4 サットン村滞在記2


 ――正直に言えば、飽きた。

 椰子の果汁を飲みながらケリファは胸の内を吐露した。

 もちろん誰も聞いている者がいないのを確認した上で、である。特にあの王子に聞かれているとややこしいことになる。


「もうどれくらいさ迷い歩いたことか。居もしない大蛇を探して」


 手頃な大きさの岩に腰かけるケリファは、倒してしまわないよう慎重に椰子の実を置いた。この実はケリファが鉈を借りに行った際にサットン村の人からもらったものだ。


(少年と間違われたのはなぜでしょうか? 女性の格好をしていたのに。女性の格好だったのに! ……大事なことなので二度繰り返したよ)


 自身の性別に関して村人とちょっとした行き違いがあったことを嘆くケリファの頬を雨季特有の湿った風が撫でていった。


(こ、これに免じて不問にするか、うん)


 ケリファは再び椰子の果汁を口にした。さっぱりとした甘さの果汁は、動き回った体にすっと浸透していって心なしか疲労が軽減された気がする。椰子の実にもいくつか種類があり、ケリファがもらったものはその中でも一番甘いものなのだそうだ。飲み方は、まだ熟していない緑色の実の上部を切り落とし、内部の果汁を綺麗に洗ったハスの茎を使って吸い上げるというもので、直接口をつけてうっかり衣にこぼしてしまうということもなく快適に飲める。


(ただ美しいだけでなく食用にもなるし、こうして道具としても使えるし、ハスって便利だな……ああ、ハスで、あの御方のこと思い出しちゃった。いえ、別に嫌なわけではなく、あのその、すみませんたらすみません)


 心ならずもハスの茎から大神の蓮華色の瞳を連想してしまい、動揺のあまり有難味もなくがぶがぶと飲んでしまったが、果汁はほどよく冷えていておいしい。 聞けば、パヴァルナの気候ではおかしなほどに水温が低い神池ターカの水で一晩冷やしたのだという。


「神が宿る池か……わたしが口にするのもあれな話だが、不思議なものだ。……あの御方や我が君の如き大神であれば、様々なことがお分かりなのだろうけれど」


 しかも今は女神もどきだし。なんだか切なくなったケリファが椰子の実を片手にぼんやりと辺りを見回せば、鬱蒼と茂った深緑が連なり佇んでいるのが目に飛び込んでくる。ケリファを見下ろすように取り巻く草木の青々しい香りを胸一杯に吸い込んで吐き出す。ついでに愚痴も。


「早く帰りたい。大蛇なんて居やしないのに。居るのはぷんぷんうるさい蚊だけだ」


 実際には蚊だけということはないけれど、蚊は非常に多い。衣に調香師サンダニクルーが特別に調香した蚊除けを焚き染めているおかげで多少なりとも防げているはずなのだが、森の中へと分け入ってからは、どこへ行っても奴らが現れ、耳元で羽音を響かせるのであった。その度に領巾ウルマを振って追い払うのにもそろそろ疲れた。

 このように蚊は頻繁に姿を現すものの、大蛇に至っては未だに尻尾どころか存在の痕跡すら掴めていない。


「……そもそも大蛇ってどの辺から大蛇に区分されるのだ? 大人の身の丈を優に超えるって、ここら辺に生息するちょっと大きな蛇だって、真っ直ぐ立ち上がったら大人より背が高くなるぞ」


 全長の話なのか、それとも鎌首をもたげた部分の話なのか、縦のみならず横幅も考慮するのか、毒はあるのか、それを明らかにしてもらいたい。ケリファは別の場所を捜索中のシャルアンに心中で問い質した。


(あの希少動物愛好家め。なにゆえこんな時だけ根気を発揮するのか)


 これが自身の興味のないことであれば、10ルタルもしないうちに放り投げて居眠りをし始める癖に。ぶすくれるケリファの額に冷たいものが当たる。


「わっ! 雨だ!」


 真っ黒な雲に覆われた空からぽつっ、ぽつっと水滴が降って来たかと思えば、いきなり桶の水をひっくり返したような大雨になった。

 これは、蛇神の気まぐれガナンダチャラータと呼ばれているらしい。パヴァルナの雨季に多い雨だという。パヴァルナでは一日中雨が降り続く日というのは稀で、大抵はこうして突発的に局地的な豪雨が発生するらしかった。

 1、2時間リナルほどすれば止むというが、その間ずっとこの肌を叩く冷たい雨に打たれ続けるのは勘弁願いたい。

 ケリファは慌てて雨宿りできそうな場所を探して走り出した。




「あ、椰子の実忘れた。もったいない」


 建物の入り口でぶるぶると水滴を弾き飛ばすケリファの呑気なつぶやきに轟く雷鳴が重なった。


「……よかった。避難場所が見つかって」


 雷は蛇神の気まぐれガナンダチャラータにはつきものなのだし、女神もどきたるケリファにとっては腹の虫が鳴くのと同様で、恐れるに足らないものなのだが、雷雨の中を不用意に動き回って落雷に遭ってしまったなら問題だ。雷に打たれても平気な人として有名になってしまうかもしれない。


「変な意味で目立つと後々困るから」


 生き神として祀られてしまった日には身動きが取れなくなってしまう――ケリファの妄想があながち間違いではない方向に加速している。


「それはそうと、ここは何なのだろう?」


 雨を避けるのに必死で何も考えずに飛び込んだのだが、落ち着いて見てみれば不思議なところだった。

 一言でいうなら廃墟、それが相応しい。しかし、ただの廃墟ではない。


「一見した限り豪族の館のようだが、なにゆえこんなに荒れ果てているのか……」


 紅土の煉瓦を用いて作られた館は、庶民の住居よりは立派だが、ラハットのような洗練された趣はなく素朴な風合いを残した造りで、規模こそ異なるものの、サットン村に来る前に見たこのバラン郡スラク・バラン郡司クルン・スラクを務める豪族の館そっくりだ。

 敷地はサットン村のおよそ半分くらいで、館の周囲には外界と隔てるようにそう背の高くない石壁が設けられている。その石壁も現在では所々が崩壊していて往時の姿とは程遠い状態である。

 一族が暮らしていたであろう館の他には、崩れかけていて判別し難いが、倉庫と思われる木造の高床建物が数棟、小さな人口の池と小さな祠堂しどうがあるようだ。

 サットン村とは目と鼻の先の場所にあるこの館は、生い茂る草木の状態から見て、打ち捨てられてそう時間は経っていないと考えられる。よくて数年といったところだろう。

 ところが館の荒廃ぶりは、十年以上は経過しているのではないかというほどにひどいものだった。

 ――どうも自然に朽ちたというよりは人為的に打ち壊された感じがする。


「いったい何が起きたのだ?」


 無性に気になったケリファは、水を吸って重くなった衣を絞り終え、館の内部へと注意深く足を踏み入れた。

 今までいた場所は、地面から数段のきざはしを上がった所にあるひさしつきの入り口部分で、そこから中に入るとちょっとした広い空間――取次の間に出た。

 右手には使用人の部屋と思しき小部屋、その奥にはくりやがあり、竈の跡や釜、壊れた水瓶などが転がっていた。厨にも小さな戸口があり、高床倉庫と行き来ができるようになっている。

 左手には大広間があり、そこから外の祠堂や池に向かって通路が伸びていた。宴の際には屋外に出て風物を鑑賞していたのだろう。

 取次の間の奥に進むと次の間やら家族の居間、主人の居室、夫人の居室、子どもたちの部屋が並んでいて、端の方には厠らしきものもあった。

 シャルアンのラハットほど複雑な構造ではないのですぐにあらかたを探索し終えたケリファは、一つの結論を導き出していた。


「……略奪にあったようだな」


 館からは家具、調度品や衣、書物など金目になりそうなもの一切合財が持ち去られている。大きくて持ち運びができないようなものについては、腹いせだろうか、無残に破壊されていた。破壊は館自体にも及んでいて壁が崩れたり、床が陥没していたりする部分もあった。隠し扉か何かを探したのかもしれない。


「その時、住人がどうしていたかまでは、さすがに分からないな。逃げたのか、はたまたどこかで殺されたか」


 見て回った部屋に血痕や屍は見つからなかったし、無念の死から生じる不浄の気配も感じないから、少なくともここで誰かが殺されたということはないようだ。


「いずれにしても襲撃犯には追捕の手が伸びているはずだが……」


 どうも腑に落ちない。なぜここが襲われたのか。一介の農民と比べれば裕福だとしても、郡司クルン・スラクでもないこの家にさして財があったとは思えない。金品目当てなのだとしたら、もう少し足を延ばせばもっと規模の大きな館がある。

 まあ、力のある豪族の館ともなれば守りも固い。手軽に襲える館を狙ったとも考えられるが、だとするなら館内で誰も殺されなかったというのはおかしい。盗賊の類がわざわざ住人を連れ去ってどこかで殺すというような面倒くさいことをするだろうか。


「どうしてなのかは分からないけど、盗人がやって来た時点で既にここは無人だった……ということは考えられないだろうか。家財もある程度持ち出されていてほとんど何もなかったから、腹立ち紛れに色々打ち壊したというのは?」


 何らかの理由で住人が館を出て行かざるを得なくなり、その後、金目になりそうなものを狙って無人の館に忍び込んだ何者かが、目ぼしいものは殆ど残されていないことに腹を立て、館を破壊した――ほとんど思いつきに近いケリファの考えだが、案外的を射ているかもしれない。しかし、そうすると根源的な疑問が顔を出してくる。

 ――住人はどこへいってしまったのか、そして、出て行かざるを得なくなった理由とはなんなのか。


「……よく分からん」


 考えれば考えるほどよく分からない。館の中には手がかりになりそうなものもないし。自身の察しの悪さを自覚しているケリファはあっさりと真相追及を諦め、まだ見ていなかった沐浴場へと足を向けた。


「至って普通の、沐浴場だな……」


 そこそこ広い沐浴場の床には敷瓦が敷きつめられ、壁面には簡素な浮彫が施されている。中央には人がゆったりと体を沈められるだけの大きさの円形の浴槽があり、そこへ向けて壁の女神像が手を差し出しているような作りになっている。今は壊れているらしく止まっているが、おそらく神池ターカから引かれた水が女神の手を通して浴槽へと注がれる仕組みになっていたと考えられる。

 外から見ただけでもただの沐浴場だということは分かったが、念のために中に入ってみることにした。

 戸口をくぐると不意に感じるものがあってケリファの足が止まった。この懐かしいような、近しいような感覚には覚えがある。


「こ……れは!」


 ――それが何であるのかをはっきりと理解した瞬間、総毛立つ。

 我らが主の君の至宝を盗んで遁走した、許し難いあの愚かな使い女!

 地上へと落とされた一因でもある侍女の姿をつぶさに思い出したケリファの目が憤怒に燃え上がった。シャルアンに向けているものの比ではない。ケリファの身からは女神の恐ろしい怒りそのままに燃え盛る瞋恚の炎が揺らめき立っている。


「いるのか!?」


 ケリファは、敷瓦を強く踏みしめて斬りつけるような鋭い怒声を発し、沐浴場の天井を、四方の壁を、床を次々と睨みつける。


「出てこい! この不埒者! 我が一族の恥さらしめ!」


 ケリファは込み上げる激情に任せてそう叫びながらも、吐き出した言葉が自身にも深く突き刺さるのを感じていた。

 なぜなら他の神々や大主宰神への無体を働いたのはケリファであり、故意ではないとはいえ、侍女が至宝を盗み出す隙を与えてしまったのもケリファであったからだ。


(なんと、愚かで救いようのない主従なのだ! 我らは!)


 何もかもを焼き尽くしそうな烈々たる眼差しは、侍女だけに向けられているのではないのかもしれない。


「……違う。これは残り香だ」


 しばらくしてケリファは憤怒相を解いた。怒りに我を忘れていたために気づくのが遅れたが、この場に残った眷属たる侍女のにおい――気配の痕跡に反応していたのだ。自身をも焦がす激憤が正気を失わせていたことにケリファは自嘲を禁じ得なかった。


「だが、これであやつがパヴァルナに降り立っていたということが確信できた。せめてもの収穫だな……喜ばしいことではないが」


 至極重たげに吐き出したケリファの声が少し疲れているのは、紅が散る黒瑪瑙の煌めきが曇っているのは、無論のこと気のせいではない。

 きっとこの館の荒廃にもあれが関係しているに違いないという暗い予感がケリファを静かに蝕んでいた。

 その暗い予感は、けっして杞憂ではないし、一笑に付される突飛なものでもない。

 ――あの侍女がここに現れたということは、そういうことなのだ。

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