第一章 パヴァルナの王子

1 降臨

 


 シアンバル大陸の東南部には何の前触れもなく逆さに突き出た鶏の頭を思わせる大きな半島があった。

 ヴァールヤと呼ばれるこの半島を食らいつくさんばかりの大国をパヴァルナという。北はネヴィダル、東はタイロンに国境を接し、神たる王に統治される王国だ。

 パヴァルナの北部では聖王都シャイナノルが、南部では巨大なコンレに囲まれた美しき大都市ヴィンドラが栄えていた。

 その水上の都近くの森の中にとある主従がいる。


「母上ときたら……酔狂な」


 馬上高くある自らの主の不機嫌そうな声に一瞬そちらを見るが、主の扱いにくい性分を熟知している乳母子ダナイェンはあえて声をかけない。ただ万が一にも主人に害なす不埒者の姿がないかどうか辺りに目を配るのみであった。

 ヴァールヤの雄パヴァルナも今は政情不安による治安の悪化が著しい。王太子直轄領ウルヴァトであるヴィンドラでも例外ではない。


(とはいえ、この方の正体を知れば悪漢どもも裸足で逃げ出すだろう)


 そう確信している乳母子目がけて木々の間からやがて夜を連れてくる橙の光が降り注ぐ。

 主も返答は期待していないらしく、ため息とともに更なる言葉をつむいだ。


「このようなときに風流の宴とは」


 少し掠れた深い声は滅多なことでは荒げられることはないが、温和な性格をしている訳ではない。戦場にあっては、まさに修羅もかくやという激しさで相対する者を畏怖せしめるこの美丈夫こそ、今は亡き神王デヴァラージャの第四王子シャルアンその人であった。


「まったく酔狂なことだ」


 磨きぬかれた刃のように輝く銀の髪が黄昏時の光に照り映える中、暁を思わせる涼やかな紫の目を細めて王子は言った。

 品よく整った端麗な面はその血の卑しからぬことを言外に示す。鍛え抜かれているとはいえあくまでもしなやかな長躯を、洗練された着崩しの長衣ユオルム領巾ソッリートに包んでいる様のみを見れば、まさに優雅な貴公子といったところである。

 ――そう、見てくれだけは。


「……ああ、だるい。息をするのもだるい。瞬きすらだるい。……瞬きは目を閉じていればせずにすむな。そうだお前、俺の代わりに息をしろ。ついでに風流の宴も任せた。俺の顔を描いた面でもつけて出れば母上も騙されてくれよう。さらに馬の手綱も引いてくれれば、なおのこと結構だ。というか帰るのが面倒なのでここにラハットを建てよう。そうしよう」


 何を隠そうこの王子は極度のものぐさであった。


(そんな無茶な! そもそもヴィンドラは目と鼻の先です。というか、もうそこに城門が見えてます。ほら、そこに!)


 いくら慣れているとはいっても、あまりにもものぐさい発言に乳母子は遠い目をした。立場上無駄口を叩くことはできないが心中は雄弁である。


(わたしのお仕えの仕方が間違っていたのだろうか。お許し下さい、神王!)


 シャルアンはどこか彼方を見つめて突発的に思い詰める乳母子に気づいた様子もなく、非常にだらけきった姿で馬を操っている。


(…………なぜあれで落馬なさらないのだろう)


 天性のものだろうか。乳母子は妙なことに感心した。


「母上は俺の時間を浪費することに情熱を傾けておられるようだ。同じ情熱を傾けるなら何か実用的なものにすればいいものを。鍛冶とか鍛冶とか鍛冶とか。たまに昼寝。宴などくだらぬ。そうは思わんか、ライ? ……だいたいお前も俺の乳母子ならば伝書鳩のような真似はするな」

「……ルナーヤ様におかれては、何かお考えあってのことと」


 乳母子ライナーマはようやく口を開いた。

 ヴィンドラ近くに住まう鉄の民の元で趣味の刀剣鍛冶、そして昼寝をしていたところを母の気まぐれで呼び戻される――それが王子の不機嫌の最大理由であった。

 例えただの気まぐれであったとしても、主の母にして今や王家の長たる王妃サラティーの言には従わねばならない。子は親を敬うべしと法典ジャッダによって定められているからだ。


「そのようなはずがあるか、いつもの気まぐれに」


 シャルアンは急に黙すると眉間に皺を寄せた。


「シャルアン様?」


 何か怒らせることでも言ったか、とライナーマは自身の言葉を反芻したものの、理由が思いつかず、無礼を承知でそっと顧みて主の表情を窺った。

 シャルアンは、今までのように機嫌の悪さを全開にしているというわけではなかった。何やら深く考え込んでいるといった様子でその白皙を上向かせている。


「ライ、あれを見たか? あの光を」

「光でこざいますか? いえ、わたしには何も」

「………………」


 シャルアンは再び黙して遠くを見る。そうしていたかと思うと姿勢を正し、愛馬である黒き駿馬に鞭をくれてさっと駆け出した。


「シャルアン様!」


 一瞬ぽかんとした後にライナーマも慌てて馬を走らせる。後ろから同様に慌てた供回りもついて来るが、風の如しものウァユタと名づけられた主の馬の足には敵わずに引き離されていく。


「そんなお一人で、シャルアン様!!」


 乳母子の焦った声は、人馬一体となって駆け去るシャルアンの耳には届かないようだ。

 王子は、銀の髪をたなびかせた風の神ウァヤの如く、あっという間にライナーマの視界から消えていった。




「ひぃぃぃぃぃぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 ひゅーずどーん。などという適当で間抜けで陳腐な音を立て黒き女神は地上に降臨した。


「あだだだだ」


 土煙の中、強かに打った尻を押さえながらよろよろと立ち上がり、念のために背後を確認すると地面に尻型の穴が出来ていたので、一応埋め戻しながらぼやく。


「なんちゅう雑な……」


 女神的にはもっと華麗に神々しく威厳をもって降臨したかったのだが、万神の怒りは根深いのかぞんざいな隕石の落下みたいになってしまった。辺りは無人で怪我人が出なかったのが幸いだ。


(いや、あの御方がいい加減なだけか?)


 大主宰神に次ぐあの輝かしき大神は良くいえば鷹揚、悪くいえば超がつくほど適当だった。得てして力ある神とはそういうものだが。


「16万人だかなんだかの妃の相手にお忙しいのだろうけど、もう少し考えて下さったらいいのに」

[なにゆえ桁がひとつ大きくなっているんだい? 試したことはないけれど、さすがに身が持たないよ]


 突然頭の中に直接、輝かしき男神の心地よい声が聞こえてきて黒き女神は飛び上がった。小柄なので蚤が飛び跳ねているようにも見える。


「な、ななななななななななななな!?」

[あれ? いつから君はそんなに察しが悪くなったのかな?]


 慌てて右往左往する黒き女神を天上から見ているのだろう。男神は意地悪く言った。


「いつからも何も……元から察しのいい方では」

[そうだった。近づき難い者が嘆いていたっけ]


 男神はこのいびりがいのないぽんこつ女神めとでも言いたげに鼻を鳴らす。


[まあいい。分かっていると思うけれど、君の第三の目はすでに封じた。普通にしていては、わたしの声も聞こえないだろうから、直接君の内に語りかけているよ]


 そう告げられ女神は口づけられた額をなんとなくぺたぺたと触った。本来ならばそこにあるはずの激しく燃え盛る炎のような力の根源が確かにない。それまでは至高にして不変かつ普遍の真理の一端として在ったのが、今はただの自己――限りある者として存在するのみになっている。かつて同一であったものから切り離されたことによる喪失感が体中に溢れていた。それは言いようもないほど気持ちの悪い感覚でしばらくは慣れそうもない。


[今の君は厳密に言うと神ではない。もちろん人間でもない。より神に近い半神半人とでも言うのかな。この言葉が適切かどうかは分からないけれどね]


 ふと輝かしき男神はそこで言葉を切った。

 沈黙が続き、不安になった黒き女神は虚空を見上げる。カラスが鳴きながら夕暮れの空を飛んでいた。


「……起きてらっしゃいます?」

[わたしを気づいたら居眠りしている神みたいに言うのはやめてくれないかな。失礼だね]

「でも実際――」

[まだソーマが抜けていないのかい? あまり酔言が過ぎると温和なわたしもうっかり手が滑ってここから棍を落としてしまうかもしれないよ]


 それはおそらく確実に女神の頭を直撃するのだろう。まさに神の御業。


「あっ、いえっ、あのっ、そのっ……あっ! これはいったい?」


 情けないほど狼狽えて女神は強引に話題を変えた。先程触った時に気がついたのだが、身につけた覚えのない額飾りがいつの間にか出現していたのだ。


[慈愛溢れるわたしから君への贈り物だよ]

「ま、まさか! 呪いの額飾りですか!?」

[…………そういう風にしてほしいなら、そうしてあげようか?]

「まだソーマが抜けていないようですすみませんでした!!」


 基本的に考えなしの黒き女神は、男神が額飾りに呪いをかける前に一息で言った。


「本っ当に申し訳ないことでございます!」

[はいはい、分かったから。啄木鳥のおもちゃみたいな動きはやめなさい]


 嘆息交じりに言われて女神はようやく高速でお辞儀を繰り返しながら地に伏していくという器用な動きを止めた。


[君が何も考えていないのはよく分かっているよ。もしほんの少しでも考える頭があったならば、そもそもこんな事態になっていないはずだからね]

「ぐぐぐぅう。言い返したいけど、言い返せない!」

[その額飾りは、第三の目の代わりだよ]


 物憂げな男神の声に女神は大きな目をさらに見開いた。ついでに天上ではいつものように16万人だか1万6000人だかの妃が『麗しき背の君の憂わしげな様子もまた素敵』と騒音もどきの歓声を上げているのだろうな、などと思う。


[他の神々の手前、君の第三の目を封じたけれど、それではあんまりだと思ってね。所謂お助けアイテムというやつだよ。本来の力には到底及ばないが、君の助けくらいにはなるだろう]

「おお、神よ! ありがたき幸せ! さすがは光輝ける大神! 普遍なる者! すべてを魅了される御方!」

[このまま『エセ女神』となった君だけに任せておいたら、帰還がいつになるか分かったものではないからね。君の帰りが遅くなるということは大主宰神のお出ましもその分だけ遅くなるということだろう? そうすると、わたしが万事を宰領し続ける羽目になるじゃあないか。さらに忙しくなって余計に繚乱たる百花を愛でる暇もなくなってしまう]


 先程の聖言をすべて取り消したい。黒き女神未満は拳を握りしめた。


[――冗談はさておき、わたしも忙しい。厳しいようだけれど、君のことばかりを常に気にかけてもいられないのでね。何か大事があったら額飾りを起点として力を呼びなさい。大主宰神の至宝を首尾よく取り戻した時にもね]


 男神の言葉に黒き女神はハッとした。今も世界にあまねく慈悲を投げかける尊き神には幾多の祈りが捧げられているはずだ。加えて大主宰神の不在により事々を宰領する必要もある。多忙なのは当然だろう。改めて自らが仕出かしたことの大きさに打ちのめされ、女神は悄然として深々と頭を垂れる。


「……御意」

[どうだい、わたしはちゃんと考えているだろう? ねえ? 女神もどき?]

「いや、あの、すみません、あれは言葉のあやで!」


 黒き女神は目を泳がせながら輝ける大神の機嫌を取るべくない知恵を絞った。


「そうだ! 後で粉もん山盛り献上しますから! お好きでしょう? それで水に流して頂ければありがたく存じます!!」

[トッピングは選ばせてもらえるのだろうね?]


 粉もんに弱い大神というのもどうだろうと思うが、あっさりと男神は機嫌を直したようで話題が次に移る。


[君の盗人の話だけど――]

「わ、我らが主の君の至宝を盗んで逃走したわたしの侍女のことですね?」

[そうとも言うね。このひずみある国に降り立ったところまでは彼女の気配を辿れたのだけれど、ある時点で分からなくなった。あまりにも微小になりすぎて大神たるわたしでは追い切れなくなったのだろう。同族の君ならばおそらく彼女の痕跡を追うことができるはずだよ]

「ええ、かすかにあれのニオイを感じます」


 表情を引き締めて女神が頷く。それは本当にかすかで気をつけていないとこの地に満ちる人々の気配に紛れて消えてしまいそうだった。


[これから先望もうが望むまいが人と関わることもあるだろうから、君に新しい名を授けよう。ここではケリファと名乗りなさい。大陸シアンバルの古い言葉で漆黒を意味する言葉だよ]

「ありがとうございます。でも、なにゆえに?」

[あのね、ここで君が神などと名乗ったら寺院に安置されてしまうじゃないか]

「へへ、崇められちゃって困りますね」

[鉄格子つきの特別な祠堂の静やかな闇の中でどっぷり瞑想に浸れるだろうね。時折高次元の領域に達した覚者の歓声が聞こえるかもしれないが、気にすることはない]

「それは多分寺院ではないのでは!?」


 男神のうっとりするほど心地よい声音に変化がなかったので分からなかったが、どうもまだ機嫌は直っていなかったようだ。


[おっと、言い忘れていた。常に監視しているというわけではないけれど、たまに抜き打ちで様子を見るから気を抜かないようにね]

「は、はい!!」

[良い子だ。では、頑張るのだよ、黒き女神]


 そう言い置いて光輝ける大神は黙した。どうやら去ったらしい。

 しばらくして黒き女神――ケリファはようやく緊張を解いた。いくら考えなし女神といえども大神と相対するのは、やはり恐れ多い。

 素面であれば絶対に大主宰神に無体など働かなかったのに。ケリファはやらかした不始末を思い出し身震いする。


「……そもそもここはどこなのだろう? あの御方は歪みある国と仰っていたが」


 気を取り直して辺りの様子を窺う。木々に囲まれた小高い丘にいるようだった。少し離れたところに大きな湖に浮かんでいるような美しい都市が見える。夕焼けがその都市を染め上げていてさながら琥珀でできた都の如くだ。


「ふむ、綺麗なところだな」


 のん気に景色を堪能していると、草木を踏み分けながら近づいてくる複数の気配を感じ、ケリファは警戒しながら振り返る。そして、姿を現したものを目にして硬直したのだった。



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