始まりの時③
イナサは唐突に目を覚ました。
花の香りに包まれた気がした。
懐かしい友の微笑みと想い出をくすぐる香り。
ああ、あれは何の香りだったのか。
思い出そうにも何一つ浮かばない。
胸の奥がずきりと傷む。
ところが意識がはっきりしてくると、すぐに目の前の現実に更に落胆することになった。
身体は冷たい石の地面に力無く横たわっていて、ずしりと重い。
ぼんやり見上げる空は鈍色で、今にも泣き出しそうだった。
なんだ。何にも変わって無いや。
そう気付いてしまった瞬間に、瞼も閉じはじめ、それに反抗する気力すら起きなかった。
また意識を手離そうとした、その時。
「よくやった。」
頭上から聞きなれた声が聞こえた。
重い頭をのろのろと僅かに傾けると、全身黒ずくめの男が頭上に佇んでいた。
その美しく整った顔は、倒れているイナサに視線を向けることも無く、何処かを見つめている。
だが、イナサには視線など必要なかった。
彼がいるということは事態の収束を意味しているからだ。
それに口を開けば悪態しかつかないその口からの初めての褒め言葉がイナサの意識を現実に引き戻した。
「……っ。」
言葉を発しようとしたが、何も出てこなかった。
口も喉も渇ききっていて、全く声が出せなかったのだ。
本当は色々聞きたいことも言いたいこともあるのに、まるで駄目だ。
身体も口も全く動かせない。
そんな努力をするイナサを、いつもの彼なら鼻で笑うだろう。
「無様だな。」と。
笑ってくれたらいい。
彼が笑わずに労うなどあってはならない。
そんなイナサの絶望など、彼は構ってなどくれない。
彼はイナサの隣へゆったりと優雅に腰を下ろすと、丁寧にイナサの頭を持ち上げ、何処からか取り出した仙桃を口へと運んでくれた。
途端に口は勿論、身体中に水分が充ちる感覚に包まれ、あれだけ重苦しく動けなかった身体に少しずつ力が入りはじめる。
少し落ち着いたイナサの様子を見てとったのか、彼がもう一度口を開く。
「よくやった。」
まるで念を押しているようだった。
イナサが恐る恐る表情を伺うと、初めて見る優しい表情だった。
イナサの心がざわつく。
不安ばかりが胸を掻き立てる。
その表情の意図する意味がわかっているから。
「あの娘は?」
イナサ自身でも分かるほど声が震えている。
寒さのせいではない。
黙って視線を外す彼の視線を追うと、そこには身体中に封印咒を施され身動き一つ取ることもない彼女の身体が鎖に繋がれていた。
「あぁ……」
イナサの悲痛な呻き声をかき消すように、雨が降り始めた。
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