6 サットン村滞在記4


「はっ、放せ! 放せったら放せぇぇぇっ!」


 さて、この小うるさいのをどうしてくれよう。

 胡床に悠然と構えた高貴な男――その美しい面の下にとんでもない本性を隠し持つ、パヴァルナの第四王子は、口の端に古典的微笑を浮かべてそれを見下ろした。


「うどの大木みたいに無駄にでっかい木偶の坊王子め! こんなところにいないでさっさとラハットへ帰れ!」

「だ、黙りなさい! 言葉が過ぎますよ、少年!」

「うどの大木に木偶の坊ときたか。よほどこの俺を役立たずと思っているらしい」

「シャ、シャルアン様、子どもの言うことです。恐らく意味など理解していないかと」

「うるさい! 本当のことを言って何が悪い!」


 ライナーマの叱責にもめげた様子はない。シャルアンの私兵の一人に肩を押さえられていながらも少年は自由な足でじたばたと暴れている。

 先程、草むらから急に飛び出してきた少年は、冒涜だと糾弾する言葉も終わらぬ内にあっさりと捕まったのだった。捕えた百戦錬磨の強者も戦場ならいざ知らず、子ども相手に手荒な真似をするのは気が引けるらしく、困り果てた顔をしている。

 十歳を少し過ぎたくらいか、着古した短衣ヤータ脚衣タロールという出で立ちで、下々の者にしては比較的色が白い。癖のある黒髪をふり乱し、藍色の目を怒りに吊り上げてさえいなければ、婦女子に大層可愛いと絶賛されることだろう。


「罰当たり! これ以上、神池ターカを荒らすならただじゃ済まさないぞ!」

「荒らしているつもりはない。調査だ」


 神池ターカに対する敬意は失ってはいないつもりだ。祭儀は執り行ったし、蛇神ガナンダが好むという美酒も捧げた。

 蛇神ガナンダの化身とされる大蛇の探索が神を冒涜している? そうは思わない。大蛇が血肉を伴い、形あるものとして地上に存在しているのならば、それは自然の造形物である。


「それが荒らしているというんだ! この唐変木!」

「よくもまあ古い言葉を次から次へと。お前本当に子どもか? 子どもの皮をかぶった老人ではないのか?」


 しげしげと少年を見つめてやると余計に怒り出した。うるさいことだ。

 肩を押さえられていなければこちらに飛びかかってきそうな跳ねっぷりにシャルアンは物懐かしさを覚えた。

 ――この蚤度。誰かを思い起こさせる。

 湧き出す懐旧の念に免じて暴言の数々を不問にしてやらないでもないが、大蛇の捜索については譲るつもりはない。


(何しろ俺の今後がかかっているのだからな)


 風流なる望月を愛でる宴に余興として大蛇を引き出すうすらとんかちと思われれば、あの諦めの悪い母から二度と宴の席に呼ばれることもないだろうという算段であった。無論、希少動物愛好家としての愛好心も満たされるし、一石二鳥だ。


(与える衝撃は大きければ大きいほど良い。二度とこの俺を宴に招こうという気を起こさぬほどに。……別に大蛇でなくともいいが、武器を手にした直立二足歩行の亀では存外ウケる可能性がある)


 そんな思案を美丈夫の仮面の下で巡らせつつ、シャルアンは顎に手をやった。


(まあ、仮に大蛇がいなければ、吉数である九十九匹の蛇を集めることとするか、面倒だが。蛇を入れた籠に『蛇神ガナンダの如くに永き幸せをお祈りして』とかいう空っ惚けた文を添えておけば、うすらとんかち感もさらに増すだろう)


 普通の蛇に興味はないのでやる気は削がれることになるだろうが、風流なる時間の浪費を阻止するためならばやるしかない。蛇は宴が終わったら元の場所に戻してやろう。

 捕獲と解放。常識である。

 思考の淵から浮上すると乳母子ダナイェンが何か言いたげな顔でこちらを見ていた。この乳母子ダナイェンは勝手に色々と察知する上、沈黙がうるさいので始末に負えない。


「言いたいことがあるなら言え。特別に聞いてやる」

「……いえ、遠慮致します」


 主従同士の場を無視したのん気な会話に業を煮やしたのだろう。少年が顔を真っ赤にしてさらに声を張り上げた。


「この戦場でしか役に立たないポンコツ王子め。聖なる場所ターカを荒らしていないで、さっさと聖王都を奪い返せ! 神王デヴァラージャの仇を討ちに行け! そもそも命を懸けてでもあの逆賊を諫めていればこんなことには! おめおめと生き残って恥ずかしくないのか! それでも誇り高きパヴァール人か!」

「それも道理だ」


 だが、と続けようとしたところ、とある部分においては意外と沸点の低い乳母子ダナイェンが手を振り上げる方が早かった。


(……子ども相手に何をムキになっている)


 シャルアンはライナーマの手を押さえるべく胡床から立ち上がろうとする。


「しばらく!」


 そこへ澄んだ声が割って入ってきた。数日前、暇潰しに見せてやった芝居のような台詞だ。

 ――やれやれ、もう一人の小うるさいのがやって来た。

 ヴィンドラに旅の一座が来ていると聞いてそわそわしていたくせに。いざラハットに呼んでやろうかと言えば、彼らにも都合があるだろうから無理強いはするな、などと抜かす奴。王族のラハットに呼ばれて喜ばない旅役者などいないだろうに。まったく稚いのか、大人びているのか、判断がつかない不可思議な性状の持ち主だ。

 シャルアンはその端整な顔を彩る古典的微笑を強めた。




「しばらく!」


 口に出した後にこの間見た芝居のような台詞だと気づき、ケリファは少し気恥ずかしくなりながらも彼らの元へ駆け寄っていく。


(いったいどうしたというのだ?)


 あの温厚な乳母子ダナイェンがひどく恐ろしい顔をして年端もいかない少年に手を振り上げていた。対するシャルアンは、ライナーマを止めようと胡床からわずかに腰を浮かせている。


(少年が何か言ったのだろうが、興奮しすぎていて読み取れなかった)


 先程までの威勢はどこへいったのか。ぶたれそうになった少年は青ざめて身をすくませていた。まるで蛇に睨まれた蛙だ。


(いずれにしてもこの様子は尋常ではない)


 ケリファは少年を背後に庇うようにしてライナーマの前に立ち塞がった。


「頑是ない子どもの言うこと。どうかその手を引っ込めてはくれないか」

「どいて下さい。子どもといっても良し悪しの判断はつくはず」


 ケリファの登場によって出鼻をくじかれたものの、ライナーマは依然として瞳の奥に静かな怒りを宿していた。

 シャルアンの私兵団の面々もこんなライナーマの姿は見たことがなかったらしく固唾を飲んで見守っている。


(ライナーマがここまで怒るとは。この少年は何を言ったのだ?)


 ケリファが背後の少年を見やる。少年の顔からは血の気が失せており、大きな目をさらに見開いてがたがたと震えていた。


「……ど、どうした?」


 少年のただならぬ様子にケリファは慌てて少年の肩を押さえる同僚に目配せした。同僚が手を離すと少年は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。


「ちょっと、大丈夫か?」


 ケリファも少年の前に屈み込んで彼の腕にそっと触れる。そして、あることに気がつき、勢いよく顔を上げた。


「発作だ!」


 顔面蒼白になった少年のわななく唇がひっきりなしに早い呼吸を繰り返している。

 医学の心得などない、必要すらなかったケリファから見ても呼吸のし過ぎに思えた。

 それでも少年は酸素が足りないかのように呼吸し続けている。加えてどうやら手足も痺れているようだ。痛そうにきゅっと自身の胸元を掴もうとした少年の手が小刻みに震えている。


(な、何の発作だ? わ、分からん! どうしよう! 村まで行ってこの子の兄を呼んで来るか!?)


 動転しきりのケリファと今にも死んでしまいそうに苦しむ少年との間にふと寸高き影が差した。


「安心しろ、死にはすまい」


 何を悠長なことを言っているのだ。こんなに苦しそうなのに。何か重篤な病だったらどうするのだ。そう怒鳴りつけようとしてケリファは言葉に詰まった。

 見下ろしてくる古典的微笑を消したシャルアンの顔貌が、絵物語に出てくる理想の王の如くに端麗かつ雄々しいその美貌が、あまりにも無機質だったからだ。人でない何かが顕現したかのような――まったく愚かしいことに女神たる身でそう思ってしまったのだから重症である。

 思わず瞠目したケリファの眼前でシャルアンが領巾ソッリートをするりと肩から落とした。

 ふわりと、焚き染められたサンダナの甘くて少し苦い香りがケリファの元に堕ちてくる。

 嫌味なほどに優雅な挙措でシャルアンはゆっくりと膝をついた。周囲がざわついたのが分かる。神王デヴァラージャの血族――パヴァール人の王族が仕方のないこととはいえ、神以外の前、それもただ人の前に膝をついたのだ。どよめくなという方が無理だろう。


「これを使え」


 シャルアンは思いの外穏やかな手つきで少年の背を支え、鼻を避けるようにして領巾ソッリートを彼の口に押し当ててやった。


「よいか、よく聞け」


 名匠の手による上質な弦楽器を思わせるシャルアンの声音を聞き、少年がきつく閉じていた目蓋を気力でこじ開けた。


「苦しいだろう? 死出の旅に誘われているような苦痛だろう。そう、それこそ地獄の苦しみに思えるかもしれぬが、なあに、そんな大層なものではない。恐れるな。適切な処置を行えば治るものだ、は」


 王子の言葉を聞く少年の目にあった恐怖が少しずつ薄れていくのが見える。


「息を吸うのではなく吐くことに集中しろ。焦らなくともいい。落ち着け……そうだ、ゆっくりと。深く呼吸しろ」


 少年が言われたとおりに呼吸を始めた。シャルアンの鷹揚たる様が少年に落ち着きを取り戻させたようだ。

 ケリファは我知らず固く握りしめていた拳を開き、ほっと一息ついた。

 よかった。シャルアンのおかげだ。この地に降り立ってから『王子』という幻想を打ち砕かれっぱなしだったケリファは、ここでようやく王子を見直した。


「……少し頭を冷やしてきます」


 ライナーマはそれを見届けると足早に灌木の向こうへ姿を消そうとする。心配したケリファが付き添おうかと問うと苦笑しながら首を横に振った。


「わたしは大丈夫ですので、少年を看てやって下さい」

「わ、分かった」


 頷いて乳母子ダナイェンの背中を見送る。彼の背中はどことなく憂いに満ちていた。その憂いは幼い少年に手を上げてしまったことに対してではないように思えた。

 次いでケリファはライナーマの、自身の主でもある男に目を向ける。


(……不可思議な男)


 そうして、端的に評した。

 シャルアンは片膝に少年の頭を乗せたまま、明けゆく空の色をした目で神池ターカを見据えている。陽を弾く銀の髪がさらりと流れた。悔しいが、やはり美しい。

 飛び抜けて優れた造作の持ち主であり、武勇の誉れ高い高潔な将であるらしいくせにやっていることは意味不明で理不尽。成長の過程のどこで道を間違えたのかと心配になる。

 掴めない男だ。無性に腹の立つ男だ。訳の分からない男だ。ものぐさくて自分勝手で、驚くほどに非常識な男。美点といえば、万事に鷹揚なことぐらいか。

 ――だが、それだけでは、ない。


(本っ当に不可思議な男だな、汝は)

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