第2話 窮すれば通ず
遅刻。それは彼の中で初めての経験だ。その逸る心が彼の足を速く回転させる原動力となっている。
「ハッハッハッ」
階段を駆け上がり、廊下を走り抜け、彼は自分の教室へと急ぐ。
「すみません」
彼の声は決して大きくはなかった。しかし、その教室内の人間の目を全て集めるには十分だった。扉を開いた彼へとクラスメイト、そして、教員の目が注がれる。
「山本、どうした?」
「少し……」
不思議そうな顔をする担任教師。一度、頭を下げ、教室の扉を閉めながら彼は言い淀む。どのように説明したらいいのだろうか? 木に登った子猫を助けたら、実はそれが罠で、いつの間にか脅迫されていたなど説明のしようがない。それに、自分が子猫に向かって話しかけているという穴があったら入りたくなるほどの恥ずかしいシーンを自分の口から説明しなければならない。そのようなことはまだ青い少年には認められなかった。
慶介は担任へと再度、頭を下げて自分の机へと向かう。遅刻は免れなかったのだろうな、と考えながら。
「あー、一応、お前の出席、セーフってことにしとくな」
「本当ですか?」
慶介は目を見開く。その様子を見ながら担任の教師は軽く笑いながら首を縦に振る。
「カバンは置いてあったし、校内にはいるだろうって話をさっきしてたんだ。それに、真面目なお前がサボるってのも考えにくいしな」
「せんせー! 俺も真面目だから、この前の遅刻なしにしてー!」
「大北。お前が授業中に居眠りをしなくなったら考えてやる」
担任教師である斉藤の一言で教室は大いに沸いた。
その喧噪の中、慶介はなるべく音を立てずに自分の席に着いた。
「おし! 山本も来たことだし、出席を取るぞ。……阿部」
「はい」
「安藤」
「うす」
次々と呼ばれていく名前の中、慶介はつい数分前の出来事を思い返していた。
余談ではあるが、ここ西条高等学校では、男子生徒はネクタイ、女子生徒はリボンの色によって所属している学年が分かるようになっている。三年生は赤、二年生は緑、一年生は青というように胸元を一目見れば簡単に相手の最低限の素性が分かる。
そう……つまり、嘉瀬は自分と同じ学年だ。自分の交友関係は狭い、というより自分のクラスの人間ですら顔と名前が一致するか怪しいのに他のクラスの生徒であろう嘉瀬を知らないのは道理だ。
自分が彼女について現時点で分かっているのは、自分と同じ学年ということと嘉瀬 旭という名前だけ。それだけだ。
と、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「山本」
「ハイ」
いつものように返事をする。いつもとは全く違う日にも関わらず、一度、教室に入ってしまえば、いつもと同じ。
きっと、今朝の光景は白昼夢という奴だろう。要するに幻。幻覚を見るほど、疲れていたに違いない。昨日は予習のために1時近くまで起きていたし、おそらく、それが原因だ。
……そうだったら、いいのに。
朝のホームルームが終わり、一限目の授業のための準備と、ホームルームが始める前に話し切れなかった内容を再び話し始めるクラスメイトが生じさせる騒めきの中、慶介は苦笑した。
+++
いつもと同じ。それは幻想だった。
「迎えに来たぞ、慶介」
「……」
今日の全ての授業が終わり、帰り支度を整えた慶介が教室から出ると、扉の前には朝の少女、嘉瀬 旭が立っていた。教室の前に立っていた彼女を見た時、自分は変な顔をしていなかっただろうかと思いつつ、慶介は自分の表情筋を引き締める。慶介は無表情を心がける。
人は日常と同じ行動をすると気持ちが落ち着く。そのことを知っていた慶介はいつもと同じ表情を作ることで心に余裕を作り出した。感情を平坦に均した彼は旭を見る。しっかりと形を持っている彼女はとてもじゃないが幻には思えない。
いつまでも、黙っているというのも心苦しい。仕方なく慶介は口を開いた。
「迎えに、とは?」
「サイバー技術研究部の部室に君を招待したい。さぁ、行こうじゃないか」
旭は慶介の返事を待たず、廊下を進んでいく。朝の時点で、慶介には彼女について行くという選択肢以外にない。もし、ついて行かなければ、朝の動画を周りに見せて彼を憤死させるという手段を彼女は取ることができるのだ。
一つ溜息をついた慶介は諦めたように足を進める。慶介は旭の後ろについて歩く。校舎内を颯爽と進む彼女は慶介の陰鬱な気持ちに気がつくことはなく、廊下を渡り、階段を降り、校舎内を進んでいく。
入学して、まだ一ヶ月しか経っていない慶介は彼女の進行方向にあるものが何なのか全く思い当たる節がない。特別授業、音楽や美術で使われる教室棟への方向とはまた違う。
「嘉瀬さん。一体、どこに向かっているのかをお聞きしてもいいですか?」
「先ほども言ったように、サイバー技術研究部の部室だ。そう言えば、君は部活に入っていないのだったな。ならば、説明しよう」
旭は足を止めることなく口を開く。
「今、我々が向かっているのは部室棟だ」
「部室棟……ですか」
それならば、自分が知らないのも道理だ。部活に所属していない自分にとって、部室棟というのは、存在そのものについて知っていてもその詳細については全くの謎。旭に続くしかない。
ポケットから軽い金属音を響かせながら、旭は“サイバー技術研究部”と黄色のチャームが付けられた鍵を取り出す。カチャンと軽い音がした。
「さぁ……」
鍵を抜き取った旭は扉を勢いよく開けて慶介に入るように促す。その顔は楽しみを前に控えた子どものようで、慶介の目にその表情はとても魅力的に映った。妖精が自由に舞うような彼女の姿を見ていると、彼女はあるマネキンの前で止まった。
「これに着せているものが何か分かるかい?」
「いえ……」
「サイバスロンVer.2.2、群雄割拠のこの時代。それを拓くための我々の武器であり防具であるサイバースーツだ。
旭の唇から漏れた声が部室の中に木霊となって響き渡る。旭は足音を高らかに慶介へと向き直り、声を響き渡らせた。
「“
周りは静寂。慶介の全神経は旭から語られる言葉とマネキンが来ているサイバースーツに注がれていた。赤と白を基調とした全身を覆うタイプのスーツだ。金属制の甲冑に仕込まれた電子的なラインは淡く黄緑色に発光している。それは一つの芸術作品でもあった。作り手の魂を込めた一品。そして、旭がサイバースーツ“
紛れもなく、これは彼女の想いそのもの。サイバスロンVer.2.2という戦場を駆けるに相応しい鎧である。見惚れる慶介を旭の声が現実に引き戻した。
「最近、実用化されたテスラ電池と二コラコイル。これが、サイバースーツの核だ。電気を繰り返し貯めることができる大容量且つ超小型のテスラ電池、そして、ニコラコイルという高出力の電圧回路を使用することでサイバースーツは装着者パイロットの動きをアシストする。これにより、パイロットの動きを何倍にも高め、人類としての枠から超えることができる」
「人類の枠から超える?」
「そうだ。有象無象の人間とは比べることのできないほどの力を君は得ることができる!」
「悪魔の囁きのような言葉ですね」
「……大言壮語が過ぎた。実際には、災害救助用として配備された自衛隊のパワードスーツ、あれよりも出力は劣るが、それでも、今までの君の人生を一変させるほどの力はある……たぶん」
「曖昧ですね」
「仕方ないだろう! 誰もこのエクストラを装着したことがないのだから」
違和感。慶介はそれを感じた。疑問を口にする。
「誰も装着したことがない?」
慶介の言葉を聞いた旭はしまったという表情を浮かべる。
「あー、それはアレだ、うん。実に不可解なことに新入部員が私と君以外、誰もいない」
「はぁ」
自分はすでに頭数に入っているのだなと慶介は思う。まだ入部届けは出していないのにと考えながら、その考えを打ち消す。旭に見せられたエクストラに魅せられたし、サイバスロンに興味が湧いてきたことは否定できない。なら、入部してもいいだろうと考えた慶介は旭の言葉を否定することなく相槌を打つ。
『それに……』と続けた旭の言葉に慶介は耳を疑った。
「君で二人目だ」
「え?」
「サイバー技術研究部の部員は君で二人目だ」
「それは部活ではなく研究会と言うのでは?」
違う、そうじゃない。部活としてある以上、部員の先輩はどうしたのかという質問こそしなくてはならないのに。
混乱した慶介を余所に旭は興奮した面持ちで自身の思いの丈をぶちまける。
「仕方ないだろう! サイバスロンより、野球だサッカーだ、やれバレーだバドミントンだダンスだという輩が多いんだ! 確かに、中学校までの体育の授業でするような他の競技と比べたら敷居は高いかもしれないが、何故、奴らは浪漫が分からんのだ!? 人の限界を超える! 新しいことに挑戦する! 素晴らしいことだと思わないか?」
「それは人の価値観によって違うからなんとも……」
「冷静沈着か、君は! だが、それがいい!」
冷静沈着と言われた自らの態度。しかし、それはいつもと同様のテンションだと慶介は心の中で独りごちる。彼女は冷たいと言われる自分の態度で何やら興奮しているようだが、世の中にはそのような人間もいると聞く。ならば、個人の性格にあれこれと口出しするのは、相手も嫌な気分になるだろう。
「常に冷静な君はパイロットに向いている。突発的事象にも対応できる君の性格は私が求めていたものと合致する。私の目に狂いはなかったようだな」
自分の考えとは違っていたようだ。
慶介は思考を改める。彼女の言い方からして、自分が求められたのは装着者パイロットとしてらしい。しかし、そこで疑問が生じた。
「自分はパイロットとして勧誘された。それでいいでしょうか?」
「その通りだ」
「では、なぜ、あなたがパイロットとしてサイバースーツを着ないのですか? サイバースーツを作ったら、その性能を自らが確かめたいというのが普通だと思うのですが……」
「知行合一。私が全てに携わるのが望ましいが、何分、多事多端の身でな。パイロットまで行うのは難しい。それに……」
「それに?」
「私は……アレだ。あの……うん、運動が苦手だ」
旭の口から出た予想外の言葉に慶介は呆気に取られる。数十分の付き合いではあるが、彼女に不得手な物はない。そう思わせられるほど堂々とした旭の態度であった。そのため、彼女の口から出てきた発言、運動音痴という自白は慶介にとって信じがたいものであった。
頬を赤らめた旭は慶介に向かって身を乗り出す。
「笑うな!」
「笑っていません」
「通信簿での体育の最高評価が2だとしても人生には何の問題もない! そもそも今の教育制度は杓子定規で均一化されているからいけない。人には向き不向きというものがあってだな。自分に向いていないことは枝葉末節、取るに足らないことに違いない! そうは思わないか、慶介?」
「なに言っているのかちょっと分からないです」
「支離滅裂! 私の説明が伝わらないなんて。“理路整然の旭ちゃん”と自負していた私は一体どこへ行ったというのだ!?」
「分かりません」
「そうだろうな! 私にも分からない! それに、私は口を滑らせて言わなくてもいいような恥ずかしいことを言ったのでは……ワァアアア!!」
ああ、天然という奴か。
慶介は頭を抱えて奇声を上げながら床へと座り込む旭を生暖かい目で見つめていた。その慶介の視線に気づいたかはいざ知らず、旭は頭を一度振って気持ちを切り替えて慶介を見つめる。
「閑話休題、私のあれこれは置いといて、だ」
「はい」
「着て……みたくはないかい? ん?」
「少し」
「そこはもっと盛り上がる所だろう! 男の子は皆、サイバースーツが好きなものと相場は決まっているとネットで私は見たぞ! 『司令! 俺がこの世界の常識に風穴を開けてやりますよ!』とか熱く言う場面だろう! 慶介、言うんだ! 言ったら君にこのエクストラを着せてあげよう!」
「なら、いいです」
「済まない! 調子に乗った! 謝る! 謝るから着て!」
ほんの少しだけ眉を下げ、面倒だという気配を漂わせた慶介に旭は深々と頭を下げる。
その旭の様子は必死という言葉を体現したものであった。彼女にとっては後がない。というより、慶介こそがパイロットの第一候補であり、彼以外には旭の眼鏡に
「分かりました」
「本当かい!?」
綻ぶ旭の表情を見た慶介は彼女に優しく笑いかける。
「こちらこそ、よろしくお願いします。是非、自分にエクストラを着させてください」
声色は変えずに一息に言い切った慶介であったが、旭は彼の目がわずかに煌めいていることに気がついた。慶介もまた男の子、か。
満足げに頷いた旭は彼に向かって手を伸ばす。それは今朝の焼き直しのようで、されども、そこに乗っている意志は今朝よりも確固としたものであった。
「ようこそ、サイバー技術研究部へ。私は君を歓迎する。一味同心、
「はい、よろしくお願いします」
握りしめたお互いの手に熱を感じた二人は笑い合う。その笑みは、これから世界に自分たちの力を見せつけるのだと不敵なものであった。
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