第9話 家族
翌日、健吾は携帯で希榛にあるメッセージを見せてきた。
「ねえ覚えてる? 他の体験者について情報収集してたとき、掲示板に書き込んだじゃん。その書き込みに返信があったんだけどさ」
他の体験者と現実でコンタクトを取りたくて、ネットで募集していた。誰も名乗り出なかったのですっかり忘れていた。
メッセージはこうだ。
【体験者募集の書き込みを見ました。私は息子と二人で世界を作っている者です。世界の名前は《イノセント》、私はタツミ、息子はヒナタという名前です。息子は、現実でも会えるお兄さんのお友達が欲しいと言っています。もしよろしければ、我々の世界へ遊びに来てください】
「どうする? 最初から二人での世界作りなんて珍しいよね」
「行ってみるか」
子供と父親が作る世界に、希榛は興味を惹かれた。メッセージを送って、日程を調節した。
フィーユは、希榛がまたSpiegelに来たことに驚いていた。
「もう二度とお越しにならないかと思っておりました」
「知りたいことを知るまでは来る。今日は初対面の他の体験者に呼ばれているから、そこへ行く」
フィーユと二人で、イノセントへ行ってみた。着いたのは、ごく普通のアパートの前だった。住所の表示は、実際にある住所の一部を崩したものだと推測される。
「普通の恰好にするか」
希榛はカッターシャツにえんじ色のネクタイに紺のチノパン、フィーユは丸襟の白のブラウスに淡いピンクのカーディガン、クリーム色のスカートという恰好だ。髪はセミロングにしている。
『普通の大学生カップルって感じだね』
部屋は三階の308号室と聞いている。
「普通のおうちにお邪魔するのって初めてです」
「俺だって会ったこともない人の家にいきなり行くのなんて初めてだ」
少し緊張しながら、ドアチャイムを鳴らす。ピンポーン、と普通のどこにでもある音が鳴った。
ドアを開けたのは、背の高い三十代前半くらいの女性だった。長い黒髪を後ろで一つ括りにし、水色に白の水玉模様のエプロンをつけている。
「あら、あなたがキハルさん?」
「はい」
女性はにっこりと笑って、ドアを大きく開けて二人を招き入れた。
「さあ上がって。ヒナくーん、お兄さんとお姉さんが来ましたよー!」
玄関で靴を脱ぎ、フローリングの廊下を歩いて明るいリビングに通される。
「わあっ、ほんとに来てくれたんだ!」
八歳くらいの背の低い少年が、希榛とフィーユに走り寄ってくる。こげ茶色の短い癖毛で、白いパーカーにジーンズだ。
「え、ええと……」
子供にどう接したらいいか分からない希榛が戸惑っていると、フィーユが前に出て、膝を少し曲げて少年と目線を合わせた。
「こんにちは、初めまして。この方はキハルさま。私は案内人のフィーユです」
少年は嬉しそうに顔を輝かせる。
「ボク、ヒナタ! 八歳だよ。もうすぐ九歳になるんだぁ。よろしくね、キハルお兄ちゃん、フィーユお姉ちゃん!」
ヒナタは元気よく挨拶した。本当に八歳の少年らしい。
「ヒナタ、お兄ちゃんたちをテーブルに案内して」
優しい男性の声。テーブルの脇に立っていたのは、やはり三十代前半くらいのメガネをかけたこげ茶色の髪の男性だった。緑色のシャツにジーンズという恰好だ。
「私は
「妻の、五色早苗です」
さきほどの女性がキッチンから出てきて一礼する。
「本名で体験しているのですか」
「ええ。この家も、前に住んでいた家を再現しました。我々の見た目も、ほぼそのままですよ」
ということは、住所はやはり実際のものを崩しているのだ。現実世界の再現をしている体験者には初めて出会った。
「俺は、織部希榛です。大学生、です。俺も現実に近い見た目をしています」
「ねえお兄ちゃんたち、座って座って。今日はお兄ちゃんたちのパーティなんだから」
希榛とフィーユはテーブルの一番奥の席に座った。
「さあ、ケーキですよー」
サナエが大きな苺のホールケーキを持ってきた。
「わーい! パパ、切って切って!」
「分かった分かった、じっとしなさい、ヒナタ」
「お紅茶とコーヒーがありますよ。ヒナくんはりんごジュースね」
普通の、幸せなホームパーティだ。
「ママの手作りケーキなんだよ。お店のやつみたいでしょ」
「ママ……?」
普通に考えて、サナエのことだろう。しかし、タツミは息子と二人でと言っていなかったか。
「ここの案内人は?」
「私です」
サナエが手を挙げた。案内人はプログラムだ。
「ということは、奥さんは――」
「ええ。二年前に、交通事故で。この家は、早苗が生きていたころに住んでいた家なんです」
「でも、ママは今ここにいるよ。全然寂しくないよ。パパがね、ボクのお誕生日にママに会わせてくれたんだ!」
きっと、母を亡くして落ち込んでいた日向のために、辰巳が作った世界なのだろう。
「ここは、前のおうちなんだ。でもパパがいろいろ忘れてるから、ボクが付け足して、ほんとの前のおうちを作ってるの」
隣で洟をすする音が聞こえた。
「おい、フィーユ」
フィーユがハンカチで涙を拭きながら泣いている。
「えっ、お姉ちゃんどうしたの? おなか痛いの?」
「いいえ……。なんだか、いいお話だな、と……。うう、ごめんなさい」
感動して泣いているのだ。よくできているなあ、と希榛は思った。
「ダメだよ、おやつを食べるときは笑ってなきゃ、ほんとのおいしさが分からないんだよ。ママが言ってた」
「うううわあああん……」
励ましの言葉が余計に泣かせる。ヒナタはおろおろした。
「ヒナタ、フィーユのことはそっとしておいてやろう。別に悲しいことがあったわけじゃないんだ。俺たちはケーキを食おう」
『希榛、ドライすぎでしょ』
泣くフィーユをよそに、希榛とヒナタはケーキを食べた。ふんわりとしていて、甘さもそれほど強くなく、苺の酸味を引き立てる美味しいケーキだった。
「ここにログインしてどれくらい経ちますか? 一週間以上とか……」
希榛の不安を、辰巳が笑い飛ばした。
「まさか。毎日ちゃんとログアウトしていますよ。私には仕事、日向には学校がありますし。ここに来るのは平日の夕方と休日の昼間だけです」
「そう、ですか」
よく考えれば一週間ログインし続けるなど、廃人になるということだ。現に琴音は自分の生命維持を疎かにしていた。
「でも、ヒナタくんはログアウトのとき、あっさり出てくれますか?」
やっと泣き止んだフィーユが、サナエに訊く。
「そりゃあ最初は泣いてばかりだったけど、毎日会えるよって言い聞かせて、ほんとに毎日会っているうちに、それが当たり前になったわ」
「では、毎日再会とお別れを……!」
フィーユはまた泣きそうになっている。
「二年もその生活をしてたら、慣れるものよ。今は普通にバイバイできるわ。泣かないで、フィーユちゃん」
「お前がそんなに泣き虫だったとは、今初めて知った」
希榛はケーキの最後のひとかけらを食べ、コーヒーを飲み干した。
「ねえ、食べ終わったなら遊ぼうよ! お兄ちゃんとお姉ちゃんはお友達になってくれるんでしょー?」
子供と遊ぶのも、希榛は苦手だ。一人っ子なので弟と遊んだ経験もない。
「遊ぶといっても……」
「キハルさま、なにも難しいことではありません。そのようなお顔をなさらずに。――ヒナタくんは何の遊びがしたいですか?」
こういうとき、明るい性格の案内人がいてよかったと思う。
「えっとねー、お外でボール!」
ヒナタは希榛とフィーユの手を引っ張って玄関まで連れてきた。
「お引越しする前、毎日遊んでた公園があるんだ!」
ヒナタはサッカーボールを持って、アパートの階段を駆け下りていく。
「早く早くー!」
それから三人は、ボールを蹴ったり追いかけっこをしたりして遊んだ。運動不足の希榛には、なかなか堪える運動量になった。
「疲れた……」
「えー? お兄ちゃん、ボクより大きいのにもう疲れたのー?」
希榛がギブアップし、休憩しにアパートまで帰ってきた。
だが、アパートの前で希榛は足を止めた。
静かだ。人の足音や話し声や自動車の走行音もしない。自分たち以外、誰もいなくなっているのだ。
「これは……。嫌な予感がする。部屋に戻るぞ」
308号室に戻ったがやはり鍵が閉まっている。中から音も聞こえない。
『待って、ロックを解除するよ』
すると、ドアが陽炎のように揺れてカチリと鍵が開いた。
希榛はドアを開け放ち、靴のままリビングへと走った。
そこには予想通り、もう一人のタツミとヒナタがいた。
「な、何なんだこれは! 日向、危ないから外に出てなさい!」
辰巳は怯えつつも、息子を守ろうと叫んだ。
「あなた、今ここで死んでくれれば、ずっと一緒にいられるのよ」
タツミの右手には木製バット。辰巳に向かってくる。辰巳は必死でその右手首を掴み、揉み合いをしている。
「ヒナくん、これであの子を刺すのよ。そうすればまた一緒にケーキ食べられるから」
「うん!」
サナエはヒナタに、さっきまでケーキを切っていた包丁を渡している。
「や、やだぁっ! 怖いよぉ!」
日向が希榛の後ろに隠れた。向かってくるヒナタの前に、希榛は体を投げ出す。その脇腹に、包丁は刺さらなかった。
「他の体験者を殺すことはできない……」
包丁は、希榛の体に触れない。ヒナタがどんなに押し込んでも、反発する磁石のように押し返した。
「フィーユ、ヒナタを守れ!」
「私は……」
テトラのときのように、フィーユには何もできない。
「それならそばにいてやるだけでいい、俺がなんとかする!」
希榛はヒナタを押し倒して、包丁を奪った。
「やだ……やだよぉ……」
後ろに隠れた日向が、フィーユの腕の中で震えている。
「ママぁ……なんでこんな怖いことするの?」
日向が泣き出した。
「これは怖いことなんかじゃないわ、ヒナくん。一回だけ死ねば、もうここから出なくてよくなるの。寂しいのを我慢して、毎日バイバイしなくてよくなるのよ」
「え……?」
その言葉に、日向は泣き止んだ。
「耳を貸すな日向」
辰巳が劣勢だ。自分とはいえ武器なしでバットを持った相手には苦戦するだろう。
「悪い」
押さえつけていたヒナタの額に、希榛は渾身の頭突きをした。ヒナタは意識を失った。包丁を拾って、希榛は辰巳に加勢した。
「今住んでる家の住所は?」
希榛はタツミの足を踏み、腹を殴りながら訊いた。
「え、ええ?」
「いいから。住所を言ってください、大声で」
辰巳は家の住所を叫んだ。そこは、希榛の家から近いところだった。
「自転車で行けば間に合う距離だな」
希榛は誰にともなく呟いた。
『分かった、僕が行く』
「通報すれば警察が駆けつけるほど、リアルな世界でもないだろうし」
『そうだね、鍵がかかってるかもしれないし。通報もする。ちょっと外すね!』
健吾はおそらく現場に向かった。警察が来るまでの間に、なんとかこの事態を打開しなければならない。
この世界には未来の武器も魔法もない。何が起こるか分からない世界ではないとはいえ、辰巳と二人で切りぬけられるかどうか。
「やー!」
意識を取り戻したヒナタが、日向とフィーユへ向かっていく。助けるためにタツミから離れると、辰巳の左肩に木製バットが振り下ろされた。
「日向、お前、ママが好きか」
またヒナタを押さえながら、後ろのヒナタに訊く。
「うん……」
「お前を、もう一人のお前に殺させるようなママでもか」
「う……」
「あの女は確かにママの顔をしているが……お前に昔言った言葉も、お前が言った言葉も、お前にあげたものも、お前からもらったものも、何も知らないんだぞ。幼稚園の帰りに一緒に手を繋いだ夕方の道のことも、誕生日に歌った歌も、覚えていない。そんなの、お前のママと言えるか?」
「でも……」
「聞いたことがあるか? パパとどう出会って結婚したか。愛するパパをあんな痛い目に遭わせるママを、お前は好きか?」
日向が泣きべそをかいている。希榛は抵抗してくるヒナタをなんとかしたいが、相手は八歳の子供だ。どうも、押さえつける以上に乱暴なことはできない。
「見ろ。パパは怪我しながらも、お前を守ろうと必死で戦ってくれてるぞ」
希榛はマグカップを取って投げた。辰巳を殴ろうとするタツミの手に当たり、辰巳の拳がタツミの左頬に入った。
「あっ、日向くん! ダメです、危ない!」
日向がフィーユの腕の中から前へ出てこようとしていた。
「やめて! もう一人のパパとボクと、ママ! ママは……こんな痛いことしない! ボクやパパのこといつも心配して、優しくしてくれたもん! お前なんかママじゃない! こんなところ、ボクのおうちなんかじゃない! ここには、偽物のパパと偽物のボクと偽物のママがいればいいんだ!」
偽物たちの動きが、一瞬止まった。辰巳は渾身の力でタツミを壁に突き飛ばし、気絶させた。そして辰巳は、ふらつきながらも日向のもとへ向かった。
「日向!」
「パパ!」
その瞬間、日向と辰巳とサナエの姿が、消えた。
静まり返る、荒れ果てたリビング。
「そんな……。負けていないはずだぞ」
残されたのは、希榛とフィーユだけだ。
「いえ、日向くんと辰巳さんは強制ログアウトしたようです。案内人ごと消えたのは一時的なエラーです。ここは不安定になっています。キハルさまも早く脱出されたほうがよいかと」
強制ログアウト。おそらく外部の手が入ったのだ。希榛も急いでログアウトをすると、携帯が振動していた。健吾からだ。
『あっ、やっと出た。大丈夫?』
「俺はいい。そっちは?」
『警察に鍵開けてもらって、ギアを脱がしちゃった。二人は一応、病院に運ばれたよ』
ログアウトの手続きを踏まずにいきなりギアを脱がしたので、強制ログアウトとなったのだ。
「そうか。よかった」
しかし、健吾の声は晴れやかではない。
『うん……でもさ、警察に事情を聴かれることになっちゃった。任意の事情聴取だって。どうする?』
「行こう」
この際、警察の手を借りるのもいい。日向たちのことに関しては大事になってしまったのだし。
希榛の家に自転車を返しに健吾が戻ると、すぐ警察のものと思われるセダンが来て、二人はそれに乗り込んだ。
車内では沈黙が流れていた。警察の手を借りようとは思ったが、日向たちを危険な目に遭わせた犯人と疑われているかもしれないと思うと、滅多なことは言えない。まずは自分たちの潔白をどう証明するかということを考えなければならなかった。
警察署に着くと、希榛は取調室に通された。健吾は隣の部屋で、同時に取調べを受けるらしい。四十代くらいの中堅と思われる刑事と、三十代後半と思われる少し若い刑事が入室してきた。
「名前は?」
中堅の刑事が柔らかな声で尋ねた。
「織部希榛です」
「落ち着いているね。――まあ、君は通報者の直江くんの関係者として一応話を聴くだけだから、リラックスして」
「健吾が……何かおかしなことでも言いましたか」
そういえばどんな内容で警察を呼んだのか聞いていなかった。
「直江くんは、五色さん親子の住むアパートの前を通りかかって、中からすごい物音が聞こえたから立ち止ったら、五色辰巳さんが息子の日向くんと心中しようとしているようなやりとりを聞いて通報したと言っていたんだけど」
あのときは命がかかっていたのでそう言うしかなかったのだろうが、ずいぶん大胆な嘘をついたものだ。
「到着して、ドアを叩いたり呼びかけたりしても反応がなくて静かだった。手遅れかもしれないって慌ててたから、アパートの管理人さんに鍵を借りて中に入った。そしたら、二人はただヴァーチャルリアリティコンテンツ用のギアをつけていただけだったんだ。直江くんは部屋に突入して、二人のギアをいきなり脱がした。五色さん親子は気を失ってしまったので、病院に搬送した」
健吾が取った行動はその通りだったのだろう。これだけなら、警察を利用して親子に危害を加えただけになってしまう。心中未遂の事実もないため、偽証罪か詐欺罪、加えて暴行罪に問われてしまってもおかしくない。
若い刑事が怪訝そうな顔をしながら続きを引き継ぐ。
「それで、直江くんが言うには、自分の潔白は君が証明してくれるということだったから、君に来てもらったんだよ。何か知ってるのかい?」
健吾は証明を希榛に丸投げしたということだ。少し呆れたが、希榛も一連の事件については相談したいところだったので好都合とも言えた。
「まず、五色さん親子が心中しようとしていたというのは確かに事実ではありません。しかし、ある意味で命に関わる事態だったのは本当です。なんとかして部屋に入り、ギアを脱がせる必要がありました。その手段として一番有効だったのが警察への通報です。通報時に嘘を言ったのはよくありませんでしたが、それ以外に方法がなかったのです」
「それは、どういうことかな」
若い刑事の声が低くなり、中堅の刑事の目が鋭くなった。だが希榛はそれに臆することはなかった。ここでも持前の鈍さで、冷静でいられた。
「二人が体験していたのは、Spiegelという体験型コンテンツです。ネットでは噂になっていて、限られた人間の中だけで出回っているものなのですが」
「ああ、噂なら知ってるよ。都市伝説だと思ってたけど」
若い刑事は知っていたが、中堅の刑事は何のことかよく分かっていないようだった。希榛はSpiegelの概要を簡単に説明した。
「そして、体験者はある程度ログインが続くと、自分が設定したSpiegel内の自分に殺されてしまいます。殺された体験者はSpiegelに留まり、殺したキャラクターが体験者の肉体を乗っ取って本人として生活します。それが、《理想の自分になる》という状態なのだと思います。俺は他の体験者の世界へ行って、その瞬間に居合わせました。五色さん親子もそうなる寸前でしたので、阻止するためには強制的にログアウトさせるしかありませんでした。ログアウトは案内人と手続きするのが通常ですが、案内人は体験者殺しに加担するので、体験者が自主的にログアウトするのは不可能です」
「そうなると、外部の人間の手によって物理的に接続を遮断するしかなくなるわけだ。そのためには、どうしても部屋に入ってギアを脱がせる必要があった、と」
「そうです」
希榛の話を信じるなら、やむをえない事情による行動ということになる。しかし警察はそこまで甘くはない。中堅の刑事は腕を組んで言った。
「コンテンツ内で親子と接していたのは君だった。だけど、現実で動いたのは直江くんだ。君は、ログインした状態でどうやって、緊急事態であることとその対処方法を直江くんに教えたの?」
「それは――」
素直にハッキングによるモニタリングだと言えばまた余計な罪が増えてしまう。しかし事情聴取で嘘をつくわけにもいかない。希榛が考え込んでいると、取調室のドアが急に開いて、五十代くらいの、銀縁メガネにスポーツ刈りの男が入ってきた。
「課長!?」
若い刑事が驚いた声を出す。課長と呼ばれた男は希榛の前に回り込んできた。そして二人の部下に静かに告げる。
「外で話は聞かせてもらったよ。あとは私がやるから、君たちは下がっていなさい」
「しかし――」
「いいから」
課長は有無を言わせない、威圧的な口調で二人を押し切る。
「分かりました」
中堅の刑事は不承不承といった様子で若い刑事を連れて部屋を出た。課長は椅子にゆったりと腰かけ、なぜかにっこりと微笑んだ。
「安心しなさい。どうやって外の直江くんと連絡を取ったのかはこの際聞かないことにする。それほど重要なことでもないしね。織部くん、君の取った行動は、体験者を救う方法として正しい。唯一と言っていい解決法だったと思うよ」
話の流れが読めない。希榛は窮地に追い込まれていたというのに、急で不自然な助け舟だ。
「君たちは、罪に問われることはない」
「……どういうことです?」
「ほっとしないんだね」
お咎めなしと言われたのは意外だったが、そのことを素直に喜べるほど、希榛は単純な性格をしていない。
「君はSpiegelの体験者なんだろう? どう思った? あのコンテンツ」
この男はおそらくSpiegelをよく知っている。強制ログアウトが体験者を救うための唯一の方法であると言い切ったことからそれは分かる。
「よくできていると思いますよ。体験者の望みを引き出し、満足させ、依存させるのにあれほどぴったりなものもないと思います。その代償だって、気づかなければ無いのと同じですからね」
Spiegelから抜けられなくなった体験者は、自分の理想の世界で一生を過ごす。それは幸せなことなのだろう。
「ずいぶんと冷めた見方をしているんだね」
「俺は、誘われてちょっと様子を見ているだけです。積極的な動機や切実な願望があって関わっているわけじゃない」
「つまり、君は外側の人間であり続けるわけか」
課長は含みのある笑みを浮かべている。何が言いたいのかよく分からない。
「まあさっきも言ったけれど、君たちのしたことは正しいよ。私は、君の言うことが本当だと分かっているしね。部下たちはよく知らないから、君が荒唐無稽なことを言っていると思っているだろう。だけどそれは違う。君は嘘をついたわけではないし、悪いこともしていない。罪になんてなるわけがないのさ。そんな無実の若者たちを無意味に拘束しておくことなど、私にはできない。そんなの、私の理想とする刑事像に反する」
妙にゆったりとしたその微笑みに、砕いた氷を背中に流し込まれたような感覚が走った。
「あんた、まさか……」
「そうさ。成功したい、変わりたいと思うのは若者の特権ではないよ。すでに一定の地位があっても、自分に満足していない大人だって多くいる。私もその一人だったが、おかげで今はとても充実している。苦痛を味わうことなく成功体験ができ、理想を体現することで周囲との関係も良好になる素晴らしいものだよ、Spiegelは。私だけじゃない、多くの若者や大人たちがそうして理想の自分になっている。理想の人間で構成された社会は、理想の社会となるだろう」
こいつも、入れ替わったキャラクターだったのだ。さきほどからSpiegelの中の存在として希榛に話していた。そう思えば課長のこの態度にも納得がいく。
「Spiegelの外から観察し、その世界を調べている君はSpiegelに否定的なようだが、それならもうこれ以上の詮索はお勧めしないよ。現実世界にしっかり立って生きていきたいなら、Spiegelを架空の世界だと思わないことだ。君が思っている以上に、この世界にはSpiegelが浸透しているのだからね」
微笑む課長の目は笑っていなかった。
希榛はすぐに取調室から解放された。廊下では、すでに健吾が待っていて、希榛を見て安心したように笑った。
「よかったね、あっさり帰してもらえてさ」
健吾の声は晴れやかだ。健吾のほうでは何もなかったのだろうか。
希榛は黙ったまま、警察署の外へ出た。
「どうしたの? 浮かない顔しちゃって。まあいつもそんな顔だけど」
「……Spiegelが、俺に圧力をかけてきた」
「え?」
どうやら健吾のほうは、ただ事情を聴かれただけだったらしい。希榛はさきほどのやりとりを健吾に説明した。
「警察のことには詳しくないが、課長の一存で強引に取調べを終わらせることなんてできないんじゃないか? 上層部にも、入れ替わった奴がいると思う。それは警察だけじゃないかもしれない。Spiegelはそうして、他の奴らが気づかないうちに社会を入れ替えてしまおうとしているんじゃないのか」
現に、さきほどの課長はそう言っていた。開発者の理想は、Spiegelによって《理想の自分》になった人間で社会を構成することかもしれない。
「うーん……。Spiegelって、僕らが考えていたものとは違う、強大な影響力のあるものなのかもしれないね。これ以上調査を進めると、どんな横槍が入るか分からないよ。さっきのはその警告だったのかも。――調査、やめたほうがいいかもね」
自らの安全を優先させるなら、何も気づかなかったふりをするのが一番だ。
「だが俺たちはもう気づいたんだ。知らなかったことにはできない。それに、俺は最後まで知りたいんだ」
健吾は不安げに見返してくる。希榛のことが心配なのだ。しかし、希榛には親友に心配をかけてでも解明したいことがあった。
「最後までって、いったい何が残ってるのさ。Spiegelの目的だって、もう分かったじゃん」
希榛たちはSpiegelの内側を見て、外側から説明を受けた。だが、物の構造は中身を分解してみなければ分からない。
「まだあるだろう、Spiegelの他の世界へ行っても絶対に分からないことが。Spiegel自身が解かれることを想定していない、最後の謎が」
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