4 ま、まさか


 ――鼻息が荒い。

 翌朝、ケリファは顔にかかる猛烈な鼻息で目を覚ました。


「なんという最悪な目覚め」


 開眼一発半眼。もしこの鼻息の主があの見てくれだけはやたらといい変人王子であったならばぶん殴りさっさと出て行こう。ケリファは固い決意で鼻息の主に顔だけを向ける。


「な、汝は?」


 まず目に入ったのは、鮮やかな青緑色の瞳だ。そして、ピンと立った利口そうな黒い大きな耳、柔らかくなめらかな赤褐色の毛並みと続く。


「……猫?」


 それにしては少し大き過ぎる。かといってよく知られた猛獣の類よりは小さい。大きな猫のような生き物は寝台に手をかけ、覗き込むようにしてくりくりとした目と文字通りの猫口で興味深そうにケリファを見つめていた。


「どこから来たんだ? ……それにしても可愛いなぁ。撫でても大丈夫だろうか」

「撫でたければ、撫でるがいい」

「ならば、お言葉に甘えて……」


 艶やかな毛並みに手を伸ばそうとしながらケリファは輝く笑顔のまま小首を傾げた。猫がしゃべった? そんなわけはない。思わず反射的に飛び起きる。


「どこからわいた!? いつわいた!?」

「普通に扉から。ついさっき」


 ここにいるのが当たり前のような顔をして親指で扉を指し示すのは、もちろんシャルアンだ。昨日とはまた違った意匠の長衣をこなれた風に着崩している。


(本当に、人間にしては無駄に美しい男だな。全身全霊で変人街道を突っ走っているが)


 寝台から抜け出したケリファの感嘆半分、呆れ半分の視線の先、シャルアンは慣れた手つきで擦り寄って来る大猫の喉をかいてやっていた。


「カルナーだ。美しい生き物だろう? 名はアウダという」

「カルナー? 聞いたことがないな、ヤマネコの類か?」

「ああ、似たようなものだ。このパヴァルナでは叡智の象徴であり正義によって全てを統治する神たる王チャクラヴァルティラージャンの随獣として神聖視されている。生息地は草原や丘陵地帯で――」


 以下、非常に専門的かつためになるのかならないのかよく分からない講義が続いたので、心ならず目を虚ろ、口を半開きにした無の境地で右から左に聞き流し、ケリファは至極もっともらしい顔をして頷いた。


「な、なるほど、興味深い。しかし、そんな生き物がいったいなぜこの宮に?」

「拾った」

「は?」

「というより、気づいたら居ついていたといった方がいいな」

「はぁ?」


 この男といるとまるっきり馬鹿のようにこの言葉を連呼してしまいそうになる。あの厳しい姉相手にうっかり使ってしまったならば、柳眉を逆立てられかねない。


(癖になったらどうしよう……絶対に怒られる)


 近づき難いほどに美しい姉の怒った姿というのは、なまじ整った顔立ちだけに凄まじく恐ろしいのだった。しかも数々の武勇伝がそれに輪をかけていた。色々と思いだしてしまい沈鬱な顔で身震いする。嗚呼、あの愛の三叉戟。


「くっ、癖になる前に退散しなければ! ……ともあれ世話になった。では、わたしはこれで」

「……まあ、まずは着替えてはどうだ? いくら背中と胸の区別がつき難いとはいえ、その格好で辺りをうろつく訳にもいくまい」


 ケリファは、そこでようやく己が薄物一枚羽織っただけの姿であることを思い出した。通気性の良い生地は下が完全に透けて見えるほどではないものの、ケリファのほっそりとした肢体の輪郭が分かる程度には涼しげである。

 今更ながら慌てて胸元を隠して年頃の娘らしい悲鳴でも上げようか、などと他人事のように思いつつも、実際には絶句したまま硬直することしかできずにいる。しかもうっかりがに股だ。


(ああああああ、なんたる不覚!)


 一人赤くなったり青くなったり忙しいケリファの薄い肩にふわりと領巾がかけられる。香のほのかに甘く芳しい香りが漂う中、ケリファの肩に触れるか触れないかのところで手を止めたまま彼はいっそ優しげに囁いた。


「安心しろ、まったくどうとも思わん。見えたところで俺の胸と同じようなものだからな」

「っやかましいわ!」


 手加減してはいるが、放った拳を軽やかに避けられて少し腹立たしい。


(ぐぬ。なんとすばしこいのだ。綺麗なナマケモノのくせに)


 仮にも女神もどきである自身の鉄槌をこうもひょいひょい避けるとは。ナマケモノだけに逃げ足が速いのだろうか。


「着替えたら呼ぶがいい」


 アウダとともに扉の向こうに消えていった彼の後ろ姿に舌を突き出し、むくれたままケリファは用意されていた着替えに目をやった。

 ケリファが元々着ていた衣では悪い意味で目立つという考えだろう。そこにあったのはパヴァルナの女性の衣の一揃えだ。

 着方が分からず困っていると二人の女官がやって来た。一人はケリファよりも少し上といった年頃の女官で柔和な笑みを浮かべカニタと名乗った。同じ年頃のもう一人はサリカというらしく緊張からか硬い表情を浮かべている。


くにの方でいらっしゃるとか。見ず知らずの土地にお一人とは、さぞやお心細いことでございましょう。何なりとわたくしどもにお申しつけ下さい。そうそう、お胸のことはご安心なさいませ。なるべく目立たぬように致しますので」

「……あ、えええと、ありがとう?」


 どんな説明をしたのかあの王子に問い質したい。光沢のある柔らかい生地でできた丈の短い衣を着せられながらケリファは拳を握り締めた。

 パヴァルナの衣は、身分の高さによって生地や施す刺繍の有無、使う糸及び数珠玉に違いがあるらしかった。先程の短衣はスチェムといい、次いで着せられたクリャンは布をたっぷり使った動きやすい短めの脚衣で、最も格の高い腰衣サポルよりは劣るものの装飾品や帯に留意すれば寺院に詣でることも可能だという。

 なお貴人のまとう衣にはサンダナを焚きしめるのが慣例だといい、交易によって得られた様々な香料を元にして専門の調香師サンダニクルーが依頼を受けて調合しているらしかった。ケリファにあつらえられた衣からは清らかな花の香りが漂っている


「ああ、お腹は凹ませなくても。そんなに緊張なさらずどうぞお楽になさって下さいまし」

「あ、はい。……って、どぅぎゅえぇぇぇぇぇぇぇ」

「サ、サリカ! サーシュを締めすぎよ!」

 カニタに注意されサリカはあわあわと帯を緩めた。新人なのだろう。硬い表情に合点がいったケリファは領巾をまといながらようやくできた肺の隙間に空気を送り込んだ。

 サーシュは細い刺繍帯で男女兼用、女性用の領巾はウルマというらしい。ウルマは装飾品に近い豪奢な肩掛けジャスダンよりも簡略化されたものでサーシュと同じく日常生活において用いられるという。


「さあ、こちらをお召し下さいませ」


 これで最後とカニタが差し出したのは、水の神だという蛇神を模した華奢な腕輪と臂釧だ。


蛇神ガナンダ? 八大竜王ナーガラージャのことか? おそらく人の間に伝わる内に変遷していったのだろうな。『伝言げぇむ』的に)


 果たして自分はどんな風になっているのだろうかと思いを巡らせていると、カニタらが退出の礼を取って出ていこうとする。


「ありがとう、助かった」


 恐れ多いことでございますと優雅に一礼するカニタの隣で同様に一礼するサリカだが、頭を下げる前のその一瞬、強い光を宿した目でケリファを見つめてはいなかったか。


「……なんだろう?」


 彼女たちを見送ってケリファは首を傾げる。お腹でも痛かったのだろうか。でも言ってくれないと分からないよ。以心伝心? 何それおいしいの?

 ――察しの悪さに定評がある黒き女神であった。


「さて、衣は洗濯……しなくてもいいか。神衣だしな。いや、でも洗濯しないことで、やだ、あの人ばっちーいとか言われたら凹むしな。よし、形だけでも」


 純然たる神の身ではなくなったことで色々と不都合がある。人の身とはなんと不便なことよ。嘆きながらケリファは身に着けていた天上の装身具をしまうべく手を伸ばした。


「腕輪と首飾りはこれですべてあるな。耳飾りもあるし。よし! 全部ある! 大丈夫!」


 そう言いつつも妙に不安になる。自分は何かを忘れていないか。それも絶対に忘れてはいけない類のことをだ。

 ――不意にきらぎらしい光が脳裏を過ぎり、あの艶然たる笑みが浮かぶ。


「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 気づいたらない。どこにもない。光輝ける大神から授けられた額飾りがないのだ。

 ケリファは全身がぶれるほどに震えながらひどい顔色で部屋中を探し回った。しかし、ない。どこへ行ったのだろう。


(もうだめだ。どうしよう。バレたら……バレたら!)


 その先は恐ろしくて恐ろしくて想像したくない。ケリファは耐え切れずに部屋の隅で膝を抱えて壁とお友達になった。


「どうした?」


 あまりにも茫然としすぎてシャルアンが入ってくることにも気づかずにいた。重症だ。ケリファは返答する元気もなく、必死で額飾りの最後の記憶を探っている。


(この地に降り立った時、あの御方との会話の際にはあった)

「珍妙な。お前の国とやらでは壁に向かうのが習わしなのか?」

(その後、確かむくつけき『どきゅん』どもを叩きのめしたが、この時にはどうだったか)

「おい、聞いているのか壁女」

(あったような、なかったような。でも、もし落としたとしたらこの時だろう)

「……そういえば、これはお前のものではないのか?」

(もしくはここに運ばれている時か……)


 思考の渦に飲まれている最中、暁の光で視界が満たされる。


「うわぁぁっ! って、な、何してるんだ!」


 眼前いっぱいに広がる端正な顔に思わず後ずさると、壁とケリファとの間に無理やり顔を突っ込んだシャルアンが変わらぬ落ち着いた声で言った。


「やっと気づいたか」

「な、汝は今年いくつなのだ!? 幼い子供のようなことをするな!」

「……お前に言われると無性に傷つくな。わざわざ程度を幼女に合わせてやったというに」

「誰が幼女か!」


 話が脱線していきかけたのでここは自分が大人になろうとケリファは珍しく女神らしいところをみせた。


「それで、なんなのだ。先程何事か言っていたようだが」

「これだ、これ。お前のものでは?」


 どんだけぼんやりしているんだ。ケリファはシャルアンの手にあるものを見て自身に活を入れた。

 ――二連になった全体的に華奢な作りの、中央には円と揺れるしずく型の見事な貴石をあしらった装飾品。手にしていたのは紛うことなく光輝ける大神から授けられた額飾りだった。


おお、神よハレー!)

「アウダがくわえてきた。揺れるものを好むので玩具と間違えたのだろう。少々よだれにまみれているが、拭けばどうということはない」

「よだれ」


 ま、まあ、畜生のすることだし。ケリファが自身を納得させるといつの間にか足元にやって来ていたアウダにその長い尻尾でばしばしと叩かれた。


「ちょっと割に合わない気もしないでもない……いや、いいんだ。可愛いから」


 かわいいは正義。どことなくドヤ顔をしているように見えなくもないアウダを撫でる。


「これで蓮華地獄から遠のいた。助かった」


 ケリファが額飾りを受けとろうと手を伸ばすと、ふと考え込むような表情でシャルアンが額飾りを差し出そうとする手を止めた。


(ま、まさか! よからぬことを考えているのではないだろうな!)


 嫌な予感が閃き、努めて冷静に彼の方へ手を差し伸べながら言う。刺激してはいけない。


「そ、それから手を離せ。ゆっくりとそれをこっちへ渡すんだ」

「そうか」


 何に対しての返答かはよく分からないが、シャルアンは軽く頷きその白皙を笑みで彩る。既視感のある笑みにケリファは硬直した。喉元に迫る鋭い牙を、爪を感じる。


「ひい!?」

「そうかそうか」


 笑んだまま王子は優雅に踵を返した。部屋を出ていく彼の後をアウダがちょこちょこついていく。


「あっ! 待てっ! と、取り返さないと! あの御方にどんな目に遭わされることやら!!」


 慣れない衣姿のケリファも精一杯の速さでシャルアンらの後を追った。

 ものぐさ辻斬り変態王子の笑みも怖いが、あの大神の笑みで、あの戦慄するほどの笑みで凄まれた日には!


(絶対にちびる!!)


 ――女神にあるまじきことをしてしまうに違いない。

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