外してみると、琴音は目を瞑って泣いていた。

「おい、大丈夫か」

 希榛が呼びかけると、琴音は目を開けた。

 そして、覗き込んでいた希榛は正面から掌底で殴られた。

 鼻と目を押さえているとさらに突き飛ばされ、机と椅子を倒しながら後ろに転倒した。

「あなたのせいよ! あなたのせいで……!」

 馬乗りになって希榛の顔を拳で殴ろうとしてきた。歯をむき出し、涙を散らしながら。

「やめてよ、ちょっと!」

 健吾が琴音の腕と体を掴んで無理やり起こし、羽交い絞めにした。その隙に希榛は立ち上がる。

「離しなさい! あの世界はどうなったのよ! シュタルクは死んだの!?」

「死んだんじゃない」

「それなら!」

 琴音は暴れる。背は健吾より高いため、羽交い絞めにしておくのも大変だ。

「あ痛ぁ!」

 健吾が悲鳴を上げた。足を思い切り踏まれたのだ。そのまま足払いをかけられ転倒する。自由になった琴音は、希榛に一歩踏み込んで右手を勢いよく後ろに振った。次の動きを予想して希榛がその右手首を掴むと、今度は左から猛烈なビンタが希榛を襲った。あまりの衝撃に、右によろける。

 二人が動けないのを確認した琴音はギアを引っ掴んで被った。しかし、ログインできない。

「いたた……。エラーだね。高森さんの生体認証が拒絶されたよ」

 健吾はノートパソコンを机の上から救出し、抱きかかえて捜査している。タイトル画面にエラー表示。

 つまり、二度とSpiegelに入れない。もう一度ハイデントゥームを作ることはできないということだ。

「どうしてよ! どうして……。私はあの場所がいいのよ!」

 琴音は乱暴にギアを脱ぎ捨て、机をバンバンと叩いた。

 連続した大きな音に、希榛は耳を塞ぐ。

「現実なんかどうでもいいの、あんたにも言ったはずよ! 私はハイデントゥームで最期を迎えたかったの!」

「やめろ……」

 至近距離での絶叫。

 琴音は、希榛の両手を掴んで耳から離した。

「聞きなさいキハル! 苦しい? 私はもっと苦しいのよ! 現実は私にとって毒だらけなの! 花も、他人も、私自身も毒なのよ! あんたには分かるわよね。ここで生きてたって苦しいことばっかり! あんただって、こうやって人を怒らせて怒鳴られるだけで何もできなくなってるじゃない! Spiegelは、あんたに毒となる音を聞かせないようにしてくれるんでしょ? 安心できる世界だったでしょ? 私にとってもそうだったのよ! シュタルクはいつでも傍にいて私を守ってくれたわ。あんたの下僕だって、一生懸命あんたに仕えてるはずよ! そんな存在、現実なんかにいると思う!?」

「うるさい……」

 苦しい。怖い。黙らせなければこちらが壊れる。

「うるさい!? 私の言葉、ただの音としか思ってないの? ああ、怖くて何も考えられないのね。何よその目は。怯えてんじゃないわよ! あんた、自分が何したか分かってんの!? 私から何もかも――」

 琴音の口は塞がれた。背後から伸びた健吾の手によって。希榛の体は汗でびっしょりと濡れていた。今はとにかく酸素を補給しなければならない。希榛は床に膝をついた。

「静かに。これ以上、僕の友達を虐めると許さないよ」

 健吾は琴音の体を背後から抱き寄せて、耳元で低く警告した。

「君のしていることは、君に百本のバラの花束を押し付けてるようなものなんだよ。それに、希榛は君から何もかも奪うつもりなんかなかった」

 琴音のほうも、やっと騒ぐのをやめた。冷たい目で健吾を睨みつける。健吾はそっと手を口からずらした。しかし、ずらした腕で琴音の首をロックし、動きを封じている。

「奪うつもりじゃなかったから何なのよ。結果的に奪われたんだから同じことじゃない。こいつとあんたは、私の理想の世界に土足で踏み込んで完全に壊したのよ」

 殺すつもりがなくても殺せば殺人だ、というようなことを言いたいのだろう。

 その通りだと希榛も思う。

「希榛は君を救いたかったんだよ」

「は?」

 刺すような声で、琴音は聞き返す。

「君は――いや、ルシリアちゃんは言ってたよね。最低限の生命維持装置だけつけて、いずれ死ぬつもりだって。高森さんとルシリアちゃんが同一人物だって知ってるのも、現実で接点があるのも僕たちだけだ。つまり君がそのまま死んでしまった場合、僕たちはその原因を知っていながら見殺しにしたことになる。そんなことはできない。だから、君を現実に戻す方法を一生懸命考えて、実行したんだ」

「余計なお世話よ。私はこんな世界で生きたくなかった。私はあそこを選んだのよ。あんたたちの自己満足で居場所を壊され、クソみたいな世界に戻されるなんて、冗談じゃないわ」

「ま、君からすれば今はそうだろうけど」

 健吾は、琴音の恨みなど全く気にしていないような明るい声で言う。

「君が死んだら悲しむんだよ、僕と希榛は。現実にはそう思う人がいるってこと。君は生きることを望まれてるんだよ。それでも、クソみたいだって思う?」

「バカじゃないの……」

 健吾は琴音を離し、正面に回った。

「花が怖いとか音が怖いとかいろいろあるけどさ、今の君にとっては、現実世界は以前に比べて結構生きやすくなってると思うよ。幸か不幸か、偽物の君がお膳立てして、君のゴシックなキャラクターとか友達なんかを作って馴染めるようにしてくれたみたいだし。君のことを毒だなんて思う人は、もういないんじゃないかな」

 琴音の目に、もう怒りの色はなかった。かわりに、悲しみと戸惑いの色があった。

「生きられる、かしら……」

 俯き、胸の前で手をきゅっと握りしめる。

「大丈夫だって。Spiegelみたいに都合よくはいかないけど、ここは一人だけの世界じゃないんだから。僕も希榛もいるし、友達だっている。君を支える人はまだまだ増えていくよ」

 ね、と、健吾は笑いかけた。琴音はぎこちなく少しだけ笑顔を作った。そしてすぐ、涙を目に溜めた。

「ごめんなさい……」

 メイクが崩れるのも構わず、琴音は泣き出した。

「そこまで私のこと、考えてくれてたのに……私、あんな酷いこと……」

「え? いや、僕は別にいいよ。それよりも――」

 膝立ちのままぼんやりと二人を見上げていた希榛を、健吾が助け起こしてくれた。希榛は健吾に寄り掛かりながらも、なんとか立っていた。

「……希榛、ごめんなさい」

 やっと、呼吸が整ってきたところだ。

「あなたの怖さとか苦しさとか、ある程度は理解できたのに……。殴ったり怒鳴りつけたりして、ごめんなさい」

「かなり……効いた……」

 声を出す体力も、ほとんど残っていなかった。

「でも……俺は、お前に痛めつけられても仕方のないことをした……。悪かった。後先考えない、軽率な、ことを……。お前を、悲しませて……」

 声が掠れてほとんど出ない。琴音は泣きながら首を横に振った。

「違うの。あんたは私の未来のことを考えてくれたのよね。ありがとう、希榛」

 そこから先は覚えていない。気づいたら、医務室のベッドの上だった。健吾はそばの丸椅子に座って、目覚めるまで待っていてくれたらしい。

「あいつ、死なないよな」

「大丈夫だよ。っていうか、希榛のほうがダメージ大きいでしょ。まずは自分を労わりなよ」

 琴音を傷つけたという事実と罪悪感に、殴られた痛みと大きな音が加わってストレスとなり、受け止めきれずに気絶してしまった。傍から見れば普通の喧嘩だ。そんなものにも耐えられないで、何が探偵だ、と思う。

「俺は……こんなに弱くて、何もうまくできない。お前がいなければ、高森琴音に取り返しのつかない傷をつけだだけに終わっただろう。俺には、あんな優しい言葉は絶対に言えない」

 あんなに怒って、嘆いていた琴音を落ち着かせ、希望まで持たせるなんて、希榛には無理なことに思えた。

「弱くないよ。希榛には僕にない強さがあって、僕には希榛にない強さがあるだけじゃん。それにさ、僕だって高森さんを救いたい一心だったわけじゃないんだよ? 希榛が苦しんでるのを見てられなくて、半分くらい出まかせ言ってたもん」

 あんなに筋の通った説得の半分が出まかせだとは、信じられない。

「たまには、理性だけじゃなく感情で考えるのも大事ってところかな」

 希榛は、自分には何かが欠けている、ということだけは自覚していた。具体的にそれが何なのかは分からなかったが、その欠けたものは健吾が持っているのかもしれない、と思った。

 

 






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