ひとでなしとストーカー

 八束は確かに目にした。

 コンビニの前で立ち尽くしていた真に、どこかふらついた足取りで歩み寄っていく、この前真と共にいた青年――相馬の姿と、突然コンビニの建物の陰から現れて相馬に飛びかかる、見知らぬ男の姿を。

 相馬青年ははっとして飛び掛ってきた男に視線を向けたようだったが、その動作もあまりに緩慢で、あっけなく男に殴り倒されてしまう。

 そして、目の前でもみ合いになる二人を見た真が悲鳴を上げるのとほとんど同時に、八束の手を振り払って駆け出した南雲の横顔も。

 その時の南雲は、今まで八束が一度も見たことのない、真剣かつ必死な顔つきで、どこまでも真っ直ぐに、真を見つめていた。

「南雲さんっ!」

 それを追うように、八束と安倍川も駆け出していた。

 南雲は、今まであれだけ真と接触するのを躊躇っていたのが嘘のように、おろおろとする真の手を取った。その瞬間、真が、弾かれるように南雲を見る。

「お兄、ちゃん?」

 一瞬だけたじろぐような様子を見せたが南雲だったが、それでもこの緊迫した状況下ということで、かろうじて理性が勝ったのだろう。真の目をしっかりと見ながら、その手を引く。

「真、下がってろ」

「でも、相馬くんが……、それに」

 それ以上の声は、八束には聞こえなかった。相馬に馬乗りになった男の上げる、言葉にならない罵声の方が、ずっとよく響いていたからだ。

 通行人やコンビニから出てきた客が、関わり合いになりたくない、とばかりにもみ合いになる男二人を避けて早足に行きすぎていく中、八束は安倍川と共にその只中に飛び込む。

「おい、お前ら、何やってんだ!」

 安倍川は、アスファルトの上に倒れこんだ相馬青年に掴みかかっていた男を引き剥がしにかかる。八束も、男と相馬の間に立ちはだかって、それ以上の暴行が加えられないようにする。

 男は、見たところ真や相馬と変わらないくらいの年齢に見える。服装は私服、という点も真や相馬と共通している。小柄で細身、少しばかり前歯が出ているところを見るに、何となく鼠のような印象を受ける。

 だが、その、ともすれば貧相とも取れる印象の男は、安倍川に拘束されながらもなお抵抗を続けており、じたばたしながら、八束――というより、その後ろの相馬を睨み続けている。

 それでも、流石に鍛え上げた警察官である安倍川の腕から逃れることはできなさそうだ、と判断し、八束は倒れたままの相馬の方に向き直る。

「大丈夫でしたか?」

「あ……、この、前の」

 頬を殴られた衝撃からか、それとも他の理由からか、相馬の顔は酷く青い。それでも、うっすらと開かれた目は、一応八束の姿を捉えてはいたらしい。

「はい、八束です。何があったのです?」

「それ、は」

 言いかけたところで、顔を歪めて身を丸める。必死に痛みを堪えるようなその動きは、どう考えても、殴られただけが理由とは思えなかった。

「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」

 慌てて声をかけるも、相馬は八束の声が聞こえていないのか、苦しげに呻くばかり。これは、一刻も早く救急車を呼ぶべきではないのか。八束は、安倍川がしっかりと男を押さえているのを確かめ、肩から提げていた鞄から携帯電話を取り出す。

 その一方で、混乱の渦中から一歩離れ、真の肩を支えて立つ南雲が、険しい顔つきで喚き散らす男を睨んでいるのを横目に捉える。次の瞬間、いやによく通る南雲の声が鼓膜を震わせた。

「真、あいつら知り合い?」

「お、同じ講義を受けてる、四十万、くん。倒れてるのが、相馬くん」

 真の震え声を受けた南雲は「そう」とだけ答えて、四十万と呼ばれた男の方に視線を戻す。四十万は、安倍川に羽交い絞めにされながらも、ぎゃあぎゃあと声を上げ続ける。最初は甲高い声もあって言葉として聞き取れなかったそれが、不意に、八束の耳にはっきりとした言葉として飛び込んできた。

「騙されるな南雲さん! そいつは、化物だ!」

 化物、という言葉に、救急車を呼ぼうと携帯のボタンにかけていた手が、止まる。相馬は顔を歪ませながらも、その虚ろな視線は八束ではなく、八束の肩越しの四十万に向けられていた。何かを言い返そうと口を開きかけたようだったが、それは声にはならず、代わりに四十万のきんきんとした声だけが響き渡る。

「僕は知ってるんだ、こいつが、人の姿を借りた怪物だって! 正体を隠して、南雲さんを誑かそうとしているんだ!」

 それは、傍から聞けば妄言としか取れない言葉。だが、八束はそういうことを言う人間を、今まで何人も見てきている。この町――特異点都市ともあだ名される待盾市には、遠い昔に神秘の時代が終わり、無知の闇が晴れたはずの今現在もなお、「不思議の国の住人」の存在が、まことしやかに語られているのだから。

 果たして、四十万はぎらついた目で相馬を見下ろし、己が拘束されているにも拘わらず勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

「だけど、はは、ついにかかったな! これが人の力だ! 人はいつだって、知恵を使って怪物を駆逐してきたんだよ!」

 一体、四十万が何を言っているのか、八束にはわからない。安倍川も、真も、ただただ喚き続ける四十万に対して奇異の視線を向けるだけだ。

 しかし、その場で唯一、全く違う反応を取った人物がいた。

「あー……、なるほど、そういうことか」

 ――そりゃあ、鼻が利かないわけだ。

 そんなぼんやりとした声に続けて、くしゃ、と小さくくしゃみをする南雲。そして、八束が制止する間もなく、つかつかと四十万に歩み寄ったかと思うとその頬を思いっきり張り飛ばした。ぱあん、という小気味よい音が響くとともに、四十万の顔に真っ赤な痕がつく。

 一体、南雲が何をしたのかわからず、え、と全員の目が点になるが、南雲はその一挙動で満足したようだった。それきり、平手打ちされたという現実を認識しきれていないのか、目を白黒させる四十万に目を合わせることもせず、四十万の腕を拘束する安倍川に向かってあっけらかんと言う。

「安倍ちゃん、こいつ、十中八九猫毒殺事件の犯人だから、話聞いてみて」

「は!? ちょ、南雲お前」

 状況がわからずにうろたえる安倍川だが、それは八束だって同じだ。何一つ手がかりのなかった犯人の正体が、南雲にだけはわかったというのか。

 そして、一瞬完全に意識から抜け落ちてしまった、相馬の容態を確かめようとして、気づいた。

 相馬の姿が、ない。

 先ほどまで確かにそこに倒れていた青年の姿が、八束が目を離した一瞬の隙に、忽然と消えうせていたのだ。

「おい……、八束、そこで倒れてた奴は?」

 安倍川も、相馬が消えていたことには気づかなかったらしく、呆気に取られているようだった。真も同様だったらしく、口元に手を当てて驚きの表情をしている。

 ただし、南雲だけはいつも通りの仏頂面だったので、正直何を考えているのか八束にはわからなかったのだが。

 そんな奇妙な沈黙を破ったのは、四十万の甲高い笑い声だった。

「だから、だから言っただろう! あいつは、やっぱり人を騙す化け猫で……!」

「うるさいよ」

 ぴしゃり、と。南雲が、四十万の言葉を切って落とす。

 八束は南雲の普段のゆるふわマイペースぶりを知っているが、四十万はそうではない。スキンヘッドに土気色の肌、その上、今まさに人を殺してきたような顔つきをした幽鬼のごとき男に見下ろされるというのは、相当恐ろしいはずだ。事実、四十万も平手で打たれたこともあってか、南雲を見る目に明らかな怯えの色を見せた。

 だが、それでも――四十万は、一つ息を飲んでから、南雲に食ってかかる。

「そもそも、さっきから気に食わないんだよあんた! 南雲さんにべたべた触ってくれちゃって、何様だよ!」

「お兄様だけど。人の妹散々怯えさせて、きっちり落とし前つけてくれんだろうな?」

 その瞬間、四十万の顔が凍りついた。「兄って本当?」とばかりに真に向かう視線に、真はただ一つの頷きだけで応えた。

 四十万にとっては、突然殴られたことよりも、南雲の言葉と真の肯定の方が、よっぽど堪えるものだったらしい。顔色を失い、今まであれだけ抵抗していたのが嘘のように、がくりと膝を折って、安倍川の腕に体重を預けたのだった。

 安倍川が、四十万に声をかける。これから、乱闘騒ぎの件で待盾署に連行すること。また、猫毒殺の件に関しても詳しい話を聞くということ。四十万は、猫毒殺の話が出ても、特に否定をする様子はなく、かくかくと頷くだけであった。

 そして、安倍川の視線は、状況が飲み込めていないのか、きょとんとした顔でその場に立ち尽くしていた真にも向けられる。

「悪いが、えーと、君、南雲の妹さんだよな? 君にもついてきてもらうぞ。何、ちょっと話を聞かせてもらうだけだ」

「は、はい」

「あと南雲、『えぇー』って顔するんじゃない。すぐ終わらせっから俺を睨むな。わかっててもそのツラは怖えよ」

 安倍川の言うとおり、素直に頷いた真とは対照的に南雲はものすごく嫌そうな顔をしていた。いくら人の心の機微を読み取るのが苦手な八束でも、南雲がそれはもう全身で「真は関係ないから帰してあげて」と言いたがっているのはわかってしまう。

 とはいえ、流石に、四十万の反応を見る限り真も「無関係」とは言いきれない以上、安倍川の判断は正しいものだ。それに、長々とここで立ち話をしていては、完全にコンビニの営業妨害である。

 あとは、待盾署に帰ってから――とは、思うのだが。

 どうしても、どうしても。八束は、じっと真を見つめたままの南雲に問いかけずにはいられない。

「しかし、南雲さん……。相馬さんは一体どこへ消えてしまったんでしょうか」

「さあねえ」

「もしかして、本当に、化け猫だったなんてこと、ありませんよね!?」

 二本の長い尾をしならせ、恐ろしげな影を浮かび上がらせる巨大な猫の姿を思い描いて怯える八束に対し、普段以上にげっそりとした面構えに見える南雲が、ずずっ、と鼻を啜り。

「さあ、どうだろうね」

 と、それだけは、いつもの調子で答えたのだった。

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