3 夢じゃない!?


 ひどい夢を見たような気がする。

 スメールの大宮殿の大広間を壊し、神々に絡み酒、さらに偉大なる我らが主の君にとんでもないことを仕出かし、第三の目を封じられるという恐ろしい悪夢だ。

 あー怖かった。夢でよかった。

 胸を撫で下ろしていたら急にあの光輝ける大神が現れた。腹立たしいほどに煌びやかで麗しいお姿だ。


[わたしが授けた額飾りを失くしたらどうなるか分かっているだろうね]


 男神がすべてを魅了する笑みで凄んでくる。怖い怖い! 怖すぎます!

 な、失くしませんよ、失くしません、失くしませんたら!

 うんうんと首を振っているとそれまで知らずに在ったもやが晴れていく。


「う……ん? あれ……夢か? いや、夢じゃない? ……夢であってほしいところは夢じゃないのかー」


 どうやら本当に激しく首を振っていたらしくなんだか痛い。少し、いや、かなりがっくりきたケリファが目を覚ましたのは見知らぬ部屋だった。

 やたらと広いその部屋は、一見してそれと分かるほどの質の良い調度で整えられていた。しかし、決して成金趣味というわけではなく品良くまとまっており、どことなく凛々しいようなそんな趣も感じる。


「ここはどこだ?」

「起きたか」


 少し億劫そうなゆったりとした声が返ってきたので視線だけをそちらにやる。


「ここは俺のラハットだ」


 言って口の端にわずかな笑みを浮かべるのは先程の男であった。すっかり日も落ちて灯された燭台の火にほんのりと照らされる中、瀟洒な長椅子にしどけなく背を預ける姿は一幅の絵画のようである。


「汝の……」

「ああ、仮の住まいといったところだがな」


 気のない声だが、妙な居心地の悪さを覚えて我知らず掛け布を握りしめる。


「……そうか」

「ところで、先程の話だが」

「うっ」

「信じてやるさ、今夜のところは」


 あからさまに固まったケリファは思いがけない言葉を耳にして目を丸くした。猛獣が獲物をいたぶるかの如く彼に更なる追及を受けると思っていたのだ。


「だが、名くらいは教えてもらおうか」

「名!?」

「名とはな、あるものをそれ以外のものと区別する――」

「それくらい知っている!!」


 嫌味ったらしく『名』の意味を説明しだした美丈夫にケリファは目を剥いた。


「呼び名がないと不便だろう? 名乗りたくないのならこちらで決めるが? ポチ……タマでもよいか」

「わたしは犬猫か!! 実はさっきのを根に持っているな!?」


 しれっとした顔でのたまった彼にケリファは絶叫した。


「ケリファ! わたしのことは ケリファと呼んでくれ」

「ケリファか。シアンバルの古い言葉で漆黒を意味するが、なるほどお前の髪に相応しい」

「……わたしにも汝の名を教えて欲しいのだが」

「まだ名乗っていなかったか、シャルアンだ」


 ケリファは確認するように彼の名をつぶやいた。その名の響きは初めて口にしたのに不思議としっくり馴染む気がした。

 卓子から極めて優雅で怠惰な手つきで杯を取り上げ、口に含むでもなく気だるげに弄んでいる男をケリファはしばし見つめた。

 シャルアンは視線に気づいているのかいないのか、相も変わらず腹立たしいほどに美しい横顔を見せている。


「汝こそ何者だ?」


 そう問うたものの、当然のように見当はついていた。いくら彼女が何もかもに疎かろうと察しが悪かろうと、『仮の住まい』とはいえこのような贅を尽くした宮に住み、素晴らしくよく統制された大勢の使用人に傅かれながらも全く卑屈になることなく鷹揚に、いっそ物憂げに見えるほど雅やかに振る舞う、それがどのような立場の人間であるかなど、火を見るより明らかだ。

 決して大きい声ではなかったが、高く抜けのいいケリファの声が聞こえていないはずはないのに彼からの返答はない。

 彼はただ視線を落とし、適切な言葉を探すように黙したまま微動だにしない。そうしていると儚げに見えるから不思議なものだ。

 不自然なほどの間が空き、いぶかしんだ彼女がよくよく見てみれば、シャルアンはかすかに寝息を立てて眠っていた。


「!?」


 ここでもか。どこかで見たような光景に度肝を抜かれたケリファが、眉もまぶたも顔面の上げられるもの全てを上げに上げて盛大な怒声を響かせる。


「何ゆえこの流れで眠れるのだ汝は!?」

「……ん。なんだ、眠っていたか」


 本当に眠っていたことを示すように不明瞭なシャルアンの声が返ってきたので本気で脱力する羽目になった。

 それを意にも介さず、シャルアンはとうとう長椅子に腰掛けているのもだるくなったようで、杯を卓上へと戻すと腕を枕にして完全にだらける体勢に入った。まるっきりシャーキャ族の聖者が没する様を模した像のようである。目はまだ開いているので最後の説法中というところであろうか。


「そうだな。俺は、言うところの……というわけでもなく、れっきとした王子というやつだな。呼びたければ『王子様』などと呼んでくれても構わん。うっかり返事をするのを忘れるやもしれんが」

「はぁっ!?」


 好き勝手なことを言いながら懲りもせず眠りに落ちようとしているシャルアンを引き留めようとケリファは寝台から飛び降りた。

 面白がった可能性の方が高いが、そもそも気を失ったらしい自分を捨て置けず連れ帰ってくれたのであろうし、それに関してはありがたいとも思う。だが、このわけのわからない状態で放っておかれるのはたまらない。


(一日として無駄にはしていられないというのに)


 言葉だけでは止められないと学習した彼女は、掛け布をぐるぐると丸めてこのものぐさ王子に投げつける。


「起きよ! このものぐさ辻斬り王子!」

「何をする、このツルペタ胸無小娘」

「ツ、ツルペタ!? 胸無!?」

「では、豊満な胸だとでも言うつもりか、よく精錬された薄鋼板の如き平らかな胸で?」

「薄鋼板っ!? 平らかっ!?」


 あっさりと掛け布を避けられた上に耐え難い暴言を吐かれ、ケリファは青ざめてわなわなと震えだした。


「くっ、世の中には言っていいことと悪いことがあるのが分からないのか!」

「認めているな」

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 痛恨の極みといった表情でケリファは頭を抱えた。確かに本人とて艶めかしい肢体というにはほど遠いということは自覚している。

 だが、しかし!


「うぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ」

「何を軟体動物のようにのたくっている」

「うぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ」

「これが百面相というやつか。面妖な」

「うぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぅ」

「ふむ、やはり面白い。まったくもってよい拾い物をした」

「うぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ……ぬ?」

「そうだ。少し早いが、あれを先に用意させておくとしよう」

「……ぬぬぬ?」

「さあ、遊んでいないで明日からに備えてお前も早く休め」

「はぁ?」


 女官を呼び寄せて何事か指示を与えるとシャルアンは長椅子からゆっくりと立ち上がった。事態がつかめていないケリファは、先程の場所から一歩も動けずにそんな彼の背中をただ見つめることしかできない。


「どうした? ああ、ここではなく俺と同じ寝所がよいと? 仕方のない奴だな」

「そんなことは誰も言ってない! って、明日からもとは、ど、どういうことだ!?」

「うん? 言っていなかったか?」

「まったく聞いてない!」

「――お前は、俺のものだ」


 瞬間、何もかもが停止した。動きも思考も聴覚も、感覚的な色彩さえも。さらに誇大して言うなら、世界も。


(……この男はいったい何をおぬかしになった?)


 あまりにも意味が分からなさすぎて頭がガンガンする。人買いに買われたような心持ちになったケリファの視線の先では、美しき変態辻斬り王子がさも当然といったような顔をしている。


法典ジャッダには、『困窮する女の手を取りし者、これを己がものとすべし』とある」

「う、嘘だ!?」

「ああ、嘘だ」

「汝は何がしたいのだ!?」

「はははは」

「笑って誤魔化すな!」


 憤然とケリファがシャルアンに掴みかかるが、怒りのために体捌きが鈍っていたのだろうか、あっさりとかわされる。かわされたのみならず戯れに漆黒の髪の一房をとられ、図らずも動きを封じられた。


「明日まで待て。そう焦ることもないだろう」

「汝が何を企んでいるのかは知らないが、先程も言った通りわたしはあれを探さねば」

「夜も更けた。今から探し人といっても、聞く相手もいまい。いたとしても、先刻の男たちのようになるのがオチだ」


 確かに。ケリファは唇を噛んだ。

 この夜更けに賑やかさを失わない界隈に見た目だけはか弱そうな少女がふらふらと迷いこめば、いらぬ騒動を盛大に巻き起こすのが目に見えている。本人にそのつもりがなくとも、そのつもりがある大人が大勢いるだろう。酒が入っていれば尚更だ。

 決して暴漢に屈するつもりなどないが、いつもとは少し勝手が違う。何せ女神もどきとなってしまったのだ。いつ限界がくるか分からない。

 それにああいった界隈で傍目にも余所者と知れる者が一旦騒ぎを起こせば、懐が深いように見せてその実排他的な場所柄、仮に求める情報があったとしても巧妙にはぐらかされ隠されてしまうだろう。


「……今宵は、世話になろう」


 着々と逃げ道を断たれていっている気がするのは、気のせいではない。苦渋に満ちた表情でケリファはそれだけを告げた。


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