失せもの女神の始末書
七木へんり
序章
プロローグ
「君左遷です」
唐突過ぎて言われたことが理解できない。少女は間抜けにも口を開けたまま立ち尽くす。何故か握り締めていた牛のぬいぐるみの頭がぽろりと手から落ちた。
漆黒の髪に紅の煌めきを宿した黒瑪瑙の瞳を持つ少女の、柔らかなあどけなさと鋭い野性味が入り混じった顔には大きく『困惑』の二字がある。
「大事なことなので二度言うけど、左遷だから君」
相も変わらずの華やかな姿ながらどことなくぼろっちくなっている優男は、にこやかな笑みを浮かべつつも頬の辺りをひきつらせていた。
「えっ、なんで、そんな」
「……あんなことを仕出かしておいて、貴女ただで済むと思っているの? それは認識が甘すぎると言わざるを得ないわ」
こちらもどうしてだか色々はだけている美しい女人は、どうやら必死に死守したと思しき
「……エート、ナニシタンデショウカワタクシ」
少女は蟻の寝息よりも小さな声を発して目の前の男とその後ろに居並ぶ人々の突き刺さる視線から逃れるように身をすくめる。
すると皆は一斉にため息を吐いた。漂う雲をも吹き飛ばしかねないそのため息の大きさに少女はより一層小さくなる。
(いったい何をしたんだ! わたしは!)
必死に記憶をたどろうとするが、もやがかかっていて思い出せない。左遷を言い渡される前の記憶がすっぽり抜けており、思い出そうとすればするほど頭が痛む。ただなんとなく何かをやらかした気だけはしていて、それが居心地の悪さにれっきとした正当性を与えていた。
「まあ、まずは辺りを見回してごらん」
蓮華色の目に呆れたような光を宿して男は顎をしゃくった。不遜な仕草だが、それを咎められる者など限られている。
少女は言われるがままに視線を巡らせてすぐに後悔した。
「こ、これは、わたしがやった……?」
世界の臍、スメールの宮殿の大広間は、今や惨憺たる有様、見たこともないくらいの惨状――どんな言葉でもいいが、とにかくひどい状態だったのだ。まるで嵐が過ぎ去ったかの如く、酒杯に酒壺、高杯、鉢、燭台、人、見渡す限りありとあらゆるものが薙ぎ倒されている。竜巻に巻き上げられて盛大にばらまかれたようでもあった。恐ろしく細やかな貴石の象嵌が施された白い柱にもひびが入っているし、途方もない年月をかけて織られた絨毯は片っ端から捲れ上がり、床に至っては一部分が陥没していたりもする。
――あの端っこに倒れている赤い顔をした男は琵琶の音色の調整に余念がない麗人の旦那ではないのだろうか。
(……なぜ簀巻きになっているのだろう)
断固として認めたくはないが、まさか自分がやったのか。少女は妙な顔色になりつつ、全力でそ知らぬふりをした。
「君以外の誰がやらかすというんだい? 黒き女神。絢爛たる神々の宴をこうも無粋に破壊できるのは君だけだよ」
「あああああああああああああまじかあああああああああああああああ」
「マジもマジ、大マジだよ。せっかく百花の咲きそろうのを楽しんでいたというのに台無しだ」
口をついた腹の中に留めておくべき絶叫に対して優雅に頷き、驚いてその身を隠したらしい可憐な
「それどころか、多忙なわたしがやっと得た心地よいまどろみまで邪魔するなんて、ひどいと思わないかい君」
「いや、御身はいつもお眠りになって――」
「おや、
のどかな声とともに円盤が凄まじい勢いで飛んできた。それを驚異的な反射神経で避け、黒き女神は身震いする。いくら神族とはいえあれをくらってはただではすまない。
「い、今舌打ちしましたよね? ねぇ!?」
「なにはともあれ、あれを見なさい。君が飲んだ
「…………うそやん」
「八海を飲み干すような勢いにさすがのわたしも慄いたね。このわたしの度肝を抜くなんて大したものだよ、本当に」
嫌味でもなんでもなく本心から言っているらしい男神の指し示す先には、下戸には見ているだけでも辛くなるほどにうず高く積まれた空の酒壺の山がそびえ立っていた。
あれだけ飲めば確かに記憶をなくしてもおかしくはない。道理だと納得しながら黒き女神はふとあることに気づいて首を傾げる。
「あ、あのぅ、こんな醜態をさらしてしまったからには、さすがに姉上から恐ろしい鉄拳制裁を頂戴するかと思うのですが」
「それな。近づき難い者は、皆への酒の強要やらひどい無体やら大広間の破壊やらの段階ではまだこらえていたのだけれど、とうとう君の魔の手が大主宰神の御身にまで伸ばされたことに怒髪天を衝いてね、君の振る舞いを非常に恥じ、涙ながらに愛の鞭ならぬ愛の三叉戟をふるって」
「記憶がないのはそのせいか!? そういえばなんか頭の後ろの方がスースーする!」
「あ、見ない方がいい。結構グロいから」
「どうなってるんですかっ!? わたしの後頭部!? ――って、大主宰神?」
聞き捨てならない言葉が混じっていたような気がして黒き女神は後頭部の負傷状況を確認する動きを止めた。
「わ、わたくしめは、わ、我らが主の君にいったい何を」
「それ聞いちゃう?」
男神が吐いた重々しいため息に、遠巻きに様子を伺うくたびれた神々は元より、夫の悲惨な姿にも無関心だった美貌の女神までが再びこちらを見る。
(やばいやばいやばい、これは完全にいけないやつだ)
背筋を冷たいものが怒涛の勢いで駆け上っていくのを感じ、黒き女神はいよいよ絶望的な思いで白目をむいた。
「大雑把に言うと、面倒くさい感じの絡み酒から始まって、大主宰神が丹精込めてお育てになったアサを片っ端から根こそぎ引っこ抜くわ、大主宰神がせっせと収集された牛グッズをこれまた片っ端から打ち捨てるわ、最初の神妃との思い出の品々まですべてどこかに隠すわ――まったく言葉にするのも恐ろしい所業を重ねていたよ。挙句の果てに高角度後方回転エビ固めを決めていたね。それはそれはキレイに決まっていた」
「ひいえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
「おかげで大主宰神は奥に引きこもってしまわれたよ。おそらく泣き濡れておいでなのだろう。お労しいことだ。近づき難い者が他の神妃とともに扉の前で大主宰神をお慰めしているが、お出ましにならない」
「終わった、
真っ白に燃え尽きて黒き女神はその場にへたり込んだ。女神を追いかけるようにして男神もしゃがみ込み視線を合わせてくる。多分嫌がらせだろう。
「残念ながらそれだけではないのだよ、黒き女神」
「マ、マダナニカアルノデショウカ」
「蚤の囁きみたいな声で話すのはよしなさい」
男神は手慣れた仕草で項垂れた黒き女神の顎を持ち上げた。優しげな手つきだが一切の容赦はない。
「君の侍女の一人――あの風を意のままにする子だよ。 彼女が大主宰神の至宝を持って下界に遁走した」
「はい?」
「ん? 聞こえなかったのかな? 君の管理下にある君の分身ともいうべき君の手の者が泥酔した皆の隙をつき、あろうことか大主宰神のお宝をぶん盗ってとんずらこいた。いわゆる仮睡泥棒というやつだね」
「わ、わざわざゲスい言い方に?」
「わたしは純然たる事実を述べただけだよ」
「ううぅっ、あの愚か者めぇぇ」
穴があったら入りたいとか、恥ずかしくてこの場から消えてしまいたいとか、そんな生易しい気分ではなかった。闇に堕ち全力で辺りをのた打ち回りながらそのまま冷たい墓穴の奈落へと転げ落ちていきたい。最早叫ぶ気力もなく虚ろな眼差しで黒き女神は言った。
「どうにかテヘペロで誤魔化されてはくれませんか?」
「慈愛に満ちたこのわたしでも無理。それに、だ。こんなことを言いたくはないけれど、神々の中には君が手引きしたのではないかと見る者もいる」
「なっ!?」
何を言うのかと柳眉を逆立てた黒き女神の口を素早く伸びた男神の指が塞ぐ。
「君の途轍もない大暴れで皆の注意を逸らし、その間に侍女が犯行に及ぶという――ちょうど観光地のスリのような手口でね」
「わ、わたしは正真正銘のただの酒乱です! 小賢しい策略など微塵もなく前後不覚に酔いつぶれただけで! あの不届き者の企みなどまるっきり知りません!」
「そこで胸を張られても困るな。……とにかく、評議は定まれり。君には懲罰が必要だと万神評議会は判断した」
急に男神の口調が厳かな響きを帯びて黒き女神は居住まいを正した。
「急ぎ下界に
「ぎょ、御意!」
頭を垂れながらも今宵の宴は無礼講だと言ったではないかなどと思わずにはいられない。しかし、さすがにそれで済ませられるような問題ではないことも分かっている。
(あああ。やっちゃったやっちゃったやっちゃったよー。本当になんてことしちゃったんだろう。わたしのバカバカバカ! どうしよう。謝り倒しても許してもらえない気がしてきた)
恩ある大主宰神に顔向けができない。事の重大さを改めて認識すると、申し訳なさと後悔が嵐のように身を苛む。
罪を犯したならば罰は当然のことだ。あちらには罰を与える権利があり、自分には罰を受ける義務がある。ただ残念なことに自分に裁きを下すことのできる正当な権利を持つ者の姿はここにはないが、彼らにはそれを代行できる権限があった。
(……是非もないか)
黒き女神が腹をくくったとき、男神がさらりと聞き捨てならないことを言い放つ。
「そうそう、言い忘れていたけれど、第三の目は封じるからね」
「え? えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
男神は片方の手でうるさげに髪をかき上げて意味ありげな流し目をくれると、その秀麗な面を黒き女神に近づけて声を潜める。
「評議会の一部の神々――ほら、君たち一族に対して含むところがある例のお歴々だよ。彼らは盗まれたものを取り戻すだけでは到底贖罪には値しないと言うのだ。君が仕出かしたことの責任を取るには、相応の枷が必要だと強く主張していてね。わたしとしても彼らの言を退ける材料がない」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
「大丈夫。無事に務めを果たしたら戻してあげるから」
「誓って! 誓ってこれからは何があろうとも主の君――
力の源たる第三の目を封じられるということは事実上の降格を意味する。神の身から半神半人に堕ちるようなものだ。黒き女神は必死に弁明しながら男神に取りすがるが、にべもなかった。
「ああもう、往生際の悪い子だ。観念しなさい。それ以上言い訳を並べ立てるなら君の耳元で
すべてを魅了するが如くの艶然たる微笑だ。三界を三歩で踏破せし男神の目はまったく笑っていないが。
黒き女神が怯んだ隙にそのしなやかな手を伸ばし、男神は女神の頬にそっと手を添えると額に口づけた。蓮華の花びらが幾重にも舞って芳香が漂う。
「つべこべ言わずに――落ちよ」
途端に口づけられた部分が熱を発して、次第に意識が遠のいていく。深く深く沈んでいきながら黒き女神はおぼろげになっていく大主宰神の聖姿へとただひたすらに詫びた。
――どうかお許し下さい、我が君。
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