第3話 二人
さすがに疑問に思って、休み時間に教室で健吾に訊いてみた。
「俺の何がそんなに気になるんだ。見ていて面白いか?」
すると健吾は笑って答えた。
「面白いよ。一発で面白い奴だって気づいた。最初は直感だったけど、今の質問もさ。僕がしつこくしたのは自覚してる。嫌そうにもしてたけど、君は怒らなかった。明らかな拒否をせず質問をするにとどめた。そういうところが面白いよ」
「そうか。そういう見方も、あるか……」
希榛がつぶやくと、健吾は爆笑した。
「納得するの!? ただの、いろいろな見方の一環として? いいなあ、すごく面白い!」
「あまり楽観しすぎるな。お前、かなりマイナスイメージがついてるぞ」
目尻の涙を拭う健吾は笑顔のままだ。
「ああ、僕にゲイ疑惑がかかってるって奴でしょ。僕を殴り飛ばさない君にも。知ってるよ、さすがに」
自分はもちろん、健吾もゲイではないはずだ。その誤解だけは解かなければならない。希榛にも危機感はあった。
「あのね、君にもみんなにも勘違いしてほしくないんだけど、僕の恋愛対象は女子だよ。現に、気になってる子だっているんだから」
大きな声ではっきりと、健吾は宣言した。クラスメイトの視線が一瞬、二人に集中する。
「もういるのか。誰なんだ、それは」
「教えないよ。恥ずかしいから。っていうか、こんな話題にも興味あるんだ?」
「いや別に。流れとして、訊かないほうが不自然だと思って。本当に教えてくれなくていい」
そのやりとりの後、二人にかかるゲイ疑惑は収束した。一部の女子の間で、なぜか希榛の疑惑だけ長く晴れなかったが気にしないでいた。
「お前、女子に人気あるな」
健吾はモテた。希榛とばかり一緒にいたわけではないし、女子によく話しかけられ、楽しげに話し、告白されることも多いと聞いた。
「希榛にだってその素質はあるよ。もっと明るくすれば僕よりモテる」
「あり得ない。興味もない」
希榛には、相変わらず友達すらできる気配がなかったが、それはどうでもよかった。
「それにしても、希榛がそんなことを気にしてたなんて意外だな」
「そこまで気になってるわけじゃない。それより、名前を呼び捨てにされるほうが気になる」
「仲良くなったんだから、それは自然なことだよ。嫌ならやめるけど」
「嫌じゃないが、今までそんなことがなかったから……」
親以外に呼び捨てにされるのには違和感があった。
「一人っ子?」
「うん」
「だろうねえ」
そんな健吾には姉がいるそうだ。
「気が向いたら、僕のこと健吾って呼んでよ」
今すぐ呼び捨てにしてみろと言わないところが、好感を持てた。
「検討する」
「そこは『うん』だよ。面白いなあ、希榛は」
希榛としては、自分ほど面白くない人間もいないと思っていたが、健吾には違って見えたようだ。
夏のある日、健吾がいつになく困った顔で希榛の席に来た。
「ねえ、これ、どう思う?」
健吾が見せたのは一通の手紙だった。
【直江健吾 様
放課後、図書館裏に来てください。
まゆ】
少し癖のある丸字で書かれていた。文章はそれだけだった。
「告白の手紙じゃないのか?」
「本気で言ってる?」
呆れ交じりの困惑顔で、吐き捨てるように言った。
「いや」
希榛にも、それは告白の手紙には見えなかった。
「手の込んだ手抜きだな。今は、敢えて古風な手で意外性を演出するのも流行りらしいが、いくらなんでも古すぎる」
可愛らしい便箋には、ハートや花のシールが貼ってあった。 60年以上も前の時代に主流だったやり方だ。
「歴史好きの女の子の仕業ならロマンがあるけど……」
「そんなわけないだろう」
健吾は深くため息をついた。
「だよね。このまゆちゃんって子、何考えてるのかな。まずうちのクラス、《まゆ》って名前の子、二人いるじゃん」
「どちらも漢字だ」
一人は真悠、もう一人は麻由だ。
「人にメッセージを伝えるとき、誰からのものか分からなくするとは考えられない。これではうちのクラスのどちらかなのか、別のクラスの誰かなのかすら分からない。メッセージも《来い》だけで意図も伝わらない。手紙の体を成していないが、どことなく告白の手紙を匂わせているから質が悪いな」
これが告白の手紙ではないということだけは、健吾にも分かっているようだ。
「イタズラだろうけど、誰なんだろうね? 女の子だったら嫌だなあ。僕、女の子の恨みを買った覚えはないんだけど、女の子って分からないからなあ……」
「安心しろ、犯人は男だ」
健吾は身を乗り出した。
「なんでそう言い切れるの?」
「まずはこのシールだ」
手紙全体に散りばめられた、ハートや花のシール。
「告白なら飾りより本文に力を入れるはずだ。本文をここまで削って飾りを増やしているのは、字でボロを出さないためと、女らしさの演出。さらにこの字、とくに《ま》の丸い部分は潰れていて横棒は右肩上がりだが、他の平仮名に同じような癖がない。字の丸さにも共通点がないな。だが漢字は素で書いているようだ」
「本当だ。平仮名ほど気合いが入ってないし、女の子の字にしては汚ないね」
「この時代に敢えて手書きというのも、差出人を誤魔化す手段だ」
生徒には、各自に学習用タブレット端末が貸与されていて、クラス内であれば名前検索でショートメッセージを送ることができる。タブレットを使えば当然、相手に差出人が分かる。それを避け、さらに時代錯誤的な手段により粗を目立たなくするという効果を狙ってのことだろう。
「差出人は男だとして、それは誰なのかな?」
「
即答した希榛に、健吾は目を丸くした。希榛は、本文の文末と差出人名の後ろを指でなぞった。
「この部分、文末にペンで4回、叩いたような点がある。この前、国語の筆記テストを回収したとき、近藤の答案で長文記述の解答欄に同じ点があった。これが奴の癖なんだろう。あと、漢字を見ても近藤の字だと分かる」
「なんでそんなに見てるの……。怖いっていうかちょっと気持ち悪い」
健吾は乗り出していた身を引いた。だがすぐにばつの悪そうな苦笑を浮かべた。
「ごめんごめん、そんなに傷ついた顔すると思わなかったよ」
「傷ついた顔、してたか?」
自覚がなかった。
「してたね。もしかして、自分の表情を意識することも少ない? だからいつも無表情なのか……」
自分がどんな表情をしているか、またはすべきなのかということを、希榛は深く考えたことがなかった。
「まあそれは追い追い改善していくとして、今日の放課後、どうしようかなあ。罠だって分かったんだから誘いには乗らないとしても、ただ行かないだけじゃ負けた気がするよね」
「勝つつもりなのか」
健吾は復讐でもする気なのかと、希榛は少し面倒に思っていた。
「計画を暴くだけじゃつまんないね。なんか、ちょっとした仕返しがしたいよ。でも、クラス中がドン引きするようなのはダメだけど」
なかなか難しい注文だ。希榛は、ある点に注目した。
「そういえば、近藤が選んだ《まゆ》だか、おそらく
「そっかあ。美人だもんね。この学年じゃ一番……あっ」
そこで健吾は意地悪な笑みを浮かべた。休み時間が終わったので、続きは昼休みにということになった。
昼休み、希榛は健吾に、中庭の木陰のベンチに呼び出された。
健吾は二人で来た。花園麻由と。
「面白いことって、何するの?」
こげ茶色の長い髪をなびかせ、色白で黒目がちな大きな目、控えめな胸。しかしそれを補うスタイルのよさ。長い手足、健吾より少し高い背、細い腰。年齢より大人びて、モデルのスカウトをされたこともあるという噂の美人だ。
余裕ある笑みで男子二人を見ている。
「実は、ちょっとイタズラ返しがしたくてさ。花園さんに協力してほしいんだよね」
健吾は麻由に、ここまでの経緯を話した。
「へえ、凄いね。織部くん、探偵みたい」
麻由は、顔の下で一度手を叩いて感嘆したしぐさをした。
「ねー。希榛を敵に回したら怖いよ。――それでね、今日の放課後、僕が呼び出されるのと同じ時間帯に何か仕掛けたいんだけど、何がいいかなあ」
「近藤かあ。実は、あいつに困ってる女子って多いんだよね」
近藤は、希榛と違って目立つタイプの男子だ。もっとも、健吾のように人気があるわけではなく、その逆で、仲間といつもふざけてばかりいるので特に女子からは嫌われているほうなのだ。
「あいつ、かわいい女子の写真を勝手に撮ったり、階段下からスカートの中を盗撮したりしてるみたい。すばしっこいから女子じゃ追いつけなくて取り逃がしちゃうし、かといって、直接ボコボコにしたりしたら問題になっちゃうでしょ。反撃の根拠として、盗撮された画像を先生たちに見せるのも嫌だし。癪だけど、そんなリスクを負ってまで反撃する価値はないって、みんな諦めてるんだよ」
女子は意外とドライだ。別に近藤を殴ってもいいが、その後の面倒を考えると割に合わないと、割り切って過ごしているという。
「だけど、こっちから罠にかけるって発想はなかったなあ。――どうせやるなら、精神的にはきついけど問題にはならない、一番屈辱的な方法を考えようか」
それから、三人で声を潜めて打ち合わせをした。
まず昼休みの間に、麻由が近藤にタブレットでメッセージを送った。
【近藤和志くんへ
どうしても伝えたいことがあります。放課後、一人で図書館裏へ来てください。
花園麻由】
「どう見ても告白だと思っちゃうよね。あー、これが罠だって知らなかったら、僕だってドキドキして授業どころじゃなくなっちゃうよ」
場所は、健吾を誘い出すことになっていた図書館裏だ。近藤にとって、麻由からの告白は一大イベント。誰にも邪魔されたくないはずだ。仲間と険悪になっても、計画を中止にしてやって来るはずである。
そして放課後、近藤は来た。スポーツ刈りの頭を気にして、シャツをズボンの中に入れて、気合充分といった様子で歩いてきた。
夕焼けで橙色に染まる図書館裏で、壁にもたれて待つ麻由は金色に輝くようだった。風に流される毛先を目で追いながら、そっと右手で髪を押さえていた。近藤の姿を確認すると、さっと髪を直して、少し照れたように上目遣いで彼を見て、はにかむように微笑んだ。
演技派だ。あんな目で見られたら、これからの恋人としての日々の妄想が宇宙のように膨張してしまう。
「ちゃんと来てくれたんだね」
「よ、呼ばれたから、来たんだ。当たり前だろ……」
近藤はきょろきょろと目を泳がせ、落ち着かない様子だ。今日この時間に健吾へのイタズラで使った名前の女子から、まさにその場所で告白される。何か運命的なものでも感じているのかもしれない。
「実はね……」
麻由は壁から離れ、近藤に一歩近づいた。
「近藤にさ、言いたいことが、あって……」
麻由も視線を斜め右下に逸らし、両手で頬を隠す。
「な、何だよ」
近藤は麻由の次の言葉を早く聞きたくて、自分ではさりげないつもりでも露骨に、先を促した。《好きです》、《付き合ってください》というセリフを受け入れる準備をしているのだろう。
「頼みがあるの……」
「う、うん」
麻由がさらにもう一歩近づく。近藤の足がその場でもたついた。自分のほうから近づきたい気持ちを抑えているのか。
「絵のモデルになって!」
「俺もっ……へ?」
おそらく用意していたであろう承諾の言葉はフライングしてそのまま消え、間抜けな声が出た。
「私が美術部っていうのは知ってるよね。モデルになってほしいんだよ。デッサンの。しかも半裸で」
「え? は? 何?」
状況が飲み込めずあっけに取られる近藤とは対照的に、麻由は快活な笑みで続ける。
「近藤って、かわいい女子の顔とかスカートの中とかいっつも見てるから、体ってものによっぽど興味あるんだと思うんだよね。しかも野球部で鍛えてもいるわけじゃない? だからこの機会に、逆に自分の体を見つめて、みんなに見せて、さらに絵にしてもらうっていうのはどうかな」
「ちょっ……意味分かんね……え?」
「美術部って、結構かわいい子多くてさ、写真撮られたって子もいるんだ。だけどか弱い美術部の女の子には、屈強な野球部男子への仕返しなんてできないわけ。だからそのストレスを創作活動に昇華させちゃおうと思って。これなら誰も傷つかないし、作品づくりにも貢献できるよね」
その言葉を合図に、建物の陰に隠れていた美術部員たちが飛び出し、近藤を取り囲んだ。男子五人、女子は麻由を入れて八人の計十三人、美術部総出の一斉攻撃だ。
囲まれた近藤は怯んだが、それでも逃げ出そうとした。
「逃がすか!」
「この補欠エロ猿!」
女子たちの怒号とともに数で勝る美術部員たちに阻まれ、取り押さえられてしまった。
そして神輿のように、体を持ち上げられて運ばれていく。
「うわあ、何すんだよ! 文化部のくせにーっ!」
「言ったな!? 脳筋野球部! つーかベンチ入りもしてねえお前に文化部バカにする資格ねえんだよ!」
「美術部なめんな! こっちは毎日石膏像運んでんだよ! 複数ならお前一人ぐらい二階の窓に投げ込めるわ!」
侮辱されて怒り狂う男子部員たちは、胴上げのように近藤を放り上げながら運んでいく。
「なんか、美術部とは思えない体育会系っぷりだよね……。人を二階の窓に投げ込むとか、なかなかアグレッシブなこと言ってるし。っていうか、花園さん、昼休みにしれっとボコボコにするとか言ってたよね」
希榛と健吾は、美術部の妙にガタイのいい五人の男子と、近藤に罵詈雑言を浴びせる気の強い八人の女子に運ばれる野球部員一名を物陰から見ていた。運動部の近藤の抵抗を、美術部員たちは意に介することもない。
「……武闘派の美術部なんだろ」
希榛も、自分で言っていて意味不明だった。二人は物騒な神輿の集団にこっそりついていく。
そして美術室で、近藤は四つに組み合わせた机の上に立たされた。
「脱げやコラぁ!」
男子部員に怒鳴られ、近藤はシャツを脱いで上半身裸になった。
「男子のくせに胸とか隠さなくていいから。もっと堂々としてよねー。絵にならないじゃん。ほら、もっとポーズ。違う! そうじゃないって!」
「か、勘弁してくださいぃ……」
光景だけならかなり壮絶な虐めだが、近藤に同情の余地はない。それでも一応、希榛と健吾は美術室に誰か来ないか見張りながら眺めていた。
近藤は泣きながら、恥ずかしいマッチョなポーズを取らされ続けた。美術部員たちによって、情けない姿が見事な木炭デッサンになっていく。
そして最後に、麻由はみんなの前で言った。
「近藤和志、これに懲りたら二度と女子を盗撮しないことを誓いなさい」
びしりと指をさされた近藤は、まだべそをかいていた。
「はい……」
「それと、イタズラの手紙に私の名前を使わないこと」
「えっ」
近藤の顔が今までで一番青ざめた。
一部始終を隠れて見ていた健吾は大爆笑。腹を抱えて涙を流して笑っていた。
「……ふ」
少しくすぐったいような感覚に声が出た。
「あっ、もしかして今笑った!? あー、ちゃんと見とけばよかった……」
健吾は希榛の顔を覗き込み、残念そうにため息をついた。それほど希榛の笑顔は希少なものだと思われているらしい。もう一度見せたほうがいいかとは思ったが、もう真顔のまま表情が動かせなくなっていた。
美術室から近藤が泣きながら逃げていった後、麻由は外で見ていた二人に会いに来た。
「ありがとう二人とも。これであいつ、もう女子にちょっかい出さないよ。それにしてもすごいよね。こんなに簡単に、しかも楽しく解決するなんて」
「希榛の推理力と僕らのイタズラ心の賜物だね」
お仕置きのアイデアは、ほとんど健吾と麻由が出した。
「二人とも帰宅部だったよね?」
「うん」
希榛は運動が苦手で、健吾は運動はできるが体育会系の雰囲気が苦手だった。そして二人とも、音楽も美術も好きではなかった。だから二人とも部活には入っていない。
「この際、二人で探偵部でも立ち上げたら? なんでも屋みたいな感じで。二人ならできると思うよ。評判にもなるだろうし」
「楽しそうだけど……あんまり目立つのもよくないと思うんだよね。特に学校みたいな閉鎖されたところだとさ、敵をいっぱい作ると身動き取れなくなっちゃうし」
希榛としても目立つなどもっての外だ。それに、特段謎解きが好きというわけでもなかった。
「希榛、楽しかった?」
「ああ」
しかし実際にやってみると、謎解きも案外楽しかった。後味の悪い結果にもならず、人の役にも立てて満足しているくらいだ。
「それなら、口コミだけで謎解きを募集しようかな。紹介制、一見さんお断りで。それなら忙しくなりすぎないと思うよ」
勝手に話を進められてしまったが、特に異論はなかった。
「困ったことがあれば、花園さんの紹介でのみ依頼を請けるよ。ただし、仲のいい友達に宣伝するのはやめてね。相談されたとき、切り札的に僕らのことを話すくらいにしておいて」
それから、二年の秋ごろまでは相談されたトラブルをひっそりと解決し、非公式な探偵部の活動が続いていた。クラスが分かれても、健吾が希榛に会いに来たり、希榛から連絡したりしていた。
しかし二年の冬、探偵部の活動は休止した。
希榛が健吾と距離を置いたからだ。喧嘩をしたわけではなかった。健吾に彼女ができたからだった。
休み時間も昼休みも、健吾は彼女と過ごしていた。放課後も休日も、基本的にはそうだった。それまではたまに希榛からメールなどしていたのだが、邪魔になると思って一切連絡しないでいたら、学校で健吾と接すること自体なくなってしまった。希榛と健吾の不仲説が広まったのか、探偵部への依頼も来なくなった。
希榛は一人で過ごした。寂しくはなかった。希榛にとっては中学時代以前に戻っただけのことだった。
三年の春、希榛はクラスメイトの女子に、放課後の屋上に呼び出された。
これまで話したことも数回しかなく、それも事務的な会話だけで、親しくなどなかった。トラブルになった記憶もなかった。こんなときこそ健吾に相談しようかと思ったが、面倒なことなら二人の邪魔になってしまう。一人で対処することにして、呼び出しに応じた。
「……付き合ってください」
告白だった。セミロングヘアにカチューシャに黒縁メガネで文芸部の、いかにも文学少女らしい女子。
「手紙とかメールも考えたんですけど、文章って慣れすぎてて、自分の気持ちを伝えるのはやっぱり生の言葉がいいと思ったんです。織部希榛くん、あなたのことが好きです。恋人になってください」
希榛は黙った。完全に想定外の事態だった。他人のトラブルのことなら推理できて、的確に対処できるが、自分のこととなると興味が持てず、自分を見ていた異性の存在に気づくことすらなかったのだ。
「……ごめん」
だから断った。
「俺のことが好きと言われても、俺は君のことをほとんど知らない」
「それなら、これから知ってもらえればいいんです。お友達から……」
ほとんど望みがないと分かり、消え入りそうな声で少女は訴える。
「分からないんだ。今まで、好きとか嫌いとかいうことを考えたこともなかった。恋人としての振る舞い方とか、君との接し方とか、俺には分からない。君の、好きという思いには答えられない。俺は君が思うような恋人にはなれないと思う」
どうすればいいか分からなかったので、分からないと素直に言った。恋愛は大切なことだ。方法も分からないまま恋人になってしまえば、彼女を傷つける結果にしかならないと思ったのだった。
「初めから全部分かってる人なんていません。私だって、誰かに教えられて織部くんを好きになったわけじゃ……」
そこまで言って、少女は泣き出した。しまった、と後悔したがもう遅い。
好きになった男が、こんなにも鈍感で気持ちを全く理解できないうえに知ろうともしない人間だったら泣きたくもなるだろう、と希榛も思ったが、だからといってどうすることもできなかった。
「あの……本当に悪かった。せっかく告白してくれたのに、傷つけて恥をかかせて……」
「もういいです! 織部くんが悪いんじゃありません!」
急に大声を出されて、希榛は身動きが取れないほど驚いた。
「もしかしたら恋愛したことないかもしれないって、見てて思ってました! 急に告白されても困るだろうなとは思ってました! でも、好きになってしまったんだから、どうしようもなかったんです……!」
「いや……」
「私が悪いんです。恋したのは私なんですから。でも、もういいんです……。織部くんはちゃんと、はっきり断ってくれました。理由まで、説明して……」
泣いているが、しっかり状況を受け止めている。冷静だ。こんな強い子に好きになってもらったのに、希榛はその思いを踏みにじってしまった。
後悔した。それでも、もう絶対に丸く収まることはないのだ。それだけは確信していた。
「ごめんなさい、忘れてください!」
走り去っていく少女を追うことも呼び止めることもできなかった。あんなことを言っておいて、今さらどんな言葉をかけても無駄だと思ったからだ。
翌日、少女は学校を休んだ。その次の日の放課後、健吾が希榛のクラスに来た。
「彼女から聞いたよ」
今まで聞いたこともないような低い声で、健吾はいきなりそんなことを言った。
「あの子、彼女の友達なんだ。希榛、ずいぶんひどいこと言ったみたいだね」
誰もいない教室で、壁際まで詰め寄られる。
「あれは……」
「バカ!」
怒鳴り声に、呼吸ができなくなった。
「分からないなら知ればいいだけのことじゃん! あの子も言ってたんでしょ!? 分からないことがあったら、人に教えてもらったり調べたりするよね。今までそうしてきてたじゃん! 僕が考えても分からないことを相談したらさ、希榛があっさり解決してたよね。今回のことだって同じでしょ? なんで分からないままになるって決めつけたの!」
大声のせいで恐怖心が勝ってしまい、健吾の言葉の意味の理解と頭の整理が追いつかない。
「あ、分かった。経験したことなくて面倒くさかったんだ。だから分からないとか言って断ったんでしょ! 面倒くさがりだとは思ってたけど、まさかここまでとは思わなかった! 見損なったよ!」
「怖い……」
立っていられなくなり、壁に背を擦ってへたり込んでしまった。
「えっ? なんでそんなに怯えてんの、怒鳴ったから? もしかして、怖くて話聞けてなかった?」
やっと、健吾が普通のボリュームで話してくれるようになり、希榛も呼吸を整えられるようになった。
「話は聞いてた……。お前の言うとおりだ。知ることを放棄したから、傷つけることになった。だが、面倒だったからじゃない。怖かったからだ。好かれるなんて未知の感覚で、なんだか怖かった」
「いつもの希榛だったら、状況が理解できず怖いまま事に当たるなんてことはなかったよね」
言われてみれば、そうだった。探偵部のときも、行動に移すときは全て状況を掴んでから動いていた。今回は、それができなかった。
「なんで僕に相談しなかったの」
そうだ。トラブルは希榛一人で解決していたわけではなかった。
「俺が厄介事を持ちこんだら、二人の邪魔になると思って……」
健吾はため息をつきながら肩をすくめた。いつものしぐさだ。
「それも事実なんだろうけど、本当は怖かったんじゃないの? 《彼女がいる友達》っていう存在にどう接したらいいか分からなくて。話しかけてこないしメールもないし、希榛ってもともとクールだしなあとか思ってたけど、ぱったり連絡が途絶えるなんておかしいと思ってたんだよね。肝心の相談相手に話しかけられないから、どうにもできずに怖くてそのままになってたとは」
健吾に言われるまで、自分の状態が把握できないでいた。なんとなくもやもやとした気分ではあったが、自分のことなのでどうでもいいと思い、分からないまま放っておいたのだった。それが原因で人を傷つけることになるとは思いもせずに。
「立てる? まったく、希榛は僕がいないとダメだねえ」
「……全くだ」
「完全に同意しないでよ。僕、お母さんじゃないんだから」
ぶつぶつ言いながらも、健吾は手を差し伸べ、希榛を立たせてくれた。
「でも、何か分からないことや怖いことがあったら早めに言ってね。そのための友達なんだから。僕も知恵は遠慮なく借りるからさ」
安心した。自分が話しかけても、邪魔に思われないのだと分かって、もやもやが晴れた。
「それにしても、大きな音が苦手だったとはねえ。どうりで、体育祭のときいないと思ったよ」
「お前が犬を怖がるのと同じだ」
健吾は顔を赤くした。
「なんで知ってるのさ」
「信号待ちのとき、隣にチワワを連れた人がいて、俺の後ろに隠れたことがあったから」
「隠したつもりだったのに……。やっぱり希榛って、よく見てるね。なんで自分に関わるものが全く見えないのか謎だよ」
それから、希榛は健吾の彼女や友達と話す機会を健吾に与えられ、他人と接する訓練をさせられた。それでも希榛には難しく、健吾の友達の顔見知り程度にしかなれなかった。
一年のときほど一緒にはいないが、全く連絡を取らないわけでもない適度な距離で、友達関係を続けていった。
夏、希榛は健吾の変化に気づいた。元気がなくなっていた。彼女のことも口にしなくなったのだ。
「……別れたのか」
「えっ、なに急に。まあ、そうなんだけど」
喧嘩して、一方的に別れを切り出されたという。
「それは、お前が志望校を変えたからだな」
「うん……。っていうかよく分かるね」
「難関進学特化補講を受けているだろう、お前。出てくるのを見かけたぞ。俺も隣の教室で受けている」
成績は、健吾が希榛を少し下回る程度だった。希榛は学年内優秀者の十位以内にいつも入っていたが、健吾は二十位以内だった。
「どうしてそれが喧嘩の原因になったかってことも、希榛なら分かるんだよね?」
諦めたような、少し投げやりな態度で健吾は説明を放棄した。
「お前の彼女は、お前と同じ大学に進学するつもりだと以前言っていたが、そこは難関校じゃない。今のお前なら楽に合格できるところだ。それをやめて難関校に行くと言われれば、まあ怒るだろう。お前が高い学歴を要するような夢を持っているようにも見えないし、なぜ自分と同じ大学へ行きたがらないのか理解できないだろうな。そしてお前は、それについて彼女を丸めこむようなうまい説明をしなかった。だから彼女の怒りが収まらなかった。疑問なのは、なぜお前が彼女をうまく説得しなかったかだ。お前なら――」
「ストップ。正解だよ、もういい」
希榛が質問し終わる前に、健吾が遮った。こんなことは珍しい。
「希榛の推理は全部当たってる。まあ背景を補足しておくと、僕が彼女にちょっと辟易してるっていうのもあるんだ。彼女は優しいしすごくかわいいし甘えん坊なんだけど、いつでもどこでも一緒じゃなきゃダメってタイプなんだよ。休み時間も休日も、いっつも。他の女の子とつい喋っちゃうとすごいやきもち焼くし。で、当然大学も一緒がいいとか言うし、これがあと四年も続くと思うとねえ……。正直、うんざりするよ。いっそここらで別れておくかと思って、ちょうどよかったから喧嘩別れすることにしたの」
そんな健吾の気持ちは少しだけ分かった。一年のとき、健吾がまさにいつも一緒にいたがったからだ。希榛もかなり辟易した。
「志望校を変えるだけなら、なにも難関を目指さなくてもいいだろう。面倒じゃないのか」
「希榛こそ、なんで難関を目指すのさ。おかげで苦労するはめになったじゃん」
「なぜ俺が出てくるんだ。俺は自分でも行けそうだと思っているから行くだけで……」
「分からないならいいけど、なんで分からないかなあホント……」
そして、希榛と健吾は同じ大学へ通うことになった。
大学でも相変わらず、希榛には友達ができていない。健吾による訓練は続いていて、顔見知りになった健吾の友人からトラブル解決の依頼をされることもある。健吾が自主的に謎を持ち込んでくることもあった。Spiegelは、その一つというわけだ。
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