時計うさぎの不在証明

「おや、この前の刑事さんたちじゃないですか」

 今日も、今北は幽霊が出た樹の根元に立っていた。足元の花瓶には真新しい花。亡き妻に捧げる、弔いの花だ。八束は、そんな今北に会釈をした。

「一緒に、妻の冥福を祈ってはくれませんか?」

「はい」

「八束」

 背後に控えている南雲が、いつになく鋭く八束の名を呼ぶ。しかし、八束は首を軽く横に振って、今北の横に立った。

 そして、手を合わせて目を閉じ、この場で死んだ一人の女性に向けて祈りを捧げる。

 八束は今北の妻を知らない。顔や経歴は確認したが、どのような声で喋るのか、例えば八束を前にしたらどんな言葉をかけてきたのか。何一つ、何一つわからない。

 それでも、今は一つだけ確かなことがある。

 その「一つだけ」を胸に、顔を上げて目を開く。

 同じように祈りを捧げていた今北が、ふと八束に顔を向けて、微笑を浮かべたのを横目で確認する。

「それで、この辺りで見かけられる影の正体はわかりましたか?」

 ――その問いを、待っていた。

 八束は、花瓶に生けられた花に視線を向けたままではあったが、きっぱりと首を縦に振った。

「はい。それを、今北さんに是非お話したいと思いまして。あの影の正体がわかったのも、それに、何故ここで事故が起こったのかわかったのも、今北さんのおかげなので」

「私のおかげ、ですか?」

 不思議そうな声を上げる今北だが、その口元に浮かんだ笑みは消えず、視線は八束に注がれたまま微動だにしない。うなじの辺りにじりじりと冷たい気配を感じながら、それでも八束は退かない。

 恐れることなど、何一つない。相手は正体不明の幽霊などではなく、今確かに目の前にいる人間なのだから。

「それに、事故が起こった理由、というのは――」

「今北さん、おっしゃっていましたよね。この場で事故が起こる可能性について」

「それは、ただの想像ですし、荒唐無稽な『もしも』の話じゃないですか」

「本当ですか?」

 今北の言葉が終わらぬうちに、八束は問いを重ねる。八束がここまで強く踏み込んでくるとは思わなかったのか、今北は面食らったように激しく瞬きをしたが、すぐに調子を取り戻して問い返してくる。

「刑事さんは、どうお思いですか? 私は、まず、八束刑事がどう考えたのかを知りたいですね」

「わたしは、今北さんの『妻の幽霊が突然目の前に現れた』という言葉をヒントに、事故がこの場に現れた影――幽霊のせいではないかと仮定しました」

「刑事さんが、幽霊の存在を信じるとは驚きですね。私が妻の声を聞いた話をしても、全く取り合ってくれなかったじゃないですか」

「はい。わたしは、幽霊の存在を信じていません」

 さっきまで震えてたくせに、とか、幽霊を怖がってるのは信じてるのと同じなんじゃない、とか。何らかの茶々を入れてくるかと思われた南雲は、意外にも八束の後ろに立ったまま、飴を舐め続けるだけで、口を挟もうとはしなかった。

 だから、八束は一拍呼吸を置いて、そのまま言葉を続ける。

「ただ、幽霊そのものではなくとも、『幽霊に見える』ということは重要だと考えています。特に、事故を仕組んだ人間にとっては」

「仕組んだ、ということは、あれは正確には事故ではなく、誰かの手による『事件』であった、ということですか?」

 今北は八束の言葉に驚くこともなく、淡々と言葉を紡いでいく。それが事故でなく事件であったことを、最初から知っていたかのように。

 ――そう、実際に、知っていたはずだ。

 八束は確信と共に、初めてそこで、今北の顔を見据えた。

「ええ。それは、わたしより、全てを仕組んだあなたの方がよくご存知だと思いますが。そうですよね、今北さん」

 今北の表情から、ふっと、笑顔が消える。

「……八束刑事は、私を疑っていると?」

 今までの鷹揚な態度がまるで嘘のような、凍りついた声。その目には、鋭くも暗い光が宿っている――そのように、八束には見えた。

 八束は、そんな今北の声も、視線も、全て真っ向から受け止めて、

「はい」

 力強く、頷く。

 

 

「南雲さんは、今までもこういう事件を扱ってきたんですよね」

 この場に足を運ぶ直前、八束は南雲に問うた。南雲は今日の分のチュッパチャプスをコンビニ袋に移しながら言う。

「ここまで本格的に扱うのは、これが初めてだな。いつもなら、状況からいくつかの可能性を仮定だけして、あとは他の係に投げちゃうし」

 ――それに、俺には到底、手の届かない事件だってある。

 俯きながら放たれた南雲の声は、今まで聞いてきた中で最も低く、暗く響いて。八束は、冷たい指で背筋を撫ぜられたような、嫌な感覚に襲われる。

 一体、今の感覚は、何だったのだろう。南雲は、今まで何を見てきたというのだろう――その問いが八束の口に上る前に、南雲がふと顔を上げて、一瞬前に見せた影が嘘のような、軽薄な口調で言う。

「俺たちは、そういう事件を『迷宮入り』ならぬ『兎穴入り』って呼んでる」

「うさぎあないり、ですか?」

「白い兎を追って、少女が飛び込んだ兎穴の向こうは、世にも奇妙なワンダーランド。この世の法も何もかもが通用しない、ナンセンスな世界だった」

「ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』ですね」

「そう。時計を持った二足歩行の兎は、アリスを不思議の国に招く存在だ。在り得ざるもの、の体現者だな。そんな空想の兎に真相を隠されちまった事件が『兎穴入り』」

 兎、というのはもちろん一つの喩えだ。八束にも、そのくらいはわかった。

 つまり、幽霊、妖怪、超能力者。人間の想像力から生まれた、オカルトの住人たち。

「俺が知ってる限り、この町ではかなりの数の事件が兎穴の中にある。中には、もしかしたら人知を超えた『本物』も混ざっていたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。どうあれ、今の俺たちには、証明できなかったものだ」

 待盾という「特異点都市」においては、そんな不思議がまかり通ってきた。八束には考えられない世界だが、南雲はその世界の中で生きてきたのだ。

「だが、今回の事件はそうじゃない。不可思議な事象はあれど、それが理解を超えたワンダーランドの入り口でないことを、八束、お前が証明するんだ」

 そんな南雲の、常にどこか焦点が曖昧だった、淡い朽葉色の両眼が。

「それが、俺たち秘策に与えられた役割。時計うさぎの不在証明だ」

 その時だけは、真っ直ぐに、八束を見据えていたのだと、思い出す。

 

 

 時計を持った兎は、ここにはいなかった。

 不思議の国のすぐ側で起こったこの事件が、手の届く現実であると、証明するのだ。

 八束は今北に向かって、一つ、一つ。言葉の響きを確かめながら、宣言する。

「今北基彦さん。我々は、あなたが沖穣治さんに対し、罠を仕掛けたと考えています」

「何を根拠に……、って聞けばいいですかね」

「意外とノリがいいっすね」

 南雲の声には、呆れにも似た響きが混ざっていた。実際、呆れていたのかもしれない。

「こうして、刑事さんに詰め寄られるなんて、ドラマの中でしか起こらないと思っていましたからね。不謹慎ながら、少し興奮していますよ」

「余裕ですね、今北さん」

「当然ですよ。私は人殺しなどではありませんから。改めて、私を疑う根拠を聞かせてください、八束刑事」

 人殺しではない――。そう言いながら、今北は八束の言葉をことさらに否定するでも、犯人呼ばわりした八束を罵るわけでもなく、ただ、八束がその根拠を語ることを待っている。

 先ほどから今北が見せているのは、自分が犯人だと解き明かせるはずもない、という余裕。余裕、なのだろうか?

 言い知れない不安を覚えていると、南雲が、軽く八束の背中を押す。

「……続けよう、八束。お前は、お前の信じたことを貫け。フォローは任せろ」

 その言葉に、八束はぱっと南雲を見上げる。南雲はもちろん笑ってなどいなかったし、相変わらず視線は虚空を彷徨っていたけれど、それでも、「フォローは任せろ」という言葉は八束の不安を一気に取り去ってくれた。小さく頷いて、今北に向き直る。

「続けます。被害者である沖穣治さんは、推定七時三十分ごろ、この道を通過しようとした際、バイクが転倒し投げ出され重傷を負いました。しかし、単にハンドル操作を誤ったわけではなく、何らかの障害物がタイヤに引っかかったことによる転倒であると考えられました」

「何らかの障害物?」

「はい。しかし、現場にはそれらしい障害物は残されておりませんでした。それに、沖さんが転倒してからわたしが沖さんを発見し、救急を呼ぶまでの間、誰かが片付けたというわけでもなさそうでした。今北さんも、その時間は家にいたそうですね」

「ええ。それは間違いありませんよ。近所の方も証言してくれるでしょう。それで、何故私が疑われなきゃならないんですか」

「正直に言えば、障害物の件だけなら、今北さんを疑う理由はなかったんです。ただ、ここで不可思議な白い影が見かけられたこと。それが重要だったのです」

 何故、そこで影の話になるのか、とばかりに今北が眉を寄せる。八束はそれには構わずに、花瓶に飾られた花に視線を向ける。

「かつて、ここで今北さんの奥様が亡くなられる、痛ましい事故がありました。以来、数回に渡って、ここで幽霊が目撃されているそうですね。わたしも、沖さんの事故現場で、幽霊のような白い影を目撃しています」

 あれから、改めてこの地域で幽霊の目撃情報を聞き込みしたところ、どうもこの二ヶ月ほどで、五回ほど幽霊に似た白い影が目撃されていた。

 それは必ず雨の日であり、時刻は七時から八時の間であった。

 そして、しばらくしてからもう一度その場を見ると、幽霊は忽然と消え去っていた、という証言も一致している。

「雨の日、七時から八時の間。これらは沖さんが事故に遭った状況と一致します」

「妻が事故に遭ったのもそんな日でしたからね。現れるなら、当然その時刻でしょう」

「しかし、例えば、大きな人形が木の下に吊るされている。それを幽霊と誤認することも、十分ありえるんじゃないでしょうか。普段ありえないものがそこにある、それだけで強い違和感が与えられます。雨という視界の悪さでは、尚更でしょう」

「……一体、何の話をしようとしているのですか、八束刑事。話が見えないのですが」

「そうですか?」

「仮に、その白い影が妻の幽霊でなく、人形であったとしましょう。そして、八束刑事の言い方からすると、その人形も、私が仕掛けたものであると」

「そうですね」

「不可能でしょう。八束刑事は言っていましたよね、私は障害物を片付けられる状況になかった。それは、人形に関しても同じはずです。最低でも、今回の事故の日に関しては」

「ええ。条件は、沖さんを転倒に導いた障害物と何も変わりません。しかし、わたしは障害物の姿を見ていませんが、幽霊が『白い布を被った人の形をしたもの』であることは視認しています」

 それが幽霊などでなく、現実に存在している「白い布」であるならば、それには、確かに消えるだけの理由があるのだ。

「そこで、一つの可能性を考えました」

 八束は、手袋を嵌めた手で、鞄から一つの袋を取り出す。透明な袋の中には、一本の白い紐が入っていた。

「全ての事象に、ある繊維が使われた、という可能性です」

 それを目にした今北が、ひゅっと息を呑む。

「これは、合成繊維の一つであるビニロンの原料、ポリビニルアルコールを紡糸して作ったロープです。この繊維の性質は、合成繊維を研究されている今北さんなら、もちろんご存知だと思いますが」

 ――水溶性。

 今北は、ぽつりと呟いた。八束は、その言葉に頷く。

「今、わたしが持っているのは、六十度以上の温度で溶けるものですが、化合物の割合によって水に溶ける温度を変化させることが可能ですよね。これを利用して、今北さんは罠を仕掛けたのではありませんか。道路にロープを張るという、極めて単純な罠を」

 それがロープによる罠であるとわかれば、あとは簡単だ。今北のアリバイは、あくまで「ロープを片付けること」に対するアリバイでしかない。ロープを仕掛けることなら、可能だった。あとは道路の冠水を利用し、雨に流されるのを期待すればいい。

「幽霊も全く同じです。このロープと同じ繊維で作った布を、人の形に整えて樹の枝につるす。やがてロープが樹から伝う水で溶け、布も地面に落ちた後、雨に溶けて地面を流れていくという仕組みです。奥様の轢き逃げをしたという沖さんに『妻の幽霊』を視認させ、同時に罠から意識を逸らすための方策であったと考えています」

 そして、今まで、何度か幽霊が目撃されたのは、雨量と溶けるまでの時間をテストしていたからだろう、と八束は考えていた。

 何しろ、この計画は、雨という不確定の要素に左右される。温度、雨量、それらに対して幽霊のかたちをした布がどのくらいの速度で溶けて流れていくのか。それらが把握できた今、計画は実行に移されたのだ。

 八束は、袋に収められたロープを今北の鼻先に突きつける。

「この時期の雨の水温で溶けるような繊維の存在を知る方は、そう多くないと考えます。つまり、繊維の存在を知り、かつ入手できる可能性がある人物。それは今北さん以外には考えられません」

 今北は、八束が予想したような、激しい動揺を見せることはなかった。ただ、八束が導き出した結論には少なからず驚いていたのだろう、目を見開いて八束の推理を聞き届けた後、数拍を置いて問うてきた。

「この繊維によって、罠が仕掛けられたことの証拠はあるのですか?」

「ありますよ。バイクのタイヤに、同一の成分が付着していたことがわかっています。また、同様のものがガードレールの柱、道路の排水溝、樹の枝に微量ながら付着しているのも。繊維が使われた、これ以上とない証拠です」

 これは、八束の要請を受けた南雲が、鑑識に掛け合ったことではっきりした。

 ――そう、そこに存在したのは、幽霊などではなかったのだ。

「以上が、今回の事件の全容。不思議など何一つありません。全ては、今北さん、あなたの手による仕掛けである。我々は、そう考えています」

 八束が、真っ直ぐに今北の小さい目を見据える。今北は、しばしの沈黙の後に「なるほど」と、深い息とともに言葉を吐き出す。

「やはり、何かしら、証拠は残ってしまうものですね。永遠に騙し通せるとは思っていませんでしたが、思った以上に早かった」

「……否定はしないのですか」

「ええ。ここまで明らかになっていて、今更何を否定しろというのです」

 軽く肩を竦める今北。

 ただ、そこには人を一人痛めつけた、という罪の意識があるようには見えなかった。八束はじりじりとした不快感をうなじの辺りに感じながら、それでも言葉を重ねていく。

「では、沖穣治さんに対して、害意があったことも認めるということですね」

「いいえ、それは少し違います」

「……違う?」

「確かに、私はあの男を殺そうとした。しかし、私が望んだことじゃありません。あくまで、あいつが望んだこと」

 今北の目は、見開かれたまま瞬きもしない。それは、目の前の八束を映してはおらず、はるか遠く――ここには既にいないはずの、「誰か」を見つめていて。

「私には、今も見えてるんですよ。奴を殺せと訴える妻の姿が」

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