第3話 平地に波瀾を起こす

 旭との衝撃的な出会いを終え、慶介は帰路につく。旭と会ったのは、朝と夕だけだったのに、なんとも濃い時間だった。

 『本格的な活動の開始は明日にしよう。明日は土曜日で授業は休みだから丁度いい』という旭の提案で解散となったが、旭に聞けず仕舞いで慶介の心に引っかかることが多くあった。

 人数が少ない部活。部員は自分と一人の少女のみ。しかも、その部活がサイバスロンという有名ではない競技を活動内容としている。

 慶介の心中では不安が渦を巻いていた。中学までしていた野球を高校でもしていれば、今、覚えている不安はなかっただろう。なんせ、野球は少なくとも三年間してきた。ルールもよく知らないサイバスロンに比べたら間違いなく野球の方が敷居は低い。


「山本!」


 突然、路地に響いた自分の名前を呼ぶ声に慶介は振り向いた。


「坂田先輩、お久しぶりです」


 後ろにいた人物に慶介は丁寧に頭を下げる。


「お前は変わらないなぁ」


 深々と頭を下げた慶介を見て、懐かしそうに、そして、人懐っこい笑みを浮かべた少年がいた。慶介と同じ高校の制服を着て、肩にアイシング用のサポーターを付けた背の高い坊主頭の男子高校生である。『坂田』と慶介から呼ばれた彼は、慶介の隣に歩を進める。隣同士で歩き始めた彼らの足元は淀みがない。かつて、共に戦いを潜り抜けてきた相手への信頼が滲み出ている。

 坂田さかた 友宏ともひろ。慶介の中学時の先輩であり、共に野球部の部員として汗を流した人物だ。


「部活勧誘の時から会ってないよな」

「はい」

「部活は決めたか?」

「はい」


 坂田は慶介を驚いた様子で見つめ、次いで残念そうな表情を溢す。


「そっか。残念だ。お前には、野球部に来て欲しかったんだけどな」

「すいません」


 心底、残念そうに肩を落とす坂田に慶介も同じようにして謝る。


「ごめん、謝らせるつもりじゃなくて……。でも、気が向いたら野球部に来てくれ。お前ぐらいのピッチャーはいないし……正直言うと、お前が欲しい」

「ですが、別の部活に入部すると約束してしまったので」

「大丈夫。ウチの学校、部活の掛け持ちOKだから。ま、そうは言っても部活の掛け持ちは体力とか時間の都合がつかないとかあって中々できないけど」


 突然、坂田は足を止めた。坂田より少し前に出た慶介は振り返る。


「まあ、気が向いたら野球部に来てくれ」


 そう言って、坂田は慶介に手を合わせた。


「ごめんな、これから塾だから。ホントはお前ともっと話したかったんだけど」

「気にしないでください。お疲れさまです」

「それじゃ、また」

「はい」


 慶介は坂田が夕日の街へと消えていく姿をしばらく見つめる。

 先輩は自分がサイバスロン部に入部すると言ったら、どうするのだろうか? きっと、先輩のことだから、いつもと同じように笑って『がんばれ』と言ってくれるのだろう。しかし、自分はサイバスロンについては無知なため、『がんばる』と即答することはできない。


「ふぅ……」


 茜色の空を見上げて慶介は少し息を吐き出した。兎に角、自分は嘉瀬さんに自分の恥ずかしい動画を消して貰うように頼み込まなければならない。そこで初めて自分は彼女に対して対等の立場になることができるのだから。

 今後の方針を考え、慶介は再び帰路につく。翌日の予定、旭との初めての部活に不安を覚えながら。


+++


 ピピピと目覚まし時計がなる。布団の中からニュッと出た手は、けたたましく鳴り続けている目覚まし時計の上部にあるボタンを押した。シンという静かな音が布団の中にいる人物の耳に届く。


「んっ」


 目覚まし時計のボタンを押した手の持ち主は、少し布団の中で伸びをして体を起こす準備をすると、すぐにベッドから床へと降りる。部屋の中に置いている縦長の鏡、姿見に映ったのは寝間着の代わりにジャージを着用した慶介の姿だった。

 ベッドの脇に置いている目覚まし時計を持ち上げる慶介は時間を確認する。起きたばかりで焦点の合わない目を数回、瞬きをしてピントを合わせる。

 AM7:00。

 彼が持ち上げたデジタル式の目覚まし時計には現在の時刻が表示されていた。

 時間を確認した慶介は寝間着姿のまま自分の部屋の扉をそっと開ける。隣の部屋の両親を起こさないように階段を降りて、彼はリビングの扉を潜り抜けた。

 慶介の自宅である山本家はリビングとキッチンが繋がっている。対面式のキッチンがいいと母が希望を出したので、父は一も二もなく頷いて母の提案を受け入れていたものだなと慶介は思い返しながらキッチンへと足を向けた。

 キッチンに入り、まず慶介が行ったことはポットに水を入れることからだ。朝はコーヒー。それは慶介に無意識の内に染み込んだ習慣である。学校についた後も缶コーヒーを一本。そうやって初めて、慶介の一日がスタートする。

 と、ガチャリと鍵が開く音がして玄関の扉が開いた音が慶介の耳に届く。慶介は溜息をついて、トースターの中に食パンを二枚入れた。


「ただいま」

「また朝帰りか」

「悪ぃ、兄貴。ライブの打ち上げでさ、カラオケオールしちまって」


 リビングのドアを開けながら入ってくるのは慶介の弟である山本 タクヤだ。弟と言っても、タクヤは慶介とは11ヶ月差の兄弟であり、4月生まれの慶介と翌年の3月生まれのタクヤは同じ学年である珍しいパターンの兄弟である。

 歳が限りなく近い兄弟だが、彼らは似ているとは言い難い。慶介は生真面目を体現したような人物だが、タクヤは社交的であり様々な交友関係を持っている。まさに、好対照な二人と言えよう。そのお陰か、二人の兄弟仲は悪くはない。また、タクヤの顔付きは慶介とは違い、母親似である。母のように『すまない』と両手を合わせて擦り合わせながら慶介に謝るタクヤのその所作は随分、手慣れたものであった。

 それもそのハズ。弟のタクヤが朝に帰るようになるのは今月に入り4回目である。つまり、4月に入って後、彼は金曜日の夜から土曜日の朝にかけて家から出ている。


「コーヒー入れるから待ってろ」

「サンキュー」


 そして、慣れるのはタクヤだけではない。慶介も同様である。この一連の流れに慣れたもので、慶介はマグカップを2つ用意して、その中にそれぞれスティックタイプの粉末コーヒーを入れる。

 チンという軽い音が響き、慶介はトースターから焼けたトーストを取り出した。


「ん」

「ああ」


 いつの間にかキッチンへと来ていたタクヤは慶介から皿に乗せたトーストを受け取り、リビングのテーブルへと運んでいく。その間に慶介は用意したマグカップにポットのお湯を入れてスプーンで掻き混ぜる。粉末が十分に溶けたことを確認した慶介がマグカップを持ち上げるのと同じタイミングでタクヤは冷蔵庫の中からマーガリンとブルーベリージャムを取り出していた。

 兄弟は共にリビングのテーブルに向かい、腰を下ろす。それぞれがトーストにマーガリンとジャムを塗るのを待ち、共に手を合わせる。


「いただきます」

「いただきます」


 サクッと軽い音がリビングの中に広がった。表面はパリッと良い食感が口の中に広がった後に柔らかな白い中身がふわりと優しく受け止めてくれる。そして、ブルーベリージャムの甘味と酸味がうまくブレンドされた味がトーストの香ばしさに深みを与えている。

 しばし、トーストに舌鼓を打っているとタクヤが慶介に尋ねた。


「兄貴。今日、暇? 暇だったら、昼から服、買いに行かない?」

「済まない。今日は用事がある」

「そうなんだ。んじゃ、また誘う」


 何かに気づいたかのように、タクヤの動きがはたと止まった。


「用事って何? もしかして、彼女ができた? いやー、兄貴にもとうとう春到来って感じ? このッ、幸せ者ですな」

「部活」


 タクヤの冷やかしを全く意に介さず慶介は淡々と答える。


「なんだ、つまんねぇの」


 椅子の背もたれに体を預けたタクヤは面白くないというように鼻を鳴らした。しかし、違和感を覚えたタクヤは慶介に疑問をぶつける。


「あれ? でもさ、高校は部活に入らないんじゃなかったの?」

「……誘われたから」


 慶介の答えはまたも淡泊なものだった。

 そもそも、どうして自分が猫に話しかけている所を動画に撮られて脅されたと弟に言えるだろうか。兄としてのプライドもあるし、弟に要らぬ心配をかけたくないという兄心が働いた慶介は淡泊な答えしかタクヤに返すことはできなかった。


「誘われたって、坂田センパイに?」


 同じ中学で同学年だったタクヤも坂田のことは知っている。体育祭ではタクヤが所属していた赤色の団の団長で共に団の運営をしていたことから、部活は違えども彼らはそれなりに交流があった。つまり、タクヤは慶介の先輩である坂田について知っている。

 それに対する慶介の返事は『いや』というまたもや淡泊なもの。説明になっていない慶介の答えに首を傾げながらタクヤは尋ねる。


「ってことは野球部じゃないだろ? じゃあ、何部?」

「……サイバー技術研究部」

「何それ?」


 慶介の答えにまたもやタクヤは首を傾げる結果となった。


「サイバスロンの部活」

「サイバスロンって、あのサイバースーツを着て障害物走みたいなことをやっているアレ?」

「ああ」

「なんか、意外だな。俺はてっきり兄貴のことだから野球部だと思ってたし、野球部じゃなくても球技だと思ってた」

「色々あって……な」

「そっか。ま、がんばれ! 何もしないけど応援だけは無責任にしておくから。あとさ……」


 タクヤは口の中のトーストを飲み込むと慶介に笑いかける。


「……兄貴ならサイバスロンもよゆーで出来るって俺は思っているし。そんなに気負わなくてもいいんじゃない?」


 弟の軽い言い様に慶介は軽く笑みを浮かべた。タクヤの言葉を聞いていたら、昨日まで深く考えていた自分が馬鹿らしくなった。確かに、不安は完全には拭い切れない。だが、タクヤの励ましで少し肩の荷が下りたような気分になったことは否定できない。


「そうだな。ありがとう、タクヤ」

「いいってことよ。ごちそうさま」


 手を合わせたタクヤは椅子から立ちあがる。


「タクヤ、歯を磨けよ」

「分かってるっつーの。兄貴は俺のおかんかよ」


 リビングの扉を後ろでに閉めながら、空いていた左手でドアに付けられているガラス越しに手を振り自室へと向かうタクヤを見ながら、慶介は残っていたトーストを口へと押し込む。まだ時間には余裕があるが、平日と同じように学校についた後に缶コーヒーによるコーヒーブレイクを取るためには今ぐらいに余裕を持って出るべきだ。朝食で使った皿を洗う時間も加味すると、そろそろ行動を開始した方がいい。


「はぁ」


 慶介は立ち上がり、皿を持ちながら溜息をつく。人を使うことが上手い奴だと目の前にあるタクヤが使っていた皿を見ながら、慶介はもう一度、溜息をついた。


+++


 今日もいつもと変わらず、慶介は自動販売機の前に佇んでいた。いつもと同じように100円硬貨を入れ、ガタンという音と共に出てきた缶コーヒーを手に取る。

 同級生の多くはブラックコーヒーを忌避し、その理由は苦いからと聞くことがよくあった。苦いのが美味しいのに思いながら話を聞いていたことを思い出した慶介は、ふと旭はどうなのだろうかと考え、すぐに考えることを止めた。

 答えは本人や彼女の友や親しか知らないことであるし、自分はそのような個人的なことを聞くことができる程度に彼女と親しくない。

 他人の好物を聞くという些細なことでさえも、他人の迷惑にならないかどうか考える慶介の心の内を知った人間は、その考えは行き過ぎだと、考え過ぎだと彼を笑うだろう。そして、優しくもう少し気楽に生きるべきだと語りかけることになる。

 しかしながら、それはあくまでも仮定の話である。慶介自身が周りの人へと相談なり何なりをしないから周りの人間はその考えに気づく切欠すらもなかったのだ。


「ん?」


 缶コーヒーを買った後、旭との待ち合わせ場所であるサイバー技術研究部の部室へと向かう慶介の耳に誰かが言い合う声が聞こえてきた。

 慶介は何事かと足を速める。廊下の角を曲がり、声が聞こえてくる方向を見遣ると、昔の顔馴染みと旭が言い争う、というより、昔馴染みが旭に上手いこと言いくるめかけられて若干、泣きそうな顔付きになっている様子が見て取れた。


 入部早々、厄介なことになりそうだ。

 今日4度目となる溜息をつく慶介。起床から僅か2時間の間にここまで悩まされることがあった日はあっただろうかと考え、その答えに思い至らない慶介は額に手を当てる。

 ここで立っていても仕方ない。気は進まないが、話に夢中で自分のことに気がついていない前方にいる二人の元へと進むしかない。

 慶介は本日5度目となる溜息をつき、一度止めた足を動かすのだった。

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