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旬は病室に案内され荷物を置くと、吾妻という男が入院している病室を探した。病室のネームプレートを順に見ていくと吾妻は食堂の前の703号室だった。703号室の左手前のカーテンの中だ。都合がいい、ここなら食堂で張れる。
入院当日から大部分の時間を食堂で過ごした。持ち込んだ本を読みながら。いや読んでいる本よりも病室に出入りする人間が気になって仕方が無い。本の内容も半分頭の中には入ってこない。推理小説が好きで、推理小説ばかりを持ちこんだが、推理の種を見落としているか、読んではいるものの頭に入って来ないのか、まるで先が読めない。
「こりゃあもう一度読み直す必要があるな」そう呟きながら、703号室のほうに目を凝らした。
食堂はナースセンターの隣だ。ナースセンターから出入りする看護師達が甲斐を見やりながら、各病室へと向かう。師長が甲斐を見て話しかけた。
「甲斐さん、こんなところで本を読んでて大丈夫?ベッドで安静にしてたほうがいいんじゃないの?」
「いやベッドで寝ているといろいろ考えこんじゃうんで。こっちの方が落ち着くんです」
「あらそうなの。無理しないでね」師長が笑顔を向けながら去っていく。
「ありがとうございます」
病人の態をするのも楽じゃないな。旬は思いながらも703号室に目をやった。
詳細なことは聞いていない。吾妻という男の所に出入りする男も女も全てチェックしろとのことだ。浮気調査じゃないのか?よくは分からないが佐久間に言われた通りにしないとどやしつけられる。
1日目は品の良さそうな婦人が一人来ただけだった。多分奥さんじゃないだろうか。あんまり実はなさそうだな。
その日消灯の9時が過ぎた頃だ。向かい側の患者から聞こえて来るいびきがうるさい。いびきの音は増々大きくなってきた。
これじゃあとてもじゃないが寝れない。なんて部屋に入っちまったんだ。
布団の中に潜り込み、結局寝付けたのは2時近くだ。
翌朝、旬は事務所に電話を入れた
「もしもし甲斐ですが」
「ああ甲斐くん。なんか入院しちゃったんだってね。大丈夫なの?」声の主は愛衣香だった。
「体は全然大丈夫だよ。元々病気じゃないしね。それより所長に代わってもらえるかな」
「はーい」気の抜けた声で愛衣香が答えた。
「もしもし旬か。俺だ」佐久間が電話に出た。
「所長のパソコンメールにスマホで撮った写真送っときましたから。多分奥さんだと思いますが。メールチェックして下さいね」
「ああ、わかった」
「あと同部屋の患者のいびきがすご過ぎて眠れないんですよ。もう1日2日で退院させてもらえないですか」
「お前そんなたった3日で終わらせられるか。いびき?だったらいいものがある。今日愛衣香に持たせてやるからな、期待してろよ」
「ほんとに効くんですかー?」
「当たり前だ。俺が開発したものだ、効くにきまってるだろ」
「わかりましたー」
旬は電話を切った。
吾妻が勤める会社の黒木が事務所に顔を出したのは3日前だった。
佐久間の事務所は街のはずれの古い雑居ビルの2階にある。1階は魚屋とその魚屋が営む大衆食堂が入っている。時折魚臭さも漂うが、家賃には変えられない。大家もその魚屋なので、昼飯につけができるのも魅力だった。
佐久間は以前に行方不明者を探しだしたりして警察から表彰を受けたこともある。そんな噂を耳にして黒木は訪れていた。
黒木が訪れた時、事務所には佐久間が一人だった。黒木は自分の名刺を佐久間に渡した。佐久間も黒木に名刺を渡す。
黒木の名刺にはコンプライアンス室室長と書かれている。会社は某有名な電機メーカーだった。
佐久間から応接ソファに促され黒木は座った。佐久間も座ると黒木は切りだした。
「突然すみません。内密にお願いしたいことがあるんです。この情報は広げないで頂きたい。詳細な情報は佐久間さんの胸の内に秘めておいて下さい。それが守れることを約束として仕事の依頼をしたいのです」
「何です。いったい」
「守っていただけますか?」
「まあうちも守秘義務は常に負いますが」そこまでの秘密って一体なんなんだと思いながら佐久間は答えた。
「追って秘密保持契約書も結んで頂きたい。それも探偵事務所全体では無く、佐久間さん個人としてです」
黒木は真剣な表情で佐久間を見つめた。
「まあいいでしょう」そこまで言われたら是非とも聞いてみたい。受ける受けないよりも好奇心のほうが勝ってしまう。
「それならば要件をお話させていただきます」
「実はうちの会社では社内の情報ネットワークに目安箱のような掲示板があるんです。匿名で会社内の実情を投稿できる掲示板なんですが。内容にアクセスできる人間も私達コンプライアンス室の人間と数人の幹部に限られています。まあ大部分は隣の人間が居眠りをしているなどの告げ口が多いんですが、見過ごせない投稿がありまして」
まあ匿名とは言っても誰が書いたかなんてすぐわかるんだろう、今時の情報システムなら。そう思いながらも黒木の話に合わせ尋ねた。
「ほう、どんな?」
「うちの人事課長の様子がおかしいと。ずっと塞ぎこんでいたのに、急に目をぎらぎらしたり目が据わっている時があったりと薬でもやっているんじゃないかと。そんな投稿がありまして」
「それは困りますな」
「困るどころの騒ぎじゃないんです。もし人事課長が逮捕されでもしたら、うちの企業イメージはどん底まで落ちます。私の責任にも波及しかねません」
「で、それを探れということですか」
「そうです。ただその人事課長は今、精神科に入院しているんです。様子がおかしいのを見かねた奥さんが入院を勧め、今週から入院しているんですが」
「既に精神を患っていらっしゃると」
「早期退職者への退職勧告のストレスに耐えられなかったようで」
「その合間に薬を使用していたということですか。もし体内に入っていたら病院の検査でばれちゃうんじゃないんですか」
「事実で無ければそれが一番なんですが。やっていたとしても投稿の内容からも少し前なのかと」黒木が深刻な顔で答える
「禁断症状とかは?」
「やっていたとすればですが、多分まだ1回ぐらいごく少量を試しにやってみただけぐらいじゃないのかと。でなければ自分からは入院しませんよね。やっていないことが一番なんですが。」
「社内では調べられないのですか」
「会社の人間では顔が割れています。それに会社の人間を無理やり精神科に入院させるとなると、経歴にも傷がついてしまいます。吾妻の外部とのメールのやり取りは全て追っているのですが、人事課という立場上多すぎて追いきれませんでした」
「あのう。もし入院するとなるとその経費ももちろん払ってもらえるのですよね」まずは金だ。
「もちろん。最初に準備金として50万用意します。あとは報告書と引き換えということで100万でどうでしょう」これは久々にでかい話だ。いつもは浮気調査で10万20万が関の山なのだから、絶対受けなければ。けれど、薬となるとそれなりのリスクもあるな。佐久間の頭の中では色々と思惑が出てくる。
「もし何も出なければ、それでいいでしょうが、万が一本当に薬と繋がっていたらこっちもヤクザに襲われる心配もあります。その時はもう100万上乗せしてもらえませんか」
「わかりました。ではそれで契約書を結びましょう。期間は明日から1ケ月ということで宜しいですか」
簡単にのってきた。こりゃもっとふっかけりゃ良かったかな、佐久間は少し後悔したが今更遅い。
「もちろんです」これでここの滞納分の家賃も下の食堂のつけも返せる。佐久間は小躍りした。
黒木は鞄の中からクリアファイルを取り出し、中から契約書を取りだした。契約書に金額を書き込み、佐久間がサインをした。秘密保持契約にもなっていた。
鞄から50万の入った紙袋を佐久間に渡すと、佐久間は中を調べ始めた。顔にでてしまう癖をなんとか抑えつけ無表情で札を数える。
「確かにあります。今領収書作りますので。宛名はどうします?」
「会社名で結構です」
机に戻ると領収書を書き、黒木に渡した。
夕刻、愛衣香が旬の所に顔を見せた。
「こんにちは、旬君」
愛衣香の顔を目にし、ベッドに横になっていた旬は起き上がった。
「ありがとう、愛衣香ちゃん。わざわざごめんね。大学の帰りかい」
「うん、そう。退屈してるの?」
「退屈だよ。もう帰りたい。それより、良く眠れるための物ってなんだい?」
「ああ、そうそう」愛衣香はバッグから、小さいビニール袋を取り出した。
「おじさんが開発した超高性能、耳せんだって。騒音を完全シャットアウトとか言ってたよ」
「耳せんかあ。これって所長が使ってたものなの?」
「おじさんのは別にあるからって。まだ新しいはずだよ」
「良かったよ。変な病気でもうつされたらたまったもんじゃない」
「ははは。今日も耳せんして居眠りしてたよ」
「全く。あの親父ときたら」
「それじゃあ、そろそろ帰るけど頑張ってね」
「うん。ありがと」
「そうそう、もうすぐ私誕生日だから宜しくネ」
愛衣香は笑顔で手を振りながら帰っていった。
耳せんを手にし、まあいいかこれで眠れるならと耳に着けてみる。何でも作っちゃう親父さんだな。不思議な人だ。
ひと眠りしよう。旬はベッドに横になった。その日からは耳栓のおかげでぐっすり眠れようになった。
結局その週は5日目にスーツを着たサラリーマン風の細面の紳士が来たが、夫人とその紳士の2人しか、吾妻の病室には来なかった。この紳士も吾妻の上司のような感じである。
その紳士の写真を送付後、また電話を入れた。
「もしもし甲斐ですが」
「おう。俺だ。佐久間だ」今度は所長が出た。
「また写真送っときましたよ」
「おう、お疲れ。この前のご婦人は吾妻の奥さんだったわ、今日の分はまた調べとく」黒木に分かるかどうか送るだけなのだが。
「それより、いつまでこんなことやるんですか」
「まだ全然成果が出てないだろ。まああと1週間はやらなきゃだろ」
「何が成果かわからないんですけど、とりあえず週末はここから出ていいですか?週末退院てのがあるらしいんですよ。週休2日制のはずですが」
「土曜・日曜に怪しい奴がくるかもわからんだろ。なんなら隠しカメラでも仕掛けるか」
「そんなの持って来てないですよ。本も読み終わって退屈なんで週末退院しますよ」
「仕方ねえな。分かった。明日は3時頃一度ここへ来い。作戦を練り直そう。休日手当もだしてやるから」何の作戦があるのかわからないが、とりあえずこの軟禁状態から抜け出ることはできる。急いで担当医の長谷川に言わなくちゃ。旬はナースセンターにちょうどいた師長にお願いして医師の長谷川に了解をもらった。
それにしても休日手当まで出るなんて、よほどぼったんだな、あの親父。
翌日、旬は探偵事務所に顔を出した。そこには佐久間とともに見知らぬ男がいた。コンプライアンス室長の黒木だ。
「おお、悪いな休みなのに。こちら黒木さん。今回のクライアントだ」身なりもしっかりとした中々精悍な顔つきの男だ。
「こっちは甲斐 旬と言って俺の弟子みたいなもんだ」今度は黒木に甲斐を紹介した。
「でな、昨日の写真の男も何でも吾妻の上司で人事部長なんだってよ。仕事の話で行ったんじゃないかって。これじゃあまるで成果なしだ」
「何が成果なんですか?浮気調査じゃないんですか?」旬は少しいらだちながら聞いた。
「いやあこれが詳しく話せないんだ。とにかく来た人間は全部写真撮って、こっちへ送れ。それでいいんですよね黒木さん」
「そうですね。それと、吾妻の近くに盗聴器なんて仕掛けられないですかね?」
現場を知っているのは旬だけだ。佐久間も黒木も旬を見る。
「いやいやいや、見つかったらやばいですよ。せめて部屋の入り口を撮るための隠しカメラぐらいでしょ」
「そうですか」黒木が落胆した表情を見せる。
「まあそう言わずに両方とも持っていけ」佐久間は自分の机の引き出しから盗聴器と隠しカメラを用意してきた。
「これは俺が改良した高性能品だからな、見つかって没収されるなよ。それに女のトイレとか風呂に仕掛けるんじゃねえぞ」以前にも使ったことがある。スマホのアプリで録音や録画ができる、確かに高性能品だった。
「所長じゃないんだからそんなことしませんよ。まあやってみますが誰か買収しなけりゃなりませんよ。そんな金使っていいんですか」
「まあいいんじゃねんか。ねえ黒木さん。準備費から足が出たら実費請求ということで」佐久間も抜け目ない。黒木が顔をしかめる。
「仕方ありませんね」
「よしそうと決まったら、来週からまた頼むよ、旬」
「はいはい。やればいいんでしょ。手当はずんで下さいよ。こっちは夜のバイト休んでやってんだから」
「おう、それより景気づけにこれからキャバでも行くかい。黒木さんもどうです」
「いや、私はいいです。それより宜しくお願いしますよ」黒木は言い残すと席を立ちあがり帰っていた。
「まかせて下さい」佐久間が適当な事を口にする。実際やってるのは俺だろうが。旬は佐久間をにらんだ。
「それより、所長のおごりなんでしょうね」
「あたりまえだろ、40分のフリーコースだぞ」何だそれは。どうせ盛り上がれば自分の方が延長しちゃうくせに。
二人は事務所から近くの地下にあるキャバクラ・クラブジーンへ降りて行った。席は10ブロックほどあるだろうか、そこそこ広い。
旬がバイトでキャバ嬢送迎をしている店である。皆顔なじみだ。
「あら旬ちゃん。入院しちゃったんじゃないの?心患っちゃったって。もう廃人寸前とか」ゆのが声を掛けてくる。31になるが童顔でふくよかなかわいらしい娘だ。
「誰がが言ったんだよ、そんなこと」
「こちらの所長さん」ゆのが佐久間を人差し指で指しながら答える。
「所長。あることないこと言いふらさないで下さい」
「俺そんなこと言ったっけ」とぼけている。所長以外の誰が言うんだそんなこと。
「それよりな旬、ちょっと耳貸せ」旬の耳を引っ張り佐久間の口元にたぐり寄せる。
「いいか。今度の客は上客だ。今回は絶対成功させなきゃならん。これが成功すれば次もうちを使ってくれるぞ。いいか失敗は許されないぞ」
「そんなこと言ったって詳しいことも教えてくれなくて、行きあたりばったりですよ。こっちは」
「まあそう言うな、来週からが勝負だ。頼むぞ」
「さあさあ内緒話はそれくらいにして、のみましょ」ゆのが二人におしぼりを渡し、間に入った。
「なんだよ、ゆのだけかよ」佐久間が文句を言う
そこへ由香が来た。背も高くきれい系なキャバ嬢だが、山形出身の気さくな女の子だ。
「所長何文句行ってんの?」
「由香ちゃーん」
結局、旬はこのまま3時間も飲むことになった。まだ入って3ケ月だというのに何度付き合わされたことか。
翌日、午後から旬はアパートの近くのスポーツジムに顔を出した。
探偵事務所からもさほど遠くはない。そのためかクラブジーンに勤務しているキャバ嬢も何人か通っている。
ゆのがランニングをしていた。ゆののボリュームのある尻を見ながら、隣のランニングマシンに旬が乗った。
「あら旬ちゃん。昨日はどうも」旬に気づいたゆのは笑顔を見せた。
「ゆのさん頑張ってますね」
「もう全然体重減らないのよ」
「前より大分痩せたんじゃないですか」思ってもいないが口にしてみる。
「あら、そう。うれしいわ」ゆのは思いのほか上機嫌になった。
あっいた。周りを見渡した旬の視線の先にはインストラクターの詩織が見えた。
目の保養だなあ。詩織を見るために来ているようなものだ。
30分ほど走った後、器具で1時間ほどトレーニングを行い、自宅に戻った。
月曜日、旬は病院に行くと空いていた入口にのベッドには新しい患者が入っていた。カーテンが閉まっている。
「あら、お戻りね」師長が窓のカーテンを開けに入ってきた。
「はい、また宜しくお願いします」丁寧にお辞儀をした。
「また、いっぱい本持って来て。また食堂で読むの?勉強家ね」
「いや、気持も落ち着いたのでベッドで読もうかと」
隠しカメラと盗聴器さえ仕掛ければ、無線で飛ばしてベッドのiPadで確認ができる。先週よりは全然楽だ。
「あらよかったわね。じゃあお大事ね」師長は部屋を出て行った。
さてまず隠しカメラと盗聴器を仕掛けなければならない。旬は怪しまれないように食堂に出た。人はだれもいない。まずは隠しカメラだ。丁度703号室の真正面に観葉植物が置いてある。食堂の窓側だ。ここならばれないだろ。
観葉植物の裏に周り、カメラを703号室の出入り口を向くように仕掛けた。正面から見てもこれならばれないだろう。電源も壁のコンセントから取ることができた。
次は盗聴器だ。先週食堂にいる時に看護師とは何度か話したがさすがに看護師に頼むわけにもいかない。考えていると、掃除婦のおばさんが704号室から出てきた。先週も挨拶した掃除婦だ。
「おばさん、おばさん」
「あら、甲斐さんだっけ、707号室の」
「そうです。土日は帰ってたんですけど、また宜しくお願いします」
「こちらこそ宜しく」
「ちょっと退屈してたんで、掃除手伝いますよ。ごみ箱の片づけですよね。1部屋か2部屋ぐらいなら」
「そんないいわよ。でもお願いしていいの?」
「もちろん。次は703号室ですよね」
「そうよ」
「わかりました。703と702は手伝います」
「ありがとう」掃除婦のおばさんの後につき、掃除を始めた。
「すみません。掃除に来ました。カーテン空けてよろしいですか」旬がカーテンの中の吾妻に声を掛けた。
「ああいいよ」
カーテンを開け、中に入ると吾妻は横を向いて寝ている。脇においてあるごみ箱のごみをおばさんの持つ大きなごみ入れに入れる。
ごみ箱を返すと同時に持っていた小型の盗聴マイクをベッドの裏に張った。成功だ。
「どうもありがとうござました」旬はカーテンを閉めた。
その後も702までは仕方なく手伝った。
「どうもありがと。本当に助かったわ」掃除のおばさんは701へと掃除を進めていった。
これで買収費も必要なくセットできたぞ。その分上乗せしてもらおう。
旬は自分の部屋に戻り、カーテンを閉めた。
バッグからiPadを取り出すと、イヤホンをつけカメラを見てみる。これはかなり精細だ。ズームも効く。
ばっちりじゃないか。今度は盗聴器だ。吾妻のTVの音声がクリアに聞こえる。こっちも成功だ。さすが所長の改良版だ。こういうことはあの親父、抜群の才能みせるからな。ただ盗聴器は電池式だ。1週間ぐらいしかもたないだろう。その前に成果が上げられればいいのだが。
月曜は結局この前の婦人が来ただけだった。
やはり会話を聞くと奥さんだ。
「あなた、体の調子は戻ったの」
「ああ、だいぶ元に戻った。あと1、2週間もすれば退院できるだろ」
「そう、それは良かった。あなたおかしかったもの。やっぱりストレスだったのね。人事部から所属変えてもらったら?」
「いや、それは出来ない。部長にはこれまで引き立ててもらった大恩があるからね。何としてもやり遂げないと」
「そうなの。でも体調おかしくなったら直ぐに病院来てよ」
「ああわかったよ」
奥さんは帰っていったようだ。
あと1、2週間か、それまでに誰か来るのかな。
旬は翌朝、事務所に電話を入れた。
「もしもし、甲斐ですが」
「あー甲斐君。どうよそっちは」
電話にでたのは愛衣香だ。
「成果なしだよ。愛衣香ちゃん今日は早いじゃん」
「大学行く前にちょっと寄ってみたの」
「そうなんだ。所長いる?」
「ちょっと待ってねー。おじさーん」
「もしもし、佐久間だが」
「ああ、所長。昨日はまた奥さんだけでしたよ。成果なしですね。なので昨日メールも電話しませんでしたけど、音声ファイル送りますか?何かあと1・2週間で退院するみたいですよ」
「そうなのか、一応ファイルも送ってくれ。ちゃんとやっていることを黒木さんにも見せとかないとな」
「あーあと盗聴器の電池ってどのぐらい持ちます?」
「バカ野郎、俺の改良品だぞ。1週間しかもたなかったものを1ケ月持つようにしといたから安心しろ」
あんたはパナソニックかよ。突っ込みを入れたかったがそれは抑えて言った。
「ありがとうございまーす。助かりまーす」旬は電話を切った。どうも愛衣香の口調が移ってしまったようだ。
今日は吾妻の所には見舞客はないようだ。
水曜に動きがあった。一人の男が吾妻の所に現れた。
旬はイヤホンを耳にする。
「吾妻さん調子はどうですか?これどーぞ。ここに置いておきますね」お見舞い品でも渡したのか。
「山口君悪いね。大分良くなったよ」
吾妻の部下か?
「あっちの方はうまくいってるかね」
「ええまあ」
「もうすぐ退院できそうなんだ。今週末には退院できると思う。退院したら、またお願いできないかな」
「仕方ないですね。あっちの方は大丈夫なんですかね」
「ああ問題ない。すまんが頼むよ」
男は帰って行った。
旬は男の映像と音声をメールで佐久間宛に送り、その後佐久間に電話をした。
「もしもし甲斐ですが」
「ああ、俺だ佐久間だ」
「所長、今メール送ったんですけど、今週末で退院するそうですよ。俺も退院していいですよね」
「わかった。相手もいないのに見張ってても仕方ねえからな。いいぞ。今週いっぱいは見張っとけよ。ファイルは黒木さんに送っとく」
「了解しましたあ」旬が明るい声で答えた。
佐久間からのメールで映像を見た黒木はこの男の映像と音声を確認し、社内情報ネットの社員録から一人の男のページを確認した。
山口 豊 情報システム部社内システム課 主任 43歳 既婚
社内システム課は社員が使用するパソコンや社内の情報ネットワークを管理する部署だ。
吾妻は人事部人事課だ。上司でもない吾妻の見舞いに?個人的に仲が良かったのだろうか?
山口 豊 この名前どこかで見たことがある。だが思い出せない。どこで見たのか。
"またお願いできないかな"この言葉は薬の事なのか。
社外では無く、社内の人間から入手していたということなのか。だとしたらこんなことが警察に、そしてマスコミにばれたら大変なことになる。会社のイメージは地に落ちる。
黒木は佐久間に電話を掛けた。
「もしもしZOZAN探偵事務所です」電話に出たのは佐久間本人だった。
「黒木ですが、メールありがとうございました」
「ああ、黒木さん」
「映像の男はうちの社員でした」
「ああ、そうなんですか。会話を聞いてそんな事じゃないかと思いましたわ。あんまり成果は無かったってことですかね」佐久間が落胆した声で答えた。
「いや、もしかしたらこの男、ビンゴかもしれません」
「えっ?それじゃあ社内の人間間で取引を?」佐久間の声が高くなる。
「それはまだわかりません。それで週末この男がどんな行動しているか、張ってもらえませんか?自宅の住所は後でメールで送ります」
「なるほど。そいつはお安い御用ですわ。うちの甲斐も金曜には退院する予定ですからな」
「宜しくお願い致します」
黒木は佐久間への電話を切ると佐久間宛にメールを送信した。そして、内線電話を掛けた。
「情報システム部社内システム課田畑です」
「田畑さん。コンプライアンス室の黒木だけど」
「ああ黒木さん。どうしました」
「ちょっと聞いていいかな?」
社内システム課の田畑恵には以前吾妻の外部とのメールのやり取りを調べてもらったことがある。
「何でしょうか?また難しいことですか?」
「君の所に山口君っているじゃないか」
「ああ山口主任ですね。今は席はずしてますが」
「いや、それはいいんだけど。彼って、人事課の吾妻課長と仲がいいのかい?」
「いや話してるのも見たことないですけど。山口主任がどうかしたのですか?」田畑は声を潜めて聞いてくる。
「いや、それならいいんだけど。今日一日俺はいるんで、暇があったらコンプライアンス室に寄ってもらえないか」
「夕方ぐらいなら、行けますけど」
「分かった。すまないけど頼むよ」
「はい」
黒木は電話を切ると、もう一度山口豊の名前をどこで見たのか考えた。
もしかしたら、あそこか。
社内情報のサイトから人事部のサイトへアクセスする。
厳秘というメニューをクリックする。
一部の社員しかアクセスできない厳重秘密サイトである。
退職勧告者のメニューをアクセスすると社員リストが表示された。
以前、退職勧告者が社内で吾妻に殴りかかったことがある。
自暴自棄になった退職勧告者が犯罪に走らないとも限らない。
そのため、人事部長に要望して黒木にもアクセス権を付与してもらったのだ。
人事部の上層部と一部幹部しか閲覧できない。
表示されたリストを上から追ってみるが、山口 豊の名前は無かった。
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