鏡から現れたひと

飛竜

ある少女の話

りんごの不思議な1日

 八時前の通学路に、シンプルで丸い二つ折りの手鏡が落ちていた。ふたは眩しいほど金色に輝いているし、鏡も指紋やホコリをつけずにまるで新品のようだったが、使い古されたもののような感じがする。ふたにも鏡のふちにも大した装飾はなく、それが余計にその金色の輝きを目立たせていた。

(きれいに手入れされた手鏡だな。落としたひとはきっとがっかりしてるんだろうな。)

手鏡を拾ったさかきりんごはそう思うと、この手鏡が持ち主の元に戻りますようにと願いながら、見つけやすいように丁寧に塀に立てかけた。その道は花小沢はなおざわ高校の生徒や職員のほとんどが通る通学路だったが、それ以外で通る人はほとんどいることはなく、昼間でも薄暗くて狭くて塀に囲まれた裏道だった。この辺に住んで人のものかな、と思いつつ、りんごは学校に歩みを進めた。手鏡は冷たい塀にもたれて、弱々しい太陽に照らされながらりんごを見送った。



 りんごは朝早く学校に行くのが好きだった。特に冬の朝の少人数しかいない校舎の、パリッと冷たく澄み切った空気が最高で、毎朝始業の一時間前に登校して読書をする。頭がすっきりして、いつもより素直に物語の世界へ入っていけるのだ。あともう一ついいことがある。それは、隣の席の浦川小雪うらかわこゆきも朝早く来るため、毎朝会えることである。小雪とりんごはとても気の合う友達で、りんごの初めての男友達だ。りんごは小雪の笑顔を見るのが好きだった。小雪の笑顔は、悩みも心配事も一瞬忘れさせてしまうような、独特な雰囲気を持ったすばらしい笑顔なのだ。朝は、隣のクラスの小雪の親友の時雨しぐれが来て、小雪と話をしたり、一緒に課題をこなしたりする。そうすると、少なくとも一回、小雪は笑うのだ。そのときだけりんごは本の世界から戻ってきて、小雪の顔を見るのだった。

 その日の朝も、小雪は素敵な笑顔を見せてくれた。ただ、一度目が合ってしまって、りんごは恥ずかしさで自分の顔が熱くなるのを感じた。りんごは誰かに見られていると緊張と恥ずかしさでいっぱいになってしまうのに、小雪は追い討ちをかけるかのようにじっと見てくる。心拍数が早くなり頭もくらくらしてきて、とっさに本で顔を隠して物語に戻ったかのようなフリをした。

「・・・小雪?」

時雨の呼びかけで小雪もりんごを見るのをやめた。もう見られていないはずなのに、顔は熱く、心臓のどきどきも収まらず、頭もくらくらしたままだった。

 朝からなんだかおかしいなとは思っていた。でもたいしたことではないと判断して、三時間が経ったとき。突然頭をハンマーで殴られたような鈍い痛みが襲って、呼吸が苦しくなった。視界はぼやけてきたし、先生が宿題を忘れた生徒をしかる声も良く聞こえない。あ、熱があるんだな。そう思ったときにはもう遅くて、意識が遠のいていった。

「先生!榊さんが・・・!」

ぎりぎりの状態でも、小雪の「やっぱり体調悪かったのか」というつぶやきと、大声を出して先生に知らせる声ははっきり聞こえた。



 「三十八度四分。だいぶ熱も下がったわね。親御さんは車で迎えに来てくれるそうだけど・・・。前の道って車は入れるのかしら・・・。」

起き上がってみても、くらくらふらふらすることはなかった。母が歩いて迎えに来るのを待つのは面倒だったし、早く帰りたかった。

「・・・先生。私、立ってもくらくらしないし、母があと数分で着くなら前の道をまっすぐ歩くだけなので・・・。」

「一人で行くの!?でも、寒いし、熱があるんだし・・・。」

「大丈夫ですよ。コートを持ってきているし、前の道は車が通れない道だし、もともと人通りは少ないから自転車とかに気をつける必要もないし。」

「でも、人通りが少ないってことは助けてくれる人もいないのよ!?」

「たかが二・三分、倒れないで歩けますって。」

「・・・わかったわ。先生が付いていきます。」

「でも先生はここにいないと・・・。」

ガラッと保健室の扉が開いて、保健委員らしき子と、熱を出しているような子が入ってきた。保健室の先生は眉毛を八の字にして、入ってきた子とりんごを見比べた。

「・・・私は大丈夫ですって。」

先生はそれでも未練がましい顔をした。

「この保健室にベッドは一つしかないし、私は早く帰りたいので・・・。」

りんごはだんだん面倒くさくなってきた。自分がなぜこんなに早く家に帰りたいのか分からない。熱があるはずなのに、なぜこんなにまっすぐ立てるのか分からない。不思議だ。

「・・・・・・わかりました・・・。親御さんにはきちんと連絡しておきます。」

先生は、ここがもう少し広かったら・・・とぶつぶつ言いながら、クラスの友達が運んできてくれたりんごの荷物を差し出した。りんごはそれを受け取ると、「ありがとうございます。」と言って保健室を出た。



 外は寒かったが、りんごには気持ちよいくらいの冷たさだった。朝はあんなに澄み切った空だったのに、今ではもう太陽の光が入らないくらいに黒い雲で覆われていた。しかし風も吹いていないのに、突然、分厚い雲が動いて割れ、一筋の日の光が入った。そしてその光は何かに反射して、りんごを包んだ。思わず閉じた目を開けると、鏡が見えた。朝のあの手鏡だ。そして。それまで誰もいなかったはずの道に人が立っていた。まるで鏡から現れたかのように。長身で短髪でやる気のなさそうな細い目、銀縁めがねに黒い学ラン。りんごはその人を知っている。そう、浦川小雪だった。

「えっ、なっ、浦川君!?」

りんごが小雪を見て驚いたように、小雪はりんごを見てびっくりしていた。口を開いてパクパクしたが、声は聞こえなかった。りんごはびっくりした衝撃か、熱の症状がぶり返してきた。ふらふらして、耳鳴りがする。小雪もりんごのそんな様子に気づき、とっさに腕を掴んで支えようとした。しかし、支えが入る前に体勢を立て直し、塀に手をついて自分で体を支えることができた。

「・・・あの、私帰らないといけないから。」

りんごが道の先を指差して言った。しかし、小雪はりんごの言ったことが分からないようなそぶりを見せた。もしかして自分の声が小さすぎたのか。そう思ったが、そんなはずはなかった。保健室では同じボリュームで普通に話していたではないか。小雪はやっと分かったらしく、口を動かして親指で自分を指した。でも、やはり声は聞こえなかった。

「・・・自分も、って言ってるの?」

今度は何を言ったか分かったらしく、うなずいた。

「そっか、じゃあ・・・」

りんごは言葉を続けるべきか、続けるべきではないのか一瞬迷ったが、前者を選んだ。

「一緒に行く?」

小雪はまた一瞬考えて、うなずいた。りんごは少し嬉しかった。しかし、歩き始めたは良いものの、さっきからうまく話せないので黙ってしまう。不思議なことに、どうやらりんごの声は小雪に聞こえないらしい。小雪の声もまた、りんごには聞こえていなかった。りんごはふと、同じクラスの田中が騒いでいたことを思い出した。

(田中はたしか、ドッペルゲンガーがどうとか言ってたな。ドッペルゲンガーってある人に姿かたちがそっくりなやつだよね・・・)

まさかと思った。姿かたちは確かに小雪そのものだ。りんごを支えようとした態度も、一つ一つの仕草も、小雪らしい振る舞いだ。ただ・・・

(浦川君にしてはまじめだな。)

小雪と言えば、すぐに調子に乗ってふざけるというのが常だった。それから、誰かに何かを話すのが好きらしく、いつも話している。そのため、会ってからまだ一度も声を聞いていないというのが不思議だった。それに、小雪はなぜここにいるのだろう。自分と同じ早退なのだろうか。授業中に?体調不良でもなさそうだったのに?”ドッペルゲンガー”。その言葉が頭から離れない。りんごは鞄からスマホを取り出すと、インターネットを開いた。


ドッペルゲンガー・・・自分の姿にそっくりな分身。または、同じ人物が同時に複数の場所にいる現象。周囲の人と話さない、本人と関係する場所に現れる、などの特徴があり、見たら死ぬと昔から恐れられてきた。


りんごは確信した。ここにいる小雪は本物ではない。ドッペルゲンガーだ。そう思ったあとにスマホに映る文を見ると、「見たら死ぬ」と言う文字が浮き出て見える。

(見るも何も、一緒に歩いてるよ・・・)

田中が騒いでいたのはこれのせいかもしれない。実際に会った後で「見たら死ぬ」なんて聞いたら、怖がらずにはいられないだろう。とても信じられないと人は言うかもしれない。けれど、ここにドッペルゲンガーが存在していると思うと、なんでも本当じゃないかと思えてきてしまう。だって、都市伝説のような存在が、今、目の前にあるのだから。すると、ドッペルゲンガーの小雪は不思議そうにりんごの顔を覗き込んだ。りんごは驚いて悲鳴をあげそうになったが、すんでのところで抑えた。

(見てしまったのだから、もうここからは何をしても一緒!そう思おう!)

精一杯作り笑いをして、なんでもないと言う意味をこめて首を振った。小雪はなんでもなくはないだろうと言う顔をした。こういうところが本物ととても良く似ている、とりんごは思った。りんごが倒れたときもそうだったが、小雪は細かいところに気づいて本気で心配できる、思いやりのあるひとなのだ。そう思うと、恐怖が少し和らいだ。

 母の車が見えた。母らしき人物も近づいてくる。りんごはドッペルゲンガーの小雪に振り向いて、

「私、お母さんが来たから、ここでお別れ。」

身振り手振りで一生懸命伝えた。すると分かってくれたらしく、小雪は手を振って、そして笑った。ぶわっと温かい風が吹いてきた気がした。さっきまでドッペルゲンガーに会ってしまったと恐怖していたのに、全てが風と一緒に吹き飛んでいった。本物の小雪の笑顔だった。りんごはなんとなく安心した。目の前にいる人はドッペルゲンガーかもしれない。見た人は死んでしまうのかもしれない。でも、このひとも浦川小雪だ。思いやりがあって、笑顔が素敵な私の友達なんだ。小雪の笑顔につられてりんごも微笑み、手を振った。

「バイバイ。」



 「熱があるのに一人で来るなんて危ないわよ。先生も先生よね。」

母は車を運転しながらぶつぶつ文句を言った。

「仕方がないよ。私が帰らないと別の子がベッド使えないし、先生もその子の世話しないといけないし、他の先生は授業だし。」

「それでもさあ・・・」

りんごは窓の外を見た。さっきまで自分が歩いていた道には、もう、誰もいなかった。母と会って車に乗ったときには、すでに小雪の姿はなかった。ひとつ手前の道を曲がっていってしまったらしい。りんごは焦点を合わせることなく空を眺めて、ぼーっとする頭で「熱のせいで見た幻影だったのかな」と考えた。りんごがふらついたとき、小雪は確かにりんごの腕を掴んだように見えたのに、実際かすった感じすらしなかった。

(もしかしたら、今日のことが全部夢なのかも・・・)

りんごの体力はそこまでで限界だった。意識がフェードアウトして、そして深い眠りについた。


 それから、小雪のドッペルゲンガーに会うことはなく、死ぬこともなかった。ただ、本物の小雪と時雨にドッペルゲンガーのことを話したとき、二人は一瞬焦ってた。りんごは何か知っているのではないかと疑ったが、

「ドッペルゲンガーなんてただの都市伝説みたいなものだろ?」

と小雪に笑顔で言われてしまって、何も言えなくなってしまった。道端の手鏡は無くなっていて、りんごが体験したことが事実だと証明するものは一切なくなった。

しかし、本当に夢だったのだろうか。

                    

END?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鏡から現れたひと 飛竜 @rinky

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ