幽霊は何を語る

「おかえり、八束。じゃ、今回の事件をざっと整理しよう」

 八束が服を着替えて対策室に戻った時には、南雲は机の上のテディベアを不在の綿貫の席に乗せなおし、自分の机の上には事件の資料を広げていた。八束は「はいっ」と返事をして、席につく。

 南雲は一拍置いてから、あくまでぼんやりとした口調で話し始める。

「えーっと、今回、俺たちが解決しようとしている事件は二つ。まず一つは、鍋蓋三丁目の路地で幽霊が観測される事件。もう一つが、同じく鍋蓋三丁目の路地でバイクが転倒し、運転手が意識不明の重態に陥ったこと。俺が言うまでもないと思うけど」

「いえ、そのままお願いします」

 言葉に出すということは、決して無駄ではない。八束が己のすべきことを南雲の言葉から見出したように、頭の中でぼんやりと渦巻いているものを言葉にするという行為は、状況を確かめると同時にお互いの認識に齟齬がないかを確かめる行為でもある。

 南雲は小さく頷いてから、ぽつりと言葉をこぼす。

「俺さ、何だかんだ、バイク運転手が事故ったのと、幽霊の目撃情報との間には、関連性があるって考えてるんだよね」

「確かに、今北さんも、『妻の幽霊が突然目の前に現れた』などと言っていましたが。しかし、幽霊が実在しないとおっしゃったのは南雲さんです」

「うん、本物の幽霊の出番はないと思ってる」

 本物の、とあえて強調されると、では南雲は本物の幽霊というものを知っているのだろうか、と薄ら寒くなる。

 南雲はそんな八束の動揺に気づいた様子もなく、何故かぬいぐるみに囲まれて机に聳え立つチュッパツリー――よく、コンビニのカウンター辺りに置いてある、チュッパチャプスのスタンド型ディスプレイだ――を弄りながら言う。

「まあ、まずは二つの事件を整理しようか。あ、八束も食べる? おすすめはコーラ味」

「えっと、では、いただきます」

 特に断る理由も見当たらなかったので、素直に貰っておくことにする。南雲はツリーから飴を抜き取って、こちらに差し出してくる。そういえば、こういう飴を食べたことはあっただろうか。もしかすると、初めてかもしれない。そんなことを思いながら、派手な色の袋を外す。

 南雲も自分の飴を手に取り、袋を外して口に含む。袋の記述を見ると、ストロベリー味のようだ。八束は恐る恐る、コーラ味だと言われたそれをぺろりと舐めてみる。強めの酸味と、口の中に広がる人工的な甘み。一口目はいいが、ずっと舐めていると口の中がすっかりその味に染まってしまいそうだ。

 大きな飴を口の中でもごもごさせながら、資料に目を落とす南雲に話しかける。

「あのっ、飴、好きなんですか?」

「好きだし、甘いもの食べてないと頭が働かなくて」

 一応、彼なりに意味のある行為らしい。ただ好きだというだけで、所構わず食べているわけではなかったようで、安心する。とはいえ、人前でも常に口に物を入れているのはどうか、とは思うわけだが。

 気を取り直して、八束は飴を舐め舐め、手元の資料をざっと眺める。じっくり読むのは、頭の中に入れてからでも問題なかったから。

 どうやら、南雲が持ってきた資料は、神秘対策係で集めた幽霊目撃事件に関するもの、それとは別に、バイク事故に関する資料もかなり大量にあった。これは、昨日八束が入手できなかったものだ。

「こちらの資料は?」

「借りた。うちって、立ち位置が特殊だからさ。『オカルト事件の調査に必要』っていう条件下でなら、手続きを踏めば他の係とか課から情報提供してもらえる」

 本当は係長である綿貫が間に入らなければならないそうだが、本日は不在のため、綿貫の代理として南雲がその権限を与えられているらしい。

 何にせよ、南雲の協力は必要不可欠だったのだ、と先ほどまでの自分を思い出して顔を赤くする。南雲はそんな八束に気づいているのかいないのか、資料の一枚を手にとってひらひらと揺らす。

「まずは、一つずつ考えていこう。一つ目、幽霊が観測される事件。これに関しては、そもそも八束が見た幽霊って何だろう、って話から始めるべきだろう」

 目を伏せれば思い浮かぶ、白い人影。雨の中に佇み、こちらをじっと見つめていた、人ならざるもの――。

「……あれは、幽霊などではなかった、と考えるべきですよね」

「もちろん。でも、八束は幽霊のような何かを見ている。現場辺りの住民もだ。なら、条件さえ整えば誰にでも見られるものなんだろうな」

「条件、ですか」

 綿貫がまとめておいてくれた目撃情報は、既に目を通している。記憶していた資料を即座に脳内に展開し、この場で確認すべき事項を羅列していく。

「わたしの記憶と目撃情報との共通点は、雨の日にしか観測されていないこと。時刻は朝七時から八時の間であること、でしょうか」

「で、観測位置は今北夫人が死んだ場所に近い樹の下。今北夫人の事故死自体はあの近所では有名だから、目撃者も今北夫人の幽霊だと思っていたらしいな。……あれ、あの近辺の地図とかなかったっけ」

 資料の束を漁り始めた南雲だが、地図はすぐには見つからないようだった。探している時間が勿体ない、と判断した八束は、ペン立てからボールペンを抜き取って言う。

「わたし、書きます。白い紙ありますか?」

「あるけど……。あの路地の細かい状況、覚えてる?」

「一度見たので大丈夫です。任せてください」

「……え?」

 聞き返してくる南雲をよそに、八束は貰ったA4の紙にペンを走らせる。幽霊の目撃箇所である樹を中心に、道路の形、ガードレールの位置、電信柱の位置。その全てを、一度目にした風景を頭の内側に呼び出しながら「書き写す」。

 やがて、紙の上には写真と見まごうほどの地図が完成する。八束にとっては、頭の中に焼きついている風景を紙の上に写すだけの行為なので、さしたる時間も必要ではなかった。

 できました、とペンを置く八束に、南雲が驚きを含んだ声で問いかけてくる。

「もしかして、これ、全部覚えてた?」

「はい。わたし、一度でも見たり聞いたりしたものなら、絶対に忘れないので」

 ――完全記憶能力。

 あくまで覚えているだけの能力であるが、一度焼き付けた記憶が劣化しないというのは特別人間離れした能力らしい。当の八束は「忘れる」ということを知らないので、この能力がどう人と違うのかは、未だによくわかっていないのだが。

 南雲は、ぽかんとした様子で八束を眺めていたが、やがて「すごいな」と感嘆の声を漏らす。

「羨ましいよ、俺なんてすぐ忘れちゃうからさ」

「い、いえ、そんなことないです! 確かに珍しいかもしれませんが、どう使うかはまた別の話ですしっ」

 そう、全く別の話なのだ。

 この能力がどんなに珍しく優れたものであろうとも、八束は絶えず失敗を繰り返してきたし、その結果として、元の居場所を追われることになってしまったのだ。

 しかも、その時に背負った重石のような記憶だって、何一つ忘れることはできないのだ。

 ずるずると思い出されてしまうあの日の記憶に、自然と苦い顔を浮かべてしまう。思い出すべきではなかった、と思うけれど、どうしても引きずられてしまうものだ。

 過去のことを考えてはいけない。今は今、過去に目を向ける時ではないのだと、必死に自分自身に言い聞かせていると。

「つまり、使い方を一緒に考えるのが、俺の仕事なんだろうね」

 おっとりとした、南雲の言葉が耳に入る。はっとそちらを見れば、南雲は難しい顔ではあったが、指先で飴の棒をくるくる回しながら言った。

「ま、役に立てるかはわかんないけど、遠慮なく頼ってよ。俺も多分、散々頼ることになるだろうしね。お互い様ってことで」

「……はいっ!」

 不思議な気分だ。南雲の言葉は、あくまで八束のような熱意に満ちたものではないが、聞いていると安心できる。そっと寄り添うような感覚とでも言うのだろうか。この男自身がそれに気づいているのかは、わからないけれど。

 気を取り直して、更に今まで確認した資料を頭の中に展開しながら、南雲に問いかける。

「あの、今北夫人の事故死に関する資料も見たいのですが、借りられますか?」

「言われると思って借りといた。どうぞ」

「ありがとうございます。……って、南雲さん、わたしの心でも読んでるんですか!?」

 素直にファイルを受け取ってしまってから、その不可解さに叫ばずにはいられなかった。だが、南雲はどこまでも平然とした様子で言う。

「いや、普通に考えたら絶対必要でしょ。幽霊が今北さんの奥さんだっていうなら、化けて出る理由は知らないとな」

 こくりと頷いて、八束は素早く資料に目を通す。とはいえ、内容は前に綿貫から伝えられた概要と、さほど変わらない。今北麻紀子が轢き逃げに遭って死んだということ。それが一年前の雨の日であり、八束が幽霊を目撃したまさしくその時間であったということが、わかったくらいで。

 南雲もぱらぱらと資料に目を通しながら、「ふうん」と呟く。

「これ以上のことは、うちにも、今北さんにもわかってないってことか」

「しかし、今北さんは、犯人がわかっている、という風におっしゃっていましたが」

「それを鵜呑みにしていいかどうかは、また別の話だろ。今んところ、今北さんの発言は主観でしかないしね。まずは、複数の客観として『存在した』幽霊の分析から始めた方がいい」

「……確かに、そうですね」

 とはいえ、今はこれ以上のことはわからない。幽霊の正体も、何故そこに現れたのかも。

 話が一旦尽きたのを察したのか、南雲は次の資料に手を伸ばす。

「次に、バイク事故について。運転手は沖穣治って名前みたいだな。彼が事故に遭った時間は、雨が降り出す前だった、と」

 そう。八束が目撃したのは雨の最中だったが、八束が彼を発見したとき、既に事故から三十分は経過していたはずなのだ。果たして、その時、そこに既に幽霊が佇んでいたかどうかは、沖穣治本人にしかわからない。

「それに、単純に、幽霊を見かけてハンドル操作を誤った事故ではないと思います」

「そうなんだ?」

「道路の上のバイクの位置と、バイクから落ちた沖さんの位置から、わたしには、道の真ん中で、見えない障害物に当たったことで転倒したように見えました」

「見えない障害物?」

 はい、と頷いて、八束は路地の様子を描いた紙の上に沖穣治とバイクの位置を書き込む。可能な限り、向きなどもきちんと再現して。そして、バイクが何かと衝突したと思しき位置を、矢印で書き加える。

「もちろん、それが何なのかはわかりません。わたしが現場を見た限り、それに値するものは存在しませんでした。それに、障害物の存在に気づけば避けるか、そうでなくともバイクを減速させることはできたはずです。少なくとも、大怪我を負うような事故にはならなかったと思います」

 だから、「見えない」障害物であると八束は感じたのだ。そして、ここまでは、他の部署の捜査でもわかっている。昨日会ったとき、蓮見は事故の原因となったものを探している、と言っていたから。

「バイクに、障害物と接触した傷とかはないんだ」

「はい。転倒による破損以外に、特殊な傷は見当たらなかったといいます。それでも、やはり操作ミスではない、と、わたしは考えます」

 正直なところ、自信があるかどうかと言われると怪しい。八束は駆けつけた時に見た状況から判断しているだけで、決定的な証拠があるわけでもないのだ。

 南雲は「ふむ」と青白い顎をさすり、口から飴の棒を突き出したまま呟く。

「これは俺の単なる想像だけど、仮に障害物があったとしたら、確かに沖さんから見えづらいものではあったと思う。でも、完全に不可視である必要はないんじゃないかな」

 南雲の言わんとしていることがすぐにはわからず、八束は首を傾げる。

「視界に、つい目を向けずにはいられない、インパクトのあるものを配置するとか」

「……え?」

「例えば、幽霊」

 なるほど、そう考えれば今北の『妻の幽霊を見た』という言葉にも繋がってくる。その言葉がどこまで真実を示しているのかは、わからないにせよ。

「南雲さんは、その時にも幽霊が見えていたとお考えですか? その時はまだ、雨は降っていませんでした。幽霊が目撃されていたのは、いつも雨の時だったはずです」

「雨と幽霊が関連があるみたいに感じられるのも、幽霊を見せた側の誘導の可能性がある。そこまで目撃情報も多くはないし、関連に囚われすぎるのもどうかな」

「確かに、そうですね……」

「ただ、そうだと仮定しても、障害物の話が解決するわけじゃないな。仕掛けるにせよ、片付けるにせよ、誰にも気づかれない必要がある」

 それは、幽霊だって同じだ。八束の見た幽霊が人なのか物なのかはわからないが、八束が事故に遭った沖を見つけたあの日、救急や蓮見たちが駆けつけた時にはそれらしい人影など影も形もなかったという。

「この道は、細い上に見通しが悪く、また、近くに新しく整備された道が通ったことで、ほとんど車も人も通らない場所であったといいます。目撃されない可能性は高かったのではないかと」

 八束があの道を通ったのは、地図で見た時に、警察署への近道だと思ったから。つまり、地図が古かったというわけだ。地元の人間ならば、間違いなく新しい道を使う、という蓮見の言葉を思い出す。

「まあ、障害物を仕掛けるだけなら明け方の闇に乗じるのも可能かもね。ほとんど車通りの無い道なら、沖さんがあの道を使うタイミングがわかれば行けそうだ」

「わたしもそう思います。ただ、事故が発生した時刻から私が沖さんを発見し、救急が到着する時刻まで、今北さんにはアリバイがあるそうです」

 隣家の住人が、庭の窓越しに今北の在宅を確認していたという。常に確認できていたわけではないとはいえ、今北が家の外に出た様子は無かったらしい。

 これが、今北が意図的に起こした事故であると仮定した場合、沖を転倒させた障害物を片付けるような時間は、全く無かったということになる。

「結局は、障害物が何で、どうやって消えたのか、ってことに尽きるのか」

 飴を奥歯で噛み砕いて、八束はじっと自分の手で書いた地図を見つめて呟く。

「わたしたちがわかっていないのは、幽霊の正体と、障害物の正体」

「仮説としては、沖さんが事故を起こした瞬間はどちらも現場に存在したと考えられる、ってとこかな。八束が見た時には、幽霊しか確認できなかったみたいだけど」

 これだけでは、全く、足らない。形の無い物に向かって、闇雲に手を伸ばしているようなものだ。

 ただ、何かが。ほんの少しだけ、指の先に引っかかっているのを感じる。

 ――見えない障害物。

 ――白い人影。

 ――それらの、突然の消失。

 ざあ、と。目を閉じてみれば、遠くから聞こえるのは、雨音。

 激しい雨の気配は、八束の頭の奥底に響き渡り、大切な何かの輪郭を浮かび上がらせようとしている。

 これは、一体何だろう?

 それが「何」であるのか、掴めそうで掴めないもどかしさを感じながら、うっすらと目を開く。

 目の前には机の上にばらばらと広がる資料、八束が描いた一枚の地図、それに、今北が渡してきた名刺があって。

 その瞬間、八束は「あっ」と声を上げていた。

 脳味噌の奥底で閃いたのは、荒唐無稽な仮定。それこそ、幽霊を見たのと同じくらいには突拍子も無い話だと、八束自身でも思う。

 けれど、どんな話でも、きっと、目の前の男は笑わずに聞いてくれる。初めて八束が幽霊の話をした、その時のように。そう信じて、真っ直ぐに南雲の目を見据える。

「もしかすると、幽霊と事故の原因である障害物は、雨の日にだけ成立する、時限装置なのではないでしょうか」

 何故か、一瞬たじろぐような表情を見せた南雲が、眼鏡の奥で目を見開く。

「時限、装置?」

「はい。わたしの想像が正しければ、ですが」

 頭の中に繋がった一本の糸。それを力いっぱい手繰り寄せるイメージと共に、南雲に示すのは、今北の名刺。

 

「南雲さんに、いくつか、お願いしたいことがあります」

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