ぶきっちょな兄妹

 結局のところ。

 南雲真に恋心を抱き、陰から見守っていた――と自称する、客観的に言えばストーカーであった四十万太一が、ある時期から真に近づくようになった相馬平治に嫉妬。その上、何らかの理由で相馬青年を『化け猫』と誤認し、真の行動範囲に存在する猫の毒殺、つまり相馬の毒殺を企てた。それが、今回の事件の真相であった、らしい。

 猫違いで殺されかけた猫たちにとっては、災難としか言いようがない事件だが、南雲彰にできることといえば、彼らの無事の快復とこれからの幸福を祈ることだけだった。

 四十万については、後は安倍川がどうにかしてくれるだろう。消えた相馬については、考えるのは後でいい、と思う。

 

 

 今は、ただ。

 難しい顔で沈黙し続ける真と向き合っているという、ここしばらくで最大級の気まずい空間をどう切り抜けるかに、全思考回路を投入すべきであった。

 

 

『事件が完全に解決するまでは、何度か話を聞かせてもらうかもしれんが、今日は帰っていいぞ』

 安倍川が気を利かせて、簡単に真を解放してくれた、そこまではよかった。だが、それを聞いた八束結が、俄然鼻息荒く言ったのだ。

『南雲さんは、今こそ真さんときちんとお話しするべきです! このようなことがあってなお、真さんに何も言わないつもりですか!?』

 何故かは知らないが、八束は、どうしても南雲と真を仲直りさせたくて仕方ないらしい。正直、でっかいお世話だと思わずにはいられなかったが、必死さを滲ませる八束を前にそんなことを言う気にもなれなかったし、そもそも真の手前、八束の言葉を否定すると更なる溝が深まるだけだということがわからないほど、南雲も馬鹿ではない。

 だが、まだ終業時間ではない、猫殺しの手がかりを見つける、という目的も果たしたのだから、勝手に外をふらつくわけにもいかないだろう――と、南雲にしてはまともな理由をでっち上げたと思ったのだが、そうは問屋が卸さなかった。

『いい機会じゃないですか。ご兄妹水入らずでお茶でも飲んでくればいかがですか? 今日くらいは大目に見ますよ』

 そう言って狐じみた笑みを浮かべてみせた係長の綿貫栄太郎には、しばらく、お菓子を分けてやらないと決意する。あの男は、南雲と真の間にある確執の原因をわかっていてそういうことを言うのだから、性質が悪いにもほどがある。

 と、いうわけで。南雲と真が何も言えずにいる間にお膳立ては整い、南雲は今、行きつけの喫茶店で、数年ぶりに至近距離で真正面から真の顔を直視していたのであった。「兄妹水入らず」のくせに、何故か八束まで南雲の横で難しい顔をしているのも無性に居心地が悪い。

 この気まずい空気を察してか、普段は常連である南雲に気さくに話しかけてきてくれる店主も、注文した分の飲み物とケーキをテーブルに運んできたきり、遠巻きにこちらを見ている。他に客がいないのはいつものことだが、それが余計に嫌な沈黙を加速させていた。

 それでも。

「あの……、さ」

 何とか、喉の奥に詰まっていた言葉を吐き出しながら、南雲は、つい視線を落としてしまう。本当は、きちんと向き合わなければならないとわかっているけれど、意識してそれができるならば、きっと、今の今まで真から逃げ続けることだってなかった。

 そのくらい、今までの南雲にとって、真との隔絶は決定的なものだった。

 それでも、話をしたいと思う気持ちは本当だ。八束に背を押されたということもあるが、何よりも、今の自分ならばもう一度、真と向き合えるかもしれないと思えるようになったのだから。

 だから、顔には出せなくとも、できる限り穏やかに聞こえるように心がけて、口を開く。

「今日は、その、災難だったな」

「そうだね。でも、大丈夫だよ。お兄ちゃんも、八束さんもいてくれたから」

 そして、再び沈黙が流れた。

 ろくに言葉を続けられない自分に何よりも腹が立つ。言いたいことはただ一つなのだから、とっとと切り出してしまえばいいというのに。

「……お兄ちゃん」

「ん」

「その癖、抜けてないんだね」

 言われて、視線を手元に移せば、ほとんど無意識に、手袋で覆った左手の手首を、右手の親指で擦っていたことに気づいた。今更誤魔化しても無駄なのはわかっていたが、慌ててコーヒーカップに手をかける。

 一口、ブラックの珈琲を喉の奥に流し込んでいると、真が、小さな声で問いかけてくる。

「まだ、辛い?」

 横で、八束が不思議そうに首を傾げているのが目に入る。

 八束は、南雲がどうして待盾署の片隅で燻っているのかも、どうして真と仲違いしてしまったのかも、知らない。

 別に、隠しているつもりはないし、有名な話なのだから調べればすぐにわかることだが、不思議と、八束に伝えるには気が引け続けたあの日の出来事。

 その日のことを、思い出さない日はない――、と、思っていたのだが。

「どうだろう。でも、近頃は、少しだけ楽になった気がするんだ」

「うん、わかるよ。お兄ちゃん、最後に話した時よりずっと優しい顔してるもん。あのね、八束さんにもお兄ちゃんの話を聞いてね、ほっとしたんだ。お兄ちゃんは、私が思ってたよりずっと前向きで、ずっと強い人だったんだなって」

「そんなこと、ない」

 つい、反論が口をついて出た。本当に前向きであるならば。本当に強いというならば。自分はこんなところで足踏みなどしていない。

「そんなこと、ないよ。俺は、ただ逃げてるだけだ。今も、ずっと」

 真を前にして、言いたいこと一つ言えないままでいることだって、なかったはずだ。

 しかし。

「逃げてたって、いいと思う」

「え?」

 はっと顔を上げれば、真と目が合ってしまった。生まれつき、人より少しだけ色素の薄い、そんなところばかり自分と似てしまった朽葉色の目が、真っ直ぐに南雲を見つめていた。

「逃げててもいいよ。向き合うのが難しいってことくらい、私にもわかるもの。でも、一つだけ、ずっとお兄ちゃんに言いたかったことがあるの」

 一つ、呼吸を置いて。

 

「いなくならないで」

 

 ――あの時は、ちゃんと、言えなかったから。

 そう付け加えた真の目が、潤む。

 左手の手首に触れて、思い出す。久しぶりに家に帰ってきたその日、真と大喧嘩した記憶を。あの時の南雲はあまりにも壊れていて、あの時の真は、多分、あまりにも言葉が足りなかった。

『そうだよ。俺が、いなくなればよかったのに』

『違う! お兄ちゃんは何も悪くないんだって!』

『うるさい。そんな嘘なんて聞きたくない。構わないでくれ、触れないでくれ、頼むから……、一人に、してくれ』

『――っ、そんなこと言うお兄ちゃんなんて、大嫌い! もう知らない!』

 今ならわかる。あの日交わした言葉は、お互いに、何一つ噛み合っていなかったのだ。噛み合っていないことをお互い自覚できないまま、数年間を過ごしてしまったことに、愕然とする。

 だが、やっと、気づくことができた。気づけたなら、あとは、一歩を踏み出すだけだ。左手の手首から、手を離す。せめて、真にだけはこの思いが嘘ではないと伝えるために。

「俺は、ここにいるよ。ここに、いるから」

「勝手にいなくならない?」

「うん。お前に、何も言わずにいなくなるなんてことは、ないよ。絶対に」

 今なら。そう、今ならば、きちんとその目を見返すことができる。想像していたよりも遥かに穏やかな気持ちで、長い間、言いたくても言えなかったことを、言葉にする。

「ごめんな、真」

 本当は、最初に言うべきだったんだけど、と。付け加えて、一つ呼吸を挟む。言葉というのはあまりにも不自由な道具で、南雲が伝えたいことを余すことなく伝えるには、あまりにも足らない。それでも、南雲は口を開く。これ以上、間違え続けないために。

「あの時の俺は完全にどうかしていたし、今も多少どうかしてる。まだ、昔みたいには笑えないし、時々すごく落ち込むし、多分、お前に迷惑かけることも、たくさんあって」

 うん、と真が頷く。その真っ直ぐな視線に背を押されたかのように、今までずっと言えなかった言葉が、堰を切ってあふれ出す。

「俺はお前に迷惑かけるのが嫌だったし、何より、真の考えてることがわからなくて、それが怖かったんだ。もう一度はっきりと拒絶されたら、それこそ、家にも居場所がなくなるんだって怯えてた」

 本当にそうなっていたら、南雲は既に「ここにいない」。今現在はともかく、そのくらい追い詰められていた時期だったら、迷いなく最悪の選択肢を選んだことくらいは、確信している。

「でも、それは単純に、お前の話を聞こうとしなかっただけなんだよな。今まで何度も俺に話をしようとしてくれていたのに、俺はただただ怯えて逃げ回ってた。だから、ごめん」

 南雲は、深く頭を下げる。そんな仕草一つで思いが伝わるとは思っていなかったが、それでも、これが、今の南雲にできる精一杯だった。

「お兄ちゃん……」

「今までのことを許せとは言わない。でも、これからは、真の話を聞きたい。俺も、話をしたい。もちろん……、お前が、嫌じゃなければ、だけど」

「嫌じゃない!」

 顔を上げれば、真が、ほとんど身を乗り出すようにして、南雲を真っ直ぐに見据えていた。そして、今にも泣き出しそうな顔で……、けれど、確かに、微笑んだ。

「私こそ、ごめんね。ずっと、お兄ちゃんの気持ちを勘違いしてた。勝手に怖がってたのは、私も一緒だよ」

「……お互い様?」

「うん、お互い様」

 真はくすくすと笑う。南雲は、それに応えて笑うことはできない。できないけれど、ほんの少しだけ、意識して口元を緩める。とてつもなく、酷い顔になってしまうとは思うけれど、真にならそれが、今の南雲にできる精一杯の笑顔なのだと伝わると信じて。

 その時、ずず、という雑音が耳に入ったことで、我に返る。音の出所は、南雲のすぐ横でオレンジジュースを飲んでいた八束だ。グラスの中のオレンジジュースは既に氷の下に残るのみとなっていて、南雲もそこで自分の手元の珈琲がすっかり冷めていることに気づいた。

 南雲の視線がこちらに向いたことに気づいたのか、話は終わったのか、とばかりに目をぱちぱちさせる八束。その仕草があまりにも普段通りで、不思議と、全身に入っていた力が抜ける気分だった。

「あー……、何か悪いな、うちの事情に付き合わせて」

 この場に成り行きでついてきた八束に「付き合わせた」というのも変な話ではあるが、兄妹の不毛なすれ違いに終止符を打ったきっかけは、紛れもなく八束であった。その感謝と、拗れに拗れきった兄妹仲を見せ付けてしまった申し訳なさをこめて、軽く頭を下げる。

 すると、八束は「いえ」と言ってオレンジジュースのストローから口を離し、黒々とした瞳で南雲を見上げてみせた。

「南雲さんが日和ったことを言おうものなら、頬でもつねって差し上げるべきか、とは思っていました」

「八束って、案外俺に容赦ないよね」

「しかし、真さんと南雲さんが仲直りできて本当によかったです。お友達の嬉しそうな顔を見るのは、こちらまで心が洗われる気分ですね」

 満面の笑顔を見せる八束。その笑顔はやたらと眩しいが、一つ、引っかかる言葉があった。

 ――お友達。

 今までの経験からするに、南雲のことを「先輩」、もしくは「相棒」と称するはずの八束が「お友達」という呼称を使うということは、それは南雲のことではなく。

「真、こいつといつ友達になったの?」

 そう、何だかんだ聞きそびれていたのだが、八束と真がいつの間にか知り合っていたことには内心めちゃくちゃ驚いたのだ。何しろ、八束は、職場の付き合いや近所付き合いこそそつなくこなすが、自ら積極的に同年代の「友達」を作れるような娘ではないからだ。

 真はほんわかとした笑顔を浮かべて、南雲の問いに答える。

「この前、ちょことまろんのお散歩の時に、偶然お話しする機会があって」

 細かく話を聞くと、その日は、目の前を行きすぎた野良猫に驚いたのか、ちょことまろんが突然真の手を振り切って駆け出してしまったそうだ。そして、二匹が突進した先が八束だった、らしい。

 そう、何故かは知らないが八束はやたら犬にもてる。もしかすると、八束本人も自覚していないのだろうが、実は人の姿をした豆柴なのかもしれない。そんなわけがないことは、ひとでなし探知機の南雲が一番よく知っているのだが。

「気をつけなよぉー、真。こいつ、結構取り扱い面倒くさいからね?」

「南雲さん!?」

 八束の抗議の声は聞こえなかったことにする。八束はいつもの通りにぷっくりと頬を膨らませ、真は南雲から見ていつぶりかもわからない、朗らかな笑顔を浮かべている。

 こんな日が来るとは、きっと、五年前の俺は夢にも思わなかっただろうな。

 思いながら、南雲はもう一口、すっかり冷めた珈琲を啜った。

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