明日のない未来

時丼

プロローグ

「はあ、心配だわ……」


 厚い雲によって陽の光が射さないためか、薄暗い和室で敷き布団に寝ている老婆は深刻そうにため息を吐きながら呟いた。


「その重度な心配性は杞憂に終わると思うよ」


 敷き布団の隣でその老婆の皺だらけの手を慈しむように撫でながら老人は呆れたように言葉を返す。


「君が残してくれたレシピ本や部屋に置いてあるすべての家電の使い方。寂しさを紛らわすためだからと言って、無理矢理買わされたポン太。これ以上何を心配することがあるんだい?」

「確かに出来る限りのことはしたわよ。それでもまだ他に何かやり忘れたことがあるんじゃないかと思うと不安を覚えるわ」


 そう言って再びため息を漏らした彼女は皺だらけの顔にさらに皺を作りながらこちらを向いた。自信に満ち溢れていた瞳も、余命を宣告されてからは翳りを見せており、その不安を宿した瞳で見つめられると、かつての力強さが感じられず、悲しみを覚えると共に少しだけ僕の自信も削がれてしまいそうになる。

 確かに今まで一人暮らしをした経験はない。ずっと二人でやってきたのだから仕方がないが、家事には一切手を出したことがなかった。なにせ、下手に手を出すと、彼女が私の仕事を取るなと激怒するのだから仕方がなかったのだ。

 しかし、これからはもうその頼れる人もいなくなってしまう。初めての一人暮らしは確かに不安だが、その不安よりも僕はこの人を安心させてあげたい。今までずっと僕の隣で、何があっても寄り添ってくれた彼女を心配ごとが一つもないように送ってあげたいのだ。


「例え君がいなくなったとしても僕は一人で元気にやっていけるよ。だから安心してくれ、最期の最期まで君にそんな目で見つめられると僕はとても悲しくなってしまう」

「ふふ、そんな風に言われると私が悲しくなるわ。もう私はいらない人なのね」

「ああそうとも、初めての独身貴族だからね。これからは今まで怒られそうでできなかったことを自由にやるさ」


 僕の気遣いに気づいたのか、目尻を下げながら久しぶりの冗談を口にする彼女の優しさを受け止めながら、その明るさを絶やさないように僕も冗談で答える。


「もうあんまり時間もないんだからさ、最期まで楽しく過ごそうよ。僕は君との思い出を笑顔で締めくくりたい」

「そう、安心したわ……。私、今までずっとこうやってあなたと寄り添って、死ぬときも電話でせーのでおやすみって言い合う様に一緒に死ぬものだと思ってたの」

「僕も同じように考えてたよ」

「だから、余命を宣告されてからずっと怖かったの。これからはずっと一人孤独に暗闇の中を彷徨い続けるのかなって考えると、叫びだしたくなるぐらい不安を覚えたわ。別に死ぬことなんて何も怖くないのよ?ただあなたと離れてしまうことがとても悲しいし、とても怖いの。私ってこんなに弱かったんだって初めて気がついたわ。今までずっとあなたが支えてくれたからこそ私は強かったんだなって」


 彼女の言っていることは間違っている。いつも支えられていたのは僕だった。

 仕事で大きな失敗をしてしまった時、上司の不満を口に出した時、無理に明るく振舞おうと普段通りに過ごそうとした時。彼女は時には優しく励ましてくれたり、時には厳しく僕の間違いを正してくれた。僕が心に抱えているものを見抜き、全てを吐き出させてもくれた。

 けれど、僕は彼女の弱音や愚痴を聞いたことがなかった。あるとしたら一つだけ、そう今の一言だけだ。病気だって、彼女が我慢に我慢を重ねたことが原因で早期発見できず、診察してもらった時にはもう末期に近かった。そんな時でさえ彼女は揺るがずに延命治療はしないと即答し、僕と医師は思わず口を開けたまま彼女を見つめてしまったほどだ。その後、医師からもう少し家族でゆっくりと考えてくださいと一度返されたが、結局意見は変わらなかった。

 そんな彼女を僕はとても強い女性だと思っていたけれど、彼女の初めての弱音を聞いた時、自分に対して嫌悪感が生まれた。

 余命を宣告されて、何も変わらないなんてある筈がないのだ。彼女はきっと、僕の目の届かないところで不安に顔をしかめ、涙を流していたのかも知れない。それなのに長い間、僕はそれに気づかず、彼女が提案した「自分がいなくなった後の準備」をただ言われるがままに練習し、彼女の内心を察することができなかった。それが悔しくて、恥ずかしくもあった。


「でも今は違うの。私、あなたに謝らないといけないわ」


 彼女の瞳から目を逸らし、不安や恐怖に気づけなかったことを謝ろうとした時、何故か先手をとられてしまい、彼女の顔を見返すと、自分が謝るのはそっちのけで思わずなんで?と尋ねてしまった。


「余命を宣告されたばかりの頃は、さっきも言ったように怖くて怖くて仕方がなかったんだけど、私が死んだらあなたが一人残るわけでしょう?もしも私だったらあなたのいない世界なんて、考えられないぐらい寂しくて辛いと思うから、先に逝くのが申し訳なくて」

「本当だよ。60歳でやっと仕事を退職して、これから君とゆっくり過ごそうって時にいなくなっちゃうんだもんな。僕の人生計画が狂ってしまった」


 彼女にとって僕のことを考えるのは当たり前のことなんだろう。その当たり前の優しさが鼻の奥をついて、うっすらと目尻に水分が溜まってしまう。昔に比べて涙脆くなったが、例え40年前にこの状況でこの台詞を言われたら、多分涙を流していたと思う。

なんとか軽い冗談で涙を振り払うことに成功したが、胸が苦しくて彼女の顔を見ていられない。


「だからごめんね?でも私は幸せだわ。最期まで一人じゃなくて、隣にあなたがいて笑顔で見送ってくれるなんて、愛してる人に見送ってもらえるなんて、こんなに幸せなこともないもの。過去に戻って人生をやり直すことになったとしても、何度でもあなたを選ぶと思う。だから泣かないで、私が死ぬ時はちゃんと笑顔で見送りなさいよ」


 思わず泣いてしまった僕を見た彼女が穏やかな笑顔をこちらに向ける。


「そんなに泣かれると成仏できないじゃない。やっぱり、あなた一人を残して先に逝くのは不安ね」

「だ、大丈夫。僕は大丈夫だよ。君が先に逝ってしまったとしても、君が僕の思い出の中にいる限り、僕は僕の最期まで生きていけるよ。確かに寂しくはなるけど、君の分も楽しんで生きるよ、約束する」


 笑顔で彼女を安心させてあげようと部屋に入ってきたのに、何故か僕が彼女に励まされている。涙と鼻水でぼろぼろになってしまった顔が情けない。それでも彼女が何も抱えることのないように僕は彼女に約束する。

 そうすると、彼女はこちらに向けていた視線を天井に移すと瞼を閉じて、大きくため息を吐いた。それは今までのような不安を含んだものではなく、肩の荷が下りたような安堵によるものだと長年の勘でわかる。


「そう、安心したわ」


 ポツリと言葉を漏らすと穏やかで澄み切った笑顔がそこにはあった。すると、また少し恥ずかしそうにポツリと


「ねえ、最後のお願い。この歳になって恥ずかしいんだけど、キスをして抱きしめてくれない?」

「もちろん、願ってもないよ」


 僕は彼女から掛け布団を少しだけ捲り、彼女のカサカサになってしまった唇に自分の唇を合わせ、優しく抱きしめた。僕の涙が彼女の目元に落ち、目尻を伝って流れていく。その涙は果たして僕のものなのか、彼女のものなのかはわからない。

 数十秒の間、世界は音を無くした。まるで僕と彼女だけがこの世界にいるようで、短い時間ながらもとても満ち足りたものだった。僕と彼女の恋が集約されているようなそんなキスだった。


 そっと彼女から唇を離していく。同じタイミングで瞼を開け、見つめ合うと自然と笑顔が溢れた。


「ありがとう」


 そういうと彼女は目を閉じて、いつの間にか寝入ってしまった。僕も彼女の隣で眠ろうと、布団を敷き、手を握り締めながら彼女の顔を見つめてそのまま睡魔に身を委ねた。




 翌日、彼女は逝ってしまった。

 僕は涙を流しながらなんとか笑顔を作り、約束を守った。彼女は僕の頬を愛おしそうに撫でると、笑顔で息を引きとった。

 僕はその後もずっと、彼女の隣を離れることができなかった。握りしめた手が冷たくなっても、離れることができなかった。


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明日のない未来 時丼 @ahirunrun20

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