告白には少し遠く

 それからは、本当に、他愛のない話になった。

 南雲の普段の怠惰具合、真の大学でのこと、八束がどんな暮らしぶりをしているのか。真は楽しそうに笑っているし、横の南雲を時々見れば、仏頂面こそそのままではあったが、その顔色や話しぶりを見る限り、相当気分がよいということは、伝わってくる。

 南雲と真の間に、かつてどのような確執があったのか、具体的なことは何一つわからないし、多分、それでよいのだと思う。今、南雲と真は楽しげに話していて、八束もその輪の中に加わっている。そんな時間を、温かな、かけがえのないものとして感じられていることを、素直に嬉しいと思っている。

 ただ――つい、八束の視線は、南雲の左手の手袋に向けられてしまう。今までも時折、南雲は右手の親指で左の手首を押さえることがあった。真が、その行動を南雲の「癖」だと指摘したことを思い出す。明らかに、辛そうな表情で。

「……この下が気になる?」

 声が、振ってくる。慌てて視線を上げれば、南雲が眼鏡の下から、人より薄い色の瞳でこちらを見下ろしていた。そして、一つ、ゆっくりと瞬きをして。

「見て気持ちのいいものじゃないよ」

 そう、言ったのだ。

 その一言で、八束ははっとした。思い至ってしまった。この、柔らく温かな空気を破りたくはなかったが、それでも、胸に詰まったものをそのままにしておくことができるほど、八束は我慢強くもなかった。

「傷痕、ですか?」

 南雲は、手袋そのものではなく手首を気にしていたのだ、と八束は確信していたし、南雲も顎を引いて「そういうこと」と言った。八束の想像に反して、普段通りの飄々とした調子で。

 手首の傷、といえば、ほとんどの場合それは自傷行為によるものだ。しかも、「見て気持ちのいいものじゃない」という南雲の言葉を信じるならば、今もなお痕が残るほどの深い傷だったのだろう。

 想像はできていた。それでも、言葉が出なくなる。口をぱくぱくさせることしかできない八束を一瞥した南雲は、ついと視線を逸らして、もうほとんど珈琲の入っていないカップを手に取った。

「自分を含めた何もかもが嫌になった時期があったんだ。真と喧嘩をしたのもそのせい。今なら、出血大サービスで詳しい話をしてやってもいいよ。まあ、他人のみっともない過去話なんて、聞いてもなんにも楽しくないだろうけど」

 お兄ちゃん、と。真がたしなめるような響きで南雲を呼ぶ。実際、八束でもわかる。愛想のない表情と、いたって軽い口調こそ変わらないままだったが、カップを握った南雲の手は、微かに震えていた。

 だから、八束はきっぱりと首を横に振る。

「いいえ。気になるのは本当ですが、今聞きたいとは思いません」

 八束は、今までも何度か、南雲の様子がおかしかった瞬間を目にしてきている。詮索してほしくない、という希望も何度か聞いた。それらが全て同じものかはわからなかったが、南雲が南雲なりの事情を抱えているのは、今回の件ではっきりとわかった。

 おそらく、八束がそれを知るのは今ではないのだ。

 今ではない、けれど――。

「しかし、南雲さんが話していいと思った時に、聞かせていただければ、嬉しいです。わたしに何ができるとも思えませんが、側にいる者として、南雲さんのことをわかっていたいと、思うのです」

 まだ辛い、と南雲は言った。逃げているのだとも、言っていた。その正体はわからないまでも、きっとまだ、南雲の中でも消化しきれないでいる何かなのだということくらいは、八束にもわかる。

 それが南雲の中で本当に消化しきれるものなのかはわからない。わからないけど、待っていたいと思うのだ。

「……うん、そう言ってもらえると、気が楽になるな。優しいよね、八束」

「いえ、わたしは」

 わかっている。そう言ったのは、どちらかといえば、自分自身のためだ。南雲のことを知りたいと思う自分のため。知らないまま南雲と共にいるのは、どこか、怖いとすら感じている自分のため。

 もしかすると、南雲は、そんな八束の思いすらも見透かしていたのかもしれない。口をへの字にした八束の頭を、無造作にぐしゃぐしゃと撫で回した。その、手袋に覆われた左手で。

「どうせ、必ず八束には話さなきゃいけない日が来るだろうしね。何しろこれが、俺が秘策にいる理由なんだ」

「え……?」

「じゃ、そろそろ帰ろうか」

 八束の疑問符を軽く受け流し、南雲はテーブルの上の伝票を手に席を立つ。八束もつられて立ち上がりながら、つかつかと店の入り口の方へ歩いていく南雲の背に声をかける。

「南雲さん、御代は」

「いいよ、俺の奢り。せめてこの程度はいいとこ見せたいじゃん?」

 ひらり、と伝票を肩越しに示して、南雲は厨房の方にいるらしい店主に声をかけた。

 これでよかったのだろうか、と呆然と立ち尽くすしかなかった八束だったが、「あの」とかけられる声で、我に返る。見れば、鞄を手にした真が、小さく頭を下げたところだった。

「八束さん、今日は本当にありがとうございました」

「いえ、わたしは大したことはしていませんよ」

「でも、お兄ちゃんと仲直りできたのは、八束さんがいたからですよ」

 真は、ふわりと、花がほころぶように微笑む。今度こそ、何の憂いの影も見えない、きっとこれこそが彼女本来のものなのだろう、朗らかな笑みだった。

 そして、そんな笑顔を浮かべたまま、真は、今度は深々と頭を下げる。

「兄のこと、これからも、よろしくお願いします」

「え?」

「お兄ちゃんが、あの頃のことを少しでも話せるようになったの、八束さんのお陰だと思うんです」

「わたしの、ですか?」

 一体、何をどうしてそうなるのか、さっぱりわからない。しかし、どうも、真の中ではそういうことになっているらしく、にこりと微笑んで、八束の手を両手で包む。

「はい。だから、お願いします」

 しばし、呆気に取られて真を見つめてしまった八束だったが、一つ、深呼吸をして気分を切り替え、柔らかな真の手に、そっと手を重ねてみる。

「わたしは南雲さんにお世話になってる身なので、ちょっと不思議な気分ですが」

 何しろ、南雲は確かに怠惰でゆるゆるで普段は頼りないところもあるが、今回のように、いざ何かが起きれば八束よりよっぽど機転が利く。どちらかといえば、八束が足を引っ張ってしまうことの方が多いくらいだ。

 だから、そんな南雲を「お願い」されるのは、ちょっと違うような気もするが。

「これからも、南雲さんのお役に立てるよう、精進していきたいと思います」

 真の手を握り返して、そう誓うことくらいは、許されると思う。

 すると、ふと、視界にぬっと影が差した。見れば、八束のすぐ側に南雲が立ち、八束の視界に長い影を落としていた。そんなことをする必要もないはずなのだが、ほとんど反射的に、真の手を離して背中へと持っていく。

「なーに? お前ら、何の話してるの?」

「女の子同士の内緒のお話。ね、八束さん」

「ふえっ」

 突然話を振られて、八束はつい変な声を上げてしまう。ただ、内緒、と言われてしまっては、それ以上のことを言うわけにはいかない。おろおろと真と南雲を交互に見ていると、南雲が片手で真の、片手で八束の頭に手をやって、ぐしゃぐしゃと頭を撫でた。どうやら、南雲の人の頭を撫でたがる癖は、元々真に対してのものだったらしい。

「お前ら、『内緒』もほどほどにな」

 ――特に八束は、秘密にするのがでっかいストレスらしいから。

 いたずらっぽくそう付け加えてみせる辺り、完全に八束の性質を見透かしている。つい頬を膨らませてしまうものの、南雲はそんな八束の頬をぺんぺんと軽く叩いて、そのまま店の外に出て行ってしまう。

 真と八束は、お互いの顔を見合わせて……、どちらからともなく噴き出して、南雲の背中を追って店を出た、の、だが。

「待ってくれ!」

 一歩、店の外に足を踏み出した瞬間に、一人の青年が八束たちの前に飛び出してきた。

 それは、ついさっき、忽然と姿を消したきりであった相馬青年であった。相変わらず顔色は悪いが、それでも、先ほどよりは幾分かマシになったのか、しっかりとした足取りで真の前に歩み寄る。

 真も相馬のことは不安に思っていたのだろう、心配の感情を面に浮かべて、一歩ずつ、相馬の方に近づいていく。

「相馬くん? さっきは、一体どこに……」

「さっきは、急にいなくなって本当にごめん。ただ、その、どうしても、南雲に言いたいことがあって、戻ってきたんだ」

「うん。話がある、って言ってたよね。だから、大学前のコンビニで待ち合わせだって」

 そういえば、先ほど、真はコンビニの前で誰かを探すような素振りをしていた。どうやら、その相手が相馬であったらしい。相馬はこくこくと頷いて、目の前にまで歩み寄ってきた真の目を真っ直ぐに見据えて、口を開く。

「南雲、その……、俺、南雲のことが好きなんだ!」

「え……っ!?」

「それで、今日こそ、思いを伝えようとしていたんだ。どうか、俺と付き合ってくれないか?」

 真は、目を白黒させて相馬を見つめるが、相馬はいたって真剣な表情で、真を見つめ返すばかり。どうやら、相馬は真剣に、真との交際を迫っている、らしい。

 何故あの時突然消えたのか、化け猫なんて呼ばれていたのか。色々と相馬に聞きたいことはあったのだが、真と相馬の間に割って入るにはあまりにも空気が張り詰めすぎている。

「南雲さん……、ひっ!?」

 意見を求めようと横に立つ南雲を振り仰いだ瞬間、八束は凍りつくしかなかった。

 南雲は、普段通りの仏頂面だった。そのはずだ。八束の目から見る限り、表情そのものには特別な変化は見出せない。だが、今日ばかりは少々剃りの甘いこめかみ辺りに、明らかな青筋が浮いている、わけで。

「え? 何? お前は真の何なの? 誰の許可を取ってそんなこと言ってくれてんの?」

 ――うわあ。

 八束は思わず変な声を上げそうになった。こんな南雲は初めて見たし、率直に言って、あんまり見たくなかった。確か、こういうのをシスター・コンプレックスというのだったか。完全な和製英語だが。

 ただ、それを相馬に直接言わず、まずは真の反応を待っている辺りは、まだ理性のあるシスコンといえるかもしれない。手遅れのシスコンであることには変わりないのだが。

 かくして、緊張の一瞬が訪れた。

 真の後ろから投げかけられる殺気には気づいていないのか、目を見開いて唇を引き結び、真の答えを待つ相馬。頬を赤らめつつ黙り込んでしまう真。そして、じっとりとした目つきで相馬を睨み続ける南雲。

 これは、もしかすると、真の返事によってはものすごく厄介なことになるのではないか。八束も、ごくりと唾を飲み下す。

 やがて、唇を噛み締めながら俯いていた真が、ぱっと顔を上げて、相馬を見据えて。

「……ごめんなさいっ!」

 深々と、頭を下げたのであった。

 相馬は、ぽかんとした。多分、真が何を言ったのか、一瞬、飲み込めなかったのだと思う。ただ、次の瞬間、自分が振られたのだと理解して、ただでさえ青い顔をさらに青くしながらも、口を開く。

「え、あ、ど、どうして?」

「その……、色々とよくしてくれたことはとっても嬉しかったんだけど、でも……」

「で、でも?」

「相馬くんのこと、いいお友達としか思えないの! だから、ごめんなさい!」

 もう一度、先ほどよりもさらに深い角度で頭を下げる真。それを目にした相馬は、真の頭から視線を逸らして、ふらり、と、一歩下がる。

「そ、そっか。その、ご、ごめんな、俺だけ、変な勘違いして」

 一歩、二歩、後ずさったかと思うと、真に――つまり、八束と南雲にも背中を向けて、脱兎のごとく駆け出した。

「ちょっ、あっ、相馬さん、ちょっとお話を聞かせてっ」

 八束の呼び止める声に振り向きもせず、相馬はそのままその場から駆け去ってしまった。

 かくしてその場には、申し訳なさそうな顔をしたまま相馬の消えていった方向を見つめる真と、手を伸ばした姿勢のまま固まるしかなかった八束、そして。

「せいせいした」

 と、いつになくすっきりとした顔をした南雲だけが残されたのだった。

「南雲さん、流石にそれは相馬さんがかわいそうだと思います」

「兄としてはごくごく正直な感想だから仕方ないね」

「お兄ちゃん、昔からそうだもんね」

 真も真で、何故か嬉しそうに南雲を見上げている辺り、実はこの妹の方も相当なブラザー・コンプレックスなのかもしれない。幸せそうで何よりである。

 南雲は、無造作に手を伸ばして八束の頭を乱暴に擦るように撫で、ひらひらと手を振る。

「さ、帰ろう帰ろう。今日は何かもう色々あって疲れたしさー」

「……いいんですか?」

 相馬の行方はやはり気になるところだったが、南雲は「えー」と露骨に眉間の皺を深めて言う。

「だって、どこ行ったかもわかんないじゃん。あとは、猫の事件を担当してる安倍ちゃんあたりに任せときゃいいって」

「そうでしょうか?」

「そうそう。俺たちのお仕事はこれでおしまーい。じゃ、また明日ね八束」

 真に「帰ろう」と声をかけ、南雲はふらふらと歩き出す。真も笑顔でそれに続く。二人で当たり前のように一緒に帰る――そんなことも、南雲にとっては、数年ぶりのことなのだと思うと、二人の後ろ姿を眺める八束にとっても感慨深いものがある。

「そうだ、お兄ちゃん、お父さんとお母さんにも、きちんとお話ししてよね」

「げっ」

 ……この様子だと、南雲家ではあと、もう一波乱ありそうだが。

 家の方向が違うため、八束はその場で南雲たちを見送りながら、つい、相馬のことを考えずにはいられない。突然消えた謎も解けなければ、化け猫と呼ばれた理由も明らかになっていない。そもそも、彼は本当は何者だったのだろうか。

 相馬が消えていった方向を見れば、一匹のトラ猫が、ぴゅっと駆け去るところだった。

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