Day9

 朝出勤した礼子は、いつもの席に部長の橋爪が出勤していることを確認した。

 ロッカールームに出向き、白衣に着替えると意を決して橋爪のもとに向かった。

 橋爪の席の前に立つと、新聞を読んでいた橋爪は怪訝な表情で礼子の方に向き直り、新聞紙を閉じながら礼子の顔を見た。

「橋爪先生、おはようございます」

「おはよう。どうしました、吉沢先生?」

「お話しがあるのですが」

「二人だけのほうがよさそうですね。それでは会議室へいきましょう」礼子の深刻そうな表情から不穏な空気を読み取ったのか、橋爪は立ち上がり、奥にある会議室へ歩を進めた。礼子も黙ってそれに続いた。

 会議室扉の札を裏返し、使用中に替え、部屋に入ると橋爪は礼子に右手で近くの席を勧めた。

 礼子はその椅子に座り、俯いている。

 橋爪も椅子に座ると、尋ねかけた。

「どうしました、吉沢先生。まさかお辞めになるという話ではないですよね」橋爪は最悪な事態を想定していたのかもしれない。

「いえ、そういうことではないんです」礼子が顔を上げ、橋爪に向き直り答えた。

 橋爪は少し安堵したのか穏やかな表情でさらに尋ねる。

「ではどうしたんですか?」

「実は相談なんですが、仕事を少しセーブしてもらえないでしょうか。今の担当の患者さんは私が責任を持って担当しますが、新しい患者さんは、他の先生にお願いできないでしょうか?」

「やはり、きついですか」

「はい。弱音を吐いて申し訳ないんですが」

「私も心配はしていたんですが、そうですよね。今の神経科の患者は増えるばかりですからね」

「お願いできませんか?」

「すぐに、すべての新患さんを他の先生にというわけには行かないと思いますが、なるべくそうするようにしましょう。師長にも言っておきます。理事長に医師の増員もお願いしますので、それまで少し我慢してもらえませんか」

少し落胆の表情を見せたが、礼子は答えた。

「わかりました。宜しくお願いします」

「体は大丈夫ですか」橋爪が優しく聞いた。

「体は大丈夫なんですが、心のバランスが少しきつくなっているのかもしれません」

「私も長いことこの仕事をしていますので、あなたの気持ちは良くわかります。事務仕事など少しは私も大目に見ますので、仕事が終わったら早く帰宅して体と心を休めて下さいね」

「ありがとうございます」

「辞めようなんて考えないで下さいよ。私もすぐに理事長にお願いしますので」

「それは無いと思います。この仕事が嫌いになったというわけではないんです」

 橋爪はそれを聞いて笑顔を見せ、席を立ち、会議室を出て行った。

「すぐには無理だよね。そりゃそうだ。もう少し頑張ろう」礼子も自分に言い聞かせるように呟き、席を立った。


 そう言えば昨日は佳奈とは会わなかったな。亮介は、TVにも退屈になり、食堂へ出てみた。

 佳奈がいつもの小上がりの座敷で寝そべっていた。今日は紺の上下スエット姿だ。スマホからのイヤホンを耳につけている。音楽でも聞いているのだろう。

「どうだい」亮介は佳奈の肩を叩きながら、佳奈を見た。

 スマホの音楽を止め、佳奈が亮介の方に向き直った。

「亮ちゃん。元気?あれ、点滴とれたんだ?」笑顔で佳奈が言った。

「ああやっとだよ。解放された気分だ。佳奈はどうだい」亮介はの前の時呼び捨てで言いと佳奈に言われたので、呼び捨てで言ってみた。少し照れ臭かった。

「昨日子供たちと電話で話したから、元気出てきた」

「そうか、それは良かったね」

「ねえ、聞いてもいい?」佳奈は少し真剣に問いかけた。

「何だい」

「亮介さんはなんでここにいるの?」

「うーん」亮介はどこから話していいのか考え込んだ。

「聞いちゃいけない話だった?」

「いやそういうわけじゃないんだけど」

 少し考え亮介は言った。

「俺には木曜からの使者がいなかったんだ」

「何それ?また太宰の話?」

「いや、太宰じゃなくて、昔のグループの曲さ。日曜日よりの使者って曲」

「へえー。で?」

「その曲って逸話があるんだ。本当なのかどうなのか分からないけどね」

「どんな?」

「そのグループのボーカルが日曜日の夜に、もう自殺するしかないって想い詰めていたんだ。でもテレビを見ていて、あるお笑いのコンビのやり取りを見ていて笑ったんだって。俺はまだ笑えるんだ。まだ生きていてもいいのかもしれないって自殺を思いとどまったっていう話。そこから出来たのが日曜日よりの使者なんだってさ」

「へえ。かっこいい話だね」

「ああ。こっち側にそこで戻ってこれたんだね。俺は木曜日に戻ってこれなかった。そのまま向こう側で腕を切って自殺未遂までしちゃったのさ。でも姉や妹、義理の兄貴の声でこっちに戻って来たんだ。だから未遂に終わって、今ここにいるという理由さ」

「なんか深い。でも聞いちゃってよかったの。そんな話」

「佳奈も教えてくれただろ、この前。俺だけが言わないのは不公平だろ」

「私も他人の事いえないけど、なんで自殺未遂なんてしちゃったの?」聞きづらそうに、佳奈が聞いてくる。

「まあ仕事とか生活とかいろいろ積み重なってね」

「もうやらない?」

「わからないけど、多分」

「わからないよね。私もわからないもん、未来のことなんて」

「佳奈はだめだろ。子供達がいるんだから」

「そうだよね。頑張らなくちゃ。亮ちゃんもだめだよ」

「そうだね」

「その曲聞きたい」

「聞いたことあるはずだよ。CMでも使われていたし。いい曲だよ」

「そうなの。ネットで探してみる」

「すぐ見つかるよ」

「亮ちゃんはいろいろ知ってるんだね」

「まあ歳の甲ってことか」

「ははは。まあそう僻まないで」

「うるさい」

「また教えて」

「ああ、何か思い出したら」

 もう昼に近くなったからだろうか、食堂には患者が集まり始め、テーブルに座り銘々にお茶を飲んだりTVを見たりしている。

 突然、奥から怒声が聞こえた。

「ふざけるな」

 車椅子の老人同志が諍いをしていた。

 この病棟で患者同志の諍いは初めて見る。他人に関わらないここではそんな諍いは起きないと思っていた、いや思い込んでいた。

 患者はみな呆気に取られて、その方向を見ている。

 亮介も佳奈もわけがわからなく、その老人たちを見ていた。

「何があったんだろ」佳奈が聞いてきた。

「分からない」

 ナースセンターにいた看護師も異変に気づいたのだろうか。センターから飛び出てきた看護師が二人の老人の方に駆け寄る。

「おまえがぶつかってきたんだろうが」

「おまえだろうが」

 車椅子がぶつかったとか、そんな他愛の無い喧嘩のようだ。

「やめて下さい」

 看護師が二人に叫びかける。

 二人はやめようとはしなかった。今にも掴みかからんばかりである。

 その時、近くにいた一人の男が二人の間に割って入って車椅子を離した。

 甲斐だ。亮介と同部屋の髪の毛を後ろで束ねた男だ。

 二人はすごすごと離れて行った。

 すごいなあの男。亮介が近くにいてもそんな勇気は出せなかったかもしれない。いや出せなかっただろう。

「本当にもう。いい加減にして下さい」看護師が二人に声をあびせた。

「甲斐さん、すみません。ありがとうございます」看護師は甲斐にも声をかけた。

 甲斐は会釈をしながらも、何事もなかったようにテーブルに腰かけ缶コーヒーを飲みながらTVを見ていた。

 食堂はいつも通りの静けさを取り戻した。

「何だったんだろうね」佳奈が立ち上がり、そう言い部屋に戻って行った。そして亮介も部屋に戻った。

 自分をコントロールできない人々が集まるのがこの病棟だ。あんな事はあって当たり前なのだろう。自分も、自分の感情さえも制御できなく人を傷つける自分も自分の中にいるんだろうか。亮介も部屋に戻った。


 3時頃また、「ごはんだよ」の声が廊下から聞こえる。

 時間に律儀な男だ。ちらっとカーテンの隙間から部屋の入口を見ると、ごのさんがこちら見ている。

 目があった。昨日思わず会釈してしまったからだろう、亮介に関心を持ったのか。やばいと思ったが、カーテンの隙間から顔を覗かせた。

「暇かい?」ごのさんが聞いてきた。

いやとはこの状況では言えない。

「ええまあ」仕方無く亮介は答えた。

「入ってもいい?」ごのさんが聞いてくる。仕方なくまあ少しならと答えると、窓脇に置いてあったパイプ椅子を持ってごのさんがカーテンを開けて入ってきた。

 椅子まで持ってくるのか、そう思いながらも諦めた。

 ごのさんはベッド脇にパイプ椅子を広げ腰を下ろした。

「薮内さんて言うんかい。珍しい名前だね。じゃあ藪ちゃんでいいね」ベッドに掛かっているネームプレートを見ながらごのさんは聞いた。

「はあ」何でもいいよと思いながらも亮介は曖昧な答えをした。一番苦手なタイプな人間だ。

「藪ちゃん、どうだい調子は」

「まあ普通です」

「そうかい。それは良かった。はははは」何がおかしいのだろう。

「なにか用ですか」早く帰ってほしいと思いながらも聞いてみる。

「用なんかねえよ。はははは」本当に何がおかしいのだろう。

「俺もさあ、苦労したのよ。色々と。今じゃあこんなとこにいるけどさ」

「はあ、そうなんですか。苦労されたんですね」一応相槌を打ってみた。

「そうなんだよ。今じゃあしがない便利屋だけどさ」便利屋をやっているのか。

「でも俺を頼りに電話してきてくれる年寄りがいるんだよ」

「便利屋って何をやってるんですか」亮介は、あまり興味もないが聞いてみた。

「片づけだな。一番は。あと引っ越しとか掃除とか、草刈ったりとかいろいろさ。でも片づけはいいんだぜ。向こうはごみと思ってるもんが金になるんだ、これが。ヤフオクで売れるんだ。この前なんてカメラ3万にもなったんだよ。俺もごみと思ってたのになあ」

「なるほど。ヤフオクとかはやりですもんね。かたずけ賃より高くなっちゃったよ」そういう商売もあるのか。

「ずっとやってるんですか」

「いや、定年後からさ。こう見えても昔は公務員だ」

「公務員?」

「ああそうさ。公務員だ。お上だよ」年金ももらえるのにもういいだろうと思って聞いてみた。

「もう働かなくても、生きていけるでしょ」

「まあ暇だからな。家にいてもばばあに文句言われるだけだしな」

 何でもごみ焼却場の関連の仕事をしていたらしい。その時出入りしていた便利屋の手伝いをして、その後自分でやりだしたらしいことを話している。

 それから20分ほどだろうか、ごのさんは自慢話をひとしきりした後出て行った。

 ごのさんの公務員という言葉には引っかかりがあった。公務員は亮介にとって苦手な人種だった。苦手というよりも嫌いだった。

 サラリーマン時代から痛い目にあっていた。朝、急に呼び出され、200kmも車で運転し、10分で用件が終わったこともある。

 一円も自分では稼ぐこともできないくせに。稼ぐ術さえ知らないくせに。亮介は常々そう思っていた。

 義父の会社に行く前は、民営化された会社の子会社にいた。上司は皆その親会社からの天下りである。

 部長は仕事などしていた所は見たことがない。時々プリンタから打ち出される時にプリンタの場所で鉢合わせになったことがある。出力されていたのは囲碁の棋譜が打ち出されていた。

 あるとき、写真誌でその親会社が平日に運動会を実施していることをスクープされたことがあった。その時課長はいいじゃないかなあ、運動会ぐらいやったってと言っていた。いやいや、普通の会社では平日に運動会なんて考えないですよというと課長は黙っていた。結局考え方が違う。人種が違うのだ。亮介にはそう思えた。

 ただ仕事の事はよく分かっていないから、自由に仕事をさせてくれることは有難かった。

 公務員でも人によって全然違うのは充分分かっている。分かってはいるがトータルとしては苦手だった。いや嫌いだった。

 ふた月ほど前だろうか1本の電話があった。税務署からだった。

「薮内亮介さんですね。税務調査を行いたいのですが」電話の主はそう言った。

「はあ。税務調査ですか。いつですか?」税務調査の意味合いもわからず、そう答えた。

「ひと月後の水曜を予定しているんですが」

「はあ」

「では、水曜の午後3時に伺います」

 確定申告はしている。税金は払っている。ただ、正確、詳細では無かった。2月3月は期末ということもあり毎年亮介の仕事は忙しい最中だった。土曜も日曜もなく働いていた。戻ってこれても確定申告前の日曜日にざっと計算して提出して東京に戻る。そんな年が続いていた。言い訳になる事は分かってはいるが仕方なかった。時間がなかった。

 5年程前に確定申告後に税務署に呼び出された。源泉徴収が給与の区分で発行さているので、交通費や宿泊費が経費として認められないようなことを言われた。そんなばかなことがあるのか。亮介のような個人事業主では宿泊費や交通費が自腹となることがる。それが認められないとはどういうことだと食い下がったが認められなかった。それ以降、必要経緯を認めてもらうために源泉徴収をしていなかった。それがあだとなったかもしれない。

 電話を終えて、亮介はインターネットで検索してみた。

 税務調査で自営業者が自殺。税務調査の後、個人タクシー運転手が自殺。そんな文章が並ぶ。

 7年前まで遡って徴収されるなどと載っている。毎年確認しているのではないのか。所得税に合わせて、地方税や国民健康保険までそれに合わせて徴収される。人によっては1,000万以上もの請求があることがあるなどとある。何なんだ。個人でそんな金だせるわけがない。ましてや今の亮介は仕事が無い立場である。悪いことに集めていた領収書もどこかにしまい込んでしまっていた。どこにしまい込んだのか。脱税しているつもりは無かった、だが亮介は怖くなった。

 その日、時間10分前に家のインターホンが鳴らされた。

「お電話さしあげた税務署のものですが」早いだろうと思いながらもドアを開けると、50がらみの二人の男がそこに居た。鈴木と関と名乗った。

 亮介は玄関で対応すればいいのだろうと思っていたのに、それでは失礼しますと部屋の中に入ろうとする。何なのだこの男たちは。仕方なく居間に案内するが名刺も出そうとしない。それが当たり前なのだろうか。

「何をしろというのですか?」亮介は聞いた。

「帳簿とかはつけていないのですか」鈴木という男が聞いてきた。

「つけてはいないです。そこまでできないので白色にしたんです」税制で優遇される帳簿が必要な青色申告はしていない。白色申告で申告していた。

「今年から白色もつけるんですよ」関という男が言ってくる。それさえも知らなかった。亮介は、税に無頓着すぎる自分を恥じたが、いかんせん今更仕方ない。関という男が上司らしい。どこか不遜な態度だ

 その後、すべての銀行口座を教えろと、調べる権利が税務署にあるという。企業の脱税などはよくニュースでも見る。こんな宿泊費や交通費など経費ばかりかかりそれほど稼いでもいない、そんな個人口座まで調べあげられるのか。涼介は仕方なく全ての口座を教えた。

「なぜ私の所に?」亮介が個人事業としてやりだしてから10年ほど経つ。なぜ今?この一番どん底の時に。不思議になって聞いてみた。噂では密告する人間もいるとの事を聞いたことがある。恨まれている覚えはないが。こちらはそう思っていても知らぬ間に誰かに恨まれでもしていたのだろうか。

「こちらではいろいろなルートで情報を持っています、様々情報を勘案して、税務調査先を決めます」関が答えた。何だその曖昧な抽象的な答えは。

「そのいろいろなルートを教えて下さいよ」堪らず亮介は聞いた。

「それはお教えでません」関が無愛想に答えた。

「今そんな金請求されても、払う金なんて無いですよ。無職なんですよ」涼介は堪らずそう言った。

「請求はまた別の部署が行いますから」関が冷たく言い放つ。

 調べるだけ調べて、取り立てはまた別の部署がやるという。口座を調べればどれだけ金が無いかなんてわかるはずだ。結局その日は男達は口座情報を聞き、必要経費をまとめてくれと言い、また連絡すると言って帰っていった。

 必要経費は認めぬと言われ、源泉徴収から切り替え、申告が少しアバウトになった時点で調べに来る。いったい何なんだろう。踊らされているというのか、罠に嵌められたというのか。国は人を追い詰めていくのか。一体、いくらの請求がくるんだ。亮介は心底怖くなった。

 個人事業主、全ての人がいつかは受けるのだろうか。親父もお袋も農業をしていたがそんなことを受けたということは聞いたことがない。義理の兄貴にしても個人事業主だがそんなことは聞いたことが無い。個人事業主でも始めた頃に受ける人、10年も20年も経ってから受ける人。7年遡るということはその差はどこで埋まるのか。

 今度、機会があればごのさんにでも聞いてみようか。亮介はそう思った。ごのさんがいくら稼いでいるのかは知らないが。

 


佳奈は自宅に電話を入れていた。食堂の片隅の電話可能コーナーである。

「もしもし山崎です」出たのはいつも通り母だった。

「お母さん。私」

「ああ佳奈」

「子供たちは元気?」

「ああ、元気だよ」何か母の声がくぐもっている。

「どうかしたの?」

「うーん。翔のことなんだけどね」

「翔がどうかしたの?」

「うん。昨日まではいろいろあったから保育園休ませてたんだけど、今日からまた行き出したんだけどね」

「どうかしたの?」

「迎えに行った時、先生に言われたんだよ」

「何て?」

「今日は一日翔ちゃんは一人で遊んでたって。今まではみんなで遊んでたのにって。何かあったんかなあ」

「翔は何か言ってた?」一体どうしたんだろう。

「みんなどっか行っちゃうから一人で遊んでったって。砂場でお山作ってたって」

「翔は今いるの?」

「おじいちゃんと買い物に行ったよ」

「そうなの」何かあったんだろうか。

「休んでいたから、いじめにでもあったんかね。あんたが戻るまで、保育園休ませようか」

「そうだね。私も来週には戻れると思うから。休ませて。お迎えも大変でしょ」

「わかったよ。そうするよ」

「茜は?」

「あーちゃんはいつも通り元気にしてるよ。今は寝てるけどね」

「そう」少し佳奈は落胆した。

「佳奈はどうなの?いつ退院できそうなの?」

「傷もほとんど治っているから、もうすぐ退院できると思う。心の方ももう大丈夫ですねって先生が言ってたし」

「そう。それは良かった」

「うん。それじゃあまた電話するね」

 佳奈は電話を切ったが、少し翔の事が心配だった。何かあったのかな。佳奈は部屋に戻って行った。

 

 消灯の9時になり、部屋は暗くなった。

 そういえば、今日佳奈に自殺未遂に至った理由を聞かれたなあ。結局何が一番の原因なんだろう、病気になっていたということなのか。こっちでの仕事を作ることに焦っていた。

 あの日、あの滝へ向かった日も東京の会社から、遠隔でできる仕事の受注をお願いしに行ったがそれも叶わなかった。そこへの母の言葉。そう最後に投げられた母の一言。「もうこの家に出入りしなくていいからな」そう言われた。繋がっていると思っていた糸がきれた、生きている理由がなくなった瞬間だったのかもしれない。

 母の交通事故、母のために、東京での仕事も諦めこちらで仕事しようとしたが空回りし、罵られ、そこへ税務署。

 いろいろ積み重なってのことなのだろう。ただただ自分が弱かっただけのか。

 あのメモは母親には見せていない、見せられなかったと優が言っていた。よかった、もし自分が死んでいたら母親をさらに追い詰めることになっていたはずだ。

 本当にばかな男だ。結局何ひとつ解決などされてはいない。

 聞こえ始めたとなりのいびき声に、亮介は眠剤2錠を服用し早く眠りにつくことを祈りながら目を瞑った。

 この頃は嫌なあの時の景色や思い出は思い出さなくなって来ている。以前は夢にまで出てきたことがあったのだが。

 小学生の頃が思い出された。新聞委員などをやっていた。毎月壁新聞を作る役目だった。文章を書いたり絵を描いたりが好きだったのだろう。俺が書いた一筆書きのスーパーカーとかは人気だったな。そんなことが思い出された。

 どのような変化なのだろう。いやなことは思い出さなくなったが、思い出したこともない小学生の頃のことなどが思い出される。今の状況を抜け出したい、昔に戻りたいという事なのだろうか。それとも佳奈のおかげだろうか。佳奈と話をしているときはやすらぐな。佳奈がどんどんこちらの世界に引き戻してくれているのかな。昔の自分に。

 ただ亮介は恋愛の対象とは見ていなかった。自分より20近くも若い女の子だ。こっちがその気になっても向こうにその気はないだろう。それに今の自分が恋愛とかを言う権利さえも無いと思っていた。

 またいびき声は大きくなっている。ひどい騒音だ。

 部屋のドアが開いており、外にも響いていたのだろう。

 看護師が飛び込んできて、隣のカーテンを開け入りこんで言った。

「大丈夫ですか?」看護師が呼びかけている。

 体を揺すりでもしたのだろうか、いびきの声がだいぶ小さくなっている。看護師は部屋を出て行った。

 それにしても、同部屋の宮本や甲斐はこんな中で眠れているのだろうか。

 そんなことを思いながら亮介は眠りについた。



 礼子は仕事が終わり、自宅に着くと既に夜10時を回っていた。

シャワーを浴び、缶ビールを飲み始め、時計を見た。

「結局この時間か」

ベッドに横になると、橋爪の言葉が蘇る。

「新しい医師が入るまで我慢して下さい」

 我慢できるのだろうか。担当の患者達の顔が次々と浮かんでくる。

 亮介の顔が浮かぶと、あのメモの内容が頭の中に浮かんできた。

 母さん私を産んでくれてありがとうございました。

 自分なりに自分の仕事と家の事を考え、ここ10年ほど生きてきましたが、全て無駄だったようです。

 弱すぎる私を許してください。地獄に行って償います。

 カードの請求がいくらかあるかもしれませんが、相続放棄して下さい。

 姉さん、優。すみません。お袋のこと宜しくお願いします。

 離婚からおかしくなったのかもしれません。

 弱すぎる。本当に弱すぎる自分を許して下さい。

 確か、そんな内容だった。

 元の妻にも、普通の結婚生活を送りたかっったとも書いてあった。

 いろいろとあったんだろうな。私に出来ることはどこまでなのだろう。

 山本の顔も浮かんできた。消えたいということを口走っていた。

 自分には、限界がある。

「もう考えることはやめよう」

 考えることを止め、薬を服用し眠りについた。

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