ここから、これから

 うわごとを呟き続ける今北のことは、南雲があらかじめ連絡をつけていた名も知らぬ警官たちに任せ、八束と南雲は帰途につくことになった。

 ここから先は他の係の仕事であり、神秘対策係の出る幕ではない――そう、南雲が言ったから。

 そのこと自体には異論はない。なかった、のだが。

 八束は、ゆらゆら頼りない足取りで歩く、南雲の背中に声をかける。

「あのっ、南雲さん!」

「どうしたの、八束」

「先ほどの話、本当なんですか?」

「先ほどの話って?」

 南雲は、ゆっくりと振り向いた。黒縁眼鏡の下で、隈の浮いた目を眩しそうに細めている。その目尻に涙が浮いているのは、なんてことはない、単純に欠伸をかみ殺しているだけだ。

 足を止めた南雲の横に小走りで並び、八束は一気にまくし立てる。

「今北麻紀子さんが、今北さんの背後に立っていたという話です! 南雲さんには、本物の幽霊が見えていたんですか!?」

 南雲は、妻のことを最もよく知るはずの今北が驚くほど、事故で死んだ今北夫人の姿を再現し、最後に今北に残した言葉を思い出させてすらみせた。八束には何も見えていなかったが、南雲の目は、確かに、今北の背後に立つ「何者か」を見ているようだった。

 だが、南雲はいたって軽く「まさか」と言い放った。

「資料で奥さんの顔を見たから、言ってみただけだよ。ホット・リーディングってやつ」

 ホット・リーディング。相手の情報をあらかじめ調べておいて、その情報をまるで相手の心を読んだかのように提示することで、相手にこちらの話を信じさせるという話術。ある種の占い師や詐欺師がよく使う手法の一つだ。

 それに――。

「……もしかして、麻紀子さんが最後に今北さんに言葉を残していた、というのは、コールド・リーディングですか」

 対して、コールド・リーディングは事前調査なしに相手の反応や挙動から情報を読み取り、相手の共感を引き出すことだ。今回の場合、あらかじめ今北の動揺を引き出し、そこを更に揺さぶることで、今北に「今北真紀子の遺言」を思い出させたのだろう。

「そうそう。博打みたいなもんだったけど、上手く嵌ってくれてよかった」

 あまりにも古典的な技術で堂々と幽霊の物語を作り出した手腕には、八束も舌を巻かずにはいられなかった。

 しかし、それはそれで、不思議に思うことがある。

「でも、南雲さん、どうしてわざわざ、今北さんを騙すようなことを言ったのです?」

 八束の推理を、今北は認めていた。そのまま聴取を続けていても、今北が黙秘を貫くようなことはあるまい、と八束は考えていた。だが、南雲は剃り上げた頭をゆるりと振って、目を細める。

「もちろん、単純に犯行を認めさせるなら、八束の推理と用意した証拠で十分だったよ。でも、それだけじゃ、今北さんは己の行動が『罪』であったとは認めない。絶対に」

「……あ……」

 今北の、余裕に満ちた態度を思い出す。今思い返してみれば、今北が認めたのは犯行への関与だけで、そこに罪の意識は全く無かったのだ。全ては、妻である麻紀子の霊が指示したことだといって。

「人の罪を仕事上必要である以上に暴きたてる趣味はないし、今回だって、ちょっとやりすぎかなとは思ったんだ。別に、今北さんが罪を認めようが認めまいが、俺には関係ないし」

 神秘対策係は、「オカルト事件の真相を暴く」ことに特化した係であり、それ以上でも以下でもないから、と南雲は無造作に包みを剥いたチュッパチャプスを口に含み。

「でも、それは、濡れ衣着せられた麻紀子さんに悪いかなと思って」

 小さな声で、そう、付け加えるのだ。

 幽霊など存在しない。誰よりもそう主張していた南雲の口からそんな言葉が出るとは思わず、八束は思わず目を見開いてしまう。南雲は、相変わらずぼんやりとした仏頂面で、飴をころころ舐めているだけだけれど。

 そんな南雲を、どう評するべきかわからないまま、ただ、頭に思い浮かんだ言葉を言葉にする。

「南雲さんは、不思議な人ですね」

「よく言われる」

 きっと、誰も――南雲以外の誰も、その内心は理解できないのかもしれない。

 最低でも、八束は、南雲が何を思ってこの場に立ち、言葉を紡ぐのか、わからないままでいる。表情を失ったその面から、正しく感情を読み取るのは困難を極める。

 ただ、決して、見かけのような恐ろしい人間ではないということ。八束に手を差し伸べ、死者の思いを汲み取る程度には、優しい人なのだろうということ。

 そのくらいは、わかる。

 わかったつもりで、いる。

 けれど――。

 ぐるぐると思考を廻らせていると、南雲が不意に言った。

「まあ、あの程度の法螺話で今北さんを揺さぶれたのは、八束のお陰だけどね」

「ふぇっ」

 このタイミングで自分の名前が出てくるとは思わず、つい、すっとんきょうな声を上げてしまう。

「八束が、幽霊の正体と事故の原因を突き止めてくれなければ、今北さんに話を聞かせることもできなかった。今回の事件に関して言うなら、俺は、何もしてないよ」

 そう言った南雲の声のトーンが、少しだけ変わった気がして。八束ははっとして南雲を見上げる。南雲は、口から突き出した飴の棒をくるくる回しながら、ぼんやり虚空を見つめていたけれど。

『俺は、何もしてないよ』

 その言葉は、八束の耳には「自嘲」に聞こえたのだ。

 ――どうして。

 思わず立ち止まってしまうけれど、南雲は構わず歩いていく。どこか頼りない足取りで。その丸まった背中を見て、八束は言葉を失う。今北と対峙した際に一瞬だけ垣間見た、いやに悲しげな横顔が脳裏に浮かんで、消えて。

 わけもわからないまま、手を、伸ばしていた。

 

 

 

 耳元で囁く声を聞いた。

「迷惑かけてごめんなさい。それと、あの人に伝えてくれてありがとう」

 南雲は振り返らない。本当に幽霊の声が聞こえたなんて言ったところで、八束を余計に怖がらせるだけ。今までそうしてきた通り、見えても聞こえてもいないという体で振舞ってみせればいい。

 ――無駄に強い霊感は、公正な捜査には支障をきたすものだから。

 法は、この世ならざるものの関与を認めない。だから、南雲も、それを捜査の上での考慮には入れないようにしている。……あくまで、出来る限り、だけれども。

 ただ、久しぶりに、この霊感も役に立ったのかな、と思う。

 幽霊や妖怪などのこの世ならざるものを、「本物」か「偽物」か見分ける程度の能力。生まれついての霊感にはその程度の利用価値しかないが、それでも、このような形で役に立つのなら、まあ、悪くはないかもしれない。

 それが偽物だと見抜いた後のことは、きっと、自分以外の連中がどうにかしてくれるのだろう。今回、八束がそうしてくれたように。

 そう、今回の事件に関して言えば、南雲は何もしていない。何かを考えたわけでもなく、事件を解決しようと積極的に動いたわけでもない。ただ、自分の目で見て感じ取ったものを、言葉にして「伝えた」だけに過ぎない。

 それ自体、単なる気まぐれ、その時の感情に流された結果だけれど――。

「南雲さん!」

「ん?」

 突然、ぱたぱたと駆け寄ってきた八束が、南雲の服の袖を掴む。意志の強そうな太い眉毛の下で、潤んだ、黒い部分の多い双眸が、真っ直ぐに南雲を見上げている。ああ、本当に綺麗な女の子だよな、と思っていると、八束が凛とした声で言った。

「そんなこと、ありません!」

 唐突ともいえる八束の言葉に面食らう。この娘は、一体、何を言い出したのだろう?

 目を白黒させる南雲に対し、八束は一つ一つの言葉を、常に霞がかったような意識を貫く、よく響く声で紡いでいく。

「南雲さんは、最初から、わたしのことをずっと気遣っていてくれました。わたしが間違えそうになった時は、きちんと止めてくれましたし、わたしが、この事件の全てを解き明かしたいと望んだ時は、嫌な顔一つしないで助けてくれました。南雲さんがいなければ、わたしは、この事件を解決することも、神秘対策係の役目を全うすることも、できませんでした」

 ――そうか。

 南雲は、一拍遅れて、八束の言葉の意味を察する。

『俺は、何もしてないよ』

 いつしか口癖になっていた、言葉。八束は、ほとんど無意識に言ったその言葉に対して、必死になって反論しようとしている。そこまで八束を必死にさせるものがあるとも、思えなかったのに。

「南雲さんは、わたしにとって、絶対に必要な人です。だから」

 八束は、子犬のような真っ直ぐな目で、南雲を見上げて。その瞳に、戸惑う南雲の姿を映しこんで、こう、叫ぶのだ。

「だから、そんな、辛そうな顔、しないでください……!」

 ――ああ、と。思わず、声が漏れていた。

 声に感情が出てしまっていたのか。それとも、八束が勝手に解釈したのか。絶対的な記憶能力を持つ八束と違い、己の言葉を正しく思い返すことのできない南雲には、何一つとしてわからない。

 ただ、八束が。この時だけは、南雲の心境を正しく理解していたのだと、思い知らされる。

 それと同時に、何故だろう。ふっと、肩の力が抜けた。

「……そっか、そんな辛そうに見えたか」

「はい。間違っていたら、すみません」

「ううん、間違ってはいないよ。大したことじゃあ、ないんだけど」

 本当は、軽く肩を竦めて笑顔の一つでも見せられればよかったのかもしれないけれど。生憎、南雲は、そんな当たり前のこともできないのだ。

 だから、せめて、明るく聞こえるように心がけながら。

「でも、ありがと、八束。少しだけ、気が楽になった」

 八束は、黒目がちの目を大きく見開いて、不思議そうに首を傾げる。

「わたし、お礼を言われるようなこと、言いましたか?」

「お前が俺のことを必要だって言ってくれたように、俺も、お前に助けられた部分があったのかもな、って思って」

「いえ、わたしなどまだまだなのだと、今回は痛感しました。南雲さんをきちんと助けられるよう、精進しなければなりません」

 ふんす、と鼻息荒く宣言する八束の姿は、何ともユーモラスだ。南雲に「笑う」という能力があれば、きっと、笑ってしまっていたと思う。

 とはいえ、ここ何年も「笑う」ということをしていないのだ、おそらく今も何ともいえない仏頂面をしているだろう――と自己分析している南雲を、八束は澄んだ黒の瞳で見据えて、笑いかける。

「それでも、少しでも、南雲さんの気分が楽になったなら、何よりです」

 その、無邪気で何の衒いもない言葉。それ自体が、南雲にとっての救いとなっていることを、きっと八束は知らない。今はまだ、知らないでいてほしいと思う。

 南雲の袖から手を離した八束は、そっと、南雲の前に小さな手を差し出す。

「改めまして。これからも、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします、南雲さん」

 どうやら、本格的に、綿貫の策に嵌ってしまったらしい。狐と呼ばれたがるあの狸親父の、してやったりというにやにや笑いが目蓋の奥に浮かぶ。

 けれど、屈託なく笑いかけてくれる後輩を邪険に扱えるような南雲でもなく。八束のちいさな手を、手袋を嵌めていない右手でしっかりと握る。あたたかな、人の温度が手の平越しに伝わってくる。

 いつからか、感じることすら疎ましいと思っていたそれが、今は、不思議と心地よい。

「ご指導ご鞭撻とかって立場じゃないんだけどね、ほんと」

 これだけは、どこまでも事実だ。南雲の方がご指導ご鞭撻いただきたいくらいに、一線から離れて過ごしてきたのだから。どんな事情があったにせよ、つい先日まで一線にいた八束に勝る部分など、ほとんどないはずだ。

「でも、まあ」

 ――こんな関係は、悪くないかもな。

 そんな、いつぶりかもわからないくすぐったくなるような思いを、不自由な表情の代わりに、声と言葉に乗せて。

「秘策の『相棒』として。これからよろしく、八束」

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