ちょっと勇気が足りてない

 今日の真の講義スケジュールを考えるに、午後三時半くらいにはゼミが終了し、その後特に何もなければ大学を出て家に帰り、その後、ちょことまろんの散歩に出かけるはずだった。

 それを伝えてみたところ、八束に「何で、真さんと話してもいないのにそんなところまでわかってるんですか」と睨まれた。もちろん、真と外で鉢合わせて慌てないための下調べだったのだが、それを正直に語るだけの図太さは南雲にはなかった。絶対に更なる「いくじなし」という罵倒が投げかけられるに違いなかったから。今ですら、八束の責めるような視線が痛いというのに、これ以上精神にダメージを負いたくはない。

「……で、南雲さん」

「はい」

「何故、真さんに話しかけないのですか」

 そう、今、既に南雲と八束は真を視界の中に捉えていた。と言っても、十メートルくらい先に。壁や電信柱の後ろを渡るように真を追跡しているあたり、周囲から見たら完全に不審人物だが、南雲は未だ真の背中に声をかけられずにいる。

 そして、南雲を睨みながら小声で放たれる八束の声は、いつもよりもやたらと厳しさを帯びていた。正直、こんなに厳しい八束は初めてかもしれない。そのくらい、南雲の消極的な行動と根本的な勘違いが八束の逆鱗に触れたということなのだろう。反省はしている。

 反省は、しているの、だが。

「この俺が、そんな簡単に、真との、距離を、縮められると、思うか」

 五年間かけて積み上げられてしまった壁だとか葛藤だとかは、そう簡単に消えてくれるわけではないのだ。

 八束はぽってりとした眉尻を下げ、心底呆れた顔をする。

「南雲さんの新たな一面を知ってしまった気分です」

「できれば知らないままでいてほしかったね」

 しかし、知られてしまった以上は諦めるしかない。

 南雲は、もはや何度目になるかもわからない溜息をついて、真の背中を見る。ほとんど勢いでここまで来てしまったが、一体、真にどう声をかければいいのか。何を話せばいいのか。否、話すべきことはわかっているのだ、何者かに常に見られているような感覚について、真から話を聞き出すこと、それが今の南雲の目的のはずだ。

 頭ではわかっている。わかっているのだが。

「なあ、八束」

「はい」

「お前から、真に話を聞くってできない?」

「南雲さん、この期に及んでめちゃくちゃ逃げ腰なのどうにかなりませんか」

 らしくありませんよ、と八束が頬を膨らませる。

 わかっている、こんなの自分らしくないということも、色々ぐちゃぐちゃ考えはするけれど、結局のところ、真との接触を怖がっているだけだということも。

「わたしは、南雲さんの事情は詳しくは知りませんけど、真さんと、南雲さんの気持ちはおんなじはずです。そんなに怖がる理由もありませんよ。どーんと行きましょう、どーんと」

「そのはずなんだけどね」

 難しいな、と後ろ頭を掻く。妙にざらざらしていた。

 昨日、思わぬタイミングで真と鉢合わせし、我を失ってその場から逃げ出すという醜態を晒した後悔や動揺が尾を引いたのだろう、今朝はまるで普段通りに過ごせなかったのだ。料理はことごとく失敗するし、シャツは裏表に着てしまうし、ネクタイは何度試しても上手く締められないし、頭を剃るのは忘れるしで、散々にもほどがある。

 まあ、あの調子で頭を剃ろうものなら、手元が狂ってそれこそ大惨事になりかねなかったので、忘れててよかったとも思わなくもない。

 それにしても、だ。

「……あいつ、何きょろきょろしてんだろ」

「そういえば、そうですね」

 真は、大学の側にあるコンビニの前に立ち尽くし、きょろきょろとあたりを見渡したり、少しだけあたりをうろうろしてから結局またコンビニの前に戻ったりと、どうも落ち着きがない。

「誰か待ってるんですかね」

 八束の言葉に、南雲は少しばかり考える。

 何かを待っているように見えるのは確かだが、待っているものが「人」であるならば、例えば携帯電話か何かで連絡を取ればいいはずだ。このご時勢、携帯を持っていない者の方が少ないはずなのだから。

 それとも、待ち人は、そういった連絡手段が取れないような相手なのだろうか。

 例えば――。

「あれ、秘策のお二人じゃないか。何してんだ、こんなとこで」

 不意に声をかけられて、ゆるりとそちらを見ると、四角い顔を持つ恰幅のよい男が、コートのポケットに手を入れたまま、小さな目でこちらをもの珍しそうに見ていた。八束はぱっと顔をそちらに向けて手を挙げかけて、慌てて下ろして一礼する。

「こんにちは、安倍川さん!」

 敬礼を途中で止めたことと、階級で呼ばなかったことは評価してやろう、と南雲はそっと息をつく。八束は、油断すると自分が私服警察官であり、基本的には警察官であることを公言すべきでない、ということを忘れるところがあるから。

 待盾署生活安全課に所属している巡査部長の安倍川は、危なっかしい八束をほほえましいものを見るような目で眺めてから、南雲に視線を移して不思議そうに首を傾げる。

「珍しいな南雲、トレードマークの光り輝く頭はどうした、微妙にまだらだぞ」

「そういう日もあるよ、俺だって人間だもの」

 やはり、日々の手入れは大事だと痛感する。いっそ全毛根が死滅してしまえば楽になれると何度も思っているのだが、自ら全ての毛根に引導を渡す気にはなれずにいる。今は沈黙を守る毛根が、かつての息吹を取り戻す可能性を諦めきれない程度の三十二歳である。

 安倍川は露骨に「悪いことを聞いたかな」という顔をして、それ以上の追及はしてこなかった。安倍川も南雲とそう変わらない年齢なので、もしかすると、他人事ではないと思ったのかもしれない。

「それより、安倍ちゃんはどうしたの? もしかして、にゃんこ関連?」

「あー、そういや、お前らも調べてくれてんだっけか」

「暇だしねえ」

 暇なわけじゃないですよ! という八束の抗議を右から左に聞き流す。確かに南雲たちがここにいるのは「暇」という理由ではないのだが、それを詳しく話すと南雲自身の恥にしかならないので、ここはスルーしておくに限る。

 安倍川は、素早く周囲に視線を走らせ、周りに他に話を聞いているような人間がいないことを確かめてから、幾分か声を落として言う。

「さっき、このすぐ近くで野良猫らしい猫が死んでるって連絡があってな」

「またかよ」

 ついに「死んだ」猫が現れてしまったのか。しかも、このすぐ近く、というのが何ともきな臭い。昨日、ひとでなしの老婦人に言われたことが頭の中にこびりついてしまっているだけに、尚更。事件に真が関わっている可能性と、それはそれとして「大丈夫」と言い切られた記憶を呼び起こす。

 そもそも、あの老婦人の言っていることを、鵜呑みにしてもいいのか。何せ、相手はひとでなしだ。ひとでなしが全て人と相容れないもの、というわけでないのは確かだが、あの婦人がどうなのかは、未だにわからないままなのだ。

 それを確かめるためにも、南雲は今、ここにいるのだが。

 情けないなあ、と内心で苦虫を噛み潰していると、安倍川も妙な顔をしていた。何故そんな顔をするのだろう、と思っていると、安倍川が軽く肩を竦めて口を開く。

「実はな、連絡を受けて駆けつけたはいいんだが、その猫の死体とやらが見つからないんだ」

「誰かに持ち去られたということですか?」

 南雲のスルーにもめげることを知らない八束が、安倍川に食いつく。安倍川は、猫の死体が見つかったと思しき方向に視線を投げかけながら、太い眉を寄せる。

「どうだろうな、猫が消えた瞬間を誰かが見てたわけでもない。今、うちの連中が探してるが、見つかるかどうかはわからんってとこだな」

「だけど、今まで、そんなことはなかったよな」

 南雲も、猫の毒殺未遂事件に関する資料にはざっと目を通してある。毒を食べて重症になったことが確認された猫の中で、その後、姿を消すなんていう奇妙な例は一度も無かったはずだ。

「そうなんだ。だから、変なことになったなあ、と思ってな」

 なるほど、と言いながらも八束は不思議そうな顔をしているし、南雲も全くの同感であった。被害に遭った猫が消えた。何故か、今回だけ。

「死体を詳しく調べられないように、とかですかね」

「だが、毒の正体は、過去に殺されかけた猫を分析して既に割れてんだ。今更隠す理由もねえだろ」

「それとも、今回に限って、何か追加の証拠を残しちゃった、とか? ちょっとしたいたずらのつもりが、ついに猫が死んじゃったのを見て、取り返しがつかないと気づいて焦って隠した、って考え方も、まあできなくはないけど……」

 言いながら、どれもこれもしっくり来ないものを感じる。そうだ、今回の事件、そもそも南雲の感覚からして何かがずっと噛み合っていないような感覚がある。ついでに、ひとでなしから調査を頼まれた、という極めて例外的な状況が、余計に混乱の種になってしまっている気がする。本当に、ひとでなしに関わると、ろくなことにならない。

 そんな南雲の悩みなど知るはずもない安倍川が、軽い調子で言う。

「南雲、お前、何かわからないか?」

「何で俺なのさ」

「その嗅覚を見込んでってやつだよ。昔は難事件に引っ張りだこだったじゃないか」

「昔の話だ」

 言いながら、つい眉間に力が篭もる。まともに前線で捜査をしていたのは相当前の話で、今は待盾署きってのごく潰しに過ぎないのだから、過大評価されても困る。

 それに、当時を知らない八束もいる以上、なるべく昔の話はしたくなかった。八束に知られて都合の悪いことがあるわけでもないが、無性にむずむずして仕方ない。

 案の定、八束は「そうなのですか?」と黒目がちの大きな目で南雲を見つめてくる。その、豆柴ライクな顔でこちらを見上げるのはやめていただきたい。ただでさえ冷静さを欠いてる状況なのに、さらに落ち着かない。

「まあ、冗談はともかくとしても、何かぴんと来たりしねえか?」

「ご期待に添えなくて悪いけど、今回は、なんか鼻が利かないんだよなあ」

 鼻が利く、というのはあくまで比喩のつもりなのだが、南雲の直感だったり第六感だったり、もしくはひとでなしを見抜いたりといった、大まかに「勘」と言うべきものは、不思議と嗅覚と連動するところがある。案外、前世は犬か何かだったのかもしれない。神も仏も信じていない以上、輪廻転生も本気にはしていないが。

 ともあれ、今回の事件に限っては、何も感じ取ることができずにいた。もちろん、全ての事件において南雲の嗅覚が通用するわけでもなく、今回もそれだけ、と言ってしまえばそれまでなのだが――。

 その時、急に鼻がむずむずして、手で鼻を覆う。次の瞬間、くしゃ、と小さなくしゃみが飛び出した。安倍川が、溜息交じりに言う。

「おい、みみっちいくしゃみすんじゃねえよ」

「うるさいよりは全然ましだろ」

 コートのポケットからティッシュを取り出し、鼻に当てる。昨日、あの老婦人と会っていたせいで、ティッシュの量は残り少ない。いっそコンビニで箱入りティッシュでも買っておくべきだったか、と思っていると。

「あっ、な、南雲さん!」

 八束が、慌てた様子で南雲のコートの袖を引いた、次の瞬間。

 悲鳴が、響いた。

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