第八章:夜色――ただ、星空が見たかっただけなんだ――


 ――酷い暗闇。

 それでも、暗闇の中なのに温もりを感じることが出来て。

 ふと、誰かが自分を抱きしめているのだと陽炎は、ぼんやりと思った。

 先ほどまで冷たいような場所に居て、寒さを感じていたのを知っていたかのように、それは温もりを与える。


 ――もう希望なんて沸かない。だから、この温もりに縋っていよう。

 人間を信じようとした己が馬鹿だったのだ。これからはこの道具に頼ろう、プラネタリウムが無ければ生きてはいけないだろう。


「陽炎様……」

 そして、この男が居なくては生きてはいけないのだろう。

 陽炎は、ぼんやりと思いながらも、頭の中には遠い昔の記憶を描いていた。

 おかしな話だ、己を抱きしめている星座とは違う星座を思い出すなんて。それだけでもまだ依存から抜け出せる余地があることだというのに、陽炎は気づかないふりをした。

 気づかないふりをするのは得意だから。


(――お前、誰だ? どっから来たんだよ?)

(――……外の世界……? ――ッ嗚呼! 嗚呼!! ずっと、ずっと暗闇の中に住むままかと思っていた! 誰かが私を作ってくださるなんて!!)

(――あのー、よく分かんないけど、此処危ないから、どっか行った方がいいよ。此処は奴隷の寝所じゃなくて、ご主人様の庭なんだから)

(――私にとっては、貴方がご主人様です。最初の……生まれて初めての……! 奴隷? 貴方は奴隷生活を? 逃げないのですか?)

(――逃げられたらいいけどねー、でもまぁ、無理でしょ。そこまで早く走れないし)

(――ならば、私の翼を使いましょう。人一人運ぶくらい容易いです。逃げましょう、ご主人様……)

(――……なんかよくわかんないなー。俺ね、ご主人様じゃなくて、陽炎っていうの。次にご主人様って呼んだら無視すっから)

(――貴方は、私が今まであの夜から見てきた主人達とは違う、人間なのですね。――……そのお言葉、確かに聞き入れました。陽炎様?)


 暗闇の世界に、生きた男。それを表すかのように、暗闇色だった男。

 あの男はどうなっただろうか。

 水を、あの甘美な水を与えてくれる男がきっと今は自分を抱きしめているのだろうけれど、あの暗闇にしか生きられなかった男はどうしたのだろうか。

 自分と同じ、暗闇の生き物は――。


「……座」

「はい、此処に……」

「鴉座……どうしたんだろう」

「……――」

 陽炎は、暗闇が目隠しの所為だと気づかずそのまま言葉を続ける。今が夜なのだと、ぼんやりと何故か思ってしまって。それで、きっとあの、初めて間近で見た夜空を思い出しているのだろう。

「……夜空を初めて飛んだ日……、世界中が綺麗だと思った。……星が綺麗で、偽りでも良いから夜空を手にしたいと思った……。プラネタリウムって、きっと夜空が欲しくて作られたんだなって思った。……傲慢な願いだよな……」

「……――陽炎様」

 嗚呼、水瓶座が泣いている。彼を泣かせてはいけない。彼の機嫌を損ねるとあの水は与えて貰えない。

 陽炎は、自分を抱きしめる男に体重を預けた。

「水瓶座、好き……」

 嘘でもそう言えば、彼は安心する。

 嘘でも呪文のようにスキスキと言っていれば彼は上機嫌になってくれる。

 なのに、自分の頬に冷たいものがふってきて。

  

「……雨?」

「はい、今日は曇天ですから」

 彼の声が若干震えているのに気づくよりも先に、人への恐怖感が陽炎を満たす。

「……今、外にいるの? 嫌だ、外は怖い。人がいる……」

「では、中に入りましょう? ――ほら、中に入りましたよ」

 そう外も中も大差変わりないような気がしたが、気のせいだろうか。

 陽炎は、手探りで水瓶座の頬へ手をやり、頬を撫でてやる。もしかして、泣いているのではないだろうか、と不安になった。泣いたら水瓶座は立ち直るまでに、何日もかかるから、こうして頬を撫でてやらないと更に倍の時間がかかるのだ。

 その手を彼はつかみ、若干どころか大いに震えた。力がこもった指先が、己の手を捕らえて、離したくなさそうな力加減なのに、何処か完全につかみ切れてない間が離したいと告げているようだった。

「……――陽炎様」

「水瓶座?」

「……貴方の思いなどどうでもいいと思っていたのに……――、手にはいると、また次の我が儘が始まってしまいます」

「……どうした? またネガティブになってんのか?」

「……――どうやったら、貴方は私を見てくれるのですか。最初から、貴方は私を見てなんかくれていなかった。夜空だけを見ていた。星だけを見ていた、星座ではなく。プラネタリウムだけを……。私はただの案内役にすぎなかったのですね……」

「……水瓶…?」


 遠くから、懐かしい声が聞こえる。



 ――人間の声だ。

 陽炎は酷く怯えて、己を己で抱きしめる。その震えを落ち着かせるように手に触れたかと思えば、男は夜空から晴れの空にし……嗚呼、この男は鴉座だったのかと知る。


 酷く儚い顔をして涙する姿は美しくも、悲しくも見えて、陽炎は鴉座へ何か呼びかけようとしたが、その時聞こえた声が制する。


「かげ君!」

「……ざ、柘榴……」

 例えば、もし。

 例えばもし、今、火事になったとして、唯一何か忘れ物をして取りに行かなくては、と思ってしまうのがあるとしたら、柘榴だろうか。

 陽炎はぼんやりと思い、柘榴の方へ視線を向けようとした、が、鴉座が今度は口を手で塞ぐ。優しく覆う。何も言わないで、と懇願してるように感じた。それでも柘榴に向ける声は厳しいもので。

「この方はお渡しできません、絶対に」

「くそっ、封印されてんのか、この宮! 鳳凰のねーさん、あけて! かに男、ほら急いで!」

 蟹座が青ざめながら鳳凰を抱きしめると、鳳凰座が顔を赤らめる。

 するとばちっと激しい電流が見えて、見えない壁があるのかと知る。

 陽炎は柘榴を見やり、柘榴は陽炎を見やる。

 視線がかちあうと、柘榴は切ない声で自分に叫び、訴える。拳を見えない壁にどんどんと何度も打ち付けて、両手を腫れさせる勢いで。


「人を怖がるな! 裏切られ裏切る、それの繰り返しなんていつの時代にも、どこの国にも、どの世代にもある! もう引きこもってしまえばいいとか言わない。そんな甘えは許さない、怖かったら、おいらが手助けすっから、かげ君、人を怖がるな! 外は明るい! 綺麗だ! 太陽が輝いていて、その光が強すぎて嫌だったら雲の下へ隠れればいい。それでも明るいのが嫌だったら、木陰に行けばいい! おいら達が会った、裏路地や、酒場だってある!」


 手を、のばせなかった。


 太陽を嫌ってるのが見透かされたのが怖くて、手を伸ばせなかった陽炎は、震える。

 だが、それに構わず、柘榴はまだ自分に訴え続ける。

 太陽はいつだって容赦なく照らして、見たくない物を見させてくれる。この言葉を聞かなかったら、迷いもなく此処で閉じこもっていようと思えるのに。何も考えずにいられるのに。


「誰が裏切っても、おいらだけはあんたの隣にいる! もう他の奴なんてしったこっちゃねぇよ! 誰が救いを求めてもしらねぇよ! あんた、見てらんねぇよ、ふらふらと人と危険人外の合間歩きやがって! 隣で笑って、隣で馬鹿やって、隣であんたの好きな奴出来たら祝ってやるから、だから人を、おいらだけでも怖がるな!」

 その訴えに堪らず、陽炎は我を取り戻し、鴉座の手を避ける気力を取り戻し、訴える。

 顔を歪ませて、首を横に振って、柘榴以外の顔なんて目に入れないように。

 否、下手したら誰の顔も見たくなくて、柘榴の視線でさえもまともに受け止めきれていないのかもしれない。それでも、自分に構い続ける彼に我慢が出来なくて。

 彼ならば、きっとどんな人間でも縋りたいと思うのに。


「お前、もっと他の奴らを構えよ! 俺はもうどうでもいい! 人間なんて知らない!」

「馬鹿、立ち直りかけてるときに騙されたからって、全員疑おうとすんじゃないよ!」

「もう誰も知らない、誰も、誰の言葉も聞くものか! だからお前は、他の引きこもりかけてる奴の側に……」

「一人じゃない人間って絶対居るんだよ」


 柘榴は見えない壁を再びどんっと叩いて、怒りに満ちた眼で陽炎を睨む。

 どうして判ってくれないんだ、と眼が強く訴えている。

 その眼は太陽を思わせて。強く燃えさかってる太陽が自分を夏の日差しのように焼いてるようで。ちりちりと肌ではなく、心臓や胸が焼かれてる気がした。


「おいら、気づいたんだ。るおーがあんたには居たように、絶対側に誰か居るんだよ、寂しがり屋には。気づいてたり、本気で気づかなかったりするけど、絶対側に居るんだよ。居ない間もあるけど、いつしか出来るんだよ、そういう奴が! だから、おいらが余計な手出しなんてする必要はないんだよ。あんただってそうだったけど、おいらから構いたかった! だから、おいらはおいらが側にいたいから勝手に、あんたの側であんたの周辺見守りたいんだよ!」

 他の奴なんてもうどうとでもなれ! そう叫ぶ柘榴に、……陽炎は泣きながら、頭を抱えた。

 人を、人をまた信じて良いのだろうか。

 この人をまた信じて良いのだろうか。この人は裏切らない、この人は騙す人じゃない。

 そうは判ってはいるけれど、いつ自分がまた一人にされるか判らない。

 人間はそう、いつ死ぬか判らないから。

 その不安を見透かしたように、別の誰かが言葉にする。


「柘榴なら、出来るだけ健康面にも周りにも気をつけさせますし、魚座どの達をボディーガードにつければいいでしょう、どうしても心配ならば」

 淡々としているけれど、何処か焦りの交じった声。その声主は強気の視線で自分を見ているのだろうけれど、糸目だから判りづらい。

「鷲座……」

「道具に頼りすぎてはいけません。だけど、道具を利用するなとは言ってない」

「……わし、ざ…」

「――それに、そこまで怖いのならば、また他の人と交流すればいいでしょう。そこを恐れてしまうところが、君のいけなくも弱い所だ。人はゴキブリのようにいるんだから、また気の合う仲間は見つかる。裏切られ裏切る、またそれがあるだろうけれど、そうなったときは、小生らが慰める」

「そうよ、慰めるのなら任せてよ! 人が良いって言うなら、人に乗り移ってあーんなことや、そーんなことをして慰めてあげるから!」

「ちょ、ちょっと言うことが下品すぎる、大犬座どの」

 大犬座が続けて卑猥なことを言おうとするのを鷲座が慌てて止めて、彼女の口を両手で塞ぐ。

 その様子に呆れながらも、思わず苦笑してしまうと、自分を抱きしめる力がこもり、鴉座がいることに気づく。


 ……――自分と同じ、暗闇だけを見てきた男。

 暗闇の世界に行き、初めての光が柘榴だったように、自分は鴉座にとって光だったのだろうか、外の世界だったのだろうか。

 外の世界の良い場面は、味わった。助けられてから、味わった。

 あの時の世界は手放したくなかった。永遠に楽しいままでいられたらと思った。

 ――それを、鴉座は自分に感じているのだろうか、と陽炎はふと思うと、自分を映した鏡のように見えて、鴉座を見上げて笑った。


「お前は、ただの案内役じゃねぇよ。勘違いすんな、馬鹿」

「……――え?」

「お前も、俺の夜空の一部じゃねぇか。俺の作る、俺の欲しがる夜空の一部じゃねぇか」


 それは、端的に言うと、必要な存在だと言ってるようなことで。

 自分の知る限りでは陽炎は寂しがり屋だが、そういう愛属性相手の星座には個人だけに必要だと口にしたことがなかった気がする。力とかそういうのではなく、存在を。

 ――何故、よりによって今言うのか鴉座には一瞬理解が出来なかったが、嗚呼気遣わせたのかと悟り、己の心に勇気と罪悪感を集中させて、手放すことを覚悟する。

 鴉座はこんな酷い行為にまで発展したのに、まだ自分を気遣う陽炎に目を見開き、くすくすと笑ってから、貴方は馬鹿な人だ、と呟いた。

 馬鹿だ馬鹿だと言わねば、何だか己が崩れそうで。ただでさえ惨めな気分なのに。それに何より、この人はそれを言わねば、きっと自分がどれほどお人好しな行為をしているのか気づくこともしないだろうから。無視される可能性も高いけれど、馬鹿だと口にしたかった。八つ当たりなのかも知れないが、それでも、どうか自覚して欲しかった。


(――貴方のそういう微妙な優しさを、あの黒玉の中からどんな主人も見てきたが触れたことも、感じたこともなかった。妖術は人をダメにさせる。その証拠が私たちなのだろう。ならばもうこれ以上妖術と関わらないで。貴方がシアワセになってくださるのならば、代表者として。貴方をダメにした最初の妖術として私は――)


 鴉座は、困ったようにそれでもしょうがないなぁと言いたげに、軽く笑いかけた。

「……――同情ですか?」

 その問いには陽炎は否定はできなかった。

 鴉座は初めて陽炎相手に冷笑を浮かべて、彼の額に口づけてから、言葉を陽炎にだけささやきかける。

 それは遠い昔からずっと優しく優しく自分を導いてくれた時のように、穏やかで落ち着いた声で。どんな声よりも安堵できる声。

 瞳は狂おしい冷たさを感じるのに。


「貴方はね、学習しないと駄目ですよ。愛属性をつけあがらせると、どんどん調子に乗って独占したがるって。こんな場面で同情するなんて酷い方。いっそ何も言わず、手を振り払って私の手元から去ってくださったら。こんな醜い偽夜空、捨ててくださったら、貴方を一生憎んでいられたのに。どうして貴方へ負の気持ちを抱かせてはくれないのですか? 今のが残酷だし、この行為は八方美人だと自覚しなさい」

「……――でも」

「もうね、自由な貴方を捕らえるのは無理だって判りました。無理なことをして、貴方ではなく、また自分が傷つくのが怖い。臆病ですけれど。……貴方はもう星座は作る気はない。なら次に暴走したとき、誰が私を止められる? ……ねぇ私はもう外の世界には懲り懲りですよ。自分を見失うほどの感情なんていらなかった。こんな人間のような感情、欲しくなかった。貴方を、愛さなければよかった」


(――貴方がシアワセになるのなら、私は貴方との決別を選ぶ。皆への見せしめに。暴走するとこうなるのだと。……貴方に沢山の嘘を、最後までついてしまうのをお許しくださいな。だって、私は嘘つきですからね?)


「もう、お世話は致しませんよ。他の方がいますから」


 鴉座が呟くが否や、陽炎を柘榴へ乱暴に投げて鴉座は一同に叫んだ。


「またその人が道具に頼りすぎたら、二度と帰ってこないと思え!」



 その言葉を最後に、鴉座は宮の結界を解除され、別の力で封印された。陽炎が何か叫ぶ前に、鴉座はもう己を手放していた。

 正確に言うと、鴉座の宮に封印されて、彼だけがもう表に出られなくなったのだ。その証拠を見せつけるように、鴉座が手を伸ばすと何か電流が彼の手で弾けて、陽炎に近づくのを許さない。宮から出ることも。

 鳳凰座の力。鷲座がタイミングを見計らって、仕掛けさせたのだろう。そして鴉座はその行動に気づいていた。だからこそ抵抗もせず、諦めるための勇気を己から集めていた。

 陽炎は柘榴に抱き留められながらも、何とも言えない気持ちで、鴉座の宮を見やるが、鴉座はもう己に笑みは浮かべず、無表情で此方を見つめていた。

 だがすぐに背を向けて、闇に紛れた。宮の中を闇にした。まるで、外の世界なんて見たくないとでも言いたげに。拒絶の表れのように。


(――……また、ほら、俺が助けられた)


 ――だが、拒絶は少しだけ失敗してしまった。


 遠い昔、奴隷生活から助けてくれたように、鴉座は結果論で言うと人間不信から助けてくれた。

 柘榴の力もあったけど、鴉座が何かをしてくれなかったら、周りの環境は動かず、自分はずっと夜闇を眺めていただろう、そう陽炎は解釈してしまったのだ。

 他の方がいる、というのもまるで、人間とだけ関われと言われてるようで。

 それは彼の長年培ってきた信頼故に、だった。何処かで吐かれた言葉を疑ってしまったのだ、感覚的に。


(愛さなければ良かったと言うなら、何で道具に頼りすぎるなと忠告するんだ? 優しい声でお前は懲り懲りだと言う? 何かに今にも縋りたいような声で――)

(なぁ、鴉座、お前は――――もう、いい。俺がお前たちを苦しめるなら、もう言わない。だけどな、一個懺悔させてくれよ)


「……時折、夜空を見て、お前が何処の星か勉強するよ。俺、まだお前が何処の位置の星座か覚えてないんだ。酷い奴だろ?」


 陽炎は笑おうとしたがそこで意識がとぎれた。水への依存性からの暴走が、また始まったのだ。

 だがもう水は、壊れて無くなったのだが――狂わせた歯車の一つは。

 また治療生活の始まりだ。



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