八束結の現状認識

 翌日。

 八束は、バイク事故を目撃した現場を訪れようとしていた。

 ――後ろ手に、南雲の手をがっしりと握りながら。

 南雲は抵抗らしい抵抗もせず、されるがままになっていたが、現場が見えてきたところで、ぽつりと言った。

「……手、もう、離していいよ」

「逃げませんか?」

「逃げない逃げない。今から対策室帰る方がめんどい」

 そこで「めんどい」と言う辺りが南雲らしい、と思う。昨日会ったばかりで南雲の何がわかるのかという話だが、これで「現場に来て俄然やる気が出た」とか言われるよりはよっぽど信頼できると考えるのは、あながち間違っていないだろう、と思う。

 そんなわけで、渋々「わかりました」と手を離してやる。南雲はほっと息をついて、仏頂面を現場に向けた。

 そういえば、片手だけに手袋をしているのだな、と八束は南雲の手に視線を向ける。先ほどまで八束が握っていた左手は黒い指出し手袋に覆われているが、右手にはそれがない。何か意味があるのだろうか、と思ったが、それを問う前に南雲が口を開いていた。

「で、俺、何するんだっけ」

「ちょっ、えっ、綿貫さんの話、聞いてなかったんですか?」

「話長いんだもん」

 大して長い話ではなかったはずだが、と八束は渋面を作る。南雲は、そんな八束に構わず、右手首にぶら下げていたコンビニ袋からチュッパチャプスを取り出している。この男、観察してみると朝からずっとチョコや飴を口に入れているようで、見ているこちらまで口の中が甘くなってしまう。

 とにかく、南雲を無理やり連れて来たところで、仕事の内容がわかっていなければ話にならない。八束は胸の中に湧き上がってくる苛立ちを何とか理性で抑えつつ、今朝のことを思い出す。

 

 

「……八束くんが見たという幽霊、あながち見間違いでもないかもしれません」

 綿貫は、神秘対策室に現れるなり、そう宣言した。

 神秘対策係で受け付けてきた、過去の相談記録ファイルを眺めていた八束は、「ふぇっ」と変な声を上げて綿貫をじっと見つめる。

「どういうこと、ですか?」

「実は、昨日『鍋蓋三丁目で幽霊を見た』という相談が寄せられましてね」

 鍋蓋三丁目。まさしく八束が幽霊を目撃した現場だ。

 綿貫によれば、その相談者はここ数ヶ月のうちに数度、幽霊の姿を目撃していたそうだ。それでも、木の影を見間違えたのだろう、という程度にしか考えていなかったのだという。しかし、昨日、幽霊を目にした現場で事故があったと聞いて、もしかすると、あれは単なる見間違いではなかったのではないか――そんな思いに駆られて、神秘対策係の扉を叩くに至ったのだという。

「同じものであったかを確認したいので、八束くんが見た幽霊についても、詳しく教えてもらってもいいですか?」

「は、はいっ」

 幽霊、という言葉に引きずられるように、思い浮かんだのは木の下に佇む白い影。雨に濡れたその白い衣を思い出すと、どうしても、全身が震える。それでも、何とか自分自身を奮い立たせながら、一つ一つ言葉に変換していく。

「幽霊が立っていたのは、事故現場から三十メートルほど離れた場所です。白いフードをすっぽりと被った人影のように見えました。足は、無かったと思います。その時はわたし以外に人や車は通っていませんでした」

 すぐに気絶してしまったので、そこまで詳細に観察はできなかったのだけれど。そう付け加えて、八束は身を縮ませる。ここで意識を手放しさえしなければ、もう少し役に立てたのかもしれないのに。そう思わずにはいられない。

 それでも、綿貫は八束の言葉を笑うでもなく、さりとて情報の不足を指摘するでもなく、ほんの少しだけ目を細めて、穏やかに微笑む。

「なるほど。報告にあった幽霊の特徴と一致しますね」

「そうなのですか?」

「ええ。交通課によれば、あの現場近くは比較的事故が起こりやすい場所ではあるそうです。過去にも数度事故があり、そのうち一件は死亡事故だったといいます。相談者も、その事故の被害者が化けて出たのではないか、と不安がっていました」

「事故、ですか……。それは、いつの話ですか?」

 綿貫によれば、一年ほど前、あの木々に囲まれた細道で、一人の女性が轢死しているところが発見されたという。女性を轢いた車は逃走しており、未だ行方が知れないのだという。綿貫から渡された当時の資料にざっと視線を走らせながら、事故の概要を脳内に刻み込む。

「そりゃあ確かに化けて出そうな案件だねぇ」

 そこに、割って入ってきたとぼけた声。見れば、一瞬前までテディベアに埋もれるようにして机に突っ伏していた南雲が、少しだけ頭を持ち上げてこちらを見ていた。眼鏡越しではあるが、昨日よりも更に目の周りの隈は深まっており、恐ろしさ数割増しである。

 ぎろり、と見据えられ内心おののく八束だったが、綿貫は全く意にも介さずに続ける。

「そんなわけで、八束くんには、秘策での初仕事を与えたいと思います」

「はいっ!」

 八束はぴんと背筋を伸ばし、よく響く返事をする。綿貫は嬉しそうに笑みを深めると、菓子の入った器からチョコを一握り掴み取った南雲の、つるりとした頭を指差す。

「南雲くんと一緒に幽霊が出現した場所を調査してもらいたいのです。幽霊の出現条件、再び幽霊が現れることはあるのか、仮に誰かが仕組んだものであれば、一体誰がどのように仕組んだものであるのか。

 幽霊が観測され、しかもその現場で悲惨な事故が起こってしまった以上、他の住民から相談が来るのも時間の問題でしょう。その前に幽霊の正体を掴み、地域の皆さんを安心させる必要がありますからね」

「はいっ。責任重大ですね」

 八束がもし、現場のすぐ近所に住んでいたとしたら、恐怖で夜もろくに眠れなくなっていただろう。八束ほど極端な例はないとしても、住民たちが不安を感じているのは間違いない、と八束は心から思う。

 綿貫はそんな八束を慈しむように見つめて、そっと溜息をついた。

「……南雲くんも、八束くんのやる気の百分の一くらい、見せてくれればいいんですが」

 もちろん、南雲は華麗に無視を決め込んでいる。チョコを貪るのに夢中で、聞こえていなかっただけかもしれないが。綿貫も、南雲の反応は十分に予測の範囲だったのか、一瞬南雲を睨んだ後、すぐ八束に意識を切り替えて言う。

「現場での調査については、南雲くんを教育係として、ノウハウを教わってください。南雲くんは、これで捜査員としては優秀ですから、色々と学べることもあると思いますよ」

「は、はあ……」

 優秀、と言われても。

 無数のぬいぐるみに囲まれ、今も上司の話をろくに聞かず甘味を味わっているところを見ると、優秀という言葉とは到底結びつかない。綿貫も綿貫で、自分の言葉が信じられなかったのかもしれない。遠い目で南雲を見据えたまま、声をかける。

「南雲くん、南雲くーん? 今日は八束くんに同行して、幽霊の調査に行ってもらいますからね?」

 南雲は、そこでやっとのろのろと視線を上げ、常に眉間に寄っている皺を一段階深めて。

「やだ」

「ばっさり切り捨てましたね南雲さん!?」

 上司に対してそんな口を利く部下など、八束は未だかつて見たことがなかった。八束が以前所属していた部署では、上司の言葉は絶対だった。そもそも、上司に逆らおうとする気も起きなかった。

 だが、南雲は堂々と「やだ」と言い張った挙句、綺麗に剃り上げられた頭をつるりと撫ぜて、続ける。

「だって、いもしないものを調査するなんてナンセンスでしょ」

「……それは建前ですよね、南雲くん?」

「うん。本音はただ単にめんどいだけ」

 八束をはらはらさせる南雲の暴言も、綿貫はあくまでにっこりとした笑顔で受け止める。これはもう、いつものことで、慣れきってしまっているのだろう――そう、八束が断じるに値する、菩薩の笑みであった。

 そんな、何もかもを包み込む微笑みのまま、綿貫はきっぱりと宣言する。

「では、仕事しないのですから、仕事の後のおやつもいりませんよね?」

「え」

 再びチョコに手を伸ばしかけていた南雲の頭が、ぴたりと固まる。

「南雲くんが持ってきたおんぼろ冷蔵庫、そろそろ邪魔だなあと思っていたのですよ。中身ごと捨ててしまってもよろしいですね」

「やめてくださいプリンが死んでしまいます」

 プリン、って。

 予想外の食いつきを見せる南雲に八束が呆然としていると、綿貫は菩薩の笑みをいっそう深めて、南雲に言葉を投げかける。

「仕事をしましょう、南雲くん」

「わかりました」

「それでいいんですか!?」

 即答した南雲に、八束は間髪入れずにツッコミを入れる。すると、南雲が眼鏡の下から鋭く八束を睨めつけた。

「あのプリンは、通販でやっと手に入れた限定品なんだ。濃厚な卵と良質な牛乳で作られた一級品。こんなところで失うわけにはいかない……」

 南雲の声は、聞いている八束がぞくりとするほどの凄みを帯びていた。だが、あくまで話の中心はプリンである。

 一体どう反応していいものやら、ただ目を白黒させることしかできない八束に、綿貫は何度目かもわからぬ溜息と共に、そっと呟いた。

「覚えておいてください、八束くん。南雲くんは、こうやって使うのです」

「気難しいんですね、南雲さん……」

 気難しい、という言葉が正しいのか否かは、正直判断に困るところではあったが。

 当の南雲は、プリンの命がかかっているからか、今までの緩慢な動きも嘘のように、チョコの箱を机の中に押し込んで黒い上着を羽織る。

「さあ行こうすぐ行こうプリンが俺を待っているんだ」

「は、はい! では、行って参ります!」

 敬礼する八束に、綿貫も軽く敬礼を返しつつ、ぽつりと言葉を落とす。

「まあ、南雲くん、やる気出させてもすぐ飽きるんですけどね……」

 ――その言葉通り、南雲がやる気を見せたのは、警察署を出るまでのほんの三分ほど。

 その後はまた我に返って「やっぱめんどい」「帰りたい」を連呼する南雲を引きずって、ようやくここまでたどり着いたのであった。

 

 

「――というわけで、幽霊事件の真相を暴かなければなりません!」

 握り拳を作り、力強く南雲に呼びかけるも、南雲は難しい顔をしたまま、あっけらかんと言い放つ。

「そっかー。頑張って」

「南雲さんも頑張るんですっ! わたしは秘策がどのように事件を調査するのかもわかりませんから、『教育係』である南雲さんに色々教えていただかなければなりません!」

「えー、めんど」

「さもなければ、冷蔵庫の中のプリンの命はないでしょう」

「わかった、真面目にやろう」

 本当にプリン一つで動くのか。呆れる八束をよそに、南雲はふらりと一歩を踏み出しながら、存外よく通る声で言う。

「とはいえ、臨機応変、その場の状況で判断するしかないわけでさ……。幽霊がいたのはあの辺?」

 南雲が指したのは、ちょうど木の陰になっている部分だ。八束は小さく頷き、恐る恐るそちらへと足を進めていく。また幽霊が出たら、と思うと歩幅が自然と小さくなる。いくら側に南雲がいるとはいえ、恐ろしいものは恐ろしい。

 もちろん、八束の腰が引けているのは南雲も気づいたのだろう。突然、大きな手で八束の頭をくしゃりとやってきた。八束は「わっ」と驚きの声を上げて、南雲を振り返る。南雲は先ほどから少しも変わった様子を見せない仏頂面で言った。

「大丈夫、幽霊なんていないから」

「どうして言い切れるんですかっ!」

 反射的に食って掛かってしまって、「しまった」と思う。いくら恐怖で判断が鈍っているとはいえ、一応は先輩であり上司ともいえる南雲に対する態度ではなかった。しかし、南雲はそんなこと全く気にも留めていないようで、「んー」と小さく唸ってから言った。

「八束は、幽霊が『いる』って信じてるタチ?」

「……い、いえ、信じてません。死者の霊が彷徨ってるなんて、迷信ですっ!」

「なら、どうしてそんなに怖がる必要があるの? だって、いないんでしょ?」

 え、と八束はつい間の抜けた声を上げてしまう。南雲は、八束から視線を逸らし、剃り上げた後ろ頭を掻きながら言う。

「いやね、八束の言い分も理解はできなくはないんだ。見たことない、いるはずもない、何だかわかんない、そういうものを怖がる心理はわかる。

 ただ、『幽霊だから怖い』ってのは本末転倒な気もするんだよな。

 人は曖昧でよくわからないもの、不可解なものに名前をつけることで、それを分類し、認識できる形にした。つまり、幽霊ってのは人が考えた『よくわかんないもの』の類型の一つでしかないわけで、お前は自分が目にしたものをその類型に当てはめて、『幽霊』って類型が主に『怖いもの』を表すから、何となく怖くなってるんじゃないかなって。違う?」

 南雲の言葉は、八束にとっては目から鱗が落ちるようなものだった。幽霊を怖いと思う理由なんて、自分自身できちんと分析したことなどなかった。よくわからないものを、怖がる心理。確かに、そうなのかもしれない。そして『幽霊』という言葉だけで怖くなってしまっていた自分が、にわかに恥ずかしくなってくる。

 ――とはいえ、それ以上に八束が感心したことは。

「南雲さん、きちんとした内容も喋れるんですね……」

「八束って、案外失礼だな?」

 南雲は表情こそ変えなかったが、その言葉に呆れの響きを混ぜて言った。顔は怖いが、声を聞く限りは怒ってはいなさそうで安心する。安心したところで、一つ、気になったことを問うてみる。

「あの、南雲さんは、怖くないんですか? 幽霊とか、妖怪とか」

「怖くはないな。八束とはちょっと違う意味で、信じてないからだと思う」

「幽霊の存在を、ですか?」

 いや、と。南雲は小さく首を横に振って、答えた。

「幽霊がこういう形で干渉してくることを、かな」

 その言葉の意味を、八束はどうにも理解できなかった。それに、吟味をするだけの心の余裕も、一瞬で消え失せてしまった。

 

 八束が幽霊を目撃したその場所に――人影が、佇んでいたから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る