第1話 躓く石も縁の端

 いつからだろうか? 空を眺めるのが好きになったのは。

 少年は自分の心に問いかける。その問いに答える者は自分自身であり、その答えを知っていながらも少年は自分自身に問いかける。


 ――空を眺めるのが好きになったのは生まれつきだ。物心付いた時には暇な時間があれば、空を見上げていた。

 思うに、自分は不器用なのだろう。だからこそ、人との距離が測れない。その距離を測るために遠い場所を見てピントを、つまり、距離を合わせる練習をしているのではないか?


 ――それは違う。何の理由もないが、他人に話しかけるのが好きでないだけだ。自分の心の領域に知らない人間を入り込ませたくないだけだ。

 少年は素直であった。自分の心が出した答えに何の疑問を抱かずに納得する。


 嘆息しながら、片手に持った空の缶コーヒーをスチール缶の回収ボックスに入れ、彼は再び空を見上げる。春色に染まった午前中の陽気は『これから一日がんばりましょう』と言っているようだ。少年は空から地へと視線を移した。

 高校に入学して、1ヶ月が経とうとしている。クラスの話題の中心は、高校に入って新しくできた友達と大型連休を使ってどこそこに遊びに行こうという話で持ち切りだ。しかし、彼は誰からも誘われていないし、彼自身もそれでいいと思っている。クラスの中で皆との関係が良好でないという訳ではない。漫画やアニメでよく出てくるいじめられっ子のような経験、物を隠されたり、クラスの皆から無視をされたりなど、は彼の人生に置いて一度もなかった。話をすることが必要である時はきちんと受け答えしてくれる。

 ただ、距離が掴めない。誰にとっても、自分は特別に仲がいい存在という訳ではないだけだ。“友達”ではないが、“知り合い”。街ですれ違ったら挨拶と数十秒の立ち話をする程度の距離感だ。だから、このような空いた時間は、一人缶コーヒーを片手に空を見上げている。

 再び溜息をついた少年は踵を返し、自身の教室へと戻ろうとする。しかし、その足はすぐに止まることになった。


「ん?」


 声が聞こえた。助けを求めているような寂しげで小さく高い声だ。

 少年は周りを見渡し、鳴き声の発生源を捜す。と、彼の視線が前方にある木に注がれた。


 ――そこか。

 少年はその木の傍に駆け寄り、上を見上げる。そこには彼の予想通り、鳴き声を出すモノが居た。子猫だ。まだ、小さく、成長し切った猫ほど運動能力に優れていない子猫にとって、木の上は普段とは違う光景を見ることのできる場所。しかし、その場所は一度行けば戻ることのできない場所でもある。好奇心は猫を殺すという言葉があるが、なるほど、今の子猫の様子をその言葉は実によく表していた。


「仕方ないな」


 少年は着ていたブレザーを脱いで地面に置く。そして、両手を木の幹に当てながら膝を曲げて力を溜める。一瞬、息を止めた少年は足に溜めた力を爆発させながら、上へと跳び上がる。それと同時に木の幹に置いていた手を支点とし、自分の体を上へと持ち上げる。上へと稼いだ距離を更に伸ばすため、少年は先ほどまで手を置いていた箇所のすぐ下の部分を蹴る。上に向かう力を更に得た彼の体は子猫が震えて固まっている木の枝、その横の枝に移動することを許された。


 その所作は猫、いや、豹と呼べるだろう。しなやか、且つ、強靭な筋肉が蠢く様子は彼の運動能力が優れていることを示す証拠だ。

 少年は子猫の横の枝から手を伸ばし、子猫の体を手に取りそれを自分の胸へと抱き寄せる。子猫が落ちないように十二分に注意をしながら、木の枝から地面へと飛び降りた少年は体全体を使いながら着地の衝撃を殺す。息を少し長く吐き出した少年は腕に抱えていた子猫を目の高さまで持ち上げて言葉を掛ける。


「お前も一人か」


 自分の言葉にフッと軽く噴き出した少年は自嘲する。今更、一人が寂しいという年齢でもあるまいし。何より一人でいいと、自分の心の領域に知らない人間を入り込ませたくないだけと、そう答えは出ている。ならば、子猫に声を掛ける行為に意味はないだろうに。


「君、いいね」


 静かに、だが、はっきりとその声は少年の耳に届いた。

 後ろを振り向いたと同時に彼の腕の中からは子猫が逃げ出した。そこで、彼は気づいた。

 “見られた”と。自分が子猫に話しかけているのを見られたと。自分は子猫に話しかけるような人間にはとてもじゃないが見られない。

 少年の容姿は控えめに言っても“優しさ”とは無縁の造形をしている。“厳しさ”が先に出るだろう。歯に衣を着せずに言えば、裏社会で生計を立てている人物にも通じる剣呑とした雰囲気。初見では、触れれば斬り捨てられてしまうようなイメージを湧き出させる。そんな自分が子猫に向かって話しかけているなどイメージからかけ離れている。そのような羞恥が少年の頬に彩りを加えた。

 頬を赤く染めながら、少年は自分に声を掛けてきた人物を見る。正確には、少年は羞恥でその人物の足元を見ることしかできなかった。それは礼を失することであるとは分からない少年ではない。しかしながら、どうしても目の前の人物と目を合わせるのは躊躇してしまう。


「君、名前は?」


 しかし、声を掛けてきた人物は少年の態度を特に咎めることもせず、それどころか全く気にしていないという態度で少年に話しかけてくる。


「ああ、すまない。人に尋ねる前に自分から名乗るのが筋だな。私は嘉瀬。嘉瀬かせ あさひだ」

「あ、どうも」


 少年が言葉を口に出す前に目の前の人物は言葉を続けた。他人を安心させる声色。やっと、少年は目の前の人物、嘉瀬かせ あさひと名乗った人物を正面から見ることができた。


 第一印象は綺麗な人だ、という月並みな感想。首元までの黒髪に白いメッシュを入れている。肌は白く深窓の令嬢という言葉がよく似合う凛としながらもどこか儚げな印象を受ける女性だ。彼女の目鼻立ちは整っており、モデルであると言われたら何の疑問も持たず納得できそうだ。そして、より少年の目を引いたのは彼女の勝気そうな目だ。

 そして、第二印象は厄介そうだなという感想。その感想を抱いた理由は嘉瀬という人物の目にある。キラキラと輝く目は自分をジッと見つめているが、その目の種類は以前にも見たことがある。この高校に入学してから数日後に受けた体力検査。その時にそれなりに高い数値を出した。そして、それから今日まで様々な部活、サッカー、バスケ、テニス、バレーなど、の勧誘を受けている。目の前の彼女はその諸先輩方と同じような目付きをしている。十中八九、今の子猫を助ける際に木に軽く登った行動を見られたせいで、彼女は自身の部活に自分を勧誘しようとしていると少年は当たりを付けた。


 またかと内心思いながらも少年はそれを全く表に出さずに彼女に頭を下げる。高校に入学してからこの手の勧誘には慣れたものだし、中学の時も今と比べれば少ないものの勧誘はそれなりに多かった。


山本やまもと 慶介けいすけです」


 だから、知っている。大抵の場合はこちらが礼儀正しく断り続ければ諦めてくれる、と。例外もいることはいたが、あの人は例外中の例外だろう。あれほど根気強く自分を勧誘する人などあの人以外にはいない。


「じゃあ、授業があるんで」


 慶介は彼女にそう言い残して、地面へと脱ぎ捨てていたブレザーを拾い上げる。そして、教室までの道のりを進もうとした。


「まあ、待て。一限目が始まるまであと5分はある。私の話はそうだな……1分で終わる。少し聞いていかないか?」


 ほんの少しだけ慶介は考えて結論を出す。どうせ、自分の出す答えは決まっている。部活の勧誘なら断るだけ。いつもと同じようにするだけ。


「それなら……」

「ありがとう。では、時間もないようだし、早速、本題に移らせて貰う」


 唇を興奮に震わせながら嘉瀬と名乗った人物は言葉を紡ぐ。


「我々と共に世界を驚かせてみないか?」

「はい?」


 彼女の口から出てきた言葉は慶介の予想の斜め上を行っていた。目を白黒させる慶介を尻目に、彼女は続け様に言葉を繋げる。


「私たち“サイバー技術研究部”は君のような、いや、君と会った今、こう言うのが適切だろう。私たちは君を求めていた! 質実剛健、威風堂々。君ならば世界の頂点に立つことができる! まあ、私たちの力が君と十全に噛み合ったとすればの話だが」


 彼女はそう言って含み笑いをする。


「“サイバー技術研究部”?」

「ああ、そうだ。サイバスロンという競技は知っているかい?」

「少しなら」


 テレビで見たことがある。人と最新技術による競技。近未来のオリンピックと言われていた。しかし、慶介の知識はそこまでだった。そんな慶介の様子を見た旭は優しく彼に微笑む。


「少しだけで十分だ。詳しいことは君がサイバー技術研究部に入部した時にしっかり伝えよう。それで、ここまで説明したら君なら理解できたと思う」

「……部活の勧誘ですか?」

「そうだ。君にはぜひ、我々サイバー技術研究部に入部して欲しい」


 旭は手を広げる。


「日進月歩で進化する科学技術。その荒ぶる奔流の中で先陣を切り、空前絶後の先駆者と成ろうじゃないか。世界に我々の力を見せつけよう世界を変えよう」


 彼女は大きく息を吸い込んだ。


「さぁ、共に歩もうではないか!」


 彼女は手を慶介の方に差し出し、微動だにしない。慶介が動くのを待っている。だが……。


「お断りします」

「そう言うと予測していた」


 慶介に息もつかせず彼女はポケットの中からスマートフォンを取り出し、画面を慶介に見せる。


「あ……」


 慶介の目が大きく見開かれた。慶介の目に映った映像。それは先ほどの自分の失態。


『お前も一人か』


 彼女が持つスマートフォンからは流れてきた自分の声に慶介は全ての動きを止めさせられた。ゆっくりと首を動かして、目の前に立つ彼女を見遣る。そして、彼女の隣に寄り添っている子猫を。


「よくやってくれた、ノートルダム」


 そう言って、子猫の頭を撫でる旭。その一見、微笑ましい様子を見て、信じられないという表情を浮かべる慶介。そこには、見事なコントラストが表現されていた。


「ん? 呆然自失といった様子だな。大丈夫か?」


 一体、誰のせいでこんな嫌な気持ちになっていると思っている?

 そんな感情を乗せた目付きで彼女を睨むが、彼女はどこ吹く風という態度で美しく、そして、怪しく嗤う。


「そう睨むな。怖いだろう?」


 ワザとらしく体を震わせる旭の様子にイライラが募る慶介ではあるが、彼女の目的を瞬時に把握した彼は一つ溜息をつくことで気分を入れ替える。


「その動画を消して貰うには、そのサイバー技術研究部に入部しろということですか?」

「半分正解だ」


 クルリと体を回転させた旭は彼女の後ろの方にある自動販売機へと向かっていく。彼女は一体、何をしているのか? 彼女が何をしようとしているのか見定めるために彼女に近づいていく。


「君を得ることが半分だ」

「ええ」


 慶介は一つ頷き、彼女の言葉を待つ。


「それは、つまりこういうことなんだ」


 旭は自分の財布から100円玉を取り出して、それを自動販売機の中に入れる。軽い音がして、自動販売機のボタンにランプが灯った。


「君がサイバー技術研究部に入部することは自動販売機の中に硬貨を入れて商品を買うことと同義だ。つまり、君を得ることによって“あるもの”を最終的に手に入れることが目標だ」

「“あるもの”?」

「サイバスロンVer.2.2、その全国大会制覇」


 彼女の指が飲み物のボタンを押した。自動販売機からガコンと音がした。屈み、商品を受け取り口から取り出す。


「受け取りたまえ。これは私から君に対する先行投資だ」


 旭は茶色の缶を慶介へと差し出した。


――ココアか。


 甘いモノは苦手なのにな。慶介は思わず苦笑する。しかし、自分の演説で悦に入っている旭はそれに気がつくことはなく、右手を慶介へと向ける。


「共に歩もうではないか! 友よ!」


 無茶苦茶だ。そう思いながらも、慶介は顔を綻ばせる。過去に自分が必要とされたことはあった。だが、自分を“友”と呼んだ人は誰もいなかった。

 なぜだろう? ただの言葉でしかないのに、ここまで自分の心を打つなんて。

 慶介が旭の手を取ると、彼らを祝福するように始業のチャイムが鳴った。特別な時になる鐘としては随分と安っぽいものだと笑った瞬間、彼の表情が凍り付いた。生真面目な彼には許すことはできなかったのだろう。小学校、中学校と皆勤賞を受け取っていた彼にとって、遅刻というものは断じて許されるものではない。

 この時になって、彼は気づいたのだった。彼女の話は1分で済んでいなかったと。

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