Day1

 涼介は母親からの電話で起こされた。ビジネスホテルのベッドの上だった。時計を見ると、朝10時をまわっている。ベッド脇に置いてあったスマホを取りながら部屋のカーテンを開けるとまぶしい日差しがあびせ掛けられた。

 この頃は、気に入らないことがあるとすぐ電話をしてくる。電話での諍いはいつものことだが、辛辣な言葉をあびせかけられ、胸の中のどす黒い澱みが溢れだしたような時間が過ぎた。

「俺はごみだな」

 電話を切ると、着替えを済まし、大井町駅前のホテルをチェックアウトした。ホテルを出ると近くのコインパーキングに停めてある車を出し、澱みを振り払うように東京から上田への帰路についた。夏も終わりの木曜の朝だった。

 またあの感じだ..頭の中に陰鬱な靄が舞っている...自分が自分で無くなる。ハンドルを持つ手が震える。

 何かに急かされるように、涼介は練馬インターから関越道に入った。手の震えは止まっていた。

 藤岡で上信越道へ入り長野方面へ向かう。上田菅平インターで降りると、10年以上も前に行った米子大瀑布の滝へ向かう道を走らせた。途中左に折れ、杉林の大木が並び小川が流れる川沿いに車を停めた。青々と雑草が覆ってはいるが、車がぎりぎり通れる程の細い道が更に奥へと続いている。既に辺りは薄暗く、誰もいない。

 どうしてここに自分が来たかったのだろうか。何かが自分を呼び込んでくる。自分が憎い。そして怖い。

 スマホは圏外表示になっている。自分を追ってくるものはもう誰もいない。涼介は電源を切った。

 瞳を閉じながら、周囲が暗くなるのを待った。この季節、誰もこの道は通らない。静けさの中、風で揺れる幹の枝の音だけが聞こえる。

 薄暗い闇に包まれた林の中で涼介は運転席のドアを開けた。林立する大木の枝々が手招きで呼んでいる。

 トランクから探し出したビニールロープを取り出し、適度な高さの枝にビニールロープを掛けてみる。

 ロープで輪を作り体重をかけると枝が折れる。何度か試すが、どれも細い枝ばかりだ。太い枝は切り落としてあるのだろうか?

 もう少し奥に行ってみようか。

 涼介は車に戻り、奥へとゆっくりと車を走らせた。辺りを注意深く見たが、どれも歩いていける範囲は細い枝ばかりである。

 日が沈み、辺りの木々の様子は全て闇に溶けている。仕方なく元居た場所に車をバックさせた。道が闇にまぎれ、見づらい中をバックさせると異音がして動かなくなった。後輪が脱輪したらしい。車から出て後輪を覗き込むと、右後輪が脱輪している。

涼介は運転席に戻ると、胸ポケットから取り出した煙草に火をつけ、口に咥えた。もうこの車でどこにも戻る必要はない。この状況が更に涼介の背を押した。この状況をわざと作ったようにも思えてくる。

 煙草を持つ手に皮膚の感覚が感じられない。

 体を左へ傾け、助手席のグローブボックスをあさるとカッターナイフが出てきた。

それを取り出して、スライドで刃を引き出すと、取り憑かれたようにおもむろに左腕を切り裂いた。血が滴り落ちる。3度4度と切り裂くが、感覚が無い。切り裂いた傷から流れる鮮血の中に白く骨が見える。

「どうなっているんだ、俺の体は。痛くない.....」

 まだ足りないのか...首にカッターナイフの刃をあてがい手前に引く。もう片側に対しても同様に。刃に血が滴る。

「これで死ねるのか?」

 意識は続いている。煙草を消し、灰皿の中に放り込むと、シートを後ろへ倒し目を瞑った。

 首からも腕からも血は流れ出ている。朝までには死んでいるのだろうか。だがなかなか眠りに落ちない。

 いつからだろう、何の為に生きているのかわからなくなったのは。離婚してからだろうか?それともそんなこと最初からわかっていなかったのか...いつから考えるようになったんだろう、そんなつまらないことを。以前はそんなことも考えずに生きて来れたのに。そんなことを考えないまま一生生きていけるものと思っていた。生きていくことがあたりまえだった。

 暗闇が涼介を包む。近くを流れる小川のせせらぎがBGMとなって眠りに誘い出した。

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