Episode6:罪人の星

 わたしは、村のはずれの、誰も近寄らないようなはしっこに住んでいる。おじさんとおばさんが、おまえは悪い病にかかっていて、それは人にうつるものだから、あまり外に出てはいけないよ、と言っていた。昔は外で走り回るのが好きな子どもだったけれど、今では一日の大半を家の中で過ごす。ぼろぼろの、今にも壊れてしまいそうな小さな家だ。

 おとうさんとおかあさんは五年前に星になった。ずっと一緒にいた二人の星は、去年の冬に空に還った。わたしが生きているうちに見送ることができてよかったなぁ、と思う。病にかかったこの身体は、もう長くないような気がしていた。



 ――それは、夜も更けて、わたしがベッドで眠っている時のことだった。

「くそっ……思いっきりやりやがって」

 がたん、と大きな音がして、わたしは起きあがった。壊れそうな玄関が開いて、月明かりが部屋の中に差し込んでいる。そこには、見知らぬ男の人が立っていた。

「……だれ、ですか?」

 影になっていて顔がよく見えない。

「なんだ、こんな小屋に人が住んでるのかよ」

 ちっ、と吐き捨てるように呟いて、その人はわたしの問いに答えてはくれない。鉄錆のような匂いがした。注意深く様子をうかがうと、息が荒い。

「あの……」

 だいじょうぶですか? と聞こうとした瞬間、その人の身体がずるずると床へ落ちていく。わたしは慌てて駆け寄った。肩に触れると、ぬるりとした何かが手についた。

「怪我、しているんですか?」

 手のひらについた大量の血を見て、わたしは青ざめた。手を濡らすそれは、この人のいのちを奪っていくように見える。歯を食いしばって立ち上がり、震える手で灯りをつけた。見ると、その人の肩は血で濡れて真っ赤になっている。ひどい怪我だ。

「……おい、ほっとけよ。罪人の手助けをしたって、あんたも捕まるぞ」

「おにいさんは悪い人なんですか。でも、怪我をした人を放っておくなんてできません。このままじゃ死んじゃう」

 おにいさんの顔は青いというより、白くなっている。月明かりに照らされているからじゃない、血の気がないのだ。早く血が止まるように、と綺麗な布を傷口に押しつけた。

「おひとよしな、おじょうさんだな……」

 今にも消えてしまいそうな笑顔で、おにいさんは静かに目を閉じた。まさか、と嫌な汗が流れたけれど、荒い呼吸が続いていることにほっとする。手当てしようにも包帯も薬もない。どうしようと考えながら、悪い人ならこのまま役人に知らせた方がいいんじゃないだろうかとも思う。

 役人につきだしたら。このまま放置したら。この人は死んでしまうかしら。

 そんな考えが頭をよぎる。わたしの手のひらの上に、人ひとりのいのちが乗っている。

 気づけば私は使っていないシーツを裂いて、包帯を作っていた。ぐったりとした重い身体を支えながら、傷口に巻いていく。

 死にかけのわたしでも、誰かを救うことができるかしら?


 細いわたしの腕ではおにいさんをベッドまで運ぶことはできず、玄関の傍に眠らせたままになった。なけなしの毛布を冷たい身体にかけ、ベッドの上に座ったままわたしはじぃっとその姿を見た。暗い夜が明け、朝日が昇ってもおにいさんは目を覚まさない。死んでしまっただろうかと確認しようと何度か近づいてみるけれど、おにいさんは起きなかった。けれど呼吸が落ちついて、身体が少しだけあたたかくなっているところを見ると、回復してきているようだ。

 外からは鳥の鳴き声が聞こえてきて、ランプがなくても部屋の中は充分に明るい。ぐぅう、と空腹を訴え始めた自分の腹に苦笑して、わたしはいそいそと朝食の準備を始める。この家にまともな食材なんてない。一週間か、二週間に一度、忘れられていないのだなと感じるくらいの間隔でおじさんかおばさんが食料を持ってきてくれる。

「……ん」

 お粥を作っていると、おにいさんが小さく声を漏らす。振り返ると、ぼんやりとした目がわたしを見ていた。

「起きたんですか?」

 声をかけると、おにいさんの青い目がぱちぱちと瞬く。顔色は眠る前よりもずっと良くなっているような気がした。

「……ここは牢屋か何か?」

「わたしの家ですけど、気を失う前のこと覚えてないんですか?」

 おにいさんはぐるりと家の中を見回す。端にはベッドがあり、小さなテーブルとひとつの椅子、狭い台所がある。おとうさんとおかあさんが生きていた頃は村の中の大きな家に住んでいたけれど、そこには今おじさんとおばさんが住んでいる。

「ぼろい小屋だったから、もう使われてないと思ったんだが……手当てまでしてくれたのかい、お嬢さん」

 自分の肩に触れながらおにいさんが笑う。照れているような、困っているような、なんとも言えない表情だ。

「役人につきだしたほうが良かったですか? 手当てをして、意識が戻ってからでもいいかなと思ったんですけど」

 怪我の様子からして、無理はできないはずだ。何で怪我をしたのかわからないけれど、傷をおった右肩はあげられないだろう。

「助かったよ、助かったけどさ。あんたは、俺が暴れて怪我させられるとか、人質にされるとか、そういうことは考えなかったの? いくら手負いでもあんた一人くらいはどうにかできるよ」

 立ち上がる力もないのかもしれない。おにいさんは座り込んだまま、私を試すように問いかけた。

「考えなかったわけじゃないですけど……でもおにいさんが初めからそのつもりだったなら、わたしに教えてくれないでしょう? さっきだって自分からほっとけって言っていたし、そんなに悪い人じゃないのかなぁって」

 楽観的すぎるかな、と思ったけれど、おにいさんはため息を吐き出して何も言わない。

「立てます? 今お粥を作っていたんですけど、食べられそうですか?」

「わざわざ作ったの? そんな病人食」

「いつものごはんですよ。わたしは病人なので」

 食材も多くないし、お粥にするのが一番だった。おにいさんはわたしの言葉に目を丸くしている。

「人にうつる病気らしいので、おにいさんもあまりここにいない方がいいかもしれません」

「それで、こんな場所に住んでいるのか」

 はい、と微笑みながらわたしはお粥をよそう。おにいさんに手渡すと、彼は躊躇ったあとに受け取った。椅子に座って、わたしもお粥をすする。いつもどおりの味。おにいさんは一口食べると、眉を顰めた。まずいとはっきり言わないのは、おにいさんなりの心遣いなのかもしれない。

 お互いに無言でお粥をすする。誰かとごはんを食べるなんて、何年ぶりだろう。いつもどおりのお粥なのに、少しだけおいしいと感じた。思わず頬が緩む。

『何もできないおまえを養ってやっているんだ、感謝するんだね』

『そうだ、兄さんたちの遺した家も、おまえ一人では持て余すだけだから俺たちが管理してやっているんだぞ』

 おじさん、おばさん。何もできないわたしだけど、人のいのちを救うことはできたよ。こんなに非力な腕で、こんなに病弱な身体で。少し前までは死んでしまいそうだったこの人は、ごはんを食べられるくらいに回復している。

「……なに笑っているんだよ」

 おにいさんがじろりとわたしを見て怪訝そうな顔をした。

「いいえ、なんでもないです。おかわりいりますか?」

 微笑みながら問うと、おにいさんは表情を崩さないままでお椀を差し出す。わたしは一杯で充分だけど、わたしより大きなおにいさんには、やはり足りないらしい。いつもならば一日分の鍋の中身は、朝だけで空になった。

「それで、おにいさんはこれからどうするんですか? まだ動き回らない方がいいと思いますけど……」

 ごはんを食べている間も、おにいさんはほとんど動いていない。包帯には血が滲んでいる。まだ血が止まっていないのかもしれない。

「本当にお人好しなお嬢さんだな。悪人捕まえてやさしくしたって、良いことなんて何も無いぞ?」

 自分のことを悪人と言いながら、おにいさんはやさしいことを言う。矛盾していますよ、と笑いたくなった。

「せっかく助けたのに、このまま放りだして死なれたら悲しいじゃないですか」

「普通は助けないだろ」

「じゃあわたしは普通じゃないんですね」

 きっぱりと言うと、おにいさんは苦笑する。立ち上がり、わたしはおにいさんに手を差し出した。怪我人をいつまでも床に座らせているわけにはいかない。

「どうぞ。狭いかもしれませんけど、ベッドでもう少し休んでください」

「病人からベッドをぶん盗るのか、俺は。悪人だなぁ」

「そうですね、だったら悪人らしくしてください」

 おにいさんに肩をかして、ベッドまで連れていく。横になると、おにいさんはすぐに目を閉じた。やっぱり疲れていたんだろう。おにいさんは身体を丸めて、怪我をした右肩を庇うように眠っている。まるで野生の獣みたいだ。おにいさんに毛布をかけて、わたしは椅子の上で膝を抱える。チクタクと時計の針の音だけが家の中に響いた。

 家の中は、いつもと違う香りで満たされていた。血の匂いと、おにいさんの匂い。まるでわたしの小さな世界を飲み込んでいくように。なぜかわたしはそれを嫌だとは思わなかった。満たされていく匂いに、ひとりじゃないと言われている気がして、むしろ安心していた。

「……ぅ」

 傷が痛むのだろうか。おにいさんが小さく唸った。眠っているのに、声まで我慢しているのは癖なのだろう。

 わたしはタオルを水で濡らして、額から流れる汗を拭った。すると火がついたようにおにいさんが起きて、わたしの手を掴む。

「……なにも、しませんよ」

 目覚めたばかりの獣は、わたしを睨みつけている。

「わたしは、おにいさんを傷つけません」

 だから、寝ていていいんですよ。静かにそう告げると、おにいさんの目がやさしくなっていく。たぶん目が覚めても今のことは覚えていないんだろうな。本能で、自分の身を守ろうと動いているように見えた。

 ゆるゆると目を閉じて、横になったおにいさんの額をまた拭った。少し、熱があるのかもしれない。

 だいじょうぶ、とわたしは小さく囁いた。ここはわたしの家。誰も近寄らない。非力なわたしだけど、おにいさんのことは守るから。



 食事のたびにわたしが出すのは、とてもおいしいとは言えないようなお粥ばかり。おにいさんは受け取るとき「またか」とでも言いたそうな顔をする。

 耐えがたくなったのか、お粥を一口食べておにいさんは「まずいな」と漏らした。そしてすぐにしまった、という顔をする。

「そうですね、わたしもおいしいとは思いません」

 もう慣れてしまったから、まずくて食べられないとは思わないけれど。

「元気だったときは、あまり料理をしたことがなくて……残してもいいんですよ? いつも綺麗に食べなくても、他に食べられるものもありますし」

 棚の中には保存のきくものをしまっていたはずだ。多いとはいえないけれど、まずいと言われるようなお粥ばかりを出すのは気が引けた。

「食いもんを粗末にはしねぇよ」

 ぶっきらぼうに呟いて、おにいさんはまたお粥を口に運ぶ。しばらくして「おかわり」と言いながら差し出してきた器は、とても綺麗になっていた。

「物好きですね、おにいさん」

「お嬢さんに言われたくはないなぁ」

 そんな冗談を言えるくらいに、おにいさんは回復していた。

 こほこほと咳き込むわたしを見ると、むしろ心配されるくらいだった。ベッドを使えと言うおにいさんに、大丈夫ですと頑なに拒むやりとりも、何度繰り返されたか分からない。

 わたしの病気はじわりじわりとしみ込んでくる毒のようなもので、急に辛くなるということはほとんどなかった。無理な運動は禁じられているし、咳き込むことも多いけれど、慣れてしまえばどうということはない。わたしの生活は、すべて慣れで作られていた。

 わたしとおにいさんはお互いの身体の心配ばかりをしていた。わたしは頑なにベッドで眠ろうとしなかったけれど、朝目覚めるとベッドに移動していることがよくあった。夜中のうちにおにいさんが運んでくれたんだろう。おにいさんは最初のあの日のように、玄関で座って眠っていた。

 どうせなら椅子で眠ればいいのに、と思いながら、玄関で眠っている姿は他の人間の侵入を拒んでいるようで、まるで城の門を守る騎士様のようね、と笑った。おにいさんに言ったら怒られるような気がしたので言わなかったけれど。


 いつまでいるんですか。さて、どうしようかね。そんな会話を何回繰り返しただろう。おにいさんはベッドに座り、わたしは椅子に座ってお粥を食べる。

「またまずいお粥か」

 笑いながらおにいさんはお粥を一口食べる。その言葉にとげはなく、むしろ冗談を言うような響きがあった。

「そうですよ。ちゃんと食べてくださいね。怪我人なんだから」

「お嬢さんこそもっと食べるんだな。細すぎる」

 大きなお世話ですよ、と言い返しながらわたしはお粥を食べる。気にしたことなんてなかったのに、凹凸のない平らな身体が、今はなんだか恥ずかしい。

「……おにいさんの名前はなんていうんですか?」

 おにいさんを助けてから五日が経った。肩はまだあがらないみたいだけど、血は止まったし体調も悪くなさそうだ。お互いにいつ別れを切り出すべきなのだろうと思いながら、決定的な答えを出せずにいた。

「俺の名前なんて覚えたところで、いいことはないだろ」

「でも……」

 呼ぶ名前を知らないというのは、不便ではないだろうか。確かにここにいるのはおにいさんとわたしだけで、おにいさんと呼べばすんでしまうのだけど。

「あんたは?」

「え?」

「あんたの名前」

 そういえばわたしも名乗っていなかったんだな、と気づく。おにいさんの名前を知ることは必要ないのに、わたしの名前は別なのかな、と首を傾げる。

「マイアです」

 マイア、とおにいさんが小さくわたしの名前を呟く。どきんと胸が鳴った。ああ、名前を呼ばれるのも久しぶりだ。わたしの名前はこんなにあたたかい響きを持っていたかしら。

「お嬢さんにぴったりだな」

 おにいさんがやさしく笑いながら言う。お嬢さんと呼ばれたことがちょっと悲しい。

「おにいさんの、名前……」

「そうだなぁ。お嬢さんがもっといい女になったら、教えてやるよ」

「わたしは教えたのに、ずるいです」

「俺は悪い人だからね」

 くすくすと笑いながら、おにいさんは結局誤魔化してしまう。おにいさんはまるで自分に言い聞かせるように「悪い人」と言うけれど、わたしにはとてもそう思えなかった。

「おにいさんは、どんな悪いことをしたんですか?」

 わたしは抱えた膝の上に顎をのせて、おにいさんを見つめる。

「俺は、悪いことをしたなんて感覚ないよ。俺の育ったところは、そういうところだったから。人から食い物を盗まなくちゃ食べていけなかったし、大人も悪いことだなんて叱らなかったしね」

 おにいさんは穏やかな笑顔のままで、わたしの知らない世界を語る。本来なら、出会うこともなかったんだろう。

「何が善くて何が悪いなんて、人それぞれだよ。お嬢さんは俺を助けたことを善いことだと思っているだろうけど、ほとんどの人は悪いことだって言うと思うよ」

「人それぞれなら、いいじゃないですか。わたしは悪いことをした覚えはありません」

 言い切ると、おにいさんは眩しそうに目を細める。

「お嬢さんはまっすぐだね」

「……おにいさんは、あたたかいですね」

 ぬくもりが、ということではなく、纏う雰囲気があたたかい。やさしくて、あたたかくて、ほっとする。

「そういう言葉は、お嬢さんみたいな人に使うもんだよ」

 やんわりとした否定に、わたしは首を横に振った。わたしがどう感じたかなんてわたしの勝手だもの。おにいさんは困ったように笑って黙り込んだ。

 そのまま会話が途切れて、わたしは椅子の上でうとうとと舟を漕いでいた。おにいさんにベッドを譲ってからは、粗末な椅子の上で眠るのが常だった。気づけば深い眠りに落ちていった。


 かたん、という物音で目が覚めた。目をこすりながら見ると、部屋の中は夕暮れに染まっている。そんなに寝ていたんだと思いながらハッとする。椅子で寝ていたのに、いつの間にかベッドにうつされていた。そんなことをするのは一人しかいない。

「おにいさん?」

 小さな家の中に、彼の姿はない。

 行ってしまったのだろうか。まだ完治したとは言えない怪我のまま? 挨拶もなく? ひどい人だと思うのと同時に、おにいさんらしいとも思う。胸にぽっかりと穴が開いてしまったような気がして、わたしは言葉も出なかった。

 さきほどの物音はなんだったんだろう。立ち上がって玄関を開ける。こつん、と何かがぶつかった。

「……果物?」

 どれも形の悪い、お店で売っているようなものじゃない。森で採れるようなものばかりだった。こんなことをする人は、一人しかいない。こんなところに住むわたしに、こんなやさしい贈り物をくれるのは。

『病人だっていうけど、どうやって暮らしているの? とても働いているようには見えないけど?』

『生活に必要なだけの食糧とかは、おじさんとおばさんが運んでくれます。一週間とか、二週間に一回くらい。最近は調子がいいので、たまに森まで行ったりもします。こっそりとですけどね』

『……ふぅん』

 思えば何気ない会話の中のほとんどは、わたしのことばかりだった気がする。おにいさんは言葉巧みに話題を変えてしまう。結局、わたしはおにいさんのことをほとんど知らないままだ。悪い人なんだよ、と。それだけをわたしに刻み込んで。

 涙を堪えて蹲っているわたしの耳に、大きな声が届いた。あっちに行ったぞ、この盗人め、そんな険しい声に、わたしは顔をあげる。

「……おにいさん」

 役人に、村の人に見つかってしまったのだろう。何も考えずにわたしは駆けだしていた。声のする方へ、騒がしい方へと走る。この先に、おにいさんはいるはず。

「おい、崖の方に逃げたぞ!」

 体力のない身体は、すぐに悲鳴を上げ始める。重くなる足を必死で動かしながらわたしは自分がどうして走るのか分からなかった。どうしてこんなに必死なのか分からない。ただ、わたしは会いたかった。

 夕暮れが世界を染める。東の空には早くも星が浮かんでいた。真っ赤に染まる世界から暗がりへ、わたしはたった一人の姿を求めて走った。

「逃がすな! 相手は手負いだぞ!」

 大人の男の人の怒声に、わたしは身体を震わせた。傷口が開いてしまったのだろうか、それともまた怪我を? 野原を抜けると、切り立った崖がある。向こうは海だ。

「……おにいさん!」

 海原を背に立つその人を見て、わたしは声をあげた。周囲には何人もの男性がいる。中には弓をもつ人もいる。夕暮れが消えていく中、彼は赤く染まっていた。わたしと目が合うと、おにいさんは笑う。わたしの知るあたたかい笑顔で。

 マイア。声にならない声がわたしの名前を呟き、彼の身体が傾いだ。

「おにいさん!」

 吸い込まれるように崖の向こう側へと落ちていって、すぐに姿は見えなくなった。男たちの罵声が響く。しかしそれはどこか遠くて、現実味がなくて、わたしは呆然と空を見上げた。

 きらりと、ひとつの星が流れ落ちた。



 問い詰めようとする村の人々の手を振り切って、わたしは森のなかを歩いた。心ははやくはやくと急くけれど、足がこれ以上速く動いてくれない。それがすごくもどかしかった。目印が分かりやすくていい。この島の中央にある、星詠みの巫女の塔。島の人々は恐れ多くて近寄れない場所だ。

 あたりはもう真っ暗だった。疲れがたまっているのだろうか、眩暈がする。歯を食いしばりながら進み、どうにか意識を保っていた。

 何時間もかけてようやく辿りつき、わたしは塔の入り口で膝をついた。拳を作って扉を叩く。

「巫女様」

 扉を何度も叩くけれど、弱々しい音しか生まれない。気づいて、と祈るように呟くと、扉が内側へと動いた。

「あら」

 女の子の声だ。

「どうしたの?」

 塔にいる女性は、たった一人しかいない。彼女が星詠みの巫女だ。

「星は」

 わたしは縋りつくように顔をあげ、枯れる声で願いを言う。銀色の髪の少女は、女神様のように見えた。

「今日の、夕方に落ちた人の星は、どこに落ちたんですか」

 おにいさんは帰る場所があるんだろうか。既に星は見つかって、どこかへ届けられたんだろうか。

「今日落ちた人……シェダルさんのことでしょうか」

 巫女様は首を傾げて、わたしを見下ろす。シェダルさん。おにいさんの名前。こんな形で知ることになるなんて。

「その人の星は、海に落ちましたよ」

 巫女様の後ろから青年が顔を出して、答える。

「うみ、に……?」

「ええ、そうです。罪人の星は、海へ落ちるので」

 ご存知ではなかったかもしれませんが、と青年は付け加える。ならばおにいさんは、誰かのもとで安らぎを得ることなく、冷たい深海でひとり再び空へ還る日を待つの? あんなにあたたかくてやさしい人が? 遺体すら海の中に沈んで、見つけ出すことが出来ないのに。

「そんな」

「海の底で罪が洗い流されれば、空に還るでしょう。大切な人のもとへ帰れないこともまた、罪人に科せられた罰なんです」

 淡々とした青年の言葉は、わたしの頭に入ってこない。

 おにいさんは――シェダルさんは、そんなに罪深い人だったんだろうか。死後の安らぎも得られないほどの罪を犯したんだろうか? わたしの記憶にある彼は、そんなひどい極悪人には見えない。ただわたしを気遣い、あたたかく笑うだけ。


 どうやって帰ったのかさえ、わたしは覚えていなかった。気がつけばおにいさんと出会う前の日々に戻る。小さな家の中で、ゆっくりと流れる時間を無為に過ごす。時折おじさんかおばさんがやってきて、小言を残して去っていく。その小言すらわたしの耳には届かなくて、おじさんもおばさんも今まで以上にわたしの家にやってくることが減った。

 それからわたしの体調は急に崩れ始めて、ベッドから起き上がるのも億劫になってきた。かすかに残っていたおにいさんの気配は、日々が過ぎていく中で薄れていく。たった五日過ごしただけなのに、どうしてこんなにいとおしいんだろう。恋しくて恋しくて、わたしは枕を濡らしながらおにいさんの名前を呟いた。

 もし星になった時に意志が宿るのなら、わたしは彼のもとに行きたい。

 冷たい海の底に沈む彼の傍らに寄りそって、ぬくもりをわけてあげたい。彼がわたしにそうしてくれたように。



 朝焼けに染まり、夜が追いやられていく中、ひとつの星が落ちた。

 罪に染まらないはずの星は、迷うことなく海へと落ちて沈んでいく。恋い焦がれた人に会いに行くようにまっすぐな線を描きながら、冷たい海など恐れないように潔く飛び込んでいった。


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