【溶ける】
人間や動物の隔てなく、今やこのソプラノのアリアに感動していない者は誰ひとりいなかった。
中には号泣している者さえいる。
ソプラノのアリアは檜腹ミューカス学園にいる生きとし生けるものすべての怒りと衝動と狂気、激情を完全に沈めていた。暴力の衝動はすべての生きものから消え去り、心の平安、魂の安らぎ、浄化を各自にもたらしていた。
狂った出で立ちのパンク不良集団も、ヤクザが高校生の制服着ているようなコワモテ軍団も、みんながなりふりかまわず泣いていた。ジャイアントパンダもコモドオオトカゲも三葉虫も泣いていた。巨大アメフラシも巨大イソギンチャクも至福の表情を満面にたたえながら号泣していた。誰もが目を閉じ、聞こえてくるおごそかな癒しの歌声をみずからの心の襞に浸透させながらうっとりとした顔に微笑を浮かべていた。
すべての顔は恍惚としており、夢見ごこちの天上感に包まれ、体ごと宙に浮いていきそうに見えた。ツムリもスズナもセリもヂョーもモヒカンもパンチもスキンも、幸福のオーラを全身に浴びつつ、現世を越えた見たこともない楽園を思い描いていた。
ツムリがかたわらのスズナを見ると、彼女は途切れることのない涙とともに恍惚の表情をしていた。もちろんツムリもまったく同じだった。ふたりは互いに見つめ合い、そして微笑み合う。そうしてツムリは顔を上げ、集団トランス状態に入った校庭の人間や動物たちを見回した。
幸福を感じていない者はひとりもいなかった。誰もが目を閉じ、慈愛に満ちた天使の表情を浮かべている。
次に、ふとツムリは自分の手元に目をやった。
「……?」
てのひらが溶けかかっている。ように見える。
「!」
急にわれに帰った。
もう一度周囲の面々をよく見てみると、皆、体の一部が溶け出していた。
ある者は顔だったり、ある者は足だったり、ある者は腕だったり、少しずつ少しずつ、ドロドロと体から流れ落ちてきていた。しかも誰もそのことに気づいていない。
「スズナちゃん、あの歌を聴いちゃダメだ!」
われにかえったツムリはあわてて両手で自分の耳をふさいだ。「体が溶けてるよ!」
スズナはツムリのあわてぶりに、一瞬きょとんとした表情になるが、自分の足もとが溶けはじめていることに気づくと、あわててツムリと同じように両耳をふさいだ。
「ツムリさん、これどういうことですか?」
「きっとあの歌は、人の心だけじゃなくて、体もとろけさせてしまうんだ」お互いに口の動きだけで会話をした。
「じゃ、ここにいる人たちも」
「おーい! みんな歌を聴かないでーっ!」
ツムリは大声で叫んだが、もはや誰の耳にも入らないようだった。
しかたなく両耳をふさいだ格好で群衆の中に駆け込んでいったツムリとスズナは、その場にぼーっと立ちすくんでいるひとりずつに、
「やめて! あの歌を聴かないで!」と皆の正気を戻させようとするのだが、誰もがニコニコとふたりを見るばかりで、もはや完全に歌声の虜になっており、それぞれの恍惚感にわれを失っているばかりだった。
そのあいだにも人びとの体は炎天下のアイスクリームみたいにどんどん溶けていく。
空からもボタボタと溶けたものが落ちてくる。
続いてドサリとドロドロのプチドラゴンが地面に落下した。その姿はしだいにボテフリゲンタロウの姿に戻り、そうして彼は至福の表情を浮かべたまま、ついにはすっかり溶け切ってしまった。
「ああ! いったいどうしたらいいんだ!」
ツムリはすっかり焦ってしまい、思わず校舎の屋上を見上げた。
「その歌をやめて!」
しかし、人影は歌うのをやめない。いったいどこの学園牧なのかわからない。学園牧だとすればおそろしい能力の持ち主だ。
そこへツムリと同じように両耳をふさいだセリがやって来た。
「ツムリくん、無事だったのね」
「セリ! きみも」
でもよく見てみると、彼女の二の腕も一部が溶けかかっている。
「危ないところだったわ」とセリはいう。
もうすでに周囲はかつての人間、かつての動物たちがほとんど溶けきった状態のどろどろした小山の連なる光景になっていた。
「フ……」
笑っているような声が聞こえ、一同が視線をやると、モミノコヂョーとモヒカン、アフロ、パンチ、スキンの面々が幸せを顔いっぱいに満たしながら、今まさに溶け落ちてしまうところだった。
人間の原型を保っていたのはほんの一瞬のあいだだけだった。彼らもまたすぐにドロドロとした小山と化し、最後に残ったまんまるの両目だけがしばらくパチパチまばたきをしていたが、それも完全に溶けて流れてしまった。
その時、ピタリと歌声がやんだ。
セリはキッと屋上を睨み、
「マリアね……」
「えっ?」
ツムリが見ると、セリはいきなり地面を蹴ってその場から高くジャンプした。
ツムリもスズナの両肩を抱き寄せ、セリに続いてジャンプした。
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