第4話 龍
ギアを被ると、希榛は自分の街へ行った。相変わらずそこは夜で、ネオンとホログラムが街を明るく照らしていた。
「今日は、別の体験者の世界へ行ってみる」
フィーユは、希榛が別の世界に興味を持ったことが嬉しかったのか、瞳を輝かせて姿見とは違うパネルを出現させた。
パネルには、体験者の顔写真と名前と、その世界の名前が並べられていた。そういえば自分の世界に名前をつけていなかったなと思ったが、何も思いつかなかったのでまたの機会にした。
体験者たちの顔ぶれは実に多種多様だった。少年、少女、男性、女性、耳の長いエルフのような顔の者、獣の耳や角が生えた者、蛇の鱗のようなものがある者までいた。世界観はその外見と世界の名前から予想するしかないようだ。
「俺が今いる世界はどうなっている?」
「この世界はまだ公開されておりません。世界を公開すると、このように他の体験者を呼ぶことができます。希榛さまも公開しますか?」
中には、誰にも公開せずに完全に自己完結した世界を作り続ける体験者もいるのだろう。
「いや、今はいい。もう少しいろいろ分かってから公開することにする」
いずれはこの世界も公開し、他の体験者を呼ぶことにしようと思っている。他の体験者が及ぼす世界への影響を知る必要もあるからだ。
「しかし、どこに行けばいいか分からないな。人によっては危険な世界もあるんだろう? 理想の自分になることが目的とはいうが、現実では不可能なことも全部可能になるということは、犯罪もやり放題じゃないか」
普段は隠している欲望も、Spiegelなら具現化できる。際限なく豊かになることもできるし、人間を超越した者にもなれる。
「例えば、普段から殺人や大がかりな強盗をやってみたければ、そういう風に世界を作ればいいんだろう?」
「ええ。実際、そのような世界を作って破滅と再生を繰り返す方もいらっしゃいます。自分で設置したものなら人間でも動物でも、殺したり増やしたりできます。公開された世界の中にそういったものがあるのも確かです。しかしご安心を。ご自分の世界では何でも可能ですが、他の体験者を殺すことはできないよう設計されております。また、他の世界に来訪する場合にもある程度の制限がかかります。例えば、その世界の主の許可なく建物を建設したり地形や名前を変えたりすることはできませんし、その世界に設置された生物を勝手に殺すこともできません」
「なるほど。他の体験者に邪魔されると、理想の自分になるのに想定外の障害になるからだな?」
「そういうことです」
こればかりは試してみなければ分からない。あまり先読みのためのハッキングをして、そのことを気づかれて何らかの影響が出ても危険だ。
「どんなに危険そうな世界でも命の保証はされているわけだ」
それならどこを選んでも同じだ。希榛はため息をつき、目を瞑って指を指して行く世界を決めた。
指されたのは、十代前半くらいの少年のパネルだった。緑色の髪をショートカットにし、頭には真鍮のフレームと革の覆いのあるゴーグルをつけて、無邪気そうに笑っている。名前は《テトラ》というらしい。世界の名前は《プラテリーア》だそうだ。
『イタリア風の名前だねえ』
世界の名前の響きがイタリア語らしい。
『《プラテリーア》は、イタリア語で草原って意味だって。今調べた。同じ名前のパスタ屋さんがあるよ』
健吾がネットで言葉を調べたようだ。今日はパスタを奢らせることにしよう。
「そういえば、言葉は通じるのか? 自動翻訳機能とか、あるのか?」
「いえ、Spiegelの体験者は日本人のみですから、言葉の問題はありません」
体験者が日本人のみ。つまり日本でしか流通していないということだ。考えてみれば、体験者が他の人間にソフトを手渡しするという方法でしか出回っていないし、今は正規のメーカー品以外のソフトウェアは海外に持ち出すのが非常に困難になっている。国際郵便で送ることも、飛行機の荷物に入れることもできないように規制されているのだ。そんな環境では、外国人が参入していなくて当然である。
「それならいいか。この世界に行くことにする」
『相変わらず適当だねえ。まあいいけど』
希榛がパネルを押すと、自分の寝室の風景が崩壊し、一瞬、何もないグリッド線の空間になった。そして次の瞬間、そこはよく晴れた草原になった。
見渡す限りの草原だ。青い空に綿雲が浮かび、太陽は東の低い位置にある。まだ朝なのだろう。正面を向くと、遠くに高い山脈が青く見えている。
「何もないな。誰もいない場所に飛んだんじゃないか?」
フィーユは困惑しながらあたりを見回した。
「ええと……普通は、世界の主人の近くに転送されます。家にいれば家の前に。今回、主人は屋外にいらっしゃるようですね。世界に来訪者があれば主人にも通知されますので、すぐにここへいらっしゃるとは思いますが」
『……ん? 希榛、誰かがそこの座標に現れたよ。位置は――上、じゃないかな』
そう健吾に言われて上を見ると、何かが雲の中から出てきた。飛行機かと思ったが、そうではない。エンジン音ではない、奇妙な低い音とともに、急降下してきている。
真上から降りてくるつもりだ。二人でその場から走って後退しつつ、飛行物体を確認する。物体の両翼は羽ばたいているが鳥でもない。降りてくるにつれ、その大きさがかなりのものであることが分かってきた。そしてまたしても奇妙な音がした。低い、それでいて大地を揺るがすような幅のある音。いや、それは声だった。
希榛はその大音量に、足の力が入らなくなり、その場で尻餅をついた。
「キハルさま!」
フィーユは叫び、動けない希榛を引きずって退避させようとしたが、それよりも物体の着地のほうが早かった。巨大な物体は希榛のいる場所をまたぐように着地した。その着地音も大きく、希榛は気絶しそうになった。
なんとか意識を保っているだけの頭では、それが何なのか理解するのに時間を要した。それが、現実世界では目にすることのない生物であるということだけは、辛うじて理解できた。
一枚が希榛の手ほどもある固い鱗に覆われた、金色の体。希榛をまたぐ、鱗だらけで象よりも太い二本の足。鋭く尖った爪が生えている。見上げれば、巨大な鰐のような顔。金色の目が希榛を睨んでいる。そして、蝙蝠の翼に似た一対の翼は、希榛の身長を超える高さと幅があると思われた。
「龍……」
いわゆるドラゴンだった。西洋の幻獣だ。
『うわー、恰好いいねえ! ゲームそのまんまじゃん!』
レトロゲーム好きの健吾が、興奮して歓声を挙げている。
すると、ドラゴンの肩のあたりから、縄梯子が垂らされた。
「いやー、なんかごめんな」
高い少年の声がして、パネルで見た小柄な少年がするすると梯子を下り、ドラゴンの腰のあたりまで来て飛び降りた。
「久しぶりのお客さんだったからびっくりさせようと思ったんだけど、ちょっとやりすぎたなあ」
緑色のショートカットにゴーグル、青い大きな目。黄色みがかった白いシャツに、大きなターコイズの飾りのあるループタイ。茶色の半ズボンをサスペンダー吊りにして、こげ茶色のエンジニアブーツを履いている。百年以上前の古風なファッションだ。この少年が、主のテトラらしい。
「いや、こっちが過剰に驚いただけだ……。大丈夫だ」
しかしまだ立ち上がれない希榛に、テトラは小さな手を差し伸べた。
「待ってよー、お兄ちゃん」
縄梯子から、今度は少女が降りてきた。背はテトラより更に低く、髪はセミロングで、テトラと同じ緑色だ。ゴーグルも服も靴もテトラとお揃いだが、首元にはループタイではなく赤いリボンが結んである。
テトラの手を借りてやっと立ち上がった希榛は、好奇心に満ちた目で希榛を見上げる二人の子供を前に、戸惑っていた。
「お兄ちゃんって……」
「ああ、まだ名乗ってなかったな。オイラはテトラ。この世界を作った体験者だよ。そんで、こっちが――」
「妹のノーチェだよ! よろしくね、お客さん!」
二人はそれぞれ、希榛の右手を両手で掴んで振り回すように握手をした。
「妹って……。兄妹なのか?」
一つの世界を二人で作っているということなのだろうか。
「んーん。ほんとの妹じゃないよ。あのねえ、ノーチェは案内役なの。でもでも、妹っていうことで作ってもらったんだよ」
つまり役割としてはフィーユと同じだが、妹という設定にしているということなのだろう。
「オイラ、妹が欲しかったんだよな。だからノーチェは、この中だけの妹なんだ。そんでそんで、このでっかいドラゴンが――」
金色のドラゴンは自慢げに一度大きく翼を羽ばたかせた。
「この世界のシンボルにしてオイラたちの相棒、バルバドゥールだ」
バルバドゥールと呼ばれたドラゴンは、希榛たちに向かって一声咆哮してみせた。
「う……っ」
希榛は思わず耳を塞いだが、その程度で防げる音量ではなかった。
「どうしたんだ? 大丈夫だぞ。噛まないから」
「す、すまん。大きな音が、怖くて……」
人間の怒鳴り声にも怯える希榛が、ドラゴンの咆哮になど耐えられるはずがなかった。
フィーユはキャラメイクのときの姿見を出現させ、そこに希榛の姿を映し出して何かのボタンとツマミを調整した。
「気づかず、申し訳ございませんでした。これで、一定以上の大きさの音は自動で音量を絞るようにいたしました」
「ありがとう……」
非現実的でダイナミックな世界では、大きな音は日常的なものだろう。希榛は密かに不安に思っていたのだが、どうやらその心配はなくなったらしい。とことん体験者の快適さを求めるサービスだ。
「そっかぁ……。にーちゃんには、この歓迎方法は苦痛でしかなかったんだな。ほんとごめん! せっかく来てくれたのに、いきなり怖い思いさせちまって」
テトラは顔の前で手を合わせ、頭を下げた。
「ごめんね、お客さん。でもバルくんはいい子なんだよ。ノーチェたちと仲良しだし、優しくしてくれるんだ。吠えたのだって、挨拶だったんだよ。絶対噛まないし、火だって人間には吐かないから。嫌いにならないで……」
ノーチェも涙目になりながら頭を下げている。彼らなりの楽しい歓迎の仕方だったのだ。
「そんなに謝らないでくれ。もう怖いことはなくなったし、一生懸命楽しませてくれようとしたんだから」
しかし二人の子供はまだしゅんとしたままだ。
「キハルさま、こちらも自己紹介いたしましょう、ね」
「ああ、そうだったな。俺はキハルだ。こっちは案内役のフィーユ。まだ自分の街は作ったばかりで公開もしていないが、そのうち二人も呼べるようにするよ。今日は初めて他の世界に来てみたんだ。よろしく」
自分でも驚くほど滑らかに自己紹介ができた。
『そこはもっと笑顔で……』
しかしやはり仏頂面だったらしい。
「にーちゃんの服、恰好いいな! どんな世界なんだ?」
言われて、自分たちがまだ拠点の世界のままの服装だったことに気づく。
「俺の世界は、古い映画の中での遠未来都市だが――ここには合わないな」
姿見でまたキャラメイクをしていく。今度は白いシャツに茶色の革のベスト、黒い蝶ネクタイにオリーブグリーンのズボン、そして茶色の革靴だ。
フィーユは、袖にフリルのついた白いブラウスに、胸まで覆った茶色の革のコルセット、アイボリーのフレアスカートに、コルセットと同じ色の編み上げブーツ。髪は下し、ウェーブのかかった薄茶色のロングヘアになった。
「おお、分かってるねにーちゃん!」
「プラテリーアにぴったりのお洋服だよー」
希榛のセンスに、テトラたちは無邪気に喜んだ。
「さて、いつまでもこんな草原のド真ん中にいたってしょうがねえ。街へ行こう。一瞬で移動するのもいいけど、せっかくだからバルバドゥールに乗って行こうぜ!」
テトラたちと同じデザインのゴーグルを作成し、縄梯子を上ってドラゴンの背中に乗った。
「にーちゃん、高いのや速いのは平気か?」
「ああ、ジェットコースターは好きだ」
『えっ、意外』
一番驚いたのは健吾だった。健吾とは遊園地に行ったことがないし、家族で行ったのもずいぶん昔に二度だけなので、好きというほど乗っていない。しかし機会があればまた乗ってみたいと思っているということは、好きということなのだろう。なぜか、大きな滑走音もそれほど気にはならなかった。
「よーし、じゃあ行くぞ!」
テトラは四人分の鞍を作成し、ベルトでしっかり体を固定するようにと言った。
固定が済み、ゴーグルを装着すると、ドラゴンは数回羽ばたいて、助走をつけて飛び上がった。
バルバドゥールは東へ向かいながらも、かなり高度を上げていく。雲をすり抜ける冷たい感覚が新鮮だった。
「どこまで上るんだ」
風圧のなか、希榛は叫んだ。
「今日はテンション高いなー、バル! 大丈夫、寄り道はしないから!」
客を迎えて、バルバドゥールは上機嫌らしい。時折火を吐いている。
「お客さーん、下をご覧くださーい!」
ノーチェに言われて見下ろすと、眼下に小さく街が見えた。全てオレンジ色のレンガの屋根だ。城壁に囲まれている。奥には、大きな城もあった。徐々に高度を下げていくと、街のあちこちから蒸気が上がっているのも見える。
「あそこがオイラたちの街なんだー!」
「あっ! 見て見て、前!」
希榛が前に視線を戻すと、赤銅色をした大きな魚のような物が横切るように泳いでいるのが見えた。
それは魚型の飛行機で、尾ひれにあたる部分で舵を取り、エラにあたる部分から蒸気を噴き出しながら飛んでいた。
「あれは、西の街とこの街を繋ぐ輸送機なんだ。人や商品を積んで飛んでるんだぜ」
なんとなく、この世界の世界観が分かった気がした。
バルバドゥールはいきなり急降下を始め、オレンジ色の屋根が眼前に迫った。難なく屋根はかわしたが、今度は石畳が近づいてくる。思わず死を意識したが、その瞬間には視界が大きく上を向き、驚いて逃げる人々が目に入った。
大きな縦揺れと地鳴りのような音。どうやら着地に成功したらしい。
「ふう、お疲れさん、にーちゃん。気分悪くないか?」
テトラはあれだけの気圧差と上下運動にも関わらず、普通に縄梯子を下りた。さすがの希榛も、すぐには動けない。
『うえ〜、大丈夫? 希榛』
モニタリングしているだけのはずの健吾が、気持ち悪そうに心配してきた。
「お待ちください。平行感覚をすぐ調整します」
フィーユがそう言った瞬間、クラクラしていた頭が正常の感覚を取り戻し、バルバドゥールから降りた。するとバルバドゥールは、空高く飛び立っていった。
大きなドラゴンの襲来も、街の人にとっては日常らしく、あまり気にしている人もいなかった。
「ここがオイラたちの街、《フィアンマ》だよ。さっきの輸送船は東の《ヴェント》から来てる。北には雪国の《ネーヴェ》も。まだまだ増やすつもりだけど、一つずつ細かく作ってると時間がかかってさ」
街並みはイタリア風で、街道は石畳、建物も石造りだった。広場にある噴水の彫刻が見事だ。
広場の周りには店が並んでいる。革靴専門店、メガネ専門店、帽子専門店など。どの店も職人のこだわりの店のようだ。レストランもあり、パスタやピッツァのいい匂いもする。
「ものづくりが盛んなんだな」
「ここは、伝統と革新が交差する街なんだ」
古い石畳の街を、赤銅と真鍮でできた小さな円柱状のドローンが走行している。その足元はモップになっていて、水と蒸気で石畳を洗浄していた。
「大通りのずっと向こうに城があるぜ。今は誰もいなくて観光地になってるけど」
床洗浄ドローンと、資料映像でしか見たことがないような旧型のディーゼルカーと馬車が走る大通りを歩いていると、大きな時計台が見えてきた。
「よう、テトラにノーチェ。そのにーちゃんはお客さんかい?」
大型のカメラと三脚を担いだ口髭の男が話しかけてきた。テトラが設置した人間だろう。
「そうだよー。久しぶりのお客さんなの。これからお城を見せてあげるんだぁ」
そうかいそうかい、と男はノーチェの頭を撫で、人のいい笑みを希榛に向けた。
「この街は賑やかだろう? たくさん見るものがあるから、ゆっくりしていってくれよ」
住人たちはみな、明るく快活に過ごしているように見えた。街の雰囲気というのは大切だな、と希榛は少し反省した。同時に、これほど自然に振る舞う人間たちに驚いた。希榛の街の人間たちはサイボーグの者も多いせいか、いかにも作り物といった感じなのに対し、プラテリーアの人間たちはまるで生きた本物の人間のようだ。
時計台の真下につくと、その大きさと複雑さにテトラの強いこだわりが見えた。まず、時計台はこの国で一番高い建物であり、ある程度離れなければ時刻は分からない。造りは、希榛が今まで見たことがないほど独創的だった。
全面強化ガラスに覆われて、中の機構が全て分かるようになっている。ギアや部品はもちろん赤銅と真鍮だ。文字盤だけが白い。
城は、解放されて広場となった広大な庭の中に、横に長い形であった。よく見る三角形の型をしていない、大きな屋敷といった風情だ。壁の色は茶色で、屋根はモスグリーンである。
「この国をかつて治めていたのは、どこからともなく現れた流浪の錬金術師だ。その男がこの国に科学と政治をもたらして、この国を治めた。でも、国が安定すると同時に姿を消してしまった。城の中には図書館があるけど、そこには王に関する書は一冊もない。だから伝説上の人物ってわけだ。この時計台を作ったのはその王だけれど、当時、大きな機械時計の中が見えるように時計台を設計する技術はなかったといわれていて、この国の謎の一つなんだ」
テトラは淀みなく、このプラテリーアの歴史を希榛に解説した。
「……なんて、この言い伝えも含めてオイラが全部作ったんだけどさ」
そう、まるでこの国に本当にそんな歴史があるかのように語ってきたが、全てはテトラ一人の頭の中から出てきたものだ。しかしこの街の生気とも呼べるようなものが、希榛にそのことを忘れさせていた。
「本当は、城の中までは細かく作ってないんだ。こんなことなら、もっと詰めて作っておけばよかった。城なんてワクワクするものを作っといて、外側だけなんて。恥ずかしいなあ」
「いや、充分すぎるほどだ。あんた、この世界が好きなんだな」
テトラは恥ずかしそうに、頬をぽりぽりと掻いた。
「まあな。スチームパンクは昔からの憧れだから。半世紀以上前の人間が、《実現しなかった歴史上の未来の世界》として創造した、イフの未来過去。小説や映画の中だけのその世界を作れると思えば、気合も入るぜ」
このプラテリーアは、スチームパンクの世界そのものだ。科学と錬金術と魔法が混在する世界。伝説の錬金術師とロボットと龍の存在が同時にあっても調和して混ざり合っている。
「にーちゃんの世界は、最初の黒い恰好いい服が似合うような世界なんだろ?」
「そうだな。俺のは、サイバーパンクだな」
サイバーパンクは、半世紀以上前の人間が《実現する可能性のある遠未来》として想像した世界観だ。実際、その遠未来では、アンドロイドやヴァーチャルリアリティやある程度のホログラムの技術は実現したが、サイバーパンクの世界そのものにはならなかった。そういう意味では、これも未来過去だ。
「いいねえ。オイラもさ、どっちにしようか悩んだんだけど、スチームにした。なんか冒険っぽくていいだろ? なあ、話の分かるにーちゃんならさ、もう一つのお気に入りの場所も、きっと気に入ってくれると思うんだけど」
そういって連れてこられたのは、黒光りする木造のカフェだった。照明が暗くて落ち着く雰囲気だ。コーヒーの香りと、静かなジャズ。
そこでは人間とロボットが一緒に作業をしていて、注文を取るのが若い女性でコーヒーを淹れるのが燻した鉄板むき出しの無骨なロボットだった。
二人は窓際の席に移動した。すると、テトラが何も言わないうちにコーヒー二杯とノーチェの分のミルクセーキが運ばれてきた。
「にーちゃん、どうしたんだよ。座って一杯飲めよ」
「ここの飲み物とおやつ、おいしいんだよー?」
だが、希榛にはできなかった。椅子も、テーブルもノイズが混じって見える。
「すまん。俺には無理なんだ」
椅子を引こうとしても動かない。コーヒーカップも指をすり抜ける。
「まだ、触れないみたいだ。せっかく歓迎してくれたのに」
その様子を見てテトラは一瞬驚いたが、すぐに労わるような表情になった。
「そっか、にーちゃんはまだ来たばっかりなんだな。オイラも最初はそうだった。気にすることないさ。そのうち小さなものだって触れるようになるし、うまいコーヒーも飲めるようになるぜ」
ほら、とテトラはカップを持ち上げ、一口飲む。
「かわいそう。こんなにおいしいのにー」
テトラはこの世界にずいぶん馴染んでいるようだ。細部までこだわった世界づくりには相当な時間がかかっているに違いない。
「……そろそろ帰るよ。こんどは俺の世界にあんたを呼ぶ。そのときまでに、名前もつけておくよ」
「えー、もう帰っちゃうのか? っていうか自分の世界に名前もつけてないのかよ! にーちゃん、こだわりがあるんだかないんだか分かんねえな。ま、それはともかくがんばれ、にーちゃん!」
テトラは親指を立ててにっと笑い、ノーチェは元気よく手を振った。
カフェから出て、希榛はいったん自分の世界に帰った。
「今日は充実した体験ができた。が、もう疲れた」
「はい、私もとても楽しかったです。ではまたお早いお帰りをお待ちしております、キハルさま」
フィーユにログアウトの意思を告げることで、ログアウトすることができる。希榛はギアを外した。
「いい世界だったねえ、希榛。なんていうか、強い憧れとこだわりの世界だった」
健吾は、二人でいい映画を見に行ったときのような顔をしていた。
「ああ。反省した。あまりに適当にやりすぎているな、俺は。テトラを呼べるようにもっとましな世界にするか……」
「おおっ、もしかしてやる気になっちゃった?」
「ハマったりはしない。本来の目的は忘れないようにする」
そこで健吾はなぜか苦笑した。
「別にいいよ、少しハマったって。楽しかったんでしょ? このソフトの謎は知りたいけど、僕は希榛にいい娯楽と刺激を提供しようとも思ってたんだから」
「俺はそこまで娯楽と刺激に鈍感なわけじゃない。わざわざ与えてくれなくても、楽しみくらい自分で見つける力はある」
ともあれ、楽しかった。
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