はじまりの予感

 一通り聴取を受け、解放された頃にはすっかり雨は止み、西の空に日が沈みかけていた。

「今日は気絶するほどのショックを受けたわけですし、無理はよくありませんよ。八束くんが見たという幽霊の話は、明日詳しく聞かせていただきます。今日はゆっくり心と体を休めてください」

 ……という綿貫の一言で、本来の終業時間にはまだ早いものの、八束は帰途についていた。

 結局、今日は事故の目撃者として扱われただけで、何一つ、仕事に取りかかることはできなかった。その事実に落ちこむ八束に対し、綿貫は「明日から頑張ってくれればいいですよ」と優しく声をかけてくれたのだった。心優しい上司に巡り合えた、と思えば、少しだけ気分が上向きになる。

 ――そうだ、明日から、また頑張ろう。

 今日は今日、明日は明日。明日は仕事の話に入ると綿貫も確約していたのだから、気を取り直していくしかない。ぐっと、ちいさな手を握りこんだその時。

「ついたよ。ここが、待盾警察署前バス停」

 降ってきた声に、はっと我に返る。いつの間にか、警察署の門を出て、バス停の丸い看板の前に立っていた。慌てて、ここまで案内してくれた南雲に一礼する。

「ありがとうございます、わざわざ、ここまで送っていただいて」

 ん、と横に立つ南雲が短く返事をする。頭一つ分違う視点を補うため、思いきり見上げる形で南雲の横顔を見ると、不機嫌な表情を隠しもしていなかった。

 いくら「そういう顔」だと言われても、どうしても聞かずにはいられない。

「……迷惑でしたか?」

「ううん、何も迷惑じゃないよ」

「そう、ですか」

 言葉が、途切れた。

 いくら空気が読めなくとも、この場に流れた気まずさくらいは、八束にもわかる。南雲はぼんやりと虚空を眺めるだけで、何か気の利いたことを言ってくれるわけでもなかった。

 相手が話を振ってくれることに期待しているばかりでは、どうしようもない。言いたいことがあるならば黙っていてはいけないと己に言い聞かせ、改めて南雲に向き直り、口を開く。

「今日は、本当にありがとうございました。色々教えていただけて、助かりました」

「俺は何も教えてないと思うけど。ほとんど、綿貫さんが説明してたじゃない」

「それでも。南雲さんとお話ししているうちに、気が楽になったのは本当ですから」

 最初は驚いたし、果てにお化けと勘違いして気絶までしてしまったけれど。それでも、おそらく気を悪くした様子もなく――それはあくまで「おそらく」ではあったが――取り乱す八束に対して、丁寧に言葉を尽くして接してくれたのは事実だ。

 八束の言葉を受けて、南雲はほんの少しだけ目を細めた。眉間の皺が深まり、更に睨みつけられているような気分が増すが、ふ、という息とともに吐き出された声は、八束の想像に反して穏やかだった。

「そっか。なら、よかった。正直に言えば、俺も不安だったんだ。新入りを迎えるのって、ここに来てから初めてだったからさ」

 神秘対策係は五年間二人だけで構成されていた、というのは綿貫も南雲も言っていたことだ。それ以前の南雲の経歴はわからないが、ここしばらく「後輩」というものとは縁遠かっただろうことは想像がつく。

 それを理解すると同時に、一点、どうしても気になることがあったことを、思い出す。それは、考える前に言葉として唇から飛び出していた。

「あの、南雲さんは、わたしが新しく加わることに、反対だったのでしょうか」

 ぶしつけな質問だっただろうか、と一拍遅れて気づいたが、南雲は表情一つ変えずに問い返してくる。

「そういう風に見えた?」

「はい。その、『使い物になるのか』と言われてましたよね。ですから、わたしは南雲さんや、この係にとって迷惑な存在なのかと」

 南雲は眉間の皺を深めて「あー」と声を上げ、剃り跡も見えない頭を掻いた。

「あれ、聞こえてたんだ。そういうつもりじゃなかったけど、そう聞こえて当然だよな……。失言だった。俺は何も結果が出ていない状態で否定的な評価をする気はないし、八束が加わること自体に反対をする気もないんだ。ただ」

「ただ?」

「今まで、二人でだらだら続けてた係だからさ。それこそ、八束みたいなオカルト苦手な子を呼んでまでする仕事があるのかなって。綿貫さんの企みなのは、何となくわかるけど」

「企む、というのは相当語弊がある気もしますが」

「いやいや、ああ見えて狸だからね、あのおっさん。狐って言わないと嫌がるけど」

 どちらにしろ、綿貫が腹に一物のある人物という評価であることだけは確からしい。南雲の言葉がどこまで正しい評価なのかは、わからないが。

「とにかく、八束のことが迷惑だとは思ってないから、そこは心配しないで。不愉快な思いをさせてごめん」

 南雲は片手で眼鏡を押さえて軽く頭を下げる。表情は依然険しいままで、顔だけ見ればさっぱり謝っているようには見えなかったが、不思議と、その言葉を疑う気にはなれなかった。

「いえ、わたしは大丈夫です。南雲さんの言葉を聞かせてもらえて、よかったです」

 安堵を覚えると同時に、自然と唇が笑みを描く。まだどこか恐ろしさを感じてはいるが、南雲の率直な物言いは、八束を安心させるに値した。

 その時、バス停にバスが滑り込んできた。「あ、これですね」と身を乗り出す八束の頭を、南雲が軽くぽんと叩く。

「じゃあね、八束。また明日」

 見上げた南雲は、決して笑顔を見せない。眉間に皺を寄せ、隈の浮いた目で八束を睨むように見下ろしている。それでも、八束は精一杯の笑顔をもって、南雲の言葉に応えた。

「はいっ、お先に失礼いたします!」

 八束はぺこりと頭を下げて、バスに乗り込む。扉が閉まってから振り返ると、南雲は仏頂面のまま、ひらひらと細長い手を振っていた。

 不思議な人だ、と窓越しに手を振り返しながら思う。

 元々、他人の考えを察するのを苦手としていることは自覚しているつもりだが、それにしても、南雲の態度は八束が今まで出会ってきた誰とも違い、何を考えているのか、どのように感じているのかが全く伝わってこない。刺し貫くような視線と、それに反した穏やかな言葉。色々と噛み合っていないが、決して不愉快でもないのが更に不思議だった。

 ――これから、南雲さんについても、わかるようになるだろうか。

 わかってくればいい、と思うが、わからない現状では、ぽつりぽつりと胸の中に生まれる不安の芽を感じずにはいられない。いくら窓越しに観察してみたところで、南雲は、少しも変わらぬ表情で手を振り返すだけなのだけれども。

 やがて、バスが発車し、南雲の姿が遠ざかっていく。道を折れたところで完全に見えなくなったので、八束はぱたりと手を下ろす。

 一人になってはじめて、今日起こったこと、出会った人物、これから所属する部署について、冷静に思い返すことができた。一つひとつ、記憶の引き出しから拾い上げながら、どうしても湧き上がってくる冷たい感覚にぶるりと震える。

 ――わたしは、ここで、上手くやっていけるだろうか。

 以前所属していた部署では、それなりに上手くやっていけていたと思う。完全に、八束の過失によって引き起こされた「あの事件」を除けば、八束自身が抱えている致命的な欠点は、何とか補ってこられたのだ。

 だから、大丈夫。かつての事件のような失態は、二度と繰り返さない。

「大丈夫」

 窓に映る自分の顔に向かって、ちいさな声で、語りかける。

 それは、暗示にも近く。大きな黒目がちの目が、八束自身を覗き込んでいる。太く短い眉、きっちりと切りそろえられた前髪、引き結んだ唇。やる気に満ちた己の顔を見据えて、そっと言葉を落とす。

「わたしは、大丈夫。今度こそ、間違えない――」

 八束以外、誰も知らない決意を乗せて、バスは水溜りを蹴散らしながら、「特異点都市」待盾を行く。

 

 

 

「おかえりなさい、南雲くん」

「ただいまー」

 綿貫の言葉にほとんど条件反射で返した南雲は、対策室に足を踏み入れるなりソファにどっかと座り込む。そして、先ほどまで八束が使っていたタオルケットを頭から被ってそのまま横になった。

「……南雲くん、一応言っておきますが、まだ、勤務時間中ですからね」

 奥から聞こえてくる綿貫の声は、呆れと、聞き違えようのない諦めを孕んでいた。南雲は、タオルケットを被ったまま、もごもご言う。

「昨日ほとんど寝てないし、今のでどっと疲れたんで俺は寝ますぅ」

「いつもそうじゃないですか。これから八束くんも加わるんですから、少しは先輩らしいところを見せてくださいよ?」

「って言ったって、うちの仕事なんて高が知れてるじゃねっすか。あの八束って子、見るからに真面目そうですし、俺の仕事丸々渡したってお釣りが来ます」

 その分、俺がだらだらできる時間が増えるなら、それに越したことはないけれど――と続けようとしたところで、

「今まで通りでしたらね」

 綿貫の声が、降ってくる。

「そろそろ、南雲くんにも本気で働いてもらおうと思いましてね。テディベアを量産するのにも飽きた頃でしょう?」

 南雲は、思わず体を起こして、奥の綿貫を分厚い眼鏡の下から睨んだ。

「……やっぱり、何か企んでるんすね、綿貫さん」

 綿貫は、そんな南雲の鋭い視線を軽く受け流し、「ええ」と微笑むばかり。

「突然何もかもを変えるわけにはいきませんが、これが第一歩ですね。とりあえず、南雲くんは単独行動厳禁ですからね、最初にパートナーが必要かと思いまして」

 それに関しては南雲も反論できないので、代わりに、どうしても気になっていたことを問うてみる。

「あの八束って子は、どうして選ばれたんです?」

「僕の直感ですかね。ああ、安心してください。秘策にはもったいないほど優秀な子ですから、まるきり役立たずってことはありませんよ」

「そんな優秀な奴が、こんなギャグみたいな係に配属されるんだ。当然、何かしらの問題があってしかるべきだと思いますけど、その点はどうなんです?」

「今、僕の口から言わなくとも、追々わかるでしょう。彼女が、君が抱える問題を知るのと同じくらいの時期には」

 つまり、答える気がないということだ。こう答えた綿貫の口を割らせるのは難しいし、何よりも面倒くさいことは、経験上誰よりも南雲がよく理解している。それに、そういう問題は八束本人から聞いた方がいい、とも思うのだ。ぱっと見た限り、頭の先から爪先まで真面目で凝り固まったような娘だ、きっと聞けばすぐ答えてくれるだろう。

 だから、今は八束について追及することは避け、もう一つ、抱えていた質問を投げかける。

「何故、今なんです?」

「そうですね、このまま続けていても、この係のためにも、僕のためにも、もちろん南雲くんのためにもならないと感じたからです。まあ、一種の賭けですよ」

 ――だろうな。

 南雲も、その言葉には内心で頷く。決して、綿貫には気づかれないように。

 何もかもが変わってしまったあの日から、指折り数えれば五年と少し、のはずだ。今となっては、時間の流れすら曖昧なもので、こうして改めて数えなければ把握することもできない。

 そんな、ただ息をしているだけの日々を、とりわけ厭うわけではないのだ。変化がないということは、二度と、あの日のようなことも起こりえないということだから。いつも呆れた視線を向けてくる綿貫には悪いが、本気でそう思っているからこそ、この待盾署の片隅でテディベアと戯れる日々を送ってきた。

 ただ――。

「南雲くん、君だって、ずっとこのままでいたいわけではないでしょう?」

 綿貫の声と笑顔は、いつもと何一つ変わらない。どこか人を食った雰囲気を伴う、狸にも狐にも見える笑顔がこちらに向けられている。

 今更、見飽きた顔を眺めているのも馬鹿馬鹿しくなって、再びタオルケットを被ってソファに倒れこむ。粗大ゴミ置き場出身の中古ソファは、南雲の体重を受け止めてぎしぎしと悲鳴を上げるが、構わずうつぶせになる。

「……そりゃあ、そうだけどさあ」

 途端に、頭の後ろ辺りから圧し掛かってくる睡魔に身を委ね、ほとんど無意識に、呟く。

「どうにかできるなら、とっくに、どうにかしてるよ……」

 体を覆うタオルケットは、微かに、雨の香りがした。

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