第7話 確信
現実に戻ると、健吾が険しい顔で考え込んでいた。
「ルシリアちゃんの話が本当だとすれば、高森さんは一週間、Spiegelから出てないってことになるよね。でも昨日、僕たちは彼女に会った。どういうことだと思う?」
「どちらかが嘘をついているということだが、ルシリアにはその動機がない。現実とあの世界を完全に切り離して考えているにしても、あいつは自分の体に最低限の生命維持装置をつけて入ったことは認めているわけだから、完全に現実から乖離してしまったわけじゃないんだろう。だから、一週間以上ログアウトしていないのは事実であり、現実で会った高森琴音が偽物という可能性が高い」
「だよねえ……」
大胆にイメージチェンジしているように見えたのは、そもそも別人だったからなのかもしれない。ルシリアと昨日の琴音の性格に違いが見えたのにも納得できる。しかし、そう単純なことでもないような気がしている。
「気になるのは高森の行動のほうだ。昨日、俺たちに話を聞かれたとき、奴は自分の世界に来るように誘った。俺がルシリアに会えば、別人だということが知られてしまうのにだ。一体何を考えて、あんな提案をしてきたんだ?」
しかも昨日、希榛は琴音にSpiegelを調べていると明かした。そんな人間に自分の正体が知られることは、最も避けたい事態のはずだ。
「奴が何を考えているかは分からないが、その正体にはある程度当たりをつけている」
「おっ、さすが織部探偵。……で、どんな感じなの?」
健吾は好奇心に満ちた目で希榛の見解を期待してくる。
「今はまだ仮定の段階だ。間違ったことを相手に言うわけにはいかない。調査が必要だ。今日はまだ時間があるから、引き続き入ってみる」
「えーっ。もったいぶらないで教えてよ」
「今教えて外れだったら嫌だろ」
なぜか健吾は絶句してしまった。
「何だ」
「いや、それっぽい理由があるのかと思ったら普通のことだったからさ……」
そんな健吾を無視して、希榛はギアを被りなおした。
希榛が自分の拠点に戻ると、フィーユが驚いた顔をしていた。
「キハルさま。同日のうちに二回もお越しになるなんて」
「嫌か?」
「め、めっそうもございません! とても嬉しいです。案内人の幸せは、少しでも長く主と接することなのですよ」
プログラムとはいえ、かわいらしい異性にそう言われると悪い気はしない。きっとルシリアにとっては、下僕扱いしても大切に愛おしげに接してくれるシュタルクの存在があの世界に留まる理由の一つになっているのだろう。
「今日は適当にいろいろな世界へ行く。世界作りはしない」
「かしこまりました。キハルさまと旅行するの、私、大好きです!」
フィーユは嬉々として準備を始める。
『いいなあ。彼女みたいだよ、フィーユちゃん。現実でもオシャレしてさ、女の子をどこかに誘ってみれば、あんなふうに喜んでもらえるかもよ?』
「どこにしますか?」
希榛はまた目を瞑って、適当にパネルを指差した。
そこに表示されていたのは、短い金髪に緑色のキャスケットを被り、オレンジ色のオーバーオールを着た、青い目の少女だった。
「この世界だ」
「はい。では行きましょう!」
その世界は、森の近くの少し開けたところだった。草が生い茂り、空が晴れ渡り、温かいそよ風が吹く明るい世界だった。
主の少女は希榛を見て少し驚いていたが、親しげに挨拶してくれた。少女は小さなウサギを抱いていた。希榛にも触らせてくれた。そのウサギは、少女とお揃いの小さなキャスケットを被っていて、言葉を喋った。この世界の案内人だと言った。
少女は絵本の世界に憧れていて、動物も大好きなので、動物がたくさん出てくる絵本の世界を再現してみたのだという。現実では働いている若い女性なので、ここには日々の生活の癒しを求めて来ているそうだ。まだこの世界を作り始めてからそれほど経っていなくて、最近やっと自分の案内人に触ることができ、それ以来動物の毛並を愛でて幸せに過ごしているという話だった。
少女に別れを告げて、希榛は次の世界へ行った。
また適当に選んだそこは、古い日本の街並みが広がっていた。家は全て木造で黒い瓦葺、地面は大通りのみ石畳になっているが、それ以外は舗装されておらず、歴史の教科書で見た《着物》を着た人間たちが歩いていた。
街は活気に溢れ、人力車や瓦版売りや行商人などが賑やかに歩き回る都会だった。江戸時代くらいの設定なのだろう。
その世界の主は着流しを着た若い男で、長い髪を後ろで一つ括りにしている。茶屋で団子を食べて煙管で一服しているところに、希榛が来た。男は希榛とフィーユを自分の隣に座らせ、団子を奢ってくれた。
この男は、この世界に来て長いそうだ。茶屋の女主人や通りかかる町人たちが次々と話しかけてくる。さながら、昔聞いたことのある江戸前落語の世界のようだった。この世界はまさに、歴史ドラマや歴史小説などで憧れた理想の世界だそうで、蓄えた知識をもとに当時の街並みや文化を再現するのが面白くてたまらないと江戸っ子口調で語った。
何か変わったことはないかと訊くと、男は少し思案してから思い出したように言った。ログインしてから数日が経ったある日の記憶が抜け落ちていると。ただし、その日を境にとくに街の様子が変わったなどということもないので今まで気にしていなかったそうだ。
それからまたさまざまな世界を転々とし、長くログインしている者に同じ質問をすると、皆一様にある日の記憶がないと答えた。
『どういうことなんだろうね、これは』
希榛の確信は強まっていったが、まだその現場を見ていないので断言するには至らなかった。
「キハルさま、テトラさまの世界へ行ってみるのはいかがでしょうか? テトラさまにも同じことを質問して、その帰りに私たちの世界へお招きしてみるのも楽しいと思いますよ」
「ああ、そうだった。そんな約束をしていたな」
そういえばまだ世界に名前をつけていなかった。別に愛着があるわけではないので、名前が思いつかない。
着替えて、久々にプラテリーアにやってきた。
しかし、あれほど賑やかだったイタリア風の街は静まり返っていた。
「誰もいない……。こんなことがあり得るのか? そもそも、来訪者は世界の主の近くに来るようになっているんだろう? テトラはどこだ」
フィーユもあたりをキョロキョロと見回した。
「どこにもいらっしゃいません……」
希榛はこめかみを三回突いた。健吾に、フィーユの言うことが本当かどうか確かめたのだ。
『んー……。確かにテトラくんもノーチェちゃんもいない……けど、あれ? ちょっと待って』
次の行動を考え込む振りをして、健吾の応答を待った。
『プログラム上では、希榛のちょっと前のあの靴屋さんのあたりから、壁みたいなものがあるってことになってるよ』
しかし、壁は希榛には見えないし、その靴屋の前を通り過ぎることもできた。
『待って、今取り除いてるから、そこからちょっと離れてくれる?』
言われた通りに後ろに下がると、突然目の前が陽炎のように揺れて、それが晴れた。
「キハル!?」
突然、前方にテトラが現れ、こちらに向かって走ってきていたが、希榛を見て足を止めた。
「何でここに来たんだ? いや、今日は危ないから帰ったほうがいい!」
テトラは慌てた様子で、希榛に駆け寄って希榛とフィーユの手を掴み、すぐ横にあったワインショップに引っ張り込んで、ドアと鍵を閉めた。
「どうなってるんだ、今日は。なぜ誰もいない?」
テトラは息を切らしながら答えた。
「分かんねえ……。さっき、急にみんな消えたんだ」
三人が入ったワインショップももぬけの殻だ。通りにも向かいの店にも人影がない。
「誰かに追われてるのか? ノーチェは?」
「追ってきてるのがノーチェなんだ」
「はあ? それで、なんでお前が必死で逃げてるんだ。兄妹喧嘩でもしたのか?」
しかし案内人と主が喧嘩をして、その結果主が逃げなければならないような事態などあり得るだろうか、と思った。
「ノーチェだけじゃないんだよ、追っ手は」
希榛、と健吾が話に割り込んで呼びかけてきた。
『そっちにノーチェちゃんが向かってる。それとあと一人――これは……』
突然、発砲音がしてドアが乱暴に開かれた。鍵を撃ち壊したようだ。
古いマスケット銃を持って現れたのは――
「テトラ?」
テトラとノーチェだった。銃を持って現れたテトラと、自分の横にいるテトラを交互に見比べる。銃を持ったテトラが、マスケット銃に弾を再装填する。その間に、希榛たちはレジカウンターの下に隠れた。
「なあオリジナルさんよぉ、もういい加減諦めなよ。にーちゃんまで、なんでここにいるんだー?」
もう一人のテトラはずいぶんのんびりした口調で、喋りながら弾の装填を終えた。
「いきなり現れて銃突きつけられて、諦められるわけないだろ! お前、ノーチェに何したんだ! なんでお前の側にいるんだよ」
テトラはカウンターに隠れたまま叫んだ。
「なんでって、そんなのオイラがお兄ちゃんだからに決まってるだろ。なー、ノーチェ」
「うん!」
ノーチェは何の迷いもなく、無邪気に返事をする。テトラは、くそっ、と悪態をつき、ポケットから何かを取り出す。そしてゴーグルをかけた。
「にーちゃんとねーちゃん、ゴーグルかけろ」
言われた通りにゴーグルをかけた瞬間、テトラはその何かをもう一人のテトラに向かって投げた。すると真っ白な煙が噴き出し、白い煙幕で何も見えなくなった。三人はその隙にレジカウンターから抜け出し、ワインショップから脱出することができた。
「今のは催涙グレネードだ。遊びで作ったものだから効果は続かないかもしれないけど……ちょっとした時間稼ぎくらいにはなるだろ」
ゴーグルのおかげで三人には被害がなかったが、催涙効果のある煙幕の中の二人はしばらく動けないだろう。
三人はやみくもに走った。途中にある細い路地に入って息を整える。
「なんでこんなことになってるんだ、フィーユ。お前なら何か知ってるだろ、案内人なんだから」
「分かりません……。私にも、どういうことだか」
「バグってことか? ねーちゃん」
フィーユは黙った。希榛はこめかみを三回突く。
『これはバグじゃないね。プログラムは正常に動いてる。つまり仕様だよ』
これは最初から組み込まれた正常な動作だ。しかし、どう考えても体験者を脅かす緊急事態である。
「もう一人のお前は、お前を殺そうとしてきたぞ」
「ああ。さっきからオイラを殺すために追いかけてきてる。だけど武器も作れないしバルバドゥールも呼べないんだ。ノーチェがあっちについてるからな」
案内人がいなければ、建築も着替えもできない。当然、武器の製造もできないということだ。
「じゃあフィーユ、お前が何か武器を作れ。この世界観を壊さないものならいいんだろ?」
「それは……できません」
「どうしてだ」
「これは、完全に想定外の事態だからです。私はここで、自由に動くことができないのです」
健吾は、これはバグではないと言った。想定外の事態であるはずはない。しかし何にせよ、フィーユは希榛たちの味方をしてくれないということだ。
「いいんだ。実は、オイラいつもこれを肌身離さず持ち歩いてたから。ただの飾りとして持ってただけなんだけどな」
テトラが腰のあたりから取り出したのは、小さなリボルバーだった。
「今はノーチェがいないから弾はこの六発しかない。何が起きてるか分からなかったから迂闊に攻撃できなかった。でも、もうそんなこと言ってる場合じゃないし」
弾を確かめ、撃鉄を上げて撃てる状態にして、テトラは路地から出た。
「あっ、やっと出てきた。まったく、変なもん投げるなよな」
もう一人のテトラは相変わらず、マスケット銃を構えている。
「変なもんだと? お前がオイラだっていうなら、あの催涙グレネードを変なもんだなんて言わねえはずだぜ。あれはオイラのロマンが詰まった、渾身の作なんだから」
テトラがもう一人のテトラの頭に狙いを定めると、その前にノーチェが立ち塞がった。
「どういうつもりだノーチェ。そこにいたらお兄ちゃん、撃てないだろ。危ないから下がれよ」
「やだ!」
ノーチェは怖がることなく、強く言い返してきた。
「どいてくれよ。こんなのおかしいだろ。さっきまでそんな奴、いなかったじゃないか。お前のお兄ちゃんはオイラだ。お前はオイラの妹だろ?」
「ノーチェ、絶対どかないもん」
「なんでだよ! そいつは偽物だ! そいつはお兄ちゃんじゃないんだよ!」
テトラとノーチェは、しばらく押し問答を続けた。
「本当のお兄ちゃんなら、お前を自分の盾にしたまま黙って立ってるなんてことはしないだろうが!」
「でも、ノーチェはどかないから! これが、ノーチェのお仕事なの!」
お仕事。ノーチェのその言い方が引っかかる。
『ノーチェちゃんのプログラムも別に破損してない。これも、最初から決まってた動作なんだと思う』
健吾が言うならそうなのだろう。だが、その意図が分からない。
「これも、お兄ちゃんのためなの。お兄ちゃんが理想の自分になるためなの!」
「わけの分かんねえこと言うなよ!」
もう一人の自分に殺されることが、理想の自分になることだというのだろうか。
「どいでくれ……頼む!」
ノーチェはもう一人のテトラの前から動かない。
発砲音。
テトラが、後ろ向きに倒れた。硝煙を上げたのは、マスケット銃のほうだった。
「テトラ!」
希榛がテトラに駆け寄る。小さなテトラの胸に、赤い点。希榛は座り込んで、テトラを膝の上に寝かせるようにした。
「い……痛い……!」
希榛の腕の中で、テトラは震えていた。口からも血が溢れる。
「なんで……こんなに痛いんだ……? オイラ、死ぬ、のか……?」
本当に撃たれたような痛みを感じているのだ。息も細くなっている。力のない目から、涙がこぼれていく。
「しっかりしろ。ここはヴァーチャルの世界だ。お前は本当に死ぬわけじゃない。――おいノーチェ。今すぐテトラをログアウトさせろ」
ただの体験とはいえ、痛みや死をリアルに錯覚することは危険だ。
「その必要はないよ」
ノーチェはなぜか満足げな笑みを浮かべたまま、希榛たちを見つめている。
「見え……ない……。キハル、いるのか……?」
テトラはついに、目が見えなくなってしまったようだ。
「ああ。俺はここだ。――フィーユ、これはどういうことだ。説明しろ」
フィーユはまた黙り込んだ。ノーチェたちも何も言わない。
「怖いよ……。オイラ、もう、ダメなんだ……」
「大丈夫だ。ログアウトさえすれば、お前は現実で生きられる」
希榛はテトラの小さな手を握りしめた。その手は冷たい。
希榛はなぜか、テトラが本当に死にそうになっているのではないかと思い始めた。
ここは仮想現実であり、ここで死んだからといって死ぬわけがない。戦争ゲームで狙撃兵に撃たれてゲームオーバーになっても、すぐコンティニューできる。それと同じはずだ。
なのに、今回は違う気がした。どうしようもない焦りが募る。
この状況では、客である希榛にはどうすることもできない。まるで、現実世界で人の死を見るような恐怖感と無力感。錯覚だと言い聞かせようとしても、本能のようなものがそれを打ち消す。
「愛して……たのに……」
涙が一粒こぼれて、テトラの手から力が抜けた。その目から、光が完全に失われた。
死。ゲームオーバーなどではない、本当の死だ。
希榛にはそう感じられた。
「おい……! ノーチェ! どうして何もしない!?」
ノーチェともう一人のテトラは、にっこりと微笑んだ。更に何か言おうと希榛は口を開いたが、希榛は膝の上の重さの変化に気づいた。
見ると、テトラの体から黒い煙のようなものが出て、テトラの体がだんだん透けるように薄くなっていく。そして握っていた手の感触も、なくなっていった。
顔を上げると、ノーチェともう一人のテトラも同じように黒い煙とともに透けていく。
やがて、三人は完全に消えてしまった。
「どこに行った!?」
あたりを見回してみても、そこには困惑するフィーユしかいない。
『三人は完全にいなくなったみたい。プログラムが消えてる』
「どうして三人とも……」
『えっ!? 待って、何これ!』
突然、健吾が動揺したように少し大きな声を出した。
『上を見て!』
希榛が真上を見ると、空から低い風切り音が聞こえてくる。
「あれは……!」
金色に輝く飛行物体。
「テトラのドラゴン……?」
近づくほどに、はっきりと形と大きさが分かる。間違いなく、バルバドゥールだ。
そしてバルバドゥールは、最初に会ったときのように希榛の目の前に着地した。縄梯子が垂らされる。
「よお、キハル!」
その声は、確かにテトラの声だ。縄梯子から降りてきた小さな少年と少女は、テトラとノーチェ。
「お前……どっちだ?」
消えたのは、撃たれたテトラと偽物のテトラとノーチェだ。このテトラはどちらなのか。
「何が?」
テトラはきょとんとして、首を傾げた。
「お前まで変なこと言うなあ。もしかして、さっきまで会ってたか?」
「何言ってるんだ、さっきここでお前は銃で……」
「銃? うーん……」
テトラは頭を抱えてしまった。
「ごめんな、キハル。実はオイラ、さっきなぜか急にバルに乗って空を飛んでたんだ」
「あのね、お兄ちゃんは記憶喪失になっちゃったの。軽いバグなんだよ。ノーチェもね、変だなって思っていろいろ訊いてみたんだけど、何も思い出せないんだって」
さきほどのことを、テトラは全く覚えていないという。それどころか、なかったことになっているのではないか。
「……!」
江戸時代風の世界の男が言っていた、ある日の記憶がなくなる現象。それが、テトラの身に起きていることだとしたら。
希榛は、フィーユを睨みつけた。フィーユは怯えたように目を逸らした。
「帰る」
フィーユがびくりと身を震わせる。
「えっ、今来たばっかりだろ?」
テトラも、何があったのか分からず困惑している。
「悪い。だけど帰る。俺も少し混乱してるんだ」
そして希榛は、テトラたちの目の前でログアウトした。
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