【マリマリア】


 歌っていた女は、屋上の柵がすぐ目の前に来る位置にパイプ椅子を置いて座っているのだった。背後に着地した三人に気づいたのか気づいていないのか、女は背中を向けたまま微動だにしなかった。


「マリア……あなたね」


 セリがつぶやくようにいった。


 それでも女は動かない。振り向きもしない。


「あなたの能力がここまで進化していたとは思わなかったわ」


「……」


「挟むアイテムを変えたのかしら。今まではただ、その甘い歌声で聴く者の足腰を立てなくさせるだけだったのに」


「……」


「いったい何があったの? ギンガはどこ?」


「……」


 相手が何もいわないので、それきりセリも黙ってしまった。


 数秒のあいだ、膠着状態が続いた。


 やがて女がゆっくりとパイプ椅子から立ち上がると、こちらを向いた。

 その目には生気がなく、感情の起伏も感じられなかった。


「マリア……、ギンガに何をされたの? 私のことがわかるかしら」


「……」


 マリマリアの目はうつろだった。こちらを見つめてはいるが視認はしていないように思える。


「……そいつ、どう見たってギンガにあやつられてるやろコラ」不意にオサムの声がした。


「……え」


 背後から聞こえてきた声に振り返ると、そこにはいつのまにかオサム、アザミ、ヒロシ、熊が立っていた。


 さいわいなことに皆気を失っていたので、マリアの歌を聴かずにすんだようだった。途中でセリが見失ったアザミも、きっと校庭のどこかでノビていたのだろう。しかも視力をすっかり回復している。どうやら一過性のものだったようだ。


 ヂョーたちに無理やり尻をむき出しされたはずのオサムは、とっくに誰かのズボンを適当に奪ってはいている。鋲の打たれたレザーパンツだ。


「みんな……」一同が勢ぞろいしているのを見たツムリの口から思わずマヌケな声が出た。無理もない。あれだけの混沌とした戦闘で一同がふたたび揃うのは想定外の出来事だったからだ。


「校庭が変なことになってる、と思っていてぇ」アザミが寝起きのように目をショボつかせながらいった。状況がよくわかっていないようだ。ドロドロに溶けた物体の正体にまだ気づいていないのかもしれない。


「コテマリさん、目は大丈夫なんですか」スズナが気遣う。


「やっと、開けられるようになったと思っていてぇ」


 ツムリ、スズナ、セリの溶けかかっていた手や足の一部分もまた、人間のほんらい持つ自然治癒力によってほぼ回復しかかっていた。耳をふさぐのがもう少し遅ければどうなっていたかわからない。


「なんか……デコが痛いんやけど、誰ぞにどつかれたんかのぉボケ」熊が額をさすりながら誰にいうでもなくいった。とうぜんセリに蹴られたことなどおぼえていない。


「僕が気をうしなってるあいだに何があったの?」ヒロシもやっぱり今のこの状態が把握できないといった風にきょとんとした顔をしている。


 彼らのほかにも校庭で気絶していた者たちは溶けずに倒れたままだった。


 セリはふたたびマリマリアのほうを向き、


「マリア、しっかりして。正気を取り戻して」


 すると、マリマリアの表情は見る見る悲しみに満ちたものになり、とうとう泣き出してしまった。


「私はもう……ギンガから逃げられない」


「マリア」セリが駆け寄り、マリマリアの手を取った。


「気がついたの? 自分を取り戻したの?」


「遅かった……」マリアがつぶやく。


「……え」


「捕まってすぐ、私の中に無理やりギンガが入ってきた……」


「……」


「今も、ギンガは私の中にいる……。もう、私は私じゃなくなってしまった……」


 そういうとマリアは乱暴にセリの手を振りほどき、両手で頭を抱えてくるくる回り出した。


「マリア!」


 セリはマリマリアを捕まえると両手でグイと抱きしめた。


「本当にごめんなさい。すべてあなたを便利に使った私の責任よ」


 するとマリアは顔を上げ、セリを見つめた。その目には光が戻っている。正気を取り戻したのだろうか。マリアは首を振り、


「違う。セリのせいじゃない。セリにギンガの情報を流したのは全部私が望んでしたこと。全部覚悟の上でしたこと。だから、誰のせいでもない」


「私が……あなたの中からギンガを追い出してやるわ」


「……どないすんねんコラ」寄ってきたオサムが聞いた。


「要するに、ギンガは今ここにいるってこと?」ツムリが聞いた。マリアの中にギンガがいるのならそういうことになる。いってみればギンガを一同で取り囲んでいる状態だ。


「彼女の中に入ってマリアを操っていたんだ、と思っていてぇ」アザミがいう。


「ほな、逆さにして振ったら出てくるんちゃうけボケ」熊が真剣な顔でいった。


「アハハハ」思わず笑ったヒロシがあわてて口を押さえると、咳払いしてシリアスな表情を作った。


「悪魔払いでもしてこの人の体からギンガを引っぱり出すの?」


 誰も答えない。


 一同はすっかり困ってしまった。


 セリは自分の腕の中でおびえている情緒不安定なマリアを心配そうに見つめるのみだった。


「……?」


 と、セリはマリアの右目を覗き込んだ。

 違和感がある。

 変なものが目に映っているのだ。

 強引にオサムが横から覗き込んだ。


「……これ、あれやんけコラ」


 あれといったきり言葉が出てこない。「なんやったかなコラ」


 マリマリアの右目の中に映り込んでいるのはドーム状の建物だった。

 ほかの者たちもいっせいに覗き込もうと顔を寄せてきたので頭がゴツンとぶつかった。


「痛いやんけボケ」


「あっ、ゴメンと思っていてぇ」


「……目の中にあるこの建物に、ギンガがいるってこと?」ツムリが聞く。


「……だとしても、どうやって行けばいいのかわからないわね」


 すると、マリマリアはもう大丈夫といった風にセリの腕をゆっくりとほどき、一同のかたまりを抜けると、二、三歩、足を前に出してから振り返って皆を見た。


「セリ……、私の中から必ずギンガを追い出して」


「約束する」力強くセリが答えた。


「私の目をじっと見て」


 そういうとマリアは両目を大きく見開き、セリやツムリたちをまばたきもせずにじっと見つめた。


 ピーンという耳鳴りがツムリに聞こえてきた。音は少しずつ大きくなっていく。


「どう……なったの?」ツムリが不安げに聞くがマリアは何かに集中していて答えない。


 マリアの右目がしだいにツムリたちの視界の中いっぱいに広がっていく。それに伴って彼女の眼球に映るドーム状の建造物がどんどん巨大化していく。耳鳴りがさらに激しくなり、轟音が混じり出す。今度は視界がブレはじめ、建造物の風景が色を失い出す。鋭い音の高まりにツムリは耐えられなくなり、思わず耳をふさぐ。


 フッと急に意識が遠のいた。





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