5 サットン村滞在記3
気づけば、
「……降り終わったら、本当に晴れたな」
館の入り口の庇から滴るしずくを日の光が輝かせている。あんなに暗かった空もすっかり晴れ、綾なす虹の橋がかかっていた。まさに気まぐれだ。
「よし、戻ろう。……そろそろ王子が何かやらかしてるに違いない」
どこからくるのか分からないが、絶対的な確信を胸に抱いてケリファは滑らないようにゆっくりと階を下りた。
かなりの雨が降ったが、館の周辺からはすっかり水が捌けている。
(パヴァルナは本当に水を制する術に長けた国だな)
石敷きの歩道を進み、門に辿りつく。こうして改めて門を見ると複雑な思いが湧いてきた。この門も一族が起居していた頃には立派な構えであったろうが、今となってはじりじりと朽ちゆくのを待つばかりである。
ケリファは門を出る前に一度だけ館の方を振り返った。館の荒廃を目に焼きつけておくためだ。
打ち壊され、従容として滅びの定めを受け入れる寂しいその姿。あの不埒な使い女が現れなければ、ここにはまだ一族の団欒があったかもしれない。
申し訳なさというのは少し違う。心の根っこのそのまた端でじくじくと疼く痛みを堪えてケリファは黙礼した。
「……必ずあれには報いを受けさせる」
眼差しに凄絶なものをにじませてケリファは館を出た。
ヴィンドラと違って館の外はさすがに舗装されていない。ケリファはぬかるみにはまらないように注意深く歩を進めた。
「ん? なんだ?」
椰子の果汁を飲んでいた岩の辺りに差し掛かった時、視界の端に何かがうごめいた気がしてそちらを向く。
念のため手は
「ど、泥人形?」
ぽかっと口を開けたケリファの視線の先には、もったくさーとばかりに緩慢な動きで起き上がろうとする泥の塊がある。
「な、ななななんなのだ? この泥お化けは? うわ、べちゃってなった!」
どうも躓いたらしく謎の物体は泥の中に戻っていった。しかし、すぐさま復活すると、やはりのたのたと見るからに鈍臭い動きでぬかるみから出ようとしている。
余程深い泥の海なのだろう。泥んこ野郎はしばらく悪戦苦闘していたが、何かの弾みでケリファの存在に気づき、ぴたりと動きを止めた。見る間に顔と思しき部分の泥が波打って喜色が広がるのが見えた――ような気がする。泥人形は救いを求めるかの如く、ケリファに向かってもももと手を伸ばした。
「こわいこわい! こっちに来るな!」
ケリファは反射的に飛び退った。その耳に蚊の鳴くような声が飛び込んでくる。
「た、たすけてー」
「……ん? んん?」
目を丸くしたケリファの前で再び泥人形が故郷である泥の中に帰っていった。
「汝は、人間だったのか?」
「な、なんだと思ったんですかぁ?」
「泥の化け物」
ケリファはきっぱりと言い放ち、借りた桶でざっぱーんと水をぶっ掛ける。残った泥があらかた流れ落ち、泥人形は人間の姿になった。
不幸にもぬかるみにはまり抜け出せなくなっていたのは、シャルアンよりも少し年上といった年頃の青年である。サットン村の村人らしい。
「ほら、ちゃんとうがいするんだ。かなりの量の泥を飲んだみたいだし。うがいした後、飲めそうなら水をたくさん飲むと良い」
新たに汲んだ
(よし、まだ奴らは戻っていないな)
苦労して青年をぬかるみから引っ張り出し、近くにあった甘蕉の葉を利用して付着した泥を拭ってやろうとしたものの、やはり限度があった。とりあえずは楽に呼吸ができるように頭部と、手足を重点的に拭い、後は水の力を借りることにして最も近い水源である
(ライナーマが
自身が連れてきたせいでこの青年が咎を受けることになっては、さすがにかわいそうだ。
ケリファは忙しなく辺りの気配を探った。常ならば殺気といった害ある気配に対してのみ鋭敏化させている感覚を今は全方向に向けているため、流れ込んでくる情報量の多さに少し浮き足立つ。
(いや、これは、ちょっとうるさいな。くらくらする)
情報酔いとでもいうのだろうか。第三の目を封じられた身では処理が追いつかずケリファはふと気分が悪くなった。シャルアンらの気配を把握するとそれに意識を集中させてそれ以外を緩める。
多少楽になったところでちょうど青年がうがいを終えた。
「……ありがとうございましたぁ。助かりましたぁ。本当、泥んこ地獄で死んじゃうかと思いましたよぉ。天の助けとはまさにこのことですぅ」
語尾が間延びしているようなふぁふぁした喋り方で力が抜けそうになる。喋り方だけではない。その佇まいやら所作やらは人畜無害そのものといった感じで、間近くにいるケリファにも圧迫感を感じさせない。
これだけ木々のざわめきや鳥や獣たちの営み、人々の気配が交錯する中、毒にも薬にもなりそうにないこの青年ののんびりした気配はある意味救いだった。
「汝はあんなところで何をしていたのだ?」
「いえ、実は弟を探していましてぇ。まぁ、これがやんちゃな子で、あっちへ行ったりこっちへ行ったりするもんですからぁ、必死に追いかけていたらぬかるみにはまってしまったというわけでしてぇ。いやぁ、あれは参りましたよぉ」
「弟? どんな子だ?」
「十を少し過ぎたばかりで、わたしには似てない可愛い子ですよぉ」
どう贔屓目に見ても十人並み、というかむしろほとんど印象に残らない青年は、弟が可愛くて仕方がないようで相好を崩した。
「ふむ。ちょっと待て」
ケリファは早く
「ど、どうしたんですかぁ?」
急にすごい形相になったケリファを見て青年はおっとりと首を傾げた。
それには答えず、というか答えようがないケリファは、今いる場所からはちょうど反対側に位置する岸辺へと小走りで向かった。
ちらっと背後に視線をやれば青年ももたもたとついて来ている。どうも彼の鈍臭さは、泥に塗れていたからというわけではなく生来のものらしかった。
「あ、あの声はぁ?」
「しっ!」
対岸に向かう途中、丸く盛り上がったような姿の灌木の後ろに青年を押し込み、ケリファは耳を澄ます素振りをする。本当は先程の場所にいても分かったのだが、青年の目がある手前、普通の人間らしい行動を取ったのだ。
少し離れたところで甲高い声が何やらわめいている。一瞬少女の声かとも思ったが、変声期前の少年の声であることはすぐに知れた。少年の気配は興奮で埋め尽くされていて、どんな言葉を発しているのかもよく分からない。
「汝の弟の声だな?」
「え、ええ。いったい何が……」
少年の声の後にしばしの間を置いて――ひどく鷹揚な、どちらかというと怠惰な部類に属する声が聞こえてくる。こちらは声を張り上げる風でもなく至って平静なので、青年には何を言っているのか当然聞こえないはずだ。ただ何かを面白がっている気配だけは伝わってくる。
「弟は厄介なものにとっ捕まったようだぞ」
ケリファの言葉を聞いた青年は気の毒な程に真っ青になった。もしかしたら青年も正体に思い至ったのかもしれない。
「あ、ああああ、弟がぁ!」
「いいから、汝は早くここから離れて先に村に戻るんだ。弟はわたしが何とかする!」
おろおろと狼狽える青年に勇ましく告げ、ケリファは一騒動持ち上がっているらしき対岸へと向かって全力で駆け出した。
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