第1章

【その夜】


 時刻にして午後七時ごろ。


 ツムリは自宅でのんびりと夕食の準備をしているところだった。


 庭つきの瀟洒な一軒家だ。

 今、父は会社の残業、母はボランティアの集会、兄は北階道の大学に入り一年前からアパート暮らしをしているので、家にはツムリひとりしかいなかった。

 ツムリはオーブンで自分の食べるぶんの塩鮭の切り身を焼いているところだった。油がジューッと音をたて、なんともいえない芳香が立ち上ってくる。 

 昼間の出来事が幻覚だったように思えるほど、外には静かな夜が広がっている。

 視線を室内に戻すと、テーブルの上には、すでに湯気立つごはんや、さっき洗ったトマトとレタスのサラダが乗っている。全部自分が作ったのだ。


 そんなささやかなやすらぎの時間を突如として破ったのが、激しくツムリ家の玄関のドアを叩く音だった。

 ドンドンドンといきなり静寂を破ったので、


「えっ?」


 ツムリは思わず体がビクッとなった。


 それはほとんど暴力的に、扉をぶち破らんばかりの勢いで何度も執拗に繰り返されている。


「いったい何? どうしたの?」


 玄関にはちゃんとチャイムがついているはずなのに、悠長に押すのももどかしいといったような、どこかしらせっぱ詰まった感じが強烈に伝わってくる。

 おびえる気持ちはあったが、それよりドアが今にも破壊されそうな別種の危険を感じたので、ツムリはキッチンを出てあわてて玄関向かって走っていった。そうして相手が誰か確かめることもなく、そんなに強く叩かないでとばかりあわててドアを開けたのだった。

 同時にツムリを押しのけるように家の中になだれ込むように昼間のナズナセリが入ってきた。


「……え?」


 セリはいきなりツムリに向かって、


「塩鮭焼いてるでしょ!」


 と怒鳴った。


「……あ」


 わけがわからない。確かに焼いているところだが……。


 さらにその上、ナズナセリはほとんど全裸だった。

 いや、正確には体にカーテンみたいなものを巻きつけた状態だったのでその下が全裸かどうかはじっさいにはわからないのだが、こういうシチュエーションの場合は全裸のほうがなんというかしっくりくるというものだ。

 さらにいうと彼女の全身は長い髪まで含めてしっとり濡れている。確か外は雨なんか降っていないはずなのに。


「あ、あの……」


「塩鮭焼いてるでしょ!」


 そのあまりの剣幕にびっくりしたツムリは、おもわず「あ、ああゴメン」とあやまってしまった。


「目を離すと焦げる!」


「あ、そだね」


 ツムリはキッチンに走って戻り、オーブンを開けた。よかった。まだ焦げてない。ちょうどいい感じの焼きかげんだ。

 どうしてセリがこの家で鮭を焼いているのがわかったんだろう。換気扇は回していたが、それにしたって相当鼻がきくようだ。


 と、セリが強引にツムリを押しのけ、オーブンの中の焼けた塩鮭の切り身を見つめた。まだかすかにジュージューと音がしている。


「ごめんなさい。悪いけど詳しく説明してるヒマはないの。この塩鮭、私にちょうだい」


「へ?……」


 ツムリの返事を待たず、セリはやにわに焼き上がったばかりの塩鮭を掴んだ。


「あついっ!」


「あ、ああ無茶だよ」


 床に落とした塩鮭をセリが拾い上げようとしたその時、ドンドンドンとまたしても激しくドアを叩く第二弾の音が聞こえてきた。


 今度は誰だ。


 セリはあわててアツアツの塩鮭を拾い上げ、「クッ」と指に突き刺さる熱さに耐えるように顔をしかめ、その切り身を手にしながら音のする玄関の方向を睨みつけると、


「ちょっとトイレ借りるわよ」


「あ、う、うん、そこ出て右だよ。誰かに追われてるの?」


 セリは何も答えずにキッチンから飛び出ていった。


 ほとんど同時にものすごい衝撃音がすぐそばで聞こえ、ツムリは思わず飛び上がってしまった。ガラスのサッシをぶち破り、いきなりふたりの男が家の中に飛び込んできたからだ。ドアから庭を通じてこっちのほうに回ってきたようだ。セリを中に入れたあと鍵をかけてなかったのだから、そんなことしなくたって玄関から入れたものを。


 突然乱入してきた男たちはふたりとも見たことのない高校の制服を着ている。短いマントのようなものを羽織っている。インバネスコートというのだろうか。ふたりとも手にサスマタ持っており、しかも両方ともタツノオトシゴのマスクをかぶっている。尋常じゃない。きっとセリを追ってここまで来たものと思われる。でもどうして? 


「ナズナセリはどこだ」くぐもった声でひとりが聞く。


「この家に入っていくのが見えたぞ」もうひとりがいう。


「……ヒドイよ」


 破壊されたガラス戸を見てツムリは泣きそうになった。こんな乱暴に破壊されたところを見たら家族はなんて思うだろう。僕がいったい何をしたっていうんだ、ただ晩ごはんを食べようとしていただけなのに。


「さあどこだどこだ、さっさと答えろ!」


 ひとりがサスマタをグイとツムリに突き出した。ヘタレのツムリはうしろによろめき尻餅をつくと、システムキッチンの壁に後頭部を打ちつけた。


「探せ、二階かもしれない」


 ふたりの男が土足のまま階段をのぼっていった。


 同時にトイレからセリが出てきた。


「やっぱりあいつらね」


「いったいこれはどういうこと?」ツムリは頭と腰をさすりながら立ち上がるとセリに詰め寄った。


「あれっ? そういえばあなたとは昼間ヒカップ学園で会ったわね」


「ええっ、今頃?」


 あんのじょうツムリの家とは知らずにたまたま入り込んできたらしい。


「あなた、確かツムジくんだったわね」


「ツムリだよっ、それより何がどうなってんの? わけわからないよ、説明してよ! なんでいきなり僕の家に来たの?」


 すると声を聞きつけ、さっきの二人組がダダダダと階段を駆け降りてきた。


「やっと見つけたぞ反逆者ナズナセリ! 覚悟しろ!」


 ふたりは手にしたサスマタを構える。


「うわあああっ」


 巻き添えを食っちゃかなわないと、あわててツムリはセリから飛びのいた。


「おまえもとうとうおわりだな」


 ひとりがセリにサスマタを突きつける。


「不意をつかれたのがよっぽど意外だったと見える。マリマリアのやつが全部吐いたんだよ」


「彼女は無事なの?」


「さあな」別のひとりが答えた。


「あなたたちはどこの者?」


「俺たちは寄与瀬スピュータム学園のもんだ」


「寄与瀬スピュータム学園? ならどうしてミタラシオサムが直接来ないの? あなたたちのような雑魚じゃ話にならないわ」


「エケケケケここまで必死に逃げてきたくせによくいうじゃねえか。そんなことより絵戸川ヒカップ学園にはすごい美少女がいるそうだな」


「えっ……」ツムリのほうがその言葉に反応した。「すごい美少女って……スズナちゃんのこと?」


 でもその声は消え入りそうにちいさかったので、タツノオトシゴの仮面をかぶったふたりの耳には届かなかったようだ。


「おまえにノサれた立皮フィーシーズ学園の連中が話してたのさ。今ごろはフィーシーズの連中がそっちに向かってることだろうな」


 いろんな人名や学園名が次から次へと出てくるのでツムリはわけがわからない。しかしひとつはっきりしたのはスズシロスズナに今まさに危機が迫っているらしいという点だった。もうとっくに彼女の自宅も突き止められていたんだ。


「雑談は終わりだナズナセリっ!」


 いうが早いかふたりはセリに飛びかかった。


 一瞬の間だった。


 ツムリの目の前で、まばたきする間にすでにタツノオトシゴのふたりはもうノビていた。口上よりはるかに短かった。

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