死人に口があるとすれば

 八束には、何も見えてなどない。今北の言葉は、ただの戯言だ。

 そう思いたいのに、今北の血走った目に映っているものの気配を、肌に感じる。冷たい、緊張に満ちた気配に気圧されかけた、その時。

 

「ふざけたこと言ってんじゃねえよ」

 

 静かに、しかし、よく響く声。

 それが誰の声か、一瞬判断できなかった。

「好き勝手言ってるが、そんなの、単なるあんたの思い込みじゃねえか」

 八束を庇うように伸ばされた、折れそうな腕。それで、やっと、これが南雲の声なのだと理解する。今までの、どこか眠たげな響きを帯びていたそれとは全く違う声で言い放った南雲は、正面きって今北と向き合う。

 今北は、余裕すら感じさせていた表情を消して、苛立ちをあらわに南雲を睨めつける。

「一体、どこが思い込みだというんです?」

 その、狂気じみた視線を真っ向から受け止めてなお、南雲は仏頂面を少しも動かさなかった。けれど、声は。声だけは。

「目を閉じて、耳を塞いで。そうして頭ん中で作り上げた都合のいい幽霊なんだろうなあ、今、あんたに囁いてる麻紀子さんは」

 人の感情を読み取るのが苦手な八束にもはっきりとわかる、激しい「怒り」の響きを帯びていた。

 ただでさえ恐ろしげに見える南雲に凄まれたのだ、今北も恐怖を感じたのか少しだけたじろいだようだった。それでも、南雲からは目を逸らさず、甲高い声を上げる。

「刑事さんに何がわかるっていうんですか?」

「わかるさ。俺には、ずっと見えてたから」

 ――え?

 八束は、己の耳を疑う。

「確かに、俺たちは『ここに幽霊はいない』と言ったよ。麻紀子さんが死んだ、その場所にはな。でもね、今北さん、あんたの背後にいないとは言っていない」

「な……っ!?」

 今北は、ほとんど条件反射的に自分の背後を振り向いた。だが、そこには樹が立っているだけだ。つくりものの幽霊も、もちろん、本物の幽霊だって見えなかった。しかし、南雲は今北ではなく、じっと今北の背後を見つめていた。

「ふ、ふざけているのか!? 麻紀子は、麻紀子は、確かにここに……」

「だから、それはあんたの妄想で、あんたが作った偽者だろ。全くもって、麻紀子さんには似ても似つかない、お粗末な偽者」

 南雲が、一体何を言っているのか。八束には、わからない。

「も、妄想なわけない、妄想に囚われているのは、刑事さんの方じゃないですか?」

 そう。八束も、今北と全く同じことを、考えていた。

 ここに、幽霊はいない。それを証明することが、八束と南雲の役目ではなかったのか。

 戸惑う八束を、南雲がちらりと横目で見やる。最初からそうであったように、感情の感じられない、淡い色の双眸で。

 八束は、南雲の感情を表情から計り知ることはできない。ただ、彼が「正気」であることだけは、何故だろう、はっきりとわかった。だからこそ、胸が締め付けられるような、息苦しさに囚われる。

 ――南雲さん?

 問いは声にならない。

 南雲は少しだけ目を細めてみせた後に、再び今北に向き直った。そして、目を白黒させる今北に向かって、投げやりに言い放つ。

「正直、あんたにだけは言われたくないねえ」

「見えてるなら言ってみてくださいよ、さあ、麻紀子の顔は、姿は! 何を言っているのかだってわかるんだろう、南雲刑事!」

 今北は、ほとんど錯乱に近い状態にあった。対する南雲は、落ち着き払ったまま一歩、今北に歩み寄る。ほとんど息が届きそうな距離まで青ざめた顔を近づけ、分厚いレンズの下で目を細めたのが、八束にもわかった。

「ああ、よーく見えてるよ。あんたにはもったいないほど、きれいな人だ」

 ぞくり、と。聞いている八束の方が、背筋に冷たいものを感じて震える。

「事故の日の格好なんだろうね。白いシャツに、紺のスカート。栗色に染めた長い髪を上でまとめてるのは、いつものことだったのかな」

 今北の表情が強張るのにも構わず、南雲はいつになく饒舌に語り続ける。

「その日は雨だったもんね、お気に入りのベージュに紺のラインの入った傘を差して出かけたんだってさ。今も、傘を差したまま、そこに立ってるけど」

「ま……、麻紀子……?」

 動揺。己の罪を暴かれても余裕を保っていたこの男が、今初めて、激しく動揺している。しきりに、南雲の視線の先――己の背後を振り返るけれど、きっと、今北の目には何も見えていないのだろう、すぐに南雲に視線を戻す。疑いと、しかし、少しずつ積み重なっていく別の感情を篭めて。

 それでも、南雲は。決して、そこから、目を逸らそうとしないのだ。

「ねえ、今北さん。本当は何も見えてないんだろ? そんな辛そうな顔させてんのにも気づかないで、馬鹿なことしくさってさあ」

 今北の指先が小刻みに震える。口の端が奇妙な形に歪んでいるのは、どのような感情からか。

「麻紀子さんの声が本当に聞こえてたなら……、いや、違うか」

 南雲はかぶりを振る。八束は、今や完全に南雲の言葉に呑まれていた。きっと、今北もそうだったのだろう、呆然としたまま、南雲の言葉を待っている。

 そして、南雲は。

「せめて、麻紀子さんの最後の言葉さえ、思い出していれば」

 決定的な言葉を、今北に、投げかける。

 今北は「ひっ」という引きつった呼吸と共に、一歩後ずさる。八束が見る限り、今北の顔に張り付いた感情はただ一つ、恐怖。

 南雲は、そんな今北を追い込むように、更に一歩、大股に踏み込み、遠ざかったはずの距離を一気に詰める。

「やっと思い出したんだな。あんたにとって、麻紀子さんは大切な人だったんだろう。復讐を考えるほどに。なのに、そんな人の言葉をすっかり忘れちまって、なあ?」

「忘れてない、忘れてなどいない! 麻紀子は、麻紀子は確かに最期に言っていた、『ただ、あなたの幸せを祈っている』と! だが、どうしてあなたがそれを!」

「……だから、さっきから言ってるじゃない。俺には見えてるし、聞こえてるんだもの。ねえ、麻紀子さん」

 ぞわり、と背筋に走る悪寒。八束には何も見えていない、そのはずだというのに。

 確かに、感じたのだ。南雲の視線の先に「何か」がいるのだということを。

 おぼろげに、頭の中に思い浮かぶのは、今北に向けてベージュの傘を差しかけた、一人の女性。南雲の言葉通り、栗色の髪をした、うつくしいひと。

 今北ももう一度、恐る恐る、己の背後を見て。

「ああ……」

 小さな声が、その、乾いた唇から漏れ出した。

「そう、か。そうだったな、麻紀子……。お前は、何も恨んではいなかった。ただ、私の幸せだけを祈って、祈っていたはずじゃないか……」

 八束は、今北麻紀子の死を、記録の上でしか知らない。だから、彼女が死に際に、夫である今北に何を求めたのかを知ることもない。ここにいるのだという彼女の声も聞こえないのだから、当然だ。

 けれど、今北は、喘ぐような息遣いで、背後の虚空を見据えて。

「私だけが、彼女の願いを聞き届けていたはずなのに」

 どうして、今の今までそれを忘れていたのだろう――?

 今北の言葉は悲痛な響きを帯びていた。今、この瞬間、今北は思い出していたのだろう。妻が残してきた、何もかもを。最も大切なものであった、彼女の本当の願いを。

 今北はその最も大切なものを忘れて、罪を犯していたのだ。いつしか、それが「彼女の願い」であると思い込んで。

 あらゆる感情をその面に浮かべる今北とは対照的に、厳しい視線を投げかけていた南雲は、硬く響く声で言う。

「時の経過は、否応なく大切な記憶を磨り減らしていく。そうして生まれた虚ろな穴を、都合のよい妄想が埋めていくことは、よくあることさ」

 その言葉は淡々としていて、南雲はどこまでも冷静で、冷徹だった。だが、今北に向けたその言葉の後に、唇が小さく動いたのを、八束は見逃さなかった。

 声にならずに消えたその言葉を、唇の動きだけで読み取って、どきりとする。

 正しいかどうかはわからなかったが、八束には、南雲がこう言ったように見えたのだ。

『俺も、そうだから』

 南雲の仏頂面は、今に至るまで感情らしいものを表現してはいない。最初に、彼が「そういうもの」なのだと言ったとおりに。

 なのに、どうして。

 その横顔が、酷く悲しげに見えたのだろう。

「……南雲、さん?」

 思わず、呟きが漏れる。南雲はその呼びかけに応えるように、眼鏡の下から視線を投げかけてきた。顔は恐ろしげながら、いやに柔らかな色を湛えた双眸が、八束を射抜く。

 ただ、それもほんの一瞬のこと。

 今北の、「ああ」という、力の無い声によって、八束の意識も現実に引き戻される。

「そうか、あの日から絶えず聞こえていたのは、私自身の声だったか……」

 南雲は小さく息をついて、今北の背後に立つ「何者か」から、今北に視線を戻す。

「そうだ。全て、あんたが考えて、あんたが実行したこと。何もかも、何もかも、紛れもなくあんたの罪だ、今北さん」

 ゆらり、と伸ばした手で、今北の肩を強く掴んで。

「今も麻紀子さんを大切に思っているなら、その麻紀子さんに、あんたの罪を擦りつけるんじゃねえよ」

 静かな、けれど、有無を言わせぬ凄みを帯びた声。それが、決定打となったのだろう。今北の全身から力が抜けて、地面に膝をつく。

「あ、ああ……、麻紀子、私、私は……」

 茫然自失として、虚空に向けてうわごとを呟くばかりの今北を。

 眉間に深い皺を刻んだまま、虚空に視線を投げかける南雲を。

 八束は、ただただ、見つめていることしか、出来なかった。

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